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小杉天外 魔風恋風 その12

2011年07月22日 | 著作権切れ明治文学
 親子

 神田猿楽町の、臭い温泉風呂の溝(どぶ)に沿(つ)いて唯(と)ある小路を曲れば、屋根はコールターの剥げた鐡葉(ブリキ)屋根ながら、兎も角二階建てで、入口には刀剣鑑定所の看板、表札は佐久間信元、同東一と、竝べて出した家の前に、今しも宿俥らしいのが二輌楫を下して、「へい、お待遠さま。」と格子の中へ怒鳴った。
 すると、丸髷の若い細君が外を覗いて、
 「一寸(ちょい)と待ってゝ下さいよ。」と優(やさし)いと云ふよりは元気無く云って、直ぐ玄関脇の梯子を半ば昇り、「阿母様、俥が参りましたよ。」
 「あい、待たしと置いて呉れよ。」と答へて、其処の障子から顔を出したのは、日外(いつぞや)東吾の宿に訪ねて来た其の母で、「お時や、まだ東一は戻りませんかい?」
 と低声(こゞゑ)で問(き)く。
 「はい、まだ戻りませんが。」と当惑な顔色。
 「戻ったらね、阿父様に知れるとまた面倒だから、お前から然う云ってね、竊(そツ)と出して遣ってお呉れよ。」
 「はい、畏まりました。」
 「それ、髱留(たぼどめ)が落ちるよ。」と母は気を付けて、また障子の内に引込む。
 此処は八畳の一室(ま)で、畳も古く、天井から壁に掛けて雨洩の跡、窓の硝子も縦横に紙で繕う手てあるが、床には唐画らしい山水の一軸、萌葱風呂敷に包んだ刀剣類、書箱(ほんばこ)も四つ五つ、何うやら此の家の客室とも云ふ可き体裁である。
 此の室に対座(むかひあ)ってる二人の男、一人は学生服を窮屈相に膝を崩した東吾で、一人は父の信元、此れはまた、黒紬の羽織に嘉平次平の袴、肩肘を怒らして、敷物から一尺も前に乗出して居る。六十も坂も越えたらしい年配、頭髪(あたま)も白く皺も深いが、未だしゃツきりとした身の構へ、顔色(かほ)にも眼の中にも、元気の色が宿ってゐるのである。
 「東吾、貴様も男らしく無い奴ぢゃ、今になツて何を考へる?最う露顕に及んだ以上は、何も彼も白状して了へ、潔よく謝罪(あやま)って了へ、生半虚構事(なまなかこしらへごと)して、口頭(くちさき)で免れようなんて、そんな卑怯な料簡は出すな、男らしく白状しろ。」と信元は、怒の声を高くじりじりと膝を進むるのである。
 「何も、秘した事はありませんよ、白状する事なんぞ何にも有りませんよ。」と東吾の声も勃然(むツ)としたやうに聞える。
 「何だ、白状する事が無いと?」
 「有りませんとも。第一、幾ら養家でも、其様な些細な事にまで干渉して、彼此云ふ権利は無いと思ひます…。」
 「こら、生意気な事を吐(ぬ)かすな…。」
 「まア貴方、」と母は夫の声を宥めて、「最ツと静になさいよ、外聞の悪い。東吾(これ)だツて、最う二十五にも成って、前後(あとさき)の考も無く此様な…、斯う云ふ事を仕もしないだらうぢゃありませんか…。」
 「此様な事が有るとな、己は、夏本子爵に会(あは)す顔が無いわい。」信元は又叫んだ。
 「ですからさ、東吾の理窟も、篤と聴いて見なきゃならないぢゃありませんかね、貴方のやうに、さう一概に怒って許(ばか)しいらしツても仕様がありませんよ。」
 「可いわい。」と信元は投げるやうに、「東吾、ぢゃ此処では何(なんに)も云ふな、己も聴かんわ。同伴(いツしょ)に子爵の前へ来い、子爵の前で弁解して見ろ、さ、何でも可い、同伴に来い。」
 「まア、お待ちなさい。」と夫を制して、「東吾、阿母様がね、少し聴き度い事が有るから、ま一寸階下(した)へお来(い)で。」
 「此処だツて可いぢゃありませんか、御用が有らば、此処で仰有って下さい。」と東吾は立とうともせぬ。
 「其様なお前、阿母様にまで…。」と母は涙ぐんで、「何でも可いから、お来(い)でツたらまアお来でよ。」
 力は無くとも親の力、母は強ひて東吾を階下(した)へ降して、箪笥の前、火鉢の傍、隣家の屋根に遮られて薄暗き障子を開けて、老の腰をやツこらと下した。東吾は澄まぬ顔の眼ばかり瞬たいて、母には横向きに、柱に凭れて踵の切れた靴下の足を投げ出し、其処に在る土瓶敷を指頭でくるくると廻し始めた。
 「東吾、何うしてお前は、然ういこぢにお成(なり)だらうねえ、学者に成ると、然う云ふものですかい?」
 母は口を開(き)った。
 東吾は答なく土瓶敷を廻して居る。
 「…何故、房州に行かないか、其の訳を分疏(まをしひら)かなきゃ可け無いと云へば、此様な事で分疏も何も要るもんか、僕だツて生きた人間だ、用が有れば滞在もするぢゃありませんか…、なんです彼言(あれ)は、彼ぢゃお前…。」
 「だツて其の通りでせう?」
 「何が?何が其の通りなの?」
 「用事次第で、急に立つ事も有れば、また滞在する事も有りませう、僕だツて一個の男児でさア、幾ら養子でも、此様な事にまで世話を焼かれて耐るもんですか。」
 「いゝえ、番町のお家で世話を焼くのぢゃないよ…お前も分らないねえ、番町のお家ではね、房州に行かないで然うしてる位なら、此方へ来て勉強したら何うだ、と單然(たゞさ)う云ふだけなんだよ。」
 「ぢゃ、何で滞在して居ようと、関は無いでせう。」
 「いゝえ、関は無い事は有りません、假ひ、番町のお家で黙ってゝも、其の訳を弁解(まおしひら)かなきゃ、阿父様や私の顔が立ちません…。」
