毎度毎度の歌舞伎ネタ…。
いっそ歌舞伎ブログにしようかしら…。
それは冗談としても、今日もいきます。
以前もちょっと書いたことがあるが、僕はいわゆる「大向こうからの掛け声」が嫌い。
厳密には、「いま現在かかっているような掛け声」が嫌いだ。
大向こうというのは、ウィキペディアによると、
芝居小屋の三階正面席、またそこに坐る客を指す隠語・通言(現在の歌舞伎座では、構造上三階B席から幕見席あたりを指すものとして理解されている)。
舞台上から見た客席の位置に由来する。主として歌舞伎で用いられ、安価な席にたびたび通ってくる見巧者の客を指す。「大向うを唸らせる」といえば、そういった芝居通をも感心させるほどの名演であることを意味する。
転じて、大向うに坐った客が掛ける掛声、またそれを掛ける客のこと。
と定義されるそう。
大向こうからの掛け声そのものは、うまくかければ芝居を盛りあげるし、情緒のあるものだろうとは思う。
外国の演劇にはないそうで、外国人が初めて歌舞伎を観ると、とても驚くそうだ。
「頭のおかしいやつが劇を妨害しているじゃないか。なぜ追い出さないのだろう?」などと感じるそうである。
日本人のお客でも、初心者と思われる人は、掛け声がかかると、そのたびにきょろきょろしている。
うまいところで「成田屋!」とか「音羽屋!」と、俳優の屋号をかけたり、
「待ってました!」「日本一!」などとかかると、役者もお客もノッてくるものだ。
でも、実際に芝居を観にいって、かかってる掛け声を聞くと、正直耳障りなことが多い。
例えば、昨年の二月の、『仮名手本忠臣蔵』の四段目「表門城明渡しの場」の最後の場面。
松本幸四郎の大星由良之助が、仇討の決意を胸に、花道をひっこむ。
幸四郎の、感情のこもったひとり芝居。
そこへ大向こうからの掛け声が…。
これがしつこい。
同じ人が何度も何度もかける。
そして、その人の声質もしつこい。
すごく甲高い声の人なのだ。脳天に抜けるような、キンキンした声…。
「こぉーーーらいやぁーー!!」
(高麗屋)
それが何回も続く。
しつこいったらありゃしない。
この人、以前も幸四郎の出し物を観た時に掛け声をかけてた。
同じ人だ。
耳障りな大向こうがくっついていると、悪くすれば、その役者を観にいく気までそがれてしまう。
勘三郎にかけるのも、同じ声をよく聞く。
「ナカムラヤ」
カタカナ表記が合うような、とても正確な発音、発声。一字一句きちんと確認するかのようにかける。
それではあまり風情がない。
それに、その人も声が魅力的でない。とくにクセはないのだが、好きになれないタイプの声だ。
逆に、がなるような声の人、役者にケンカを売ってるかのようなガラの悪い感じの人も困る。
たとえばの話だけど、「コラ、高島屋ぁ!!」って言っているように聞こえる。
それに対してたとえば左團次なんかだと、怒ったりするんじゃないかと、気が気でない。
六月の昼の部『新薄雪物語』では、その日前半ほとんど声がかからなかった。
大向こう嫌い、といっても、これはこれでさびしい。舞台が盛りあがらない。
でも、あんまりいいと思う大向こうを耳にすることがない。
ジレンマだ。
声の悪さのほかに、
「このひとたちはほんとうに芝居を楽しんでいるんだろうか?」
という、そっけなさ、事務的な感じをうけるのだ。
役者が出てきたからかける、かける場面だからかける、そんな感じだ。
形骸化しているのではないか。
ほんとうに芝居の内容や、役者の演技に感嘆してかけているのか、芝居の中身を味わっているのか、疑念を抱かざるをえない。
役者が花道から登場するさい、揚幕(あげまく)という幕を引き開ける。そのときチャリン!と、金属音が響く。大向こうのあいだでは常識らしいが、彼らはたいてい三階席にいるので絶対に役者の出は見えないのに、その音とともにかけるのだ。
つまり、事前に筋と配役を頭に入れておいて、声をかけるのである。
そんなの、僕の感覚からしたらおかしい。
「計画的でいやだなあ」
「開演直前になにかの事情で代役になってたらどうするんだろう?」
などと思ってしまう。
本末転倒な感じがする。
だから僕はそんな場面に出くわすたび、「見えてないくせに」と苦笑している。
勘三郎や片岡仁左衛門など、本来お客をことのほか大事にする歌舞伎俳優たちが、テレビ、雑誌といった公の場面で、大向こうの掛け声に苦言を呈するのも、何度か目にした。
ところで、初めて知った時は驚いたのだが、大向こうのひとたちは、なんとなんと、入場料がいらないそうなのだ。
(え~~~っ!?)
