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魔風恋風 エンゲーヂ 悪魔の家 君よ知るや南の国 チビ君物語 河底の宝玉 紫苑の園 など

小杉天外 魔風恋風 その9

2011年07月07日 | 著作権切れ明治文学
 競争

  一

 日曜の正午(ひる)前のことで、主婦が台所で客膳(ぜん)の準備(ようい)をして居ると、吃驚する程に格子戸を手荒く明けて、
 「頼む!」と宛然(まる)で士官様が号令を掛ける如(やう)な声である。
 主婦は素早く手を拭いて、襷を脱(はづ)しながら出て行くと、小倉の袴に紺飛白(こんがすり)の袷、角帽を少し横に冠った大学生…日外(いつぞや)初野と共に殿井の宅に急ぐ途中で逢ったその大学生が、親の仇讐でも探す様な洋杖(ステッキ)を突いて、丈高き身を厳乎(きツ)と起って居る。
 「萩原様居ますか?」



 「は、御不在(おるす)でございますが…。」
 「居ない…?」と当惑したが、「帰る時間が分りませんか?」
 「左様でございますねえ、最うお帰りだらうと存じますが…、病院へ行らツしゃいましたから。」
 「病気ですか…?何日からです?」愕然(ぎょツ)とした様子。
 「過日(こなひだ)から、お気分が悪いやうでございましたが、病院へは、今日初めて行らツしゃいまして。」
 「然うですか?」と重く点頭き、「ぢゃ帰ったらね、是非…、会ってお話しなきゃ成らん事が有るから、私の方へ来て呉れるか、私が此方へ来れば可いか、今日中に葉書を下さるやうに、此う話して下さい。」
 と云って名刺を渡したが、主婦の「畏まりました。」を背後に聞いて、直にぷいと出て行く、と廣からぬ路地を、丁度彼方から入って来た殿井恭一とばツたり出逢った。
 其の時の顔色、主婦からは無論分らぬが、瞥(ちら)と横目を光らした恭一の方は、行過ぎると振返って、羽織の着ぬ肩幅のがツしりした処から、泥の附いた薩摩下駄まで見上げ見下し、さて急(いそが)し相に家へ入りかけて、行(ゆい)なり其処へ居る主婦へ、
 「何だい彼(あれ)は?宛然(まる)で壮士の様な大学生だねえ。」と云って、主婦の持って居る名刺を見、「何だ、法科大学生夏本東吾…。」
 「旦那…、」と主婦は笑を耐へるやうな顔色(かほ)で、「油断大敵ですよ。」
 「何が…?」
 「萩原様を訪ねて来(い)らしたんですよ。」
 「彼の大学生が?」眼を円くして、「何だツて?何の用で?」
 「何の御用か存じませんけれど…、」と主婦は今頼まれた葉書云々(しかじか)の事を告げて、「話の様子ぢゃ、余程親しい間のやうでございますもの。」
 「何だらう、盟友か知ら?それとも、怪しい関係の有る者か…?」
 「いゝえ、萩原様に限って、其様な事はありませんけれど…。」と主婦は日外(いつぞや)殿井の家に行く途中に見掛けた、初野と大学生との事は、今に恭一へは秘(かく)して居たのである。
 「併し、親しい間と云ふからは…?」と恭一は落着かぬ風で、「是まで、幾回(いくど)も来た事が有るんだね?」
 「いゝえ…、気が付きませんでしたよ。」
 「可笑いねえ。」
 「ま、彼方へ来(い)らツしゃいましな。」
 「然うだ、立ツた処が始まらない、」恭一は漸く家に上がって、「時に、今日は居ないね。」
 「萩原様でございますか?は、病院へ。」
 「愈よ行ったね、到頭我を折ったと見えるね。」と笑ひながら、主婦と共に茶の間に入る。