 「然うですかなア…。」
 「然うですともね、」と母は、冷淡に云ふ東吾を眺め、「お前は然うは思ひませんかい?」
 「思ひませんねえ。」
 「思ひませんですと…?」
 「何ですよ阿母様、其様な馬鹿な声を…。何様な大事件で、其様なに夢中に成んです、少し物の軽重を…大小を考へて御覧なさい、高が、房州に行くのが二三日延びたとか、借財を何に費(つか)ったとか、それだけの事ぢゃありませんか、下らない!其様な事で親子で喧嘩をして、それで世の中が渡れますか。」
 「東吾、高慢な事をお云ひで無い…。」と母は涙を拭いて、「お前なんぞ、頭から足の先まで、皆な番町の恩を受けて生きて居るぢゃないか…。」
 東吾はじろり母を見返したが、何か云はうとして又口を閉ぢた。母は、
 「それ程些細の事なら、何故有る可き通り、斯々云ふ次第ですと、打明けて話せないんだい?東吾、阿父様も私も此の通り、昨日から夢中に成って、物も手に着かないんだよ。其様な些細な事なら、お前だツて何も、隠し立てするには当たるまい、何故その訳が話せないの…、え、何故話せないのさ、東吾や…?」
 東吾は同じく口を噤んで居るのみ、母の方を見ようともせぬ。
 「私は、阿父様に知れては悪いと思って、それで今迄黙って居たけれど、私は大概の事は知ってますぞ。」と母は急(にはか)に厳乎(きツ)となツて、「借金だツて、東一の為にした借金ぢゃありません…。」
 「誰が、兄様の為と云ひました?」
 「借金も然うだし、房州に立たないでるのも、試験の用意とか、学校の用とか、其様な勉強の用ではありません!」
 「然うですか。ぢゃ何の用でせう?」
 「萩原とか云ふ、其の、田舎出の女学生に関係(かゝは)ってるからさ!」
 東吾はびくりとした、顔色(かほ)は紅く変った。昨日の朝、東吾の母は子爵家から迎を受けた。用談と云ふは、東吾が未だ房州に立たずに居るとの事、家も此の通り廣く、閑静(しづか)な室も幾室もある、遥々房州まで渡らずとも、今から此方で勉強しては何うであらうかと云ふ事、今一箇條(ひとつ)は、昔気質の阿母様の耳に入れるのは少し気の毒なれど、何の必要有ってか、此の二月と、この五六日前と両回(りゃうど)に、外聞の悪い借財を東吾が為たと云ふが、何処も若い者には有る習ひ、決して夫を彼此と咎むる次第でないが、今後(これから)金が要るならば、然う云って家から持って行くやうに、此様な不名誉な事を再(また)と為ぬやうに、熟く阿母様からも諭して貰ひ度い、と云ふのであツた。



 余り意外な事を聞(きか)されて、母は暫くは言葉が出なかツた。東吾をば房州に居るものとのみ思って居た、況(まし)て借財の事など、夢にも知らう筈が無い。昨年の暮も、兄の証書に印(はん)を捺したのが原(もと)で、養父(ちゝ)に少なからぬ迷惑を掛けた事がある、今回(こんど)の金は何に費ったか知らぬが、誰が目にも生家(さと)が貧故とよりは映らない事である、子爵も然う思うて居ようし、夫人も然う思うて居よう、此様な事では…と行末(すゑ)から行末をを考へて、或は、今の中に此の縁を断って仕舞ったならば、などと云ふ相談の、内曲(うちわ)に起って居ないとも限らないのである。斯う思ふと、母は最う居ても起(たっ)てもゐられなかツた。
 それで、子爵夫人の前をば白髪頭を畳に付けて。直謝(ひらあや)まりに謝まツて、直ぐ其の足を駒込なる東吾の宿に向けたが、東吾は不在(るす)なので、主婦から聴いた我が子の近状(やうす)に、母はまた一倍の苦労を此処で増したのである。と云ふのは、此の頃の東吾は、主婦の目にも少し変に見えない事もないと云ふのである。急に房州に起つと云ひ出したり、惘然(ぼんやり)考事をしたり、深夜(よふけ)に酒に酔うて帰ったりすると云ふのである。
 まだ怪(をか)しいのは、過日(このあひだ)萩原と云ふ女学生が二階から落ちた時の二人の様子、思へば房州行も彼事(あれ)から延(のび)た事になる。昨夜も東吾の不在(るす)に訪ねて来たが、若い同士の、萬一(もし)間違った事でもあツてはと云ふ杞憂から、主婦(あるじ)は東吾に秘して居る程であると云ふ。
 「なに、昨夜訪ねて来た…?」と東吾は母の話を遮ったが、其の声にも其の顔にも、意外な悦の色が見えるのである。
 「昨夜ぢゃ無い、一昨日の夜の事だが、」と云ったが、初て東吾の様子に気が付き、「東吾、お前夫れ程萩原の事が気に懸るのかい?」
 東吾は流石に紅くなったが、忽ち度胸を据ゑたと云ふ風で、
 「気に懸るも懸らないも有りません、唯訊いて見たのです。」
 「訊いて何うするの、また会ひに行く気かい?」と母は詰寄った。
 「然うですな、用が有れば行かないとも限りますまいな。」
 「何ですと、用が有れば会(あひ)に行く…?」
 「然うぢゃありませんか、用が出来れば、何処へ行かうと勝手ぢゃありませんか。全体阿母様は、何を間違へて其様な、些細な事まで世話を焼くんです、私だツて、何様な用を抱へて居るか知れないしゃ有りませんか…。」
 「お前の…、其女学生に会ふ用かい?」
 「然うですとも。」と決然(きっぱり)云った。
 「お前は、芳江様から頼まれたとお云ひか知らないが、然うは云はせませんよ。」
 「芳江から…?」
