ありがとうのブログ

毎日、家族や仕事関係の人たちとのふれあいで感謝していることをつづります。

自分の過去を振り返る21

2008年10月15日 22時34分21秒 | Weblog
27年前、家業を廃業にして、自分たちの家を無くし、新しい住まいを求めた両親だが、実際は、父親の親戚たちの対応に神経が切れた母親が、家出をして、数日父は家で仕事をしていたようだ。しかし、母を頼ってきた父だから、生活ができなかったのだろう、母を捜して仕事どころではなく、母の行きつく先を見つけて、父は転がり込んだ。家の全てが母を中心に回っていたので、家を捨てて父は母を選んだのだった。

ここで、家業をしながら、とにかく自炊しながらでも、家業を立て直すということは、父には無理だった。いや、母と二人三脚でなんとか成立していた、家業が出来なくなったのだろう。
私の前夫も、私と別れてからは、コンビニ弁当で何とか生きてきたのだろうと思う。もしかしたら、好みの女性と一緒に暮らしていてくれれば良かったなあと思うが、それは問うこともない。

家を飛び出した母の気持ちも判らなくはない。
父の気弱さに絶望したのだろう。
家を出て一人で暮らしたほうが良いという決断は、借金取りの督促と仕事の疲れと睡眠不足と周りの人たちとうまくやっていけない人間関係からきているのだろうと推測する。母は明るくてパワフルだったが、その分、閉塞的な田舎の人から何かを言われると直球で返していたので、敵もいただろう。
しかし、その母は、憎まれ口をたたいても、その人たちには、出来るだけの優しさをほどこしていたのは、知っている。自分が丹精込めて育てていた家庭菜園の野菜を抜いていく人たちを知りながら、目をつぶっていたからだ。
お金を貸して返さない人にも催促することもなく、必死に働いていた姿を尊敬する。
家出をしてから、全財産を亡くして、50歳にして両親はそれぞれ新しい仕事について、一生懸命に働いて、借金を返していた。
そして、失くした財産のほとんどは、両親が努力して手に入れたものだが、私の郷里の思い出と共に、何もかも記憶のなかに仕舞っているが、時々望郷の念にかられる。

息子が小さいときに帰省した際、JRの電車からや、車で人手に渡った私が育った古い家を見せたが、もう記憶にはないだろう。しかし私の心の中にあるので、それは良い。

両親の財産の土地や家屋を取り戻してほしい気持ちをうらみつらみの形で、時々母は父に訴えて、父を困らせていた。
帰省してその話が出ると、私はそっとその場を去るしかない。なだめても、もう戻らないと伝えても、母はあの財産は自分たちの汗の結晶だから、あきらめられないと言っていた。父もストレスを貯めていただろう、そして、胃がんになって手術して、助かった。

父が退院してからは、母は財産を取り戻す話はしないようになったが、元々糖尿病の傾向があったのだが、甘い菓子を大量に食べて、糖尿が重くなった。同時に、体調不良を訴えて、病院に入院した。
当時の住まいの近くのかかりつけの医院だったが、病院の食事が嫌だ、ベッドでは寝られない、と子供のようにだだをこねて、無理やり退院した。このときから、アルツハイマーの症状が出てきたのかもしれない。3年位前だったか。

6年前に自分たち母子だけで生活をし、離婚について伝えたときには、事後承諾で、母は哀しんだ。その後、前夫の実家にふいに電話をして、慰謝料の請求や、妙な話をしてくると前夫の母親が連絡してきたときには、母は私に言えない不満を伝えていたのだろうと軽く受けていたのだが、これもアルツハイマー症状からくるのかもしれない。いや、私の離婚や、父の胃がん手術など、いろいろな出来事も重なって、まだらボケのまだらが少なくなってきたのかもしれない。
年に一度の帰省では、母がぼけてきた事は、重く受け止めていなかった。深刻な症状だとは気付かなかった。たまに電話をしても、身体の心配をしあう、普通の会話をしていた。

