※ 性質上、著者名や著作権有無が判じにくいため御指摘あれば削除します
當世夜話(4) ぱんたろん
★モンマルトル、サンチャゴ、ジュン、メエゾン・ヤエ、オデッサ、アザミ、等々と数え立てても、どこにバアらしいバア、バア、カッフェらしいカッフェがあるだろう。テエブルの数に比べていたずらに女給の人数が多かったり、見るからにちゃちなデコレエションであったり、滅茶な照明を使ったり、静かにひとりで有閑をたのしむと云うわけには断じて行かないのである。当初のギルビイ、一頃のフレエデルマウス、リッツの食堂付属のバアの様な、お客をあまり構わないバアがあってもいいと思う。柔かいソファと、小さなテエブルと、ダンスレコオドと絵入雑誌と、一杯のジンフィズ、初夏に向かうこの頃思うのはそうしたバアらしいバアである。
★森田屋のショオウインドに各国製のネクタイが飾ってある。あれで見ると、悲しいかな、和製のタイはフランス製やイギリス製のタイに比べて、あまりにもみすぼらしい。実質的にも、模様的にも。話は違うが、ショオウインドにごたくさ品物が並べられてあるよりも、こうして数少なく上品に並べられたショオウインドに、僕は興味を惹かれる。ショオウインドの効果から云っても、そこに手際よく並べられた僅少の品によっても、その店の格式、品質の如何、種類の程度が直観されるのが当然ではなからろうか。
★邦楽座のパラマウントの電気広告、武蔵野館の縦に明滅する電気広告、黒沢商店のコロナの電気広告は都下の電気広告のうちで眼を惹くに足るものである。およそ都会情緒の大半は電気広告におうている。あの御大典当時の朝日新聞社屋上の廻転式電気広告が廃止されずに廻転していたら、と思った者は僕ばかりではあるまい。
★新宿に不二家が開店した。白十字、明治製菓、中村屋。裏にはいると、メリイウイドウ、ウエルテル、ミハト等。昔話になるが、カッフェと云えば扇屋しかなかった頃を思うと、近頃の新宿のカッフェ激増は驚くばかりだ。しかしそれにしても、かなりうまいカクテルと、今は潰れたとか云うワトスンのウイスキイを飲ませた扇屋をなつかしく思い出すのである。
★フタバ屋、アザレの前を通るたびに、ここの二階を気のきいたティイ・ルウムにしたらと思う。閑な奥様、閑な独身者、しゃれた恋人同士のために。カッフェは多い。バアは多い。しかしそれにしても、一軒のティイ・ルウムをさえ持っていない都会を悲しいと思わないか、果して、それが正当に理解されないにしても。
★上野と云うところは発展している様で発展していない街である。上野の山から俯瞰して、そこに何等の近代都市としての美観を見出しがたい。松坂屋の建物にしても、あれに近代建築の魅惑を感ずる者は少ないだろう。時折、何かのついでで上野にでかけるが、そこに見出すのは十年前を思わせる上野の残滓である。或いは、徹底的に上野公園が改造され、池畔の博覧会がカジノに変り近接市区との道路工事が完成されたあかつきに、十年前の上野を忘れしむるのかも知れない。現在の上野の特長も欠点も、あまりに地方人を迎えるに意を用いすぎる点にある。博覧会時期の弥縫的改造以外に何等の改造もされなかった嫌いがある。
★赤坂舞踏場が営業停止を食らった。三十八人のダンサアが免許証を取り上げられた。けれど間もなく、百五十坪のフロオアを有するとか云う新しいダンスホオルが出来る。出来たらでかけて見ようか。
「ドノゴトンカ」昭和四年七月
FASHIOM流行欄 ぱんたろん
十二月の総決算として、今年の流行界が、どこまで進展して行ったかを、一寸振返って見るのも無駄ではないと思います。
歳末の忙しい中ですが、流行欄はそこで一寸回想的なパラグラフをはさみます。
まず断髪
断髪は日本の都市などは、主として東京、横浜を中心として関東に於て、盛んな流行をしました。が京都大阪は、それに反して、「断髪時代」という現象を、殆んど見ずにお終いになったと言われる様です。
