ありがとうのブログ

毎日、家族や仕事関係の人たちとのふれあいで感謝していることをつづります。

自分の過去を振り返る18

2008年10月12日 23時49分13秒 | Weblog
息子を産んだ総合病院に精神科があることをインターネットで確認し、向かうことにする。
病院に行くというのに、500mlのビールを飲んでいる前夫を見る。ひげも髪の毛も伸び放題、洋服もずっと同じ服装をしているので、薄汚れている。
この人をこういう風にしてしまった、という思いよりも、どこでボタンを掛け間違えてこの人がこのようになってしまったのか、と思いを馳せてみたが、何も思いつかない。20分くらいでビールを飲み終えたようなので、私の運転で病院に向かう。
念のため、前夫の保険証も持参する。

病院は私の診察券で受付し、担当の精神科で受付する。
その際、精神科の受付で、事情を話す。
その受付では、待合室に座る前夫を一瞥して事情を把握して、担当医師に相談してくると受付嬢は駆けつけていった。
前夫に知られずにこの挑戦を遂行できれば良いなと疲労した脳でぼんやり考えていた。
受付嬢が戻ってきて、私が呼ばれたら診察室に入って事情を医師に話せば、医師が誘導しますとのこと。
30分くらいして、呼ばれて診察室に入って引き戸を閉めると、声が待合室に漏れない。医師にかいつまんで事情を話し、私の異常の証言を求めるために、前夫を呼んで欲しいと言われ、呼んで医師に見せると、酒の匂いで診察室は息苦しくなった。
医師は簡単な質問をして、私が不安な症状を出しているので、他の病院に行ってもらうことを前夫に伝える。
前夫が診察室から出ると、医師は私に、前夫はアルコール依存症なので、精神科で入院設備のある病院を紹介しますので、これからすぐに言って欲しいと緊急で対応してもらった。

前夫に、他の病院に診てもらうのでまた行って欲しいと伝えると、黙ってうなずいた。ここでもう疲れたからといって拒否されなくて良かった。

車で30分くらいの次の専門病院まで、手や全身が震えながら、たどり着いて受付で、同様に事情を伝えると、同様に手配をしてくださった。
幸運にも、院長先生に診ていただけるということで、診察室に向かった。

診察の順番になる前に、前夫の両親に女子トイレで携帯電話で事情を報告した。
前夫の母は、この際、内臓も全て診てもらって治していただこう、と、この処方に賛成してくださった。

女子トイレから戻ると、前夫は、朝ビールの影響もあって、そろそろ眠くなっているようだった。総合病院の精神科と同様、私が最初に診察室に入り、院長に事情を話すと、院長は、すぐに無線連絡をして、屈強な男性看護士を手配していた。
診察室の出口に椅子を置いた。男性看護士数人が後方に待機していた。

前夫を診察室に呼ぶと、院長が前夫に質問をして、お酒の匂いがしている点、顔色が悪いで内臓をレントゲンで検査する必要がある点、を伝えると、前夫は、俺ではない、俺は帰ると入り口から出ようとした。そこで、両腕を抱えられ、レントゲン室に連れて行かれた。院長は、私に、私以外の家族の了承を得たいと言うので、前夫の母にその場で携帯電話をかけて、その母と院長が会話をし、前夫は、アルコール依存症治療のための強制入院となった。

前夫が顔を赤くして暴れているのをみて、心を痛くしたが、これでアルコール依存症が治って、前の仕事熱心な前夫に戻ってくれるのなら、と一縷の望みをかけた。
そして、今夜からしばらくはぐっすり眠れる夜を過ごせると、安心した。

こういう中でも仕事をし続けていたが、ザルのような経済状態なので、前夫の母親が仕事を続け、入院費用を払ってくれるという言葉に、どんなに安心したことか。

院長の言葉では、お酒を断つ治療なので、そんなに心配はいらないこと、どうしてこういう依存状態になったのか原因をさぐり、話し合いを中心とした治療方針だということで、おまかせするしかないと考えるしかなかった。
お互いにゆっくり眠り、心を開けて話し合うまでになれれば、それで良いと思った。

それから1週間は面会謝絶だった。
お酒を断つ期間は、壮絶らしい。
幻覚が表れたり、何が出てくるか、いろいろらしい。
入院した翌日に着替えや洗面用具など、入院にまつわる雑用をして、洗濯物を取りに来ながら、他の入院患者さんやその家族の様子を伺っていた。

前夫は静かに、アルコールを抜く期間を過ごしていたようだったが、強制入院をさせた院長に対して、恨みつらみをもってぶつけていたようだ。

1週間後くらいに面会できたように記憶している。
その際に、仕事用のパソコンを病院に用意をし、データも運ぶ。
メールのやりとりで、何とか途中の仕事をやり終えた。

突然の入院で、私も困っているだろうという前夫の優しさだったが、院長には相変わらず反抗していた。
私は毎日のように病院に来て、前夫となんとか会話を平常にしたいと考え、休日の面会時間には、息子も連れてきて、前夫に治療をきちんと受けて、家族としてきちんと今後のことを話し合えるようになりたいと思っていた。その糸口を探すために、毎日のように洗濯ものを取りに来ていたように記憶している。