2年前の秋に、父からの電話で、自分の車で交通事故を起こして、人をはねてしまったと連絡を受けた。相手の方の命は大丈夫だが、重症だという。
車がひっくり返って父は自力で車から出て、助手席にいる母を引っ張り出したという。母はこの事故で認知症の症状が重くなった。父75歳、母73歳。

ふるさとに住む、母方の親戚の叔父さんに連絡をして、アドバイスを受けて、事故処理については何とかなった。しかし、父は車の保険に加入していなくて、急遽いろいろな処理をしていただいた。これも老いだろう。しなくてはいけないことをスルーしてしまって、父は、実は、会話がおぼつかなくなった母との生活からのストレスを、競艇のばくちで晴らしていた。
私が帰省する10年以上前から、競艇の新聞記事を切り抜いて、時々通っていたのを知っていたが、借金をしてまではまっているとは、人間の業だと受け止めた。

真面目に50年働いて、財産も無く、年金生活で刺激を求めたのだろう。
母を助手席に乗せていくこともあったが、一人でもしょっちゅう行っていたと後で語ってくれた。交通事故の時も、競艇の場所へ行く途中だったという。

首を痛めた母は入院を嫌がり、自宅に戻ったが、事故の恐怖でトイレに一人で行けなくなり、夜中に父を起こしてトイレに何度も行くので、父はそれに疲れていた。母の認知症の症状も進んで、自分ひとりで母の面倒をみることが困難だと言う。

仕事を切り上げて帰省できたのは、事故から2ヶ月近くたった、年末だ。
車で息子と少しフェリーに乗って、陸送で帰省した。
車中で仮眠しながら、お金をかけずなるだけ早く両親の元に行くというそのときの冒険旅行を、当時9歳の息子は、一番楽しい旅行だったという。
私は眠気と疲労と今後の両親のことを思うと、気が気でなかったが、それでも息子のはしゃぐ様子に癒されていた。

夜8時過ぎに両親が住む古い貸家に着くと、連絡してあったにも関わらず、両親はこたつで眠っていた。食事もないので、冷蔵庫の中を見てとにかく何かを急いで食べた。母は平常に見えたが、とにかく私たち母子は心身を休めることにした。貸家に入って、一見片付いているように見えて、ほこりだらけで、缶や空き瓶が台所の隅に並べられていて、明日は大掃除だなと判断する。息子と眠る部屋も以前私が帰省してから掃除も布団も動いた形跡がなく、主婦がいなくなるとここまで家事が稼動しないと知った。ほこりとダニをアレルギー原因とする息子と私は、最低限掃除をして、布団を敷いて眠った。

翌朝は大晦日で、簡単に大掃除をし、終いかけのスーパーに駆け込んで、最低限の正月料理の材料を買って、用意する。食事をしながら父と話をする。父ももう私たち母子と一緒に暮らすことを承諾する。私も春になって雪解けしたら、両親も住める住まいを探して迎えにくると約束する。
家事と料理の作り置きを体力と時間が許す限りした数日後、また息子と暮らす住まいに向けて、フェリーと合わせて1日半で800kM走らせる旅に出発した。

正月から5ヶ月かけて、引越しに向けての大プロジェクトだ。
経済的にも、また、息子の小学校を変えないで希望の住まいが見つかるか、不安だったが、捜すしかなった。
春までとにかく今いただいている仕事をやり切らないと、住まいを探したり引越し準備の時間と体力がつかないと少々あせった。
ただ、何とかなるという楽観的な希望はあった。

4月から探して何件か物件を当たっても、息子が古くて嫌だとか、okが出なかったが、ちょうど息子の少年野球の先輩の家が、分譲マンションを購入して、今まで住んでいた賃貸物件が空いたという情報を得て、見に行った。
広さも日当たりの良さも条件もよかったので、すぐに決めた。息子も仲良しの少年野球仲間が近所にいるので、大賛成してくれた。

5月中旬に引越し、1ヶ月後に、100kMを歩く大会に歩き通し、その1週間後に両親を迎えに飛行機で向かった。足の水マメが良くなって、やっと普通に歩けるようになった状況の無謀なスケジュールだった。

さて、あすは、実家に両親を迎えに行ったところから書きます。
感謝




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