歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

神剣の守護者コラム第3回―南風競わず―

2014-01-11 21:03:30 | 神剣の守護者
数日あいてすいません。神剣の守護者コラムの第3回です。



6、南北朝合一、そして後南朝へ

さてと、正成、正行、そして正儀が死んだあとの楠木がどうなったのかと言うと、
これがなかなかに難しい。
彼らの立場的にも、楠木家、南朝の命運も、
そしてこのブログで説明するにもw
もし、大河ドラマでまともにやったならば、2年はかかるほどに。


正儀の死後、楠木氏の家督は嫡男の楠木正勝が継承。
ところがこのあたりまで来ますと、記録が乏しく。
元々が、「30系図があれば~」の楠木で。


正勝は父正儀と違って終始一貫、南朝方として活動したことは確かなようですが、
この正勝が頭領だった時期に、南北朝が合一(1392)
前後の時期に河内各地や、千早城も敵方に奪われています。
ただ、後亀山天皇が京へと戻る供の中に「楠木」の名はあるので、これは正勝か?
それともこの時期は一門は割れていたのか・・・?


ただ、南北朝合一(明徳の和約)の最大条件であった両統迭立・・・
北朝系と南朝系が、交互に皇位を継承する条件は、
もうばっさり、ざっくりと足利幕府に反故にされたのはいうまでもないこと。


そのため、元南朝の皇族、公家は「話が違う!」と京都を飛び出して、
吉野などへ戻る動きを何度も見せます。
そして、楠木もまた新しい戦いの場へ。
この後期南朝の戦いを「後南朝」といいます。



7、その楠木はどこの楠木(という言い訳)

・・・して、その「後南朝」の中で楠木はどうなったのか?
このあたり、おそらく書籍でも、ネットでも「同一」というものはないと思います。


系図もなおさらです。
なので、基本的に『神剣の守護者』で採用したものを前提として、
話を進めます(あ、、、あくまで前提ねw)


楠木正勝の後を継いだのは子の楠木正顕ですが、いよいよ畿内に楠木氏の勢力圏はなく。
応永6年(1399)にはついに堺に追い詰められます。
やはり・・・商人的豪族楠木氏と、堺とは深からぬ縁があるのか・・・と。


ここを脱出した正顕は伊勢国に逃れます。
伊勢は建武の新政のころより、南部を中心として北畠氏の勢力下でした。
当時の伊勢国司は『神皇正統記』の著者として名高い、北畠親房の孫の北畠満雅。
国司としては3代目ですが、この人は公家にしてかなり豪傑だったようで、
最期は京都方の軍勢と戦って打ち破るも、自身は戦死します・・・そんな御仁。


北畠氏の庇護によって正顕は伊勢に迎えられ、楠山城の城代に・・・・・・
・・・・・・いや待て、それじゃ『神剣の守護者』と違うだろうがぁ!
と突っ込みの方、申し訳ありません。その通りです。


このあたり、楠木の系図がいろいろあり、、、
『神剣の守護者』では正儀―正顕―正威―正富・・・としました・・・が。
(基本的にご当地、四日市楠の系図を最重視しています)
正顕が載っていない系図もあり、それでは堺撤退時の当主は?
禁闕の変に加わっていた「楠木」を名乗る人物は??
と頭を散々ひねった末、
『神剣の守護者』では楠木の畿内撤退時期を、
堺放棄から禁闕の変へとしました。
序章に登場している父は、楠木正威となっております。



書いていて思いましたが、系図がないとまったくわかりにくいですよね?
どうしよう、『楠町史』とかの系図をスキャンして載せたらマズイかな・・・
私の手書き・・・は論外としてw


さて、次回はやっと禁闕の変にいけるかな(汗

伊勢市市立図書館!!

2014-01-11 12:20:38 | 神剣の守護者
告知でございます。


作品の舞台でもある三重県伊勢市の、
伊勢市市立図書館へ『神剣の守護者』が
配架されるとのことです。
(正確に何日なのかは?ですがww)
伊勢市市立図書館様、ありがとうございます!!


特に伊勢市民のみなさま、
よろしくお願い致します!!




内宮



智本光隆