 「其様な惚(とぼ)けてもね、房州から廻って来た芳江様の手紙も見たし、萩原から来た手紙も見ましたよ。」と云って、母は厳然(きツ)と我子を睨め、「雙方の文言(もんく)も較べたし、日も較べて見ましたよ、お前の金を借りたのは、まだ芳江様の手紙の着かない前です!然うでせう?夫でもまだ、芳江様から頼まれた事と云へますか?」
 東吾は無言である。
 「高利貸の金を借りたのも、房州に立つと云って立たないのも、皆な彼の、女学生の為なんだらう?東吾、然うぢゃないか?」
 「然うです、阿母様の云ふ事は巧く当たりました。」
 「え、何です?最う一度云って御覧!」
 「借金したのも、房州に行かないのも、萩原の為ですとも。僕は、彼の女が好きです、芳江よりも好きです、それが何うしたんです?」と争ふやうに云ひ放ったのである。






 まよひ

 「何うしたんだね、嬢ちゃん、え、唯泣いてたツて分りませんよ。何うしたんかまア話して御覧なさいよ、え、姉さんが…、姉さんが何うしたんだツて?」
 「姉さんがね、怒ってね、私にね、出て行けツて云ふの…。」
 「何うしてね?何だツてまた、其様なにお怒(おこ)んなすツたんだね?」
 「今日ね、私ね、姉様に隠れて、殿井様にお金借りに行ったの…。だツて、最う姉様の処には、最うお銭(あし)が無くなツ了って、明日からは、洋燈(ランプ)も点ける事が出来ないんだもの…。」とお波は再(また)泣き出す。
 「へえ…、石油(あぶら)買ふお銭もね?」と植木屋の婆さんは、しょぼしょぼした老眼を瞠った。
 「え、」とお波は点頭き、「最うお薬なんか、一昨日から止して居るの。」
 「はゝア、夫ぢゃア、其の殿井様て云ふな、お前の姉様の情人(いゝひと)だね?」其処の敷居に泥足をぶらりと、煙管を銜へて居る雇男(をとこ)が口を入れた。
 「然うぢゃ無いよ、其様な者ぢゃ無いよ、私の姉様に、其様な者なんぞ有るものか。」とお波は口惜し相に云った。
 「だツて、男ぢゃ無えか、男でお前、女に金出さうてなア、其処にほら…、お前様には解るめえが、底も有りゃ蓋も有らうて云ふもんだ、ねえ阿婆様。彼様なに高慢ちきな面アして、女の学者は己許だツて云ふ風してるけんど、なアに、如彼云ふのに限って、存外男にア鈍えもんだ、はゝゝゝゝゝ。」
 「何だい、私の姉様を悪く云やがって、何だい。」と真(むき)になツて突掛った。
 「なアに、悪く云ふもんかね、全くの事だよ。嘘だら、此の又様(またさん)一つ、口説き落して見せべえか…、あはゝゝゝゝゝ。」
 「誰が、汝(てめえ)の様な百姓なんか、誰が…、姉様の傍にも寄せるもんか…。」
 「何だと、百姓だと、此の小女郎(こめらう)、生意気な…。」大人気なくも眼を剥くと、
 「又様、何だよお前様…?此様な幼少(ちツちゃ)い者を捉まへてさ…。」と婆さんが叱った。
 「余り生意気吐(ぬか)しアがるから…。」
 「お前が調戯(からかふ)から悪いんだよ。彼方へお出でよ、ほら、親方が呼んでるぢゃ無いかよ。」と婆さんは男を彼方に逐遣り、「嬢ちゃん、彼男(あれ)はね、馬鹿だからね、彼様な者に関(かま)ふぢゃありませんよ、ね。」
 「だツてね、私を見るとね、何時でも彼様な事を云ふの、私口惜しくツて!」
 「馬鹿ですからね、今後は、何を云っても知らない風(ふり)していらツしゃい、其が一番に良いんだから、ね。」と婆さんはお波を宥めて、「それより、姉様は何う為すツたんだツてね。」
 「阿婆様、何卒、後生だからね、姉様に謝罪って頂戴よ、え、阿婆さん何卒後生だから…。」
 「それは承知だがね、何だツてまた、其様な…石油買ふお銭まで無くなすツたんだね…!」
 「それはね、阿婆様、斯うなの…。」
 と、お波は姉の窮して居ることから、試験の間近くなツた為、昼夜殆ど机を離れずに居る事、病気は只だ悪い一方に進む事、殿井様から金を借りることを勧めたが、姉は芳江の約束を堅く信じて、お波の云ふことなど耳にも入れぬ事、けれども今は、肝心の石油代にも差支へ、豆腐一つ買ふ銭も無くなツたので、お波一己の料簡で、秘ひ殿井へ頼みに行った事を話した。
 「然うですかい、それでは、姉様の方が無理でございますよねえ。」
 「それをね、姉様はね、私の心が鄙劣(さもし)いからだツて云ふの…、それ程殿井様が好きなら、殿井様の家へ行って居ろツて…。あら、阿婆様、姉様が此方へ来てよ。」
 「逃げないだツて宜うございますよ、私がね、熟く謝罪って上げますからね…。」
 婆さんが濡れたお波の手を攫んだ時、
 「波ちゃん、何してるの?」と初野は土間に近寄って、「其様なにお婆さんのお邪魔を為ちゃ不可ません、此方へ来らツしゃい!」
 洗晒(あらひざら)したネルの寝衣(ねまき)にメリンスの半襦袢、何処とも無く自炊の垢に汚れたるに、病気(やまひ)に窶れた肩から頸の邊細(ほツそ)りと、顔は試験の準備で家にのみ籠り居るので、日に射らぬ色青白く、頭髪も構ってる暇が無いかして、油気の脱けた髪の毛を乱るゝに任せ、此女(これ)が此の春、学校の祝賀会で、殿下の御前に英語朗読をなす可く選抜された其の一人と云っても、誰か真(まこと)かと思ふ者が在らう!
 彼の時、駒込から巣鴨までの御道筋、雲と群り、潮と波打つ幾萬の見物の間を、鈴(ベル)の音強く、神か人かと驚く許りの扮装(いでたち)して、矢を射るが如くに自転車を飛ばした其の美人と云っても、誰か真と思ふ者が在らう!