これを「木戸御免(きどごめん)」というらしい。
そして、大向こうの会というものが組織されていて、東京には3団体(合計約30人)あるということである。
僕は徒党を組むタイプではないので、「なんで声をかけるのに会を作らなきゃいけないんだ」と考えてしまうが、世間には徒党を組む人が多い。
まあ、大向こうの掛け声というのは、実際にはとても難しいものだから、研鑽会ということなのだと思う。
(まさかまさか、会に入ったら木戸御免になるから、という理由じゃないよね…)
あれをいざやろうと思っても初心者はとうてい声が出ないだろう。
何年か前、NHKで松崎しげるが挑戦していたけれど、あの松崎しげるでさえ(声を出すことが本職の歌手で、しかもふだんから声がでかいのに)、なかなか苦労していた。
しかし木戸御免の話だが、どうりでうろうろ不審な人をよく見かけると思っていた。
座らずに入口あたりに立って声をかけてる人がいるので、「ははぁ、これが」というわけだ。
うろうろされたり、立っていられたりすると、直接視界を遮るのではないにしても、気が散って落ち着かない。だからやめてほしいのだ。
そもそも、ろくな掛け声もかけられないのに、タダで芝居を観られるなんて、なけなしのお金を工面して高いチケット代を払ってる身からしたら不愉快な話だ。
松竹が払ってるんだろうか?
僕は経済的な余裕はないから、歌舞伎座に観にいくときは、安い三階席がほとんどである。
そうすると、その階には大向こうが棲息しているのだ。いつどこから掛け声がかかるのかと、気が気ではない。
その日の席に座ると、最初にあたりを見回し、
「この人か、あの人か…」
と、顔をうかがう。
いきなり大声を出されたら心臓に悪い。
それに、芝居にも集中できない。
あのひとたちは、きっと声をかけることが趣味なんだろうと思う。
芝居を鑑賞するというより、
「よし!うまくかけられた」
というような楽しみなんじゃないか。独立した競技のようなつもりでいるんじゃないだろうか。
まさか、ストレス解消だったりしたらさらにひどいが…。
(もっとも、よりによって俳優の市川團十郎がテレビで、『声をかけると(かかると…ではなく、ご本人が客席から舞台に向かって”かける”そうです)スカッとする』などと言ってたが…)
昔は、
「大根!」
などといった、批判的な掛け声もかかっていたという。
僕から見たら現在の観客は、かなり寛大なんじゃないかと感じる。
たとえば海老蔵なんて、たしかに時分の花なのかはしれないが、まだまだぜんぜん芸としては未熟…、というより下手なんじゃないかと個人的には思うのだが、
「へたくそ!」
なんて声は絶対にかからない。
親父の團十郎は若い頃、お客に笑われて一念発起したという。
市川宗家の御曹司だから温かくながい目で見守るというんじゃなくて、海老蔵をどんどん笑ってやればいいと思うのに。
妙な親心で見てると、甘やかしのホメ殺しになってしまうぞ。
大向こうも、批判的な掛け声をするくらいの、熟練と、歌舞伎への愛情、そして気概を持ってやってほしいね。
そうしたら、ほかの客からの尊敬も得られようし、
「それなら木戸御免も不思議じゃない」
と思えるだろう。
いっそ歌舞伎ブログにしようかしら…。
それは冗談としても、今日もいきます。
以前もちょっと書いたことがあるが、僕はいわゆる「大向こうからの掛け声」が嫌い。
厳密には、「いま現在かかっているような掛け声」が嫌いだ。
大向こうというのは、ウィキペディアによると、
芝居小屋の三階正面席、またそこに坐る客を指す隠語・通言(現在の歌舞伎座では、構造上三階B席から幕見席あたりを指すものとして理解されている)。
舞台上から見た客席の位置に由来する。主として歌舞伎で用いられ、安価な席にたびたび通ってくる見巧者の客を指す。「大向うを唸らせる」といえば、そういった芝居通をも感心させるほどの名演であることを意味する。