  二

 主婦は彼の妹の帰った後で健(したゝ)か嘔いた其の夜は、急に大病人の様に成って、他(ひと)に扶けられて辛(やツ)と床に入った程である事、それで居て翌朝起上ると主婦の諌めも肯かず、大切の学科が有るからと強情を通して、真蒼な顔で学校へ行った事、余程苦しかツたと見えて、常よりも早く帰った事から、今朝は何う考へて我を折ったものか、到頭病院へ行った事まで物語ると、その話を聴きながら切りと名刺を捻くツて居た恭一は、此の時はたと膝を打って、
 「然うだ、今思い出した、」と大声で主婦を驚かし、「そら、此の間の手紙さ、萩原様の机から出た…、彼状(あれ)にも、確か夏本と有ったぢゃ無いか?」
 「左様でございましたか?」
 「夏本だツたよ、確かに夏本だ、そして彼の手紙には…。」と恭一は朧気に記憶して居る其の文字を思浮べて、房州に行って居る兄を呼んで、何事か知らず、初野の怒を解いて貰ふと云ふ様な事が書いてあツた。して見れば、先刻(いま)の大学生は其の兄で、妹の為に謝罪(あやま)りに来たとしか思へぬと云ふ。
 「ぢゃ、房州から態々帰った処ですかねえ?」と主婦は訝る。
 「併し、何様な事だらうな?女同士の衝突なら、高が知れたもんだが、房州から態々帰るなんて…。」
 「ですけれど、彼で、他(ひと)へお詫に来た処なんでせうか?全然(まる)で、喧嘩でも売りに来たとしきゃ思へないぢゃありませんか。ほゝゝゝゝ。」
 主婦は声を出して笑ったが、恭一は中々莞爾ともしない。
 「それは何様な事件(こと)でも、兎に角、此の男と萩原たア、親しい関係に違ひ無いねえ。」と力を入れて云って、主婦は然(さう)とも然うではないとも云はないのに、「いや、それに相違ないよ、でなければ、妹が調停を頼む筈なんぞ無いもの、然うだよ、必然(きツ)と然うだよ。」
 「左様でございませうかねえ。」主婦は、恭一の顔ばかり眺めて居る。
 「女学生なんざ、此れだから可かんよ、口頭(くちさき)でばかり高慢な事を云って、裏面を窺けば悉(みん)なこれだ。」と鼻で笑ったが、「お主婦もまた、余り目が無さ過ぎるぢゃ無いか、萩原様許しは別物だなんて、ふん、何が別物だい…。」
 「いゝえ、全くですよ、全くお堅固(かた)いんですよ…。」
 「何が堅固いんだ、親しい男が有ってそれで堅固きゃ、豆腐と婦女(をんな)は堅固い物さねえ。ふん、僕ばかり可い面の皮だ、迂闊に誰かの口に載って、散々に気を揉ませられて…。」
 「はゝゝゝゝ、まア、彼様な事を仰有るよ、はゝゝゝゝ。」
 「笑ひ事ぢゃ無いよ。何が可笑しいんだ?」
 「其様な貴方、私に突掛かった処で仕様が無いぢゃありませんか。それ程御執心なら、此う云ふ場合に、速く何うにか為されば可いぢゃありませんか。」
 「何うするんだ、何か、好い方法でも有るのかい?」
 「好い方法ツて…、今日から病院に通ふ事に成りましたもの、もう貴方、貴方の御注文通りに成ったぢゃありませんか。」
 「其点は大に注文通りだが、併し、彼様な男(もの)が有ツちゃねえ…。」
 「幾ら何様な者が有らうと、二人を会はせなきゃ可いでせう、私がさ。」
 「会はせない?萩原と此の男をかい?ぢゃ、今日訪ねて来た事も黙ってるんだね?」
 「其処は何うでも…。だツて、何様な人にだツて貴方、物忘れツて云ふ事が有るぢゃありませんか?」
 「うん、成程、流石はお主婦だ。」
 「ほゝゝ、現金だよ、」と笑って、「最う、お金が無くて困ってる処ですもの、今の間(うち)に、貴方の手腕(うで)をお出しなさるが可いぢゃありませんか…、ねえお廉、お廉や、一寸お来でな。」
 台所に働いてる下婢を其処に呼んで、
 「お前昨夜、萩原様のお使で質屋(なゝつや)へ行ったねえ、幾ら借りてお出でだツたい?」
 「は、あの、三円五十銭でございました。」
 「それ、夫つ許しのお金ですもの、俥賃から薬代から払った日には、もう、三四度も通ふ中には、何も無くなツ了(ちま)ひまさアね?」
 「然うだ。」と首肯く恭一。
 「ねえ。」と莞爾する主婦。


 診断

  一

 神田駿河台の内科病院控室に、他に面を見らるゝを厭うてか、壁に近く片隅に俯向いた後姿、濃い髪を英吉利巻き、筆で描いた如(やう)な三ツ襟、細い首は白玉を述べて、ぴツたりと身(からだ)に附いた萌葱縞の一楽の羽織、撫肩に傷々(いたいた)しく痩(やせ)の見えるのを、廣き室の其処此処に残った患者等は、或は好き心(ごゝろ)に、或は同情の目を以て、自己(おの)が病苦(やまひ)を忘れた様に眺めて居るのであツた。云ふまでも無く、此の美しい女学生こそは萩原初野である。