 「阿婆さん、ね、何卒ね…。」とお波は後に隠れて、切りと老婆の援(たすけ)を求むるのである。
 「宜うございますよ、今願って上げますからね、」とお波を慰めながら、初野の方に一歩二歩、
 「嬢さん、私も熟(よ)かア聴かないけれどね、別段、悪い気で為(し)た事で無いんだからね…。」
 と、老婆は其の柔和な顔に笑を含んで、お波の為に口を利いて呉れるのだツた。初野は、一時の怒に叱り過して、妹の趾を探しに出た処なので、婆さんから願はるゝ迄も無く、最う叱言(こゞと)は云はないから、とお波を家に伴れ帰ったが、
 「波ちゃん、まア此処へお出でな、」と家へ入るや否や、妹を膝近く坐らせ、「今日の事は堪忍して上げるからね、今後(これから)は最う、決して自分の一存で、此様な事を為るんぢゃないんだよ、可いかい?」
 「え、今後は…。」
 「そして、彼(あ)のお金はね、彼のまゝ殿井様に返してお来(い)でなさい。」
 「返すの…?」
 「然うぢゃ無いかね、理由(いはれ)も無く他(ひと)の金を使ふなんて、其様な卑(いやし)い事は出来ないぢゃないかね…。其様な不名誉な事して、他日世間へ出てから何(どう)するの?波ちゃんは、現在の苦しい事許し思って、卒業後の事は些(ちツ)とも考へて無いんだもの。だから不可(いけな)いツてんだよ、耐忍力が無くツて…。幾ら苦しいツて、後最う一ト月の辛抱だよ、昔は、豆を咬んで苦学した学者も在る、一ト月許し、何だ私は、土を噛っても辛抱するよ。」
 「私だツて、辛抱する気ぢゃ無いか。」
 「ぢゃ、其様な文句を云はないで、綺麗に返してお来(い)でなさいな。加之(それ)に、後刻(いま)にも芳江様から送って来るか知れ無いし…。」
 「芳江様なんぞ、信用(あて)になるもんか。」
 「何ですツて、芳江様が信用にならない…。」と初野は厳然(きツ)となツた。
 「姉様は、芳江様の事を云ふと、直ぐ其様なに怒るけれど、だけれど…。」
 「お黙りなさい、」と妹の声を打消して、「芳江様が信用にならないとは何の事です、失敬な、二度と其様な事を云ったら恕しませんよ!」
 「だツて、姉様は何にも知らないから其様なに思ってるけれど、私は…、私は今日、聴いて来たんだもの。」
 「何を?芳江様の事を?誰から聴いたの?何様な事を?」
 「殿井様から聴いたんだよ。」
 今日この頃の初野が胸中(こゝろ)、貧に迫られ、病に苦しめられて、鏡に写る日毎の憔悴(やつれ)、それより目に立つのは妹の顔、色も悪く、艶も失せて、何うやら頬も痩(こけ)てきたやうだ…、と思ふ時は、むらむらと唯心細く、唯哀しく、えゝ、最う卒業も独立も入らぬ、辛くとも郷里(くに)に反って兄の厄介に成らうか、それとも、男に此の身を任してなりとも、此の苦境から救うて貰はうか、と迄迷ふ。迷ふけれど、直ぐまた閃めく希望の雷光(いなづま)、試験毎の我が成績、学校内の我が評判…。卒業さへすれば、世間にさへ出れば、立身!名誉!幸福!思ふ儘なる我が身では無いか、その卒業も、僅にあと一ト月の中では無いか!なんぼ可弱い女でも、荒い浮世の波を此処まで漕ぎつけて居ながら直ぐ手の達(とゞ)く岸に上り得ずに、此のまゝ押流されて成るものか。苦しくとも、辛くとも、假(よし)や病が重らうとも、正可(まさか)に試験前に倒れる様な此の身では無からう、否、土を噛っても倒れることではない。
 天には神も在(まし)ますであらう、道理の光、状の温かさ、此の明い世の中で、我が望ばかりが、破れる事の有らう道理はない!
 卒業も、独立も、決して我が欲を充(みた)さう為のみで無い、第一は不幸の母に、老後の孝養がして見たく、また二つには、不便(ふびん)の妹を立派に教育して、姉妹二人で理想の生活を想像し、家庭の規範とも成らなければならない!昔罵られた兄や嫂、母の素生まで洗立てゝ嘲った近所の人達にも、慚死の感(おもひ)を輿へて遣らう!姉妹帰省の折は、贅沢と云ふ程で無くも、美しく揃ひの物を着て、土産も郷里には珍しい物を持って、亡父上(ちゝうへ)の墓参、親類への見舞、彼が妾上りの後妻の娘かと、蔭口にも驚嘆させねば止まぬつもりである!
 然うよ、何も嘆息する事は無い、煩悩する事も無い、自分には、芳江と云ふ世にも頼母しい親友が有って、今にも此の境遇から救呉れるのでは無いか!彼の時の優(やさし)い慰め、誓の言葉、あれを忘れて何うなるものか!今日来なければ明日、明日送らなければ明後日は送って来る。彼程気に懸けて居らるゝ人が、何日まで私を苦しめて置かう!苦しいと云ふも僅の辛抱である、妹を不便と云ふも其の間だけの事である、今更何を迷うて、何を狼狽(うろた)へる事が有らう!假にも此様な心を起しては、芳江様の彼の清い心に対しても済まないでは無いか。
 様々に動く心を、初野は毎(いつ)も斯う云ふ態(ふう)に制して居る。その頼(たより)に思ふ芳江の事で、殿井から妹が聴いて来た事有りと云ふのだから、聴かぬ前(さき)から激しもし、また驚きもしたのであるが、妹は怖々ながら、
 「芳江様は、近日(このごろ)にあの、お婿様を貰ふんだから、最う外へなんざ出ないんだツて云ふの。」
 「お婿様を?お婿様を貰ふから外へ出ないツて?ぢゃア、東吾様と結婚する事だらう?」
 「然うぢゃ無いんだツて、東吾と云ふ人はね、他に女が有ってね、借金なんかして、それが知られ了ってね、あの、絶縁に成ったんだツて。」
 「え!東吾様が…?」
 「だから、芳江様は、最う姉様にお金を送る事など無いんだツて…、其様な事を的(あて)にしてちゃ大変だツて、殿井様は然う云ったよ。」
 「ぢゃ、東吾様の女と云ふのは…!」と初野は顔を紅くしたが、急(にはか)に蔑視(さげす)む様な語調で、なアに、彼の殿井が何を知って。」
 「だツて、殿井様のお友達に、同級の人が在るんで、東吾様と同級の人が在るんで、それで熟(よう)く知ってるんだツて云ってたよ。」
 成程然う云はれて見れば、真実(ほんたう)の事かも知れぬ、また殿井とて、利益にも成らない事を、虚構(こしら)へて話す訳もない。
 女の関係、借財、それが原(もと)で、東吾が離縁になツたとは?それに芳江は外出もせぬ、金も送らぬとは?