転じて、大向うに坐った客が掛ける掛声、またそれを掛ける客のこと。
と定義されるそう。
大向こうからの掛け声そのものは、うまくかければ芝居を盛りあげるし、情緒のあるものだろうとは思う。
外国の演劇にはないそうで、外国人が初めて歌舞伎を観ると、とても驚くそうだ。
「頭のおかしいやつが劇を妨害しているじゃないか。なぜ追い出さないのだろう?」などと感じるそうである。
日本人のお客でも、初心者と思われる人は、掛け声がかかると、そのたびにきょろきょろしている。
うまいところで「成田屋!」とか「音羽屋!」と、俳優の屋号をかけたり、
「待ってました!」「日本一!」などとかかると、役者もお客もノッてくるものだ。
でも、実際に芝居を観にいって、かかってる掛け声を聞くと、正直耳障りなことが多い。
例えば、昨年の二月の、『仮名手本忠臣蔵』の四段目「表門城明渡しの場」の最後の場面。
松本幸四郎の大星由良之助が、仇討の決意を胸に、花道をひっこむ。
幸四郎の、感情のこもったひとり芝居。
そこへ大向こうからの掛け声が…。
これがしつこい。
同じ人が何度も何度もかける。
そして、その人の声質もしつこい。
すごく甲高い声の人なのだ。脳天に抜けるような、キンキンした声…。
「こぉーーーらいやぁーー!!」
(高麗屋)
それが何回も続く。
しつこいったらありゃしない。
この人、以前も幸四郎の出し物を観た時に掛け声をかけてた。
同じ人だ。
耳障りな大向こうがくっついていると、悪くすれば、その役者を観にいく気までそがれてしまう。
勘三郎にかけるのも、同じ声をよく聞く。
「ナカムラヤ」
カタカナ表記が合うような、とても正確な発音、発声。一字一句きちんと確認するかのようにかける。
それではあまり風情がない。
それに、その人も声が魅力的でない。とくにクセはないのだが、好きになれないタイプの声だ。
逆に、がなるような声の人、役者にケンカを売ってるかのようなガラの悪い感じの人も困る。
たとえばの話だけど、「コラ、高島屋ぁ!!」って言っているように聞こえる。
それに対してたとえば左團次なんかだと、怒ったりするんじゃないかと、気が気でない。
六月の昼の部『新薄雪物語』では、その日前半ほとんど声がかからなかった。
大向こう嫌い、といっても、これはこれでさびしい。舞台が盛りあがらない。
でも、あんまりいいと思う大向こうを耳にすることがない。
ジレンマだ。
声の悪さのほかに、
「このひとたちはほんとうに芝居を楽しんでいるんだろうか?」
という、そっけなさ、事務的な感じをうけるのだ。
役者が出てきたからかける、かける場面だからかける、そんな感じだ。
形骸化しているのではないか。
ほんとうに芝居の内容や、役者の演技に感嘆してかけているのか、芝居の中身を味わっているのか、疑念を抱かざるをえない。
役者が花道から登場するさい、揚幕(あげまく)という幕を引き開ける。そのときチャリン!と、金属音が響く。大向こうのあいだでは常識らしいが、彼らはたいてい三階席にいるので絶対に役者の出は見えないのに、その音とともにかけるのだ。
つまり、事前に筋と配役を頭に入れておいて、声をかけるのである。
そんなの、僕の感覚からしたらおかしい。
「計画的でいやだなあ」
「開演直前になにかの事情で代役になってたらどうするんだろう?」
などと思ってしまう。
本末転倒な感じがする。
だから僕はそんな場面に出くわすたび、「見えてないくせに」と苦笑している。
勘三郎や片岡仁左衛門など、本来お客をことのほか大事にする歌舞伎俳優たちが、テレビ、雑誌といった公の場面で、大向こうの掛け声に苦言を呈するのも、何度か目にした。
ところで、初めて知った時は驚いたのだが、大向こうのひとたちは、なんとなんと、入場料がいらないそうなのだ。
(え~~~っ!?)