 室の正面なる掛時計(とけい)は疾(とう)に一時を過ぎて、今しも緩くその三十分(はん)を報じた処である。診察は終って、爰に残ったのは、調剤の出来るを待つ者ばかりであるが、最う刻(とき)が刻なので、幾ら病人でも空腹を託(かこ)つ者もあれば、退屈の欠伸を高く、傍人(はた)に顔を顰めさせる者もある。たゞ初野のみは、連も無ければ人にも離れて、我が順番を待ちながら、最早病を得た此の身の、治療費!卒業試験!之を何うしたものであらう、と思案に沈んで居る。病気は脚気で、胃も悪いと云ふことである。転地治療が一番に良い、また、牛乳を多量に飲んで、滋養物を食って…、と医師の命ずる所は、初野が今の身に到底(とて)も及びも付かぬ事のみである。
 脚気衝心!それは、少女(こども)の時から聞いて居る怖しい語(ことば)である、また、東京(こゝ)に来てからも、二三の学友の此病(これ)に悩み、此病に生命を奪(と)られたことも覚えて居る。然るに今、自分は此の怖しい病気に罹って了った。勿論是位のことで、生命に懸るものとは思はぬ、思はぬけれど、医師の言を守って治療をするで無ければ、病勢の何う変化して何様な事に成るものやら、中々等閑(なほざり)にはして居られぬ場合である。
 転地治療!是が最良療法と云ふが、併し、身体も大切ではあるが、我が一身に取って学校の卒業もまた大切である。住馴れた故郷を捨て、懐かしき母に別れて、試験毎に他の羨む成績を得る程の勉強を為続けたのも、名誉ある女子学院の卒業生として、天晴れる婦人社会に学者の名を取らう為め許りである。それを今に到って…、多年勉強の效空しからず、其の卒業も僅一箇月を余すのみの今に到って、幾ら病気が怖しいからと云って、幾ら生命が惜しいからと云って、試験を放(うツ)棄(ちゃ)らかして浮々うかうかと転地などがして居られよう!
 養生に養生をして、注意に注意をして居たなら、試験の済むまで東京に居たとて、豈夫(まさか)に死ぬやうな事もあるまい、假(よ)しそれが為に病気が重(おも)るとも、六月さへ超せば、卒業さへして了へば、転地治療でも、何様な治療でも、全てが我が心の望むまゝに出来るのだ。
 「これん許しの事で、志を挫くなんて…。」と初野は胸に繰返して、我と我が唇を咬んだ。
 けれども、病気の為には志を挫かぬ、何うあツても勉強を続けようと決めた処で、所有(あらゆ)る持物を売払って、暫く卒業までの下宿料、月謝などを間に合はして行ける位のものが、薬代から、種々の滋養物から、通院の車賃から…。
 「あゝ、私はまア、何うして金を手配(こしら)へたものであらう!」と思ふと、我にもあらず腹を絞る深い溜息が吐かれる。
 此の順に費(かゝ)った日には、一ト月も通院(かよ)はぬ中に有る物は売尽して。裸体(はだか)にでも成って了はねばなるまい。
 矢張り殿井様にでも頼む外に方法が無いのか?したが、是迄幾度となく彼方の相談(はなし)を斥けて、如何に窮したと云って、今更何の顔色(かほ)があツてか此様な事が願はれよう。假(よ)しまた願った処で、重々(かさねがさね)の無礼に腹を立てられて、最う耳も假して呉れぬかも知れない、世話好きの主婦も、最う執成(とりなし)てなんぞ呉れぬかも知れない。
 其様なら如何して手配(こしらへ)たものか?今の身に成って思へば、屡(よ)く新聞に出る操を売って学資を作ると云ふ様な話も、金の得難い為め、また志しを遂げ度い為の窮策から出るのであらう、自分がとても、借りらるゝならば高利の金でも借りよう、買ふ者があらば、身体の血でも絞って売らうものを!
 過日(いつぞや)病室に入った時は、日夜入院料の事のみ気に懸けて、此様なに困る事は世の中に有るまいとまで思ったが、彼の時は殿井様も無理に金を貸して呉れる、芳江様も彼様に夥多(どツさり)見舞って呉れる、その上、肝心の入院料と云へば、知らぬ間に知らぬ人が払ってあるのだツた、今の苦しさは到底(とて)も較べ物にもならぬ。
 入院料と云へば、彼の入院料の払主は未だに分らぬ、的(あて)も附かぬのだ。その当時は種々に迷って、彼か此かと知った人を疑って、何(どう)やら東吾様の様に思はれる処へ、傍から三浦様等が種々な事を云ふので、何様か体裁(きまり)が悪かツたらう…。そして、殿井様へ行く途中で逢ふまでは…、彼の葉書を見るまでと云ふものは、全く彼(あ)の人に決めて居た、彼の人を一番に有情(やさし)い人に思って、一番に頼母敷い人にして居たものだ…、顧(おも)へば羞かしいことである。
 けれども私は、今になツて彼の人を怨む訳は無い、不快に思ふ事も無い。芳江様と許嫁(いひなづけ)の事は前から知って居る。芳江様と親いので、未来の細君の友人として私にも交はツて居たのだ、それは其れに違ひ無い、其様な事は私も疾(とう)から承知して居る…承知して居る筈なのだ。
 「馬鹿々々しい、何故私は、此様な下らない事を考へるだらう?」と初野は心の中で此う云って、首を掲げた。
 許嫁だらうが、結婚しようが、其様な他(ひと)の事は何うでも可いではないか、孰(どう)せ人は、誰だツて一度は配偶(つれあひ)を有つ可きものだ…!何も其処に不思議は無い…、妹の奉公する金村の奥様、学校の一覧を見ると、六年前の卒業生の中に、妹の云ふ通りの席順に載ってあツた。六年前と云へば、卒業生の売口も何様にか好かツたらうに…殊更席順も良いのに、何様な事情が有ってか知らぬが、今は病人の良人を持って、そして妹に訊けば、何等の不足らしい事も云はず、静に生活(くら)して居るらしい。「して見れば、孰せ私だツて…!」と初野は思はずも独語した。
 「貴女ぢゃありませんか、萩原様て云ふな?」と突然初野の傍に来て云ふのは、商人らしい患者である。
 「はい、私ですが…。」
 「呼んでますぜ、先刻から呼んでますぜ。」



 気が付いて見れば、最う患者(ひと)も帰り尽して、廣い控室(へや)に、自分と此の男との外は誰も居ないのだツた。薬局に廻れば成程薬は出来て居る。初野はそれを丁寧に手巾(はんけち)に包んで、麻痺(しび)るゝ脚を徐に玄関に出て、其処に待たせてある俥に乗ったが、梶棒(かぢぼう)を擧ぐる時に、
 「あの、車夫(くるまや)さん、一寸と切通下に寄る所がありますから。」と命じた。
 切通下と云へば、彼の画工殿井恭一の家であらうが、併し、初野は何の為に殿井の家に寄らうと云ふのであらう。