ですから、断髪は、関西にあっては、まだ一つの奇異をそそる。「えげつない!」という言葉を、彼等はまだ断髪の頭を振返り乍らくり返しますが、東京にあっては、それは、もう「流行」というより、風俗の一部と化しましたことは、ビルディング街の年を老った受付係だって知っています。
エレベエタ・ガアル、ガソリン・ガアル、ショップ・メイド、タイピスト…多忙な職業婦人の彼女たちは、何の意味なしに切落したバブの簡便な有難さを今日になって漸く身に感じる状態です。
それは本当に一個の櫛と、スマドレ・ヘヤトニックで、十分なお化粧が出来上がるのですから。何よりもそれは、ビルディングの中の多忙な仕事にピッタリしたものです。
ヘアピンと、宝石と、ベッコウの櫛と、かみゆいさんのために、バブを軽侮しているのは、有閑夫人と、そしてジンゲルです。
白粉
白粉の選び方も驚くほどみんなクレヴアになりました。
健康な肌色白粉は、都市の女学生諸姉の率先して用いるところとなり、水白粉を一寸なめてみて、品質の高下を判断することなどは、どんなに大人しいお嬢さまも、御承知です。
舌の感覚で、お白粉を見分けるには、本当は中々デリケイトな心構えが必要なのですが、まず概して強度に刺激を受けるものは、「よからぬ品」とされています。
が、その刺激の中にも、アルコオル分もあれば、タンサンマグネシヤもあり。アルコオル分の多量な品は、たとえ舌を強度に刺激したとしても、脂肪太りな皮膚の人には、一番適合した品であることも知らなくてはなりません。
眉の引き方
眉の引き方は、欧米では益々細く、針のようになるとのことです。
アメリカなどでは、孤線ももう流行を外れてしまって、斜めの一直線が、喜ばれているということですが、こういう流行こそ、何にも増して、「お顔と相談」です。
徒らに幾何学的線分の変化を追っていたところで、イットのあるお化粧は出来ません。
スカアトの長さ
スカアトの長さは、この数カ年の大問題でありましたが、1929年のラインは、膝の下三インチと或る外国雑誌は報告しています。
日本婦人の体格に持って来たら三吋(インチ)半ほどでありましょうか。そこへ、スカアトよりも一インチ程高いコオトを召して歩かれる颯爽さは何とも言えないでありましょう。
なお、婦人のコオトは、略式の場合にも、着物と同じ地や色調などが許されますが、正式のものは黒のラシャ、或は天鳶絨の毛織に限るものであることを御承知下さい。
イヴニング・ドレス
婦人服も、イヴニング・ドレスを作るほどになれば、流行にも余程明るくなければなりません。
イヴニングの生地としては、かたい織地のものが第一です。繻子、琥珀織、波紋織、節織などを、よろしく検討されること。
色調は、象牙色、晴青色、黒などを主なるものとされることです。
紳士のいでたち
いつの間にか、初めに言った総決算から外れてしまいましたが、紳士の方の流行も、今年に至って益々落着いたものとなりました。
ズボンの太さが八インチから九インチ位に狭められたこと。ラッパズボン等というものは、場末の常設館のレヴウにも姿を見せなくなったようであります。―もともと、これは「カウボオイのパンツからでも流行り出したのだろう」と岡本一平氏の言われる如く「流行」とは凡そ縁遠いものでありましたが。
ウエスト・コオトでぴったりと腹をしめて、上衣は普通に頬部をえぐり、長さは前号にも記した如く、春よりも一インチ程長く、その代り折り返しのラインを大きく取るというようなことになりました。
英国紳士の落ちつきと、パリジャンの生粋なところが、一緒に取入れられて来たのでありましょう。
タバコのハナシ
そういう服装の紳士が、何気なくバットやエアシップを喫っているのも、洒落た風景ではありますが、本格的に行けば、スリイ・キャッスルか、ウエストミンスタアが何と言っても適わしいところですが、林房雄氏の「都会双曲線」の人物のように、
「ウエストミンスタの金口にかけて」
などと、淑女へのギャントリを誇示したりしては、まだまだ本当のジャン・デエとは言えません。
第一、金口などはもう老人の趣味です。それ位なら、
「M・C・Cのコルク巻きにかけて」