これを「木戸御免(きどごめん)」というらしい。
そして、大向こうの会というものが組織されていて、東京には3団体(合計約30人)あるということである。
僕は徒党を組むタイプではないので、「なんで声をかけるのに会を作らなきゃいけないんだ」と考えてしまうが、世間には徒党を組む人が多い。
まあ、大向こうの掛け声というのは、実際にはとても難しいものだから、研鑽会ということなのだと思う。
(まさかまさか、会に入ったら木戸御免になるから、という理由じゃないよね…)
あれをいざやろうと思っても初心者はとうてい声が出ないだろう。
何年か前、NHKで松崎しげるが挑戦していたけれど、あの松崎しげるでさえ(声を出すことが本職の歌手で、しかもふだんから声がでかいのに)、なかなか苦労していた。
しかし木戸御免の話だが、どうりでうろうろ不審な人をよく見かけると思っていた。
座らずに入口あたりに立って声をかけてる人がいるので、「ははぁ、これが」というわけだ。
うろうろされたり、立っていられたりすると、直接視界を遮るのではないにしても、気が散って落ち着かない。だからやめてほしいのだ。
そもそも、ろくな掛け声もかけられないのに、タダで芝居を観られるなんて、なけなしのお金を工面して高いチケット代を払ってる身からしたら不愉快な話だ。
松竹が払ってるんだろうか?
僕は経済的な余裕はないから、歌舞伎座に観にいくときは、安い三階席がほとんどである。
そうすると、その階には大向こうが棲息しているのだ。いつどこから掛け声がかかるのかと、気が気ではない。
その日の席に座ると、最初にあたりを見回し、
「この人か、あの人か…」
と、顔をうかがう。
いきなり大声を出されたら心臓に悪い。
それに、芝居にも集中できない。
あのひとたちは、きっと声をかけることが趣味なんだろうと思う。
芝居を鑑賞するというより、
「よし!うまくかけられた」
というような楽しみなんじゃないか。独立した競技のようなつもりでいるんじゃないだろうか。
まさか、ストレス解消だったりしたらさらにひどいが…。
(もっとも、よりによって俳優の市川團十郎がテレビで、『声をかけると(かかると…ではなく、ご本人が客席から舞台に向かって”かける”そうです)スカッとする』などと言ってたが…)
昔は、
「大根!」
などといった、批判的な掛け声もかかっていたという。
僕から見たら現在の観客は、かなり寛大なんじゃないかと感じる。
たとえば海老蔵なんて、たしかに時分の花なのかはしれないが、まだまだぜんぜん芸としては未熟…、というより下手なんじゃないかと個人的には思うのだが、
「へたくそ!」
なんて声は絶対にかからない。
親父の團十郎は若い頃、お客に笑われて一念発起したという。
市川宗家の御曹司だから温かくながい目で見守るというんじゃなくて、海老蔵をどんどん笑ってやればいいと思うのに。
妙な親心で見てると、甘やかしのホメ殺しになってしまうぞ。
大向こうも、批判的な掛け声をするくらいの、熟練と、歌舞伎への愛情、そして気概を持ってやってほしいね。
そうしたら、ほかの客からの尊敬も得られようし、
「それなら木戸御免も不思議じゃない」
と思えるだろう。