  二

 世界は廣くとも、人は多くとも、初野が今の身に倚頼(たより)とす可きは、彼の入院料を払って呉れた無名の恩人と、画工の殿井恭一とより他には無いのである。無名の恩人の誰であるか、何処に居るのか、それは探さうにも手懸だに無ければ、今はたゞ嵐に耐へぬ百合の花の、力と頼むは殿井恭一のみであるのだ。
 けれども、今初野が帰途を恭一の家に廻らうと云ふのは、豈夫(まさか)に此の窮境の救を求る為では無い…幾ら苦しいとて、其様な事が口に出されるものでは無い、唯だ是迄の深切を思へば、お波が主人の言の如く優れた人物であるを思へば、夫から、恭一に対する我が是迄の所為(しうち)を思出せば、何うも一刻も此の儘に黙って居ては済まないのである、謝罪(あやま)る処は謝罪(あやま)り、礼を云ふ処は礼を云はねばならぬのである、さうしなければ気が済まぬのである。
 俥は初野の命(めい)のまゝ、次第に切通坂の方に近付いた。併し車の輪と共に初野の胸の中も息(やす)みなく廻る。殿井に袖を曳(ひか)れて、夢中に逃帰った夜の事、彼の時の情ある言葉の数々…。
 「彼様な事が有ったのに、斯うして一人で寄ったなら…、殿井様は何と思ふだらう!それよりも、下婢(をんな)達の手前…。」初野は斯う考へて、独で顔を赤くしたのである。
 此の頃学校へ出ると、寄って群(たか)って友達の調戯(からかひ)、殿井様の美(い)い男である事を、口上手の三浦様が形容すれば、最う何か関係でも有るものゝ如(やう)に、是非顔だけでも見せて貰ひ度いの、絵が描いて貰ひ度いのと、昨日などは、危なく楠田先生に迄聞かれる所だツた。
 誰が目にも然う見えるものか…、併し殿井様は未だ独身で…、私も独身で…、私は心を乱しはせぬが…、迫(せ)めて彼様な美い男で無かツたら…。
 などゝ思ふ中に、俥は恭一の小路近くに来た。車夫(くるまや)に声を掛けようか、あゝ急に体裁(きまり)が悪くなツた、だが寄らずに行っては…、あゝ最う通り過ぎる、呼び止めようか、併し入るも羞かしいし、…あゝ何う仕よう、一寸息んで、少し考へさして呉れゝば可いのに…。
 「切通(きりどほし)坂は何方でごぜえます?」車夫は足を止めた。最う池の端に出たので。
 「然うですねえ…。」と曖昧の言葉。
 「なんなら訊いて見ませう、何町でごぜえます。」
 「いゝえ、それは分ってますが。」
 「へえ、ぢゃ何方で…?」
 「まア、今日は止しませうよ。」
 「ぢゃ、真直にお帰(けえ)りで…?」
 車夫は一文字に駆出した。自分で命令(いひつ)けながら、初野は最う詮方が無いと悔んだ。
 俥は何時か大学の背後を、七軒町を北に飛んだが、唯(と)ある曲角で、不意に出て来た一輛の俥と、突当らんとして辛(わづか)に摩違(すれちが)ひ様、見るとも無く偶(ふ)と顔を掲げると、彼方の車上には殿井恭一、
 「やア。」と軽く挨拶して通り過ぎる。
 「おや!」と初野も口に出したが、振返へれば道は曲って其人の影は無く、我が俥は益々馳(はし)る。
 けれども、初野は車夫を止めようとしなかツた、恭一を呼ぼうとも為なかツた。
 余り唐突(だしぬけ)なので声が出なかツたのか、それとも体裁が悪かツたのか、たゞ病ある胸の動気のみが高く波打つのである。



 許嫁

  一
 
 汚点(しみ)の見ゆる大分古く成ったセルの夏服に、大学の徽章を附けた麦藁帽、片手には重さうな書籍(ほん)包を抱へて、編揚(あみあげ)の深靴を足音荒く、東吾は忙しく我が下宿なる倉岡へ帰って来た。格子戸の明く音に、奥から出て来たのは親類の娘…日外(いつぞや)大学の正門前に東吾の帰りを待って居た、彼の梅ちゃんと呼ぶ娘である。
 「お帰んなさい、暑いでせう?」と馴々しく傍に寄る。
 「梅ちゃんか、久し振りだな。何しに来てるんだ?」
 「夏本様がね、房州から帰って来(い)らしたツてから、それであの…、私、来て見た処ですの。ほゝほゝゝ。」と急に笑ふ。
 「何か、阿母様から伝言(ことづけ)でも有ったの?」
 「いゝえ…。あら、私持ってゝ上げますよ。」とお梅は東吾の風呂敷包を代って持ち、「重いわねえ。何?洋本?」
 東吾はそれには答へず梯子を駈昇って、室へ入るや否や、行きなり我が机の上を見廻したが、其処に来たお梅に、
 「梅ちゃん、私へ郵便が来なかツたか。一寸聞いて来てお呉れ。」
 「階下(した)には、今誰も居ませんよ。」
 「何うしたんだ?」
 主婦は下婢を伴れて、本郷まで用達に行ったので、私は留守をしている由を答へて、
 「先刻のこツてすから、最う帰る頃ですわ。」
 「ぢゃ、梅ちゃんの居る処へ来なかツたか?」
 「郵便?いゝえ。」とお梅は東吾を見上げて、「貴方、大変な汗よ、洋服を着更へないで可いの?」
 東吾は頻に首を捻って考へて居る。
 「本当に大変な汗だわ。拭いたら可いでせう。手拭(タオル)を絞って来て上げませうか?」とお梅は早くも柱の釘から手拭(タオル)を取る。
 「いや、要らない」と首を掉る。
 「だツて、此様なに…、」と傍へ寄ると、
 「あゝ煩い、」と手で払って、「ま、階下(あツち)へ行ってお居でよ!」
 お梅はぶツと膨れて、
 「酷いわねえ夏本様は。宜くツてよ。」
 「今、用が有るからさ。」気の毒に思ったか、慰さめる様に云ふ。
 「宜くツてよ。」
 「はゝゝ、怒ったな?」
 「知りませんよ。」と足音荒く出て去(ゆ)く。
 東吾は笑ひながら、其の跡を見送ったが、忽ち真面目な顔をして、また小首を捻って、
 「だが、如何(どう)したんだらう?」と独語と共に腕組をしたが、「急に病気が悪くなツたか知ら…?併し、彼の手紙を見たら、何とか返事位為さうなもんだ…、自分で書けなきゃ、代筆でも出来る事(こツ)た…。」
 何を想ふか、暫くは瞬もせず天井の一隅を視詰めて居たが、急に帽子を把って、ばたばたと梯子を降り、
 「梅ちゃん梅ちゃん、僕はな、一寸出て来るがな…。」と靴を穿きながら、呼んでも返辞が無いので、声を高く、「おい梅ちゃん。」
 「何ですよ。」何時の間にか、音もなく背後に来て起って居る。
 「其処に居たのか、返辞位したツて可いぢゃ無いか?」
 「だから何ですツてば?」
 「まだ怒ってるのか、仕様の無い娘(こ)だなア。」
 「何うせ、私は仕様の無い娘ですよ!」
 「ちょツ。」と鼓舌(したうち)したが、「後刻(いま)に主婦(おくさん)が帰ったらね、晩の六時の汽船(ふね)で出立(たつ)からね、其の心算(つもり)で準備(したく)して置いて下さいツて。」
 「あら、今晩発っていらツしゃるの。」
 「然うさ、可いか、頼んだぞ。」