とでもいう方が、まだ面白い。もう一つ、輪をかけて、コルクまきのペエパアだけを(銀座のタバコ屋)で売って居ります)買って来て、太まきのチェリイに、一寸まきつけて、M・C・Cのつもりで煙をふかしているのなどは、もっともスマアトな試みと言わなければなりません。
クラバッツとボウ
十二月から一月にかけて、いろいろ儀式が続出します。
結婚式その他のお目出度い宴会には、燕尾服の白のボウが正式なこと言う迄もありませんが、フロックを以て代用とする時は、黒のボウか、明るい色彩のクラバッツを用いることを忘れてはなりません。
お目出度い席だからと言って、フロックに白のボウなどは、紳士のエチケットをこの上もなく傷つけるものであることは御注意あれです。ネクタイ・ピンは、お葬式の時にはつけるものではありません。お目出度い時には是非つけなければなりません。
又、フロックやタキシイドを来て、無暗に、スパッツを穿きたがる人のあるのも、よくないことです。スパッツというものはもとはフランスから流行ったものですが、アメリカで、自動車の運転手が盛んに穿用したことによって一般化せられた代物であります。イタリイでは、リュマチスの患者が、足方の保監のために用いているのもあります。―こう言ったら、日本の紳士諸彦のスパッツ熱も少しは冷めるかも知れません。
クリスマス・プレゼント
又、御婦人の話に戻りますが、香水、口紅、パウダア、眉墨など化粧品一式をくみ合せて、一箱にしたコティ会社の製品が例年の如く輸入されました。
あなたのクリスマス・プレゼントとして、これは青年諸氏におすすめ致しましょう。
「文藝春秋」昭和四年十二月
女学校青春期
府立第一
下町にあるのは、生粋の東京を意味するためであるかも知れない。
流石いかめしい。が、校長の市川源三氏は有名な進歩的教育家であるだけ、何となく、そんな匂いがしている。
気のせいか、生徒の顔が、どれもこれもみんな利口そうだ。といって、モダンずれもしていないし、そうだ、みんな高等師範の学生の卵という感じだ。数学とか化学とかが、何より好きだというような風をしている。肉体的の健康を感じられる前に、精神的な健康を感じられる。―たとえば、ここからも芸術家が出ている。つまりそれが凡そオルソドックなアルト歌い柳兼子女史だというようなわけである。
府立第六
昔、といってもそう古い時代を経た学校でもないが、出来たて頃は、何しろ私立学校のうじゃうじゃとうるさい三田界隈のことだ。ここの事を呼んで、「シャン・ナイ・スクール」といったそうだ。その頃の事は知らないが、今はとにかく決してそうではない。校門を入ると、ムッソリーニかヒットラでも演説しそうな地形になっている。そこで、私はひょいと、両手を上げて、たった一つ知っているドイツ語でやって見た。「メッチェン!イッヒ・ハーベ・カイネ・ゲルト!」
幸い授業中で誰も校庭にいなかった。その演説をだらだらと下ると校庭になっている。つまり道より一段低くなっているのである。
「ここの学校のモットウは何です?」
と、僕は一人の女学生を摑まえて尋ねて見たら、彼は速座に答えたのである。
「三田の通りを、歩いては不可(いけ)ないってことよ」
成程、すぐお隣は、慶応大学、三田の通りは陸の王者の遊歩道(プロムナード)だ、余程、この命令が、厳しく云い渡されていると見える。
双葉女学校
四谷見附の左手、古色蒼然として何となく中世紀風の香りの豊かな建物。―そうだ。あの煉瓦の色は、南欧のトラピスト、―と思ったとたん、ゆりかごの歌でお馴染のドロテア・ウイクのあのスタイルの西洋尼さんが三人。失礼だが、是は、ドロテア程、色が白く、美しくはなく、従って甘いロマンチシズムはなかったが、とにかく出て来た。フランス語で何か語り合い乍ら、僕の傍をすれ違った。
ここの生徒には仲々お金持のお嬢さんがいらっしゃるし、ひょいと耳にはさんだ会話だって、
「あら、御免遊ばして、」
と来た。
仏蘭西語を教わるんだそうで、みんなひどくしとやかで、校門を入っても、所謂(いわゆる)、近代娘風なキャッキャッ声がきこえなかった。
うっかと、声高に喋ると、