 若(もし)や私から起った事で無からうか、過日(このあひだ)東吾様の持って来た金の事では無からうか、然うでゝも無ければ、芳江様から今迄便(たより)の無い筈も無い。けれども、けれども私と東吾様と何の関係が有らう?
 彼(あ)の後、一回(ど)謝罪(あやま)りの手紙は進(あ)げた、それから、何とも御返事が無いので、房州に立ったか何うかと思って訪ねて行った。訪ねたけれど会ったのでは無い、東吾様との関係と云った処が、唯それだけの事である、唯それだけの事で、離縁など云ふ大事件が起るだらうか、唯それだけの事で、彼の情に厚い芳江様が私を疑ふだらうか、第一、それで東吾様が黙って離縁を承諾するだらうか!馬鹿々々しい、無論他の女との関係なのだ。
 「そして、其の女ツて云ふのは…、東吾様の関係(なん)したと云ふのは、何様な人なの?」と初野は暫くして云った。
 「何様な人だか…。」
 「何か、放蕩してるやうな話でもあって?」
 「どうだか、私、彼の人の事なんか熟(よ)か聴かなかツた。」
 「では、芳江様は、それで承知して居るんだね?」
 「もう、お婿様を取るツて云ふんだもの、然うだらう。だから、芳江様は外へなぞ出ないんだツて、決してお金なんぞ送りゃ為ないツて、其様な物を的(あて)にして居たら、姉様も私も、干乾に成るより外は無いんだツて、殿井様吃驚して居たよ。」
 「お前は、芳江様から金を送る心算だなんて、其様な事を、皆な殿井様に話したんだね?」
 「だツて、私は…、」とお波は顔色(かほ)を変えて、「姉様、御免よ。」
 「いゝえ、今更夫を叱るんぢゃ無いけれど、」と姉は案外に叱りもせず、「殿井様は、何様なにか私を怒ってたらう?」
 「怒ってなぞ居ないよ。あの、お前の姉様はね、学問も出来るし、中々才女だツて…、他日(いまに)社会へ出たら、何様なにか名を揚げるか知れやしないんだツて…。」
 「其様な事を云ってゝ?」
 「え。」とお波は得意に点頭き、「何卒か、首尾好く卒業させ度いものだツて、それには、先ず療治をしなきゃ不可ないんだツて…。」と其の殿井の深切な次第(こと)を話すと、初野も深く感に打たれたらしく、
 「まア、それ程まで私の事を…?」
 「え、姉様の事はね、大変に心配していらツしゃるよ。姉様、だから、私の云ふ通り、殿井様に借りた方が好いぢゃないか?」
 「然うさねえ。」
 「だツて、最う仕様が無いぢゃ無いか。明日からは、もう、お菜(かず)を買ふお銭(あし)だツて無いぢゃないか。」
 「然うだねえ。」
 「私なら、何様なでも辛抱するけれど、姉様は、何にも食べないで、其様な勉強許しして居るんだもの、此の頃は最う…。」と涙ぐんだ。
 「だけれど、殿井様は何と仰有るんだか…。」と深く溜息を吐いた。
 「ぢゃ、殿井様に頼むの?本当に然うするの?」と初めて勇む顔色(かほ)。
 「まア、お前の様に然う軽々しく考へたツて…。」と煩さ気に顔を顰める。
 「いゝえ、殿井様はね、承知して下さるに違ひないの、私請合ふの…。」
 と云ふ時、其処の障子が明いて、前の植木屋の婆さんがお波を手招きし、
 「嬢ちゃん、一寸来(い)らツしゃい。」
 「お婆さん、何?」
 「ま来らツしゃいよ、」と意味有り気な顔で招き、「今ね、嬢様に会ひ度いツて方が参りましたよ。ま、此方へ来らツしゃい。」
 「然う、誰?何様な人?」
 お波は訝りながらも出て行った。用が有って訪ねて来た人なら、真直に此処へ来さうなものを、と初野は其の後を見送って首を捻った。
 すると暫くしてお波が家へ入って来たから、
 「何だい?誰…?」と隙さず問く。
 「あのね、あの…。」と障子に捉まツて、上目遣ひに姉を見ながら、其処に逡巡(もぢもぢ)して居る。
 「何うしたの?ま此方へお出でな。誰が来たの?」
 「だツて、姉様が怒ると可けないんだもの…。」
 「え、怒る…?」
 「近い中に行って、熟(よう)く、姉様に話して遣らうツて、然う仰有ったけれど、私は、私はあの、今日の事ぢゃ無いと思ってたんだもの…。」
 「私に談して遣る…?近い中に行くツて、誰がさ…?」と云ふ中一段と驚いた顔をして、「殿井様だね?」  
 「私は、今日の事で無いと思ってたんだけれど…。」
 「殿井様だらう?波ちゃん、然うなら然うとお云ひな。殿井様でせう?前の家に来て居るのかい?」
 「あの、突然(だしぬけ)に入って、また、私が叱られちゃ気の毒だからツて…。」
 「それで、前の家に待っていらツしゃるの?」
 「え、入っても可いか何うだか、様子を訊いてからにするんだツて…。」
 「だツて、私は何(ど)の顔色(かほ)で殿井様に…。」
 「何故?今後(これから)の、私達の事を相談しようと思って、態々来て下すツたんだツて…。」
 「それでは、尚更会へないぢゃ無いかね。」
 「だツて、姉様が居るかツて問くから、居ますツて云ったんだもの。」
 「困ったねえ、」と初野は我が身を見廻し、「此様な恥しい服装(なり)をしてお前…、迫めて頭髪(あたま)許しも…。」
 と云ふ時しも、此方に近(ちがづ)く靴音が聞える。
 「おや、来らしツたよ。」と初野は慌てゝ、「波ちゃん、不在(るす)だと云ってお呉れよ、不在だと云ってお呉れよ。」