  二

 東吾の志す処は、云ふ迄も無く千駄木林町の、彼の萩原初野が下宿である。
 で、戸外へ出た時の勢と云ったら、何か生命(いのち)に係る事でも起ったかの様に、夫こそ猛然として、傍目も憚らず行くのであツたが、その歩調(あしどり)の中途から段々緩くなり出して、最う千駄木へ入った頃には、立止ったり、首を傾げたり、真(ほん)の人に怪まるゝを避くる許りに、詮方なしに歩くのであツた。
 それでも島井の前まで来た。行過ぎる風をして路地の内を覗くと、入口に紺半被の車夫体の後姿が、何やら声高に話をして居る。東吾は機悪(をりわる)しとでも思ったか、垣の前を二度ばかり徘徊(うろつ)く、と、頓て路地から今の車夫が出て来る。
 「おいおい。」四五間も遣過して、背後から声を掛けた。
 「へ。」ときょろきょろした眼をして、一寸猟帽(はんちんぐ)を脱って、「拙者(てまへ)ですか?」
 「確かお前だツたね、昨日、女子学院へ行った人は?」と徐に歩寄った。
 「へ、萩原様のお迎に…?へ、拙者でげすが、旦那は何誰様でしたツけ?」と変に笑ふ。
 けれども東吾は笑ひもせず名告(なのり)もせず、何の為に此る事を尋ねるかも告げない。何を秘さう、東吾は昨日も此処を通ったのである。その際(とき)、此の車夫と島井の下婢とが、「萩原様は何様なに待ってるか知れやしない…、病人ぢゃ無いか、気を揉ませない様に、最う少し早く行って呉れたが可いぢゃ無いかね。」「なアに、此処から学校までは、五分と掛りや為ませんよ、大丈夫間に合ひますよ。」「でも、お前様が其様なに落着いてるもんだから、私許し忙しい処(とこ)を使に出されたり、叱られ無いで可い事を叱られたりするぢゃ無いかね。」などゝ話しながら、空俥をがらがらと急ぐ処を見たのである。
 「彼(あ)の、萩原と云ふ女は、病気ださうだね、何処が不快(わる)いんだい…、お前知ってないかい?」
 と東吾は、車夫に笑はせまいとでも思ふか、厳然(きツ)とした顔をして尋ねた。
 「へ、能かア存じませんが、何でも、脚気だか申すことで、へ。」
 「脚気?併し、学校を休む程ぢゃ無いのだね?」
 すると車夫は、今も病院に薬を取りに行って聴いて来たが、病状に異(かは)った事無ければ、一週一回位の通院でも差支なしと、其処の医員の言葉を其のまゝに告げて、
 「旦那は何か、萩原様の御朋友(おともだち)でいらツしゃいますか…。」
 東吾は何処までも真面目で、
 「薬を取って来たと云ふと、ぢゃ、今日は下宿に居るのだね?」
 「へ、今日はお午前にお帰んなりまして。」
 「ぢゃ、今も居るのだね?」と念を押す。
 「へ、在(い)らツしゃいますとも。」
 「然うか。や、此れは暇を潰して気の毒だツた。」と銀貨を一個(ひとつ)出して遣る。
 「旦那、此様な物を戴いちゃ…。」と車夫は不意(めん)くらツて、ぴょこぴょこと頭を下げる。東吾は相手にもせず、直ぐ後へ踵を返したが、五六歩来ると立止って、
 「おいおい。」
 「へ、何ぞ御用で?」と最う駈けて来る。
 「その病院は、何処の病院なんだ?」
 「へ、駿河台の…。」車夫の事だから、院號で無く、其の院長の苗字で答へる。
 「然うか、や。」と許り行過ぎる。
 車夫は後を見送って、笑ひながら点頭いたが、東吾が島井の路地に見えなくなると、自分も其処を立去った。