「おつつしみなさい」とやられるのかも知れない。
情操教育を重んじるんだそうであるが、その情操はどうも、ロオマン・カソリック風な情操ででもあろうか、卑俗な僕等には何か、こう、オッカなくなっちゃって、とうとう逃げだした。
自由学園
田無駅から五六分。明朗な建物だ。陽が当って美しい。
羽仁もと子といえば、「婦人の友」の主筆であり、「羽仁もと子全集」があの全集時代に、他のものと競って負けなかったといいう、大人物。クリスチャンで、世界平和の謳歌者で、上流家庭好みで、ブルジョワ・イデオロギーで…が、とにかく、日本で相当に、上品御婦人の人気を収纘している、羽仁宗の教祖様だ。これはその一つの機関であり、まア、羽仁宗の本山だろう。
だから、ここの学生は、みんなお金持でなければやって行けない。寄付金だけでも百円や二百円は一年に一辺位は入用だそうだ。授業料は大学よりも高い。学生は弁当を持って行かない。お母様が当番で学校に来て、みずからお料理を作り遊ばす。おやつも出るんだそうだ。
服装はみんな自由、―だから、自由学園とはまさかだが、―従って、仲々イキなセーターに踵の高い靴をはいているのがいる。おつき添いが鞄を持っている。お白粉が、眼だたない位ではあるが、つまり、罪にならない程度にうかがわれる。
体操はデンマーク体操の直輸入。作文の事はレトリック。万事この調子であるらしい。
聖心女学院
芝の白金台、古木に包まれた、この学校も、壮大なもので、上品で、そうだ是は英国風とでもいうのだろう。ここも、よき芸術家や、成功せる実業家をパパに持つ幸運な星の下に生れた、断髪が集る所である。
プリモスを止めて、運転手が、何か金モールのついた救世軍みたいにきちんとした帽をとって、ドアを開けると、豊かな香りを―それは香水をつけているのではなくて、生活の程度が高いと、つい身についた香りが出るものだ。―させて、しとやかに降りて来られる。
森の木の根には、お嬢様達が三々五々、じっと、雑誌などをひもどいていられる。木の葉越しに、まだらに陽が落ちている。
『モダン日本』昭和10年5月
當世夜話(4) ぱんたろん
★モンマルトル、サンチャゴ、ジュン、メエゾン・ヤエ、オデッサ、アザミ、等々と数え立てても、どこにバアらしいバア、バア、カッフェらしいカッフェがあるだろう。テエブルの数に比べていたずらに女給の人数が多かったり、見るからにちゃちなデコレエションであったり、滅茶な照明を使ったり、静かにひとりで有閑をたのしむと云うわけには断じて行かないのである。当初のギルビイ、一頃のフレエデルマウス、リッツの食堂付属のバアの様な、お客をあまり構わないバアがあってもいいと思う。柔かいソファと、小さなテエブルと、ダンスレコオドと絵入雑誌と、一杯のジンフィズ、初夏に向かうこの頃思うのはそうしたバアらしいバアである。
★森田屋のショオウインドに各国製のネクタイが飾ってある。あれで見ると、悲しいかな、和製のタイはフランス製やイギリス製のタイに比べて、あまりにもみすぼらしい。実質的にも、模様的にも。話は違うが、ショオウインドにごたくさ品物が並べられてあるよりも、こうして数少なく上品に並べられたショオウインドに、僕は興味を惹かれる。ショオウインドの効果から云っても、そこに手際よく並べられた僅少の品によっても、その店の格式、品質の如何、種類の程度が直観されるのが当然ではなからろうか。
★邦楽座のパラマウントの電気広告、武蔵野館の縦に明滅する電気広告、黒沢商店のコロナの電気広告は都下の電気広告のうちで眼を惹くに足るものである。およそ都会情緒の大半は電気広告におうている。あの御大典当時の朝日新聞社屋上の廻転式電気広告が廃止されずに廻転していたら、と思った者は僕ばかりではあるまい。
★新宿に不二家が開店した。白十字、明治製菓、中村屋。裏にはいると、メリイウイドウ、ウエルテル、ミハト等。昔話になるが、カッフェと云えば扇屋しかなかった頃を思うと、近頃の新宿のカッフェ激増は驚くばかりだ。しかしそれにしても、かなりうまいカクテルと、今は潰れたとか云うワトスンのウイスキイを飲ませた扇屋をなつかしく思い出すのである。