しかし、病院や院長への不満、私が退院を希望しないことへの不満、を言うだけだった。退院は、院長の診断だけだった。院長から前夫が反抗的で治療にはなっていないことを示唆された。お酒は管理されて今は飲んでいないが、自分は依存症だと認めていないことがまだ病気が治癒されていないことを伝えられた。
院長がこの病院の患者を単なる金儲けの種として見ているのなら、転院を考えた。しかし、院長は院長なりに誠実に治療に当たっていたのが感じられたので、信じるしかなかった。看護士たちも、厳しい労務環境のなかで、患者たちを大切に対処していたと感じた。

5月下旬に入院して、3ヶ月たった。強制入院の法的期限が迫った。
院長は、致し方ない退院となるが、夫婦二人で、断酒セミナーに通って欲しいと言う。自分はアルコール依存症ではない、と言い張る前夫がセミナーに通うはずもないと元気なくうなだれていた。

退院して自宅に戻った前夫は、相変わらず、自分の部屋にこもったきりだった。
前夫の母が、その3日後に北海道の私たちのところへ来て、今後の私たちの生活についての話し合いに立ち会ってくれることになっていた。
退院して1日目の夜は、なにも無く静かに過ぎていった。
2日目の夜、自分の部屋で、前夫は自分で買ってきたビールを飲み始めた。

もうだめだ、この夫とやっていけない、と決断した。

その翌日、飛行機で北海道にやってきた母と一緒に美味しい食事をした。
これで最後だなあと思いながら、息子を可愛がっている母をみて、心が痛んだ。
翌日、息子を保育園に預けた後、全夫とその母と私で、話し合うと、前夫は、子供は欲しくなかったという。
あれほど赤ちゃんを欲しがって授かったのに、と思いながら、黙って聴く。
子供ができてから、私が仕事100%にならなくて不満に思っていた。やり直すなら、自分の戸籍に入籍して、自分の言うとおりになれという。

前夫の母が、常識をわきまえている方だったのが、幸運だった。
子供が出来たら、母親が面倒見なくてだれが子供を見るのだ、赤ちゃんはすぐに中耳炎を起こしたし、熱もしょっちゅう出て、そのために母親は病院に連れて行ったり、子供中心の生活になるのは当たり前だ、ママに対する思いやりが全くない、と言い放った。
前夫は、俺は一人で仕事をして大変だったんだ、それを誰もわかってくれなかった、と言う。その母は、産後の母親は体力も無くて、子供の世話だけで手一杯で、すぐに仕事に戻れるものではない、こんな男だと思わなかった、というようなことを言っていた。

こんな男とやり直す気があるかというその母親の言葉に、私は伝えた。「自分は自分の姓を継ぐという約束で一緒になりましたし、子供を妊娠したときも、子供が自分の籍に入ることを承諾してもらったから、今まで暮らしてきました。もう一緒に暮らせません」

その母が、「こんな思いやりの無い男と別れちゃいなさい」というと、前夫は驚いていたが、私がこんなことを言っても、仕事ができなくなって寄りを戻すだろうと考えていたような気がした。
そして、私たちは別れることになった。

その後は、静かに最低限の話をするようになった。
新しい私たちの住まいが見つかるまで、当時のマンションに住むこと、持って行く家具や家電製品は、優先的に決めさえてもらうこと、最後にその母を温泉に連れて行くことだった。慰謝料は払えないということだった。
慰謝料について、家裁に入ればよかったが、今後暴れたり、別れることが伸びたりするのが嫌で、とにかくすぐにでも別れたかった。

その母も金銭的には賢い人だったので、今まで金銭的に援助したことを無しにするから、慰謝料もなしにしてくれという。今後も働く気配の無い前夫を抱えて、年老いた前夫の両親が払うことになるようなお金をもらう気にはなれなかった。
これはお人よしなのだろう。
子供のためなら、慰謝料をもらうのが良かったかもしれない。
しかし、慰謝料は払われないだろう、そのための催促の連絡など一切縁を切りたかった。そういう決断をしてしまったのだから、仕方がない。

別れることが決まった翌日、息子とその母と前夫と私で、丸駒温泉に出かけ、その母と一緒に露天風呂に入り、背中を流してあげたのが、自己満足だった。
この小さい背中で、孫の将来をちゃんと見ることができなくて、ごめんなさいという気持ちで、最後の時間を過ごしていた。

翌日、空港まで送る前夫を見送り、すぐに次の住まいを探す手はずをし始めていた。
ここで私が偉かったのは、その前夫が入院していたときから、引っ越す手前まで、あるゲームソフトのシナリオの仕事を一生懸命挑戦して納品していたことだ。
どんなことがあっても仕事はきっちりとお客様が満足するようにやりきったという自信だけが今の私を支えている。
仕事で救われていた。

前夫には、申し訳ないが、コミュニケーション能力に乏しいと優秀な技術力が活かせなかった。それは私