 「だツて、今居るツて云ったものを。」
 「でも、此様な服装で体裁(きまり)が悪いぢゃ無いかね…、それ、其処へ入らしツた。」
 と初野は速くも障子を開けて、除(そツ)と室を逃げた。背後(あと)ではお波が、入って来た恭一を立迎へた様子で、
 「閑寂(しづか)で、思ったよりは佳い所だねえ、」と例の軽く冴(さえ)た声が入って来て、「姉様は?」
 「え、彼の…。」
 「居るだらう?」
 「え、彼の、一寸と不在ですの。今一寸と出まして。」と周章(どぎまぎ)した声。
 「出た?今?」
 「え、一寸。」
 「ぢゃ、直帰るね、待って居よう、入っても可いだらうね。」
 「え、それは可いけれど。」
 家に上った様子なので、初野は足音を竊んで屋後に身を潜(しの)ばせ、窓の下に耳を澄まして居た。話声は能くは聴えぬが、何やら手土産でも貰ったらしく、嬉し相な声でお波のお礼を述べるのが聞えた。
 壁板(したみ)に身を寄せて、初野は種々と考へた。



 芳江の事、差迫る目下(いま)の困難、日毎に進みつゝあるらしい我が病態…、何(どう)しても今は、恭一にでも頼るより他に術は無いのだ。恭一が、彼様な事をした自分を咎めもせず、尚も頼に成らう、力を借さうとの厚き情は、実に感謝に余る有難い話である。
 「然うだ、最う恥しいたツて仕方が無い、お目に掛って、謝罪(あやま)る処は謝罪って、そして…、そして…。」と暫くしてから点頭いたが、軈て襟など正(なほ)して、除(しづか)に表の方へ廻った。恭一に会はうと思へば、過ぎた記憶、今後の想像、急に胸の中に躍って、顔は燃(もえ)る、足は竦む、また身窄(みすぼ)らしい服装が気に成って来る。けれども、何時まで斯うしても居られぬ、と自ら励まして顔を掲(あ)げると、直ぐ其処の檐下に、一人の男が佇んで家の様子を立聞して居るのである。
 「おや!」と初野は吃驚した。
 男の方でも、初野の足音に面を上げたが、それが思掛けぬ東吾なのである。 
 二人は驚いた顔を見合したが、互いに頭(くび)を動かして、双方から歩寄った。そして、口でも云はず、無論手を曳いたでも無いけれど、其処から足音を竊んで、檐下を通り抜け、木立の間を裏庭へと出た。
 空は薄く曇って居るが、傾き掛った日光は照りつくやうに射して、木の葉も草の葉も、宛然(さながら)油を塗った様にねっとりと光り、物の影は朧月夜の如く薄く落ちて、水蒸気の多い南風が、絶えず緩く吹旋って居る。
 「先日は真に失礼致しまして、」と先づ初野から口を切った、「私は、最う房州(あちら)へお立ちなすツた事と存じてましたが。」
 東吾も同じく立止ったが、凝然(ぢツ)と初野を視て、
 「何うしました、大変血色が悪いぢゃありませんか?」
 「え、矢張し、まだ平癒(さツぱり)しないもんですから。」と云ったが、身窄(みすぼ)らしい我が姿を今更のやうに恥しく俯向いた。
 「医者は何う云ふんです?其様なにして居て可いんですか?苦しかありませんか?」
 「は、有難う、」初野は点頭いた。その答よりも、東吾の優しき言に胸を突かれたのである、「苦しいって云ふ程でも有りませんが。」
 「でも、非常に痩せましたね。過日(こなひだ)も然う感(おも)ったが、今日はまた一段痩せたやうです、貴女は然うは思ひませんか?」
 「はい、私も…。」と許り黙って了った、急に胸が一杯になツた。
 東吾も黙った、そして、手近な木の葉を毟取って、脂気の多い掌に載せて擦って居る。
 「先日は、大変失礼致しまして…、」と良(やゝ)暫く置いて初野がまた云ひ出した。「あの、此間進(あ)げた手紙は御覧下すツて?」
 「見ました。」
 「実際彼の通りの事情ですから、何卒悪からず!」
 「彼様な事で、感情を悪くする僕でもありませんよ…。併し、彼の後、芳江から送って来ましたか、来ないでせう?」
 「えゝ、それは、未だ何ですけれど…。」
 「来ないでせう。僕も然う思ってました。」と独で点頭く。
 「では、何か芳江様に…?」
 東吾は只だ笑ったのみで、
 「今来て居る人は…、彼は何です?」
 「え、彼の方が、日外(いつか)お話しました彼の、殿井ツて云ふ方なんですの。」と云ったが、顔色(かほ)を紅くした。
 「ぢゃ、彼の男が補助(ヘルプ)すると云ふのですな?」
 「何うですか?私は会ひ度くもありませんから、彼様なに隠れて…、失礼か知れませんけれど。」
 「でも、お妹さんに其様な事を云ってるぢゃありませんか?」と東吾は詰問するやうに云ひ掛けたが、「併し、芳江から送って来なきゃ何うするんです?お困りでせう?」
 「えゝ、それは困りますけれど…。ですけれど、芳江様が彼様なに御深切に仰有って下すツたもんですから。」
 「貴女は、家庭(うち)の内情を知らんから其様な事を云ふがね…。」
 「それでは、芳江様は何か…。」
 「お、其処へ来たのはお妹さんでせう。」と東吾は初野の声を止めた。
「発見(めっか)ると不可ませんから、失礼ですが…。」
 二人は足早に木立の蔭に身を隠した。お波は四邊を見廻しながら、畑の方へ通抜けて行く。
 木立と云っても、土を柔かに売物の檜葉(ひば)や、松など五六株ばかりで、前は廣々と彼方の垣根まで野菜畑である、主人の仙右衛門と雇男とが、働いて居るのが見える。