  三

 格子戸を潜るや否や、東吾は例の声で案内を乞うた。出て来たのは下婢で、東吾の顔を見ると、はツと思ったらしい顔色(かほ)をする。
 「萩原様は居るか?」
 下婢は狼狽(どぎまぎ)して、
 「は、あの、何卒一寸お待ちなすツて。」
 「居るだらう?」と靴を脱がうとする。
 「何卒、一寸お待ちなすツて。」下女は奥へ駈戻って、「お主婦、また参りましたよ。」
 主婦は縫物の手を息めて、
 「何だよ唐突(だしぬけ)に。何が来たんだよ?」
 「昨日逢った書生様ですよ、ほら、彼の萩原様を訪ねて来(い)らしツた。」
 「え、彼の夏本って云ふ?お不在ですツて、疾(はや)く然う云ってお遣りな。」
 「だって、在らツしゃる事を知ってる様ですよ。」
 「知ってる?仕様が無いねえ。」と云ひながら、主婦は膝の糸屑を払って出て行った。
 東吾は不機嫌な顔をして、主婦が腰を屈めても瞬き一つだにせぬ。
 「お出でなさい、萩原様はね、いらツしゃいますけれどね、お寝(よツ)ていらツしゃいまして、もう、何誰がお出でになツてもお目に掛りませんのですが。」
 「お寝てる?」
 「は、どうも、お健康がお害(わる)いもんですからね。」
 「併し、一寸取り次いで呉れんか、是非会hなきゃ成らん事が有るから…。」と名刺を出す。
 「でも、何誰が来らしツてもお目に掛らないからツて、固く言ひ付(つか)って居りますんで…。」と主婦は名刺を取ろうともせぬ。
 「然うか…。」と東吾は赤くなツたが、「過日(こなひだ)、貴女に頼んで行きましたが、彼事(あれ)は取次いで呉れたらうね?」
 「は、確に。」
 「何と云ひました?」
 「いゝえ、別に何とも仰有いませんでした。」
 「然うですか。」
 「何ぞ御用がお有なさるなら、何卒、拙者(てまへ)に仰有って戴き度いんですが。」
 「いや、それぢゃ、」と許りぷいと戸外へ出た。
 何(どう)も非常な侮辱を受けた様である。芳江からの手紙を見て、大切の勉強を棄てゝ帰ったのも、困厄の地に堕ちたと云ふ初野を救はん為である。芳江との間を調停せん為である…他(ひと)には秘して居るが、芳江にさへ他の要件(よう)で帰った如く話して置いたが、全く初野の為に態々帰郷したのである。然るに其の初野が、会いに行っても会はず、手紙を出しても返書(へんじ)一つ寄越さぬ。車夫の話を聞いても、人に会はれぬ程の重患で無いのは明かである。主婦に頼んで、乃公(あれ)が来たら斯う云って帰す様に、と手筈を定めてあるのか知れぬ。
 「失敬な、全く俺を侮辱して居るんだ、失敬な!」と東吾は歩きながら呟いた。
 併し、何故斯う急に自分に冷淡になツたか、東吾には其の理由(わけ)が解らぬ。養母(はゝ)と何か衝突が有ったと云ふが、過去(いまゝで)の我に対する所為(しうち)を顧(おも)へば、それ位の事で、斯う急に冷淡に成らうとは思へぬ。
 「ぢゃ、若しや彼の男と…。」東吾の胸に浮んだのは、下宿の路地で摩違った軽佻(にやけ)た服装(なり)の男である。
 学資に窮して、卑(いやし)い妾になるなどと云ふ話は珍しく無いけれど、自分の目が誤(ちが)って居るか知れぬが、豈夫(まさか)にあの初野が其様な堕落を為ようとは思へぬ。
 「いや、堕落為ようが為まいが、何も乃公に関係の有る事ぢゃ無いんだ。」とまた胸の中で云った、「馬鹿だなア乃公は、彼様な女(もの)の事で帰って来るなんて…。」
 すると、直ぐ自分の前へひょツこり出て来て、
 「お帰りでいらツしゃいますか。」と腰を屈めるのは、邸の抱車夫(くるまや)である。
 「松蔵か、何うした?」気が付くと、我が脚は何時か自分の下宿の前に来て居るのだ。
 「へ、お嬢様のお伴で参りましたんで。」