★フタバ屋、アザレの前を通るたびに、ここの二階を気のきいたティイ・ルウムにしたらと思う。閑な奥様、閑な独身者、しゃれた恋人同士のために。カッフェは多い。バアは多い。しかしそれにしても、一軒のティイ・ルウムをさえ持っていない都会を悲しいと思わないか、果して、それが正当に理解されないにしても。
★上野と云うところは発展している様で発展していない街である。上野の山から俯瞰して、そこに何等の近代都市としての美観を見出しがたい。松坂屋の建物にしても、あれに近代建築の魅惑を感ずる者は少ないだろう。時折、何かのついでで上野にでかけるが、そこに見出すのは十年前を思わせる上野の残滓である。或いは、徹底的に上野公園が改造され、池畔の博覧会がカジノに変り近接市区との道路工事が完成されたあかつきに、十年前の上野を忘れしむるのかも知れない。現在の上野の特長も欠点も、あまりに地方人を迎えるに意を用いすぎる点にある。博覧会時期の弥縫的改造以外に何等の改造もされなかった嫌いがある。
★赤坂舞踏場が営業停止を食らった。三十八人のダンサアが免許証を取り上げられた。けれど間もなく、百五十坪のフロオアを有するとか云う新しいダンスホオルが出来る。出来たらでかけて見ようか。
「ドノゴトンカ」昭和四年七月
FASHIOM流行欄 ぱんたろん
十二月の総決算として、今年の流行界が、どこまで進展して行ったかを、一寸振返って見るのも無駄ではないと思います。
歳末の忙しい中ですが、流行欄はそこで一寸回想的なパラグラフをはさみます。
まず断髪
断髪は日本の都市などは、主として東京、横浜を中心として関東に於て、盛んな流行をしました。が京都大阪は、それに反して、「断髪時代」という現象を、殆んど見ずにお終いになったと言われる様です。
ですから、断髪は、関西にあっては、まだ一つの奇異をそそる。「えげつない!」という言葉を、彼等はまだ断髪の頭を振返り乍らくり返しますが、東京にあっては、それは、もう「流行」というより、風俗の一部と化しましたことは、ビルディング街の年を老った受付係だって知っています。
エレベエタ・ガアル、ガソリン・ガアル、ショップ・メイド、タイピスト…多忙な職業婦人の彼女たちは、何の意味なしに切落したバブの簡便な有難さを今日になって漸く身に感じる状態です。
それは本当に一個の櫛と、スマドレ・ヘヤトニックで、十分なお化粧が出来上がるのですから。何よりもそれは、ビルディングの中の多忙な仕事にピッタリしたものです。
ヘアピンと、宝石と、ベッコウの櫛と、かみゆいさんのために、バブを軽侮しているのは、有閑夫人と、そしてジンゲルです。
白粉
白粉の選び方も驚くほどみんなクレヴアになりました。
健康な肌色白粉は、都市の女学生諸姉の率先して用いるところとなり、水白粉を一寸なめてみて、品質の高下を判断することなどは、どんなに大人しいお嬢さまも、御承知です。
舌の感覚で、お白粉を見分けるには、本当は中々デリケイトな心構えが必要なのですが、まず概して強度に刺激を受けるものは、「よからぬ品」とされています。
が、その刺激の中にも、アルコオル分もあれば、タンサンマグネシヤもあり。アルコオル分の多量な品は、たとえ舌を強度に刺激したとしても、脂肪太りな皮膚の人には、一番適合した品であることも知らなくてはなりません。
眉の引き方
眉の引き方は、欧米では益々細く、針のようになるとのことです。
アメリカなどでは、孤線ももう流行を外れてしまって、斜めの一直線が、喜ばれているということですが、こういう流行こそ、何にも増して、「お顔と相談」です。
徒らに幾何学的線分の変化を追っていたところで、イットのあるお化粧は出来ません。
スカアトの長さ
スカアトの長さは、この数カ年の大問題でありましたが、1929年のラインは、膝の下三インチと或る外国雑誌は報告しています。
日本婦人の体格に持って来たら三吋(インチ)半ほどでありましょうか。そこへ、スカアトよりも一インチ程高いコオトを召して歩かれる颯爽さは何とも言えないでありましょう。