 隠れようとしたが、前に出れば畑の人に身らるゝので、二人は其のまゝ、其処に立止った。東吾は珍し相に木の葉を毟り、足許の草花を眺めて、互に出来るだけ身を離して居たが、それでも風が吹いて通れば東吾の袴の裾も障る、初野の長い袖も靡く…。



 「最う、彼方へ去(い)ったやうですから。」と暫くして初野が云った。其の声は喉に窮迫(つま)ったやうにも聞える。
 「彼方へ出ませうか?」
 二人の交した言は是だけであツた。けれども、木立の間を出ると、二人とも、前よりは一倍に親さが増したやうな気がするのである。
 「家へ入りませうか?」と東吾が云った。
 「え…。ですけれど、未だ殿井様が居るかもしれませんから…、」と云ったが、少し狼狽(うろた)へて、
 「それは、居っても関ひませんけれど。」
 「彼様なに探す位だから、何か秘密な、でなきゃ、何か急用が有るかも知れませんねえ。」
 「秘密なんて、私には其様な用は無いんですから。」
 「併し、貴女を補助(ヘルプ)するとか何とか、然う云ふのぢゃありませんか、でなきゃ、彼アして遣って来る筈も無いし…。」
 「ですけれど、私は、彼の方に助けて貰ふ気なんぞありませんもの。私、貴方に、然う疑はれましては…。」と俯向く。
 「疑ふんぢゃ無いが、併し、彼の通りに来て居るぢゃありませんか。」
 「私は、最う、何様な事が有りましても、決して他の助なんか受けない心算(つもり)ですの。」
 「他の助は受けない…?」
 「え。芳江様の外に何誰でも。」
 「芳江の外は?だが、芳江からは、未だ便も無いツてぢゃありませんか。」
 「え、夫は然うですけれど…。」
 「若し、芳江から来なかツたら?」
 「私は然うは思ひませんの…。」と東吾を見て、「何か、芳江様に変った事でも有るんでせうか?」
 東吾は答もせず、何事か重大な考の湧いたやうに、目を据ゑて我が足許を見て居る。
 「芳江様の身に、何ぞ変った事でも起ったのでせうか?」と初野は再(また)問(き)いた。
 「初野様、」と声と共に面を上げたが、色は火のやうに紅く、燃ゆる如くに光って、「初野様、貴女の一身上は、及ばずながら僕が助けませう…、助けると云っちゃ失礼か知らんが、兎に角僕が引受けます、貴女は厭かも知れない、併し僕は厭とは云はさない心算だ、最う、何処までも承知して貰はなきゃ成らん…。」
 斯う云はれる中にも、初野は最う真紅(まツか)になツたが、
 「其様な事はございませんけれど、たゞ、私は唯、芳江様に何うも…。」と後は小声で聴取れぬ程に云ふ。
 「芳江なぞ構はん、ま此れを取ってゝ下さい、其様な事をすると、僕は貴女を恨みます…、」
 と取出した紙入を袱紗(ふくさ)のまゝ無理に渡して、「取って置いて下さい、構はん、貴女に此様な事を為るのは今始まツた事ぢゃ無い、外日(いつか)の入院料だツて、秘しては居たけれど僕です。」
 「あら、ぢゃ彼の入院料は…!」
 「貴女も然う思ってましたらう!初野様、彼様な事を為るのも…、詰り僕は、疾から僕は…、貴女を恋して居たからです!」
 と云ふや否や、東吾は逃ぐるやうに門の方へ出て去(い)った。



 新しき望

  一

 臥床(とこ)に入ってからも、萬感胸に躍って、暫くは眠れなかった初野は、翌朝(あくるあさ)、台所の用事もお波が手一つに出来上がった時分(ころ)に目を覚ました。
 昨夜、殿井の補助を得よう、得まいと云ふ事で、姉妹長い間云ひ争ったが、その故(せゐ)かして、甚だお波の機嫌が宜くない。姉はまた深く此れを気に懸けて、百方(いろいろ)と慰むるやうにするが、何うしても常のお波の従順(すなほ)な心は返らぬ。初野は「変な娘(こ)ぢゃ無いか。」と胸に繰返し、幾回か口に出した程である。
 けれども、妹の方でも、顔色はまた一倍悪いが、何処か嬉々(そはそは)して、常よりも余計に口を利く姉を、「今朝は余程何うかして居るよ。」と訝ツて居た。
 で、朝飯を済ますと、台所へ立たうとするお波を姉は呼止めて、
 「波ちゃん、後で私が片付けるからね、ま、一寸此処へお出でな。」と優しく云って、「貴女昨夜、殿井様は、今日も再(ま)た来(い)らツしゃるとか云ったね、本当に然う云ふお話?」
 お波は膳を持ったまゝ、黙って其処の敷居の上に起って居る。
 「よ、波ちゃん…、何ですねえ此の人は、返事をお為なさいよ。」
 「だから、然(え)ツて。」
 「段々意地悪になるんだよ、何うして斯うだらう!」と顔を顰めたが、「未だ、昨夜の事を怒ってるの?」
 「だツて。」
 「何がだツてなの?ま、此処へお出でなさい。」と我が前に坐らせ、「何が、だツてなの?可笑しいぢゃ無いか、其様な顔色をしてさ、何か、面白く無い事でも有るの?」
 お波は上目使に姉を眺めて居たが、暫くして、
 「姉様、ぢゃア、昨夜の事は何う決めるの?」と矢張り勃然(むツ)とした調子で云ふ。
 昨夜遅くまで種々云ひ争った末、夫では殿井の世話になるが、昨日お波に置いて去(い)った金を此のまゝ返して了ふか、臥(ね)てからも熟(よ)く考へて見て、其上に決めると仕よう、斯う云ふ事で、姉妹は枕に就いたのだツた。
 それでね、私も種々考へて見たけれど、是迄辛抱して来て、今爰で彼の人の補助を受けては、実に残念だからね…。」
 と云ひ切らぬに、妹は、
 「ぢゃ、昨日のお金は返しツ了ふの?」
 「然うさ。其の方が可いぢゃ無いか。貴女だツて然うだらう、少(わづか)一箇月二箇月の事で、彼様な人の恩を被(き)るなんて、実に口惜いぢゃ無いか…。」
 「ぢゃ、返す事に決めたの?」と念を押す。
 「だから、其の方が良いから、然う決めようぢゃ無いか…、波ちゃんだツて然うでせう?」と妹の顔を覗いて、「ね、然う決めようぢゃ無いか…、そして、孰(どう)せ返すなら、また彼方から来ない中にね、速く持ってツた方が良いぢゃ無いの…、然うでせう。だからお前、御苦労だけれどね…。」
 「だツて、返すたツて、最う余程(よツぽど)費ったよ。」
 「え、費った?何に費ったの?」
 「だツて今朝、伊勢吉(いせよし)の来た時…。」とお波は、過日(このあひだ)から滞(たま)って居る酒屋の借も払ったし、前の婆さんの借も返した事を告げる。
 通例(いつも)だと、無断で金を費ひなどしては、初野は決して黙って居るのではないが、如何したか今朝は叱言も云はず、
 「然うかい、ぢゃ、其の費ったゞけのお金は、私が足して上げようよ。」
 妹は吃驚した顔をして、
 「足して遣るツて?最う一円から以上(さき)よ。」
 「何だねえ、其様な仰山な顔をして、一円許し、姉様にだツて有りますよ。」
 「然う…?」
 「だから、御苦労でもお前さん、返して来てお呉れな、あの人の来ない中に。」
 「だけれど、彼金(あれ)を返して、そして、此から後(さき)何うするの?最う、今回返したら、何様な事有っても願ふ事は出来ないよ…。」
 「私にだツて、当(あて)が有りますよ。」
 「芳江様の方ならば、今迄何とも便が無いぢゃ無いか。」
 「芳江様の方で無く、別に。」
 「ぢゃ、学校の、楠田先生に頼むの?」と云ったが、心配さうに、「だツて、未だ頼んでも見ないものを、当にならないぢゃ無いの。」
 「いゝえ、楠田先生でも無い。」
 「ぢゃ誰?」と一杯に目を瞠って云ったが、「ぢゃ、彼の…東吾て云ふ人だらう?」
 「えツ!」と初野は吃驚して、「お前、彼の紙入を見たね?」
 「紙入って…?」
 「私の寝てる間に、机の抽匣(ひきだし)を明けたんだらう?」
 「いゝえ、抽匣なんざ、」と頭(つむり)を掉って、「私、其様な事は知らないわ。」
 「ぢゃ、何うして其様な…、東吾さまの補助を受けるなんて、其様な事を云ふの?紙入を見たからでせう?」と膝を進めて、「何故秘すの、見たら見たとお云ひなさいよ。」
 「だツて見ないんだもの。紙入なんて、私知らないわ。」
 「ぢゃ、東吾様の事を何うして…?」
 「だツて、昨夜彼様なに、寝言を云ってたぢゃ無いか。」
 「えツ、寝言…?」見る間に初野は火のやうに紅くなツた。



 「芳江様に秘して置くの、東吾様が力に成って下さるから、最う今後(これから)は、心配しようにも心配する事は無い…なんて。」
 「まア、其様な事を…?」と初野は、一度は袖で顔を隠したが、急に怒ったやうに、「お前は、それを黙って聴いてたの?本当に人が悪いよ。」
 「だツて、私も、姉様の声で目が覚めたんだもの。」
 「本当に人が悪いよ…。」と妹を睨めたが、「寝言だもの、何を云ふか分るもんかね、何も…心に在る事を云ふと極ったものぢゃあるまいし、信(あて)になるもんですか。」
 「ぢゃ…。」
 「何ですよ、其様なに私の顔許し見て、失礼な…。」と態と妹に顔を背向けて、「現在、私の知らない事なんだもの。」
 「ぢゃ、今の紙入って?」
 「それはね、」と初野も当惑したが、流石にそれ迄を偽る事も出来ず、「まア、それは悠(ゆっく)り後で話しませう。」
 「ぢゃア、姉様の、お金を借りる当ツて云ふのは、東吾様ぢゃ無いの?」
 初野は一寸考へて、
 「それは、東吾様の事は東吾様だけれどね…。」と曖昧に云った。
 「東吾様…?ぢゃ、東吾様のお世話になるの?」
 「何だねえ、其様な大きな声をして。」
 「本当に、東吾様の世話に成ると決めて?」
 「其点(そこ)は、お前と相談の上に決めるのだけれどね…。何故?可いぢゃ無いか、東吾様の補助を得ては悪いの?」
 「私、彼様な人嫌ひだわ。」
 「何う云ふ訳で?」
 「何だか、怖いもの…。若し彼様な人と関係すれば、姉様は堕落するに極ってるんだツて云ふよ。」
 「え、堕落?誰が其様な事を云ふの?殿井様だらう?」
 「殿井様ばかしぢゃない…。」
 「それから誰?島井のお主婦?」
 「然(え)。だツて、彼の男(ひと)は、女たらしだツて云ふもの。」
 「女たらし…?殿井様が其様な事を…?まア失敬な!東吾様はお前、此の夏で大学を卒業なさる方ですよ、法学士の学位を得(と)る方ですよ、失敬な…。」と初野は唇を咬んだが、
 「波ちゃん、可いから、彼の金は返してお呉れ!」
 「殿井様へ返すの?」
 「然うさ。何だねえ、貴女まで其様な顔色をして。疾(はや)く支度して、疾く返してお出でなさい穢はしい!」
 「だツて、私は返しに行くの厭だわ。」
 「何ですツて…?波ちゃん、貴女姉の言を背くのですね…?」初野の声は常に無く荒くなツた。