  四

 二階の東吾が室に、此処の主婦の侑(すゝ)むる茶に潤して居るのは芳江である。粗い縞御召の袷に、帯は藤紫地に牡丹模様の襦珍、頭髪(かみ)は夜会に結び、生得(うまれつき)の白い顔色(かほ)を薄く化粧(つく)って居るが、室の故(せい)か、主婦の様な女と並んだ故か、平常(つね)よりは一段と品も高く、また一段と美しく見える。
 主婦からは主人筋の娘なので、最う有らん限りの手を尽くして、嬉しがらせるに掛って居る。菓子も買置きではあるが、藤村の蒸菓子、今買った夏蜜柑。それから親類へ来た嫁の写真、それから東吾から貰った干物、それは美味しかツた話、海岸へ行っていらしても、少しも日にお焼けなさらぬ事、其の御帯(おみおび)は奥様の御見立てだらうが、真に好く御似合ひ申した事など、平常(ふだん)は余り御饒舌(おしゃべり)でも無いが、今日は口を置かずに弁じ立てゝ居る。
 「おや、お帰りの様ですよ。」と主婦は、梯子を昇る足音を聞いて襖を開けた。
 東吾が入って来ると、芳江は微し赤くなツて、
 「兄様、お帰んなさい。」
 「芳江様か。何うした?」つかつかと来て机の前に胡坐を紐(か)く。
 「あの、少し御相談(おはなし)が有って。」
 「最う、先刻からお待ちなすツていらツしゃいますよ。」と主婦は東吾にも茶を侑めたが、芳江が座布団を外して居るので、「阿嬢様、御服(おめし)が汚れますよ、御敷き遊ばせよ。」
 「だツて、私ばかし…。是で宜いのよ。」と芳江は、自分のみが絹の客座布団で、東吾を見るとキャラコの固く成ったのに坐ってるので、斯く滑り降りたのである。
 すると主婦は笑って、成程此は気が付かなかツた、それでは若旦那にも彼方から持って参りませう、と室を出て行く。
 「なに、僕は座布団(しきもの)なぞ要りませんよ。」と東吾は背後から声を掛けて、扨芳江に、「相談(はなしツ)て云ふと、何んだね?」
 「萩原様の事で。」と云ふ中に顔色(かほ)を曇らせた。
 「如何したんだ?」と東吾も気遣はし相に、「ま、其物(それ)をお敷きな。」
 「兄様、萩原様と会って下すツて?」
 「いや、会はん。手紙を遣ったけれど、何うしたか返事も寄越さん。」
 「如何したんでせう、矢張し、兄様に対しても怒ってるんでせうか?」と悲しい顔色をしたが、「兄様、ぢゃ、萩原様の事は、未だ些とも御存じ無し?」
 「何様な事を?」
 「兄様、大変ですよ…。」と前置をして、自分は三浦絹子の来状で知ったが、初野は病気に罹って居る、それから妹のお波をば、下婢奉公に出して居る、と話すと、
 「奉公に出してる?」東吾にも、此の話だけは初めてゞある。
 「え、必然(きツ)と、お金にも困ってゞすよ。だツて、彼様なに可愛がツてる妹ですもの、能く能く詮方が無いからなんですよ。私はそれを思ふと、萩原様の心の中が…。」とはらはらと涙が溢れた。
 「可いぢゃ無いか、妹を奉公に出さうが、病気に成らうが、云はゞ他人(ひと)の事だ、何も、芳江様の関係した事ぢゃないぢゃ無いか。」
 「兄様まで其様な…。初野様は、私の親友ですもの…。私は…、未だ兄様には黙ってましたけれど、私は、」と涙を拭って、「初野様と、私は姉妹(きゃうだい)の誓をしてますもの。」
 「姉妹…?」
 「然(え)、義姉妹ですの。」と芳江は流石に体裁悪る気に、「其様な誓をしては悪いんでせうか?」
 「いや、それを悪いと云ふんぢゃないが…?」
 「ぢゃ善(い)いでせう?」
 「併し、芳江様ばかし其様な意(こゝろ)でも、彼方が此の通り冷淡なら?」
 「いゝえ、初野様は其様な人ぢゃ無いの、決して冷淡な人ぢゃ無いの、私だツて何様な性質(たち)の人だか知ってますわ。」
 「けれども、芳江様からも、三回も謝罪(あやまり)の手紙を遣ったツてぢゃ無いか?」
 「然(え)、それは遣ったけれど。」
 「そんなら、常識の有るものなら、何とか返事位は寄越し相なもんぢゃ無いか、」と云ってる間に語勢も鋭くなツて、「失敬な、僕も手紙を遣って、態々訪ねても行った、名刺まで置いて、主婦に頼んで来たんだ、それに、昨日なんざ…、失敬な、実に失敬な奴だ、自分は何者(なん)だ、高が私立学校の女学生ぢゃ無いか、無礼にも程が有る…、彼様な奴、何う成っても構ふもんか、何様な困難を為ようと、何様な堕落為ようと、何等痛痒も感じはしない、彼様な女(もの)で気を揉むなんて此方が愚だ、芳江様、最う止してお了ひ、最う絶交してお了ひ…、姉妹(きゃうだい)も朋友も有るもんか、断然絶交してお了ひ。」
 「兄様にまで然う云はれると、私許り何うすれば可いんだか…。」
 「何故?何故其様なに悲いの?何も、芳江様の身に降掛った事で無いぢゃないか?」
 「だツて、初野様の意(こゝろ)の中が何様なだらうと思ふと、私は…。」と泣いたが、辛(やツ)と面(かほ)を掲げて、
 「兄様、私ね、他の事なら何様な事でも、決して兄様の言葉を背きませんからね、何卒初野様の事だけは恕(ゆる)して上げて下さいな。私は、一旦姉とまで誓った女(ひと)を、此様な行違で失くして了ふかと思ふと、私は実に…。」
 「だがね、芳江様許し然う思っても、彼方の心が此様なぢゃ駄目だよ…。」
 「いゝえ、假ひ何様な行違で、何様なに怒っていらツしてもね、私は何処までも初野様の心を解く心算ですの…、また、然う為るのが友人間の義務なんですから…、ね、然うでせう?」
 「それは然うだが、そして、彼方の心を解いて、それから何う為ようと云ふの?」
 「そしてね、初野様が怒を解いて下すツたらね、私は、学資のお手伝を為ようと思ひますの。」
 と芳江は、初野には夏まで学資を助け、お波を奉公から戻して遣り度いのである。そして初野の心を解く方法としては、友人(ともだち)の三浦絹子を間に入れて、無理にも一回相会して、自分の胸中を打明ける心算なるを告げ、
 「ですから、何卒か此事だけは恕して下さいな、ね、ね兄様。」
 「恕すも恕さんも無いけれどね。」
 「ぢゃ、恕して下すツて?ぢゃ、是迄のやうに親しくしても可いでせう?」と心から莞爾して、
 「ぢゃ、兄様も今日立つことは止して下すツて可いでせう?」
 「私か、私は立つよ。何も、私の居る用は無いぢゃ無いか。」
 「いゝえ、後で、種々兄様に御相談(おはなし)しなきゃ可けない事有るんですの…。それに、初野様には、私達が十言(とこと)云ふよりか、兄様が一言云った方が効験(きゝめ)が有るんだから。」
 「其様な事が有るもんか。」
 「いゝえ、実際。兄様の事は、非常に敬服して居ますのよ。」
 「敬服?ふん、我(ひと)が手紙を遣っても、返書も寄越さない様な敬服じゃ大変だ。」
 「だツて、今回の事は、行違から起った事なんですから。」
 「行違だらうが何だらうが、彼様な女学生、僕は真平御免だ、」と東吾は笑ったが、「併し、それ程気に掛るんなら、芳江様だけは何うでも違って見るが可いさ、無論、それが正しい事なんだからねえ…。」


 待人

 画工殿井恭一が家の縁側を、襷掛の姿甲斐々々しく、雑巾掛けをして居るのは昨日から此家(こゝ)に引取られたお波である。
 「お波ちゃんや、お波ちゃん、止してお呉れツてばねえ。」と台所から呼ぶのは老婢(ばアや)である。
 「え、最う出来る処(とこ)ですから。」
 「でも、止してお呉れよ、其様なにお働きの処を旦那に見られようもんなら、また、私が叱られなきゃ可けないぢゃないかね、よ、お波ちゃんや、」と障子を開けた老婢は、「おや最う出来たんかい?」
 「え、大変な砂よ、こら。」とバケツの水を見せたが、「老婢さん、最う雨戸を閉めませうか?」
 「まだ早いぢゃないかね。ま、此方へ来てお休息(やすみ)よ。」
 お波は云はるゝ儘庭口から勝手に廻り、さて家へ入って手を洗ふと、台所の片隅には、何時の間にか仕出屋の膳碗や、料理が列んでゐるので、
 「老婢さん、夥多(どツさり)御馳走が来てるわねえ、皆な、旦那が食(あ)がるの…?」と茶の間に入りながら問(き)くと、
 「お波ちゃんの姉様が来るんでね、それでお取んなすツたんだよ。」
 「あら、これ姉様の御馳走?」
 「何だよ此の娘(こ)は、其様な大きな声をしてさ。ま、お坐んなさいよ。」
 「だツて、姉様の御馳走なら、其様なお金を費(かけ)る事なんか止して下されば可いに。」
 「何故?可笑しな事云ふ娘だよ。旦那の方ぢゃ、御馳走を為たいからお呼びもしたらうし、またお波ちゃんの姉様だツて、旦那の御馳走に成り度いから来るだらうぢゃ無いかね。」と云って、老婢(はアや)は唐突(だしぬけ)に笑出した。
 「あら、姉様は、御馳走に成度くツて来るんぢゃ無いわ。」
 「然うかい、然うかい、」と老婢は笑ひながら点頭いて、「だがね、お波ちゃん…、私は、昨日から聞かう聞かうと思ってたけれど、お前様の姉様、お郷里(くに)に居た時分、一度縁付いた事が無いのかい。」
 「縁付くツて?」
 「何家(どツ)か、御嫁に往った事が有るだらう?」
 「其様な事無いわ、姉様は、学者に成る人だもの、お嫁に行くなんて、其様な…。」とお波は不平な顔色(かほ)をする。
 「学者も可いけれどね…、」と老婢は凝(ぢツ)とお波を眺めて、「ぢゃ、お波ちゃんのお郷里では、何処の娘も斯うなんだね…男の家へ遊びに来たりなんぞして?」
 「其様な事無いわ。」
 「ぢゃ、お前様の姉様許(ばツ)かし、斯う開花してるんだね、はゝゝゝゝ。」と笑ったが、「だがね、後刻(いま)にね、姉様が来ても、必ず二階へ行く事(こツ)ちゃ無いよ。お邪魔になるからね、可いかい。おや、何うして泣くの、え、お波ちゃん、何うしたのさ?」
 「老婢さんは、余りだから可い…。」とお波はしくしく泣いて居る。
 「余りだツて、何が余りなの?え?」
 「私の姉様を其様な種々な事を云って…、姉様は、郷里に居る時から、大変に成績がよくツて、郡長様からも賞与を貰って…。」
 「それ、旦那が降りて来(い)らツしゃるぢゃ無いかね、お波ちゃん、泣くのは止してお呉れよ、それ、来らしツたよ、速く顔をお拭きなね、速くさ…。」
 老婢が濡れた手拭を押遣ると、お波は云はるゝ儘顔に当てた。丁度其処へ出て来たのは、バンドレンやら、コスチメツクやら、香気(にほひ)に鼻を突つばかりの主人(あるじ)の恭一である。
 「波ちゃん、何うしたんだ?」と云ひながら老婢を眺めて、「老婢、お前また、幼者(こども)に余計な事なんぞ云っちゃ可かんぞ。」
 「いゝえ、何余計な事を云ふもんですか、ねえお波ちゃん、今、仕出屋から来た物を整理(かたづ)けて、一寸腰を下した処ですよ、ねえお波ちゃん。」
 するとお波は点頭いた。
 「仕出屋から…?最う皆な来たのかい?」
 「へい、皆な参りましたよ。」と老婢はつんとして居る。
 恭一は台所を見廻したが、
 「波ちゃん、一寸此方へお出で。」と顎で招いて、前に立って梯子を登る。
 二階の八畳の室は、塵一つ落ちて無い迄に整理(かたづ)き、座布団から茶道具の用意、キーラソーの壜、何やら菓物の缶詰など、客の来るのを今や遅しと待って居る有様。
 「まア此処へお坐り、」と恭一はお波を近く呼んで、「何うしたんだ、泣いてるやうだツたぢゃ無いか?何か、老婢から厭な話でも聞いたんだな?」
 「いゝえ、何にも。」
 「ぢゃ何うしたんだ?何も、私に秘す事は無い、何うした、云ってお了ひ。」
 「あのね、只だね…、」と云って、お波は恭一を見上げて、「私、お願が有りますの。」
 「何だ?何だか云って御覧な。」
 「あのね、姉様が来てもね、私、姉様の傍に附いて居たいの。」
 「姉様の傍に?」恭一は解(げ)せぬ眼をして、「附いて居たきゃ附いて居るが可いぢゃないか、何故其様な事を云ふの?」
 「だってね、若し姉様に間違でも有るとね、私…、大変ですもの…、郷里の兄様なんか、女の書生なんざ、私成兒(てゝなしご)でも生んで来るのが落だなんて、始終(しょツちう)悪口してますもの…。」
 「私成兒…?それで、波ちゃんが傍に附いてゝ、姉様の護衛をしようと云ふのか?ぢゃ、私が、波ちゃんの姉様と関係すると可けないから、と斯う云ふんだね?」と云ったが、急に怖い顔をして、「誰が其様な事を云った、老婢(ばアや)だらう?」
 「いゝえ、誰も云はないけど。」
 「波ちゃんが然う思ったのか、しゃ、お前は私を疑ってるんだな?」
 「あら、然うぢゃないわ、」と赤くなツて、「然うぢゃありませんよ、本当に然うぢゃありませんよ、疑やしませんよ。」
 「其様ならそれで可いが、」と恭一は笑って、「波ちゃん、最う六時過ぎだよ、五時迄に来ると云ったぢゃないか?」
 「えゝ、何うしたんでせう?お迎に行って来ませうか?」
 「確に来ると云ったんだね?」
 「え、」とお波は点頭き、「私の事で、お礼も云はなきゃならないんだし、今後(これから)の事も相談(はな)して置き度いからツて…。確ですよ。」
 「それから、月末の払にも困るし、病院の薬代も何うかしなきゃ可けないし、て云ってたぢゃないか。」
 「え、それは、私へ内密(ないしょ)で云ったの…、あの、殿井様に願ったら、貸して下さるだらうか何うだらうツて…。」
 「波ちゃんの姉様の事だもの、談に依っちゃ、それは無論貸して上げて可いさ。」
 「本当でせう?本当に貸して下さるでせう?」
 「併し、これは姉様に会って、姉様から直(ぢか)に聴いた上でなきゃ可けないんだよ。」
 「ぢゃ、私呼んで来ませう。」と膝を立て掛けて、「可いでせう?」
 「それは、波ちゃん次第さ。だが、千駄木までは容易ぢゃない、行くなら俥に乗ってお出でな。」
 お波の辞するのを、強ひて俥を呼んで出して遣った。



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