なお、婦人のコオトは、略式の場合にも、着物と同じ地や色調などが許されますが、正式のものは黒のラシャ、或は天鳶絨の毛織に限るものであることを御承知下さい。
イヴニング・ドレス
婦人服も、イヴニング・ドレスを作るほどになれば、流行にも余程明るくなければなりません。
イヴニングの生地としては、かたい織地のものが第一です。繻子、琥珀織、波紋織、節織などを、よろしく検討されること。
色調は、象牙色、晴青色、黒などを主なるものとされることです。
紳士のいでたち
いつの間にか、初めに言った総決算から外れてしまいましたが、紳士の方の流行も、今年に至って益々落着いたものとなりました。
ズボンの太さが八インチから九インチ位に狭められたこと。ラッパズボン等というものは、場末の常設館のレヴウにも姿を見せなくなったようであります。―もともと、これは「カウボオイのパンツからでも流行り出したのだろう」と岡本一平氏の言われる如く「流行」とは凡そ縁遠いものでありましたが。
ウエスト・コオトでぴったりと腹をしめて、上衣は普通に頬部をえぐり、長さは前号にも記した如く、春よりも一インチ程長く、その代り折り返しのラインを大きく取るというようなことになりました。
英国紳士の落ちつきと、パリジャンの生粋なところが、一緒に取入れられて来たのでありましょう。
タバコのハナシ
そういう服装の紳士が、何気なくバットやエアシップを喫っているのも、洒落た風景ではありますが、本格的に行けば、スリイ・キャッスルか、ウエストミンスタアが何と言っても適わしいところですが、林房雄氏の「都会双曲線」の人物のように、
「ウエストミンスタの金口にかけて」
などと、淑女へのギャントリを誇示したりしては、まだまだ本当のジャン・デエとは言えません。
第一、金口などはもう老人の趣味です。それ位なら、
「M・C・Cのコルク巻きにかけて」
とでもいう方が、まだ面白い。もう一つ、輪をかけて、コルクまきのペエパアだけを(銀座のタバコ屋)で売って居ります)買って来て、太まきのチェリイに、一寸まきつけて、M・C・Cのつもりで煙をふかしているのなどは、もっともスマアトな試みと言わなければなりません。
クラバッツとボウ
十二月から一月にかけて、いろいろ儀式が続出します。
結婚式その他のお目出度い宴会には、燕尾服の白のボウが正式なこと言う迄もありませんが、フロックを以て代用とする時は、黒のボウか、明るい色彩のクラバッツを用いることを忘れてはなりません。
お目出度い席だからと言って、フロックに白のボウなどは、紳士のエチケットをこの上もなく傷つけるものであることは御注意あれです。ネクタイ・ピンは、お葬式の時にはつけるものではありません。お目出度い時には是非つけなければなりません。
又、フロックやタキシイドを来て、無暗に、スパッツを穿きたがる人のあるのも、よくないことです。スパッツというものはもとはフランスから流行ったものですが、アメリカで、自動車の運転手が盛んに穿用したことによって一般化せられた代物であります。イタリイでは、リュマチスの患者が、足方の保監のために用いているのもあります。―こう言ったら、日本の紳士諸彦のスパッツ熱も少しは冷めるかも知れません。
クリスマス・プレゼント
又、御婦人の話に戻りますが、香水、口紅、パウダア、眉墨など化粧品一式をくみ合せて、一箱にしたコティ会社の製品が例年の如く輸入されました。
あなたのクリスマス・プレゼントとして、これは青年諸氏におすすめ致しましょう。
「文藝春秋」昭和四年十二月
女学校青春期
府立第一
下町にあるのは、生粋の東京を意味するためであるかも知れない。
流石いかめしい。が、校長の市川源三氏は有名な進歩的教育家であるだけ、何となく、そんな匂いがしている。
気のせいか、生徒の顔が、どれもこれもみんな利口そうだ。といって、モダンずれもしていないし、そうだ、みんな高等師範の学生の卵という感じだ。数学とか化学とかが、何より好きだというような風をしている。肉体的の健康を感じられる前に、精神的な健康を感じられる。―たとえば、ここからも芸術家が出ている。つまりそれが凡そオルソドックなアルト歌い柳兼子女史だというようなわけである。
府立第六
昔、といってもそう古い時代を経た学校でもないが、出来たて頃は、何しろ私立学校のうじゃうじゃとうるさい三田界隈のことだ。ここの事を呼んで、「シャン・ナイ・スクール」といったそうだ。その頃の事は知らないが、今はとにかく決してそうではない。校門を入ると、ムッソリーニかヒットラでも演説しそうな地形になっている。そこで、私はひょいと、両手を上げて、たった一つ知っているドイツ語でやって見た。「メッチェン!イッヒ・ハーベ・カイネ・ゲルト!」
幸い授業中で誰も校庭にいなかった。その演説をだらだらと下ると校庭になっている。つまり道より一段低くなっているのである。
「ここの学校のモットウは何です?」
と、僕は一人の女学生を摑まえて尋ねて見たら、彼は速座に答えたのである。
「三田の通りを、歩いては不可(いけ)ないってことよ」
成程、すぐお隣は、慶応大学、三田の通りは陸の王者の遊歩道(プロムナード)だ、余程、この命令が、厳しく云い渡されていると見える。
双葉女学校
四谷見附の左手、古色蒼然として何となく中世紀風の香りの豊かな建物。―そうだ。あの煉瓦の色は、南欧のトラピスト、―と思ったとたん、ゆりかごの歌でお馴染のドロテア・ウイクのあのスタイルの西洋尼さんが三人。失礼だが、是は、ドロテア程、色が白く、美しくはなく、従って甘いロマンチシズムはなかったが、とにかく出て来た。フランス語で何か語り合い乍ら、僕の傍をすれ違った。
ここの生徒には仲々お金持のお嬢さんがいらっしゃるし、ひょいと耳にはさんだ会話だって、
「あら、御免遊ばして、」
と来た。
仏蘭西語を教わるんだそうで、みんなひどくしとやかで、校門を入っても、所謂(いわゆる)、近代娘風なキャッキャッ声がきこえなかった。
うっかと、声高に喋ると、
「おつつしみなさい」とやられるのかも知れない。
情操教育を重んじるんだそうであるが、その情操はどうも、ロオマン・カソリック風な情操ででもあろうか、卑俗な僕等には何か、こう、オッカなくなっちゃって、とうとう逃げだした。
自由学園
田無駅から五六分。明朗な建物だ。陽が当って美しい。
羽仁もと子といえば、「婦人の友」の主筆であり、「羽仁もと子全集」があの全集時代に、他のものと競って負けなかったといいう、大人物。クリスチャンで、世界平和の謳歌者で、上流家庭好みで、ブルジョワ・イデオロギーで…が、とにかく、日本で相当に、上品御婦人の人気を収纘している、羽仁宗の教祖様だ。これはその一つの機関であり、まア、羽仁宗の本山だろう。
だから、ここの学生は、みんなお金持でなければやって行けない。寄付金だけでも百円や二百円は一年に一辺位は入用だそうだ。授業料は大学よりも高い。学生は弁当を持って行かない。お母様が当番で学校に来て、みずからお料理を作り遊ばす。おやつも出るんだそうだ。
服装はみんな自由、―だから、自由学園とはまさかだが、―従って、仲々イキなセーターに踵の高い靴をはいているのがいる。おつき添いが鞄を持っている。お白粉が、眼だたない位ではあるが、つまり、罪にならない程度にうかがわれる。
体操はデンマーク体操の直輸入。作文の事はレトリック。万事この調子であるらしい。
聖心女学院
芝の白金台、古木に包まれた、この学校も、壮大なもので、上品で、そうだ是は英国風とでもいうのだろう。ここも、よき芸術家や、成功せる実業家をパパに持つ幸運な星の下に生れた、断髪が集る所である。
プリモスを止めて、運転手が、何か金モールのついた救世軍みたいにきちんとした帽をとって、ドアを開けると、豊かな香りを―それは香水をつけているのではなくて、生活の程度が高いと、つい身についた香りが出るものだ。―させて、しとやかに降りて来られる。
森の木の根には、お嬢様達が三々五々、じっと、雑誌などをひもどいていられる。木の葉越しに、まだらに陽が落ちている。
『モダン日本』昭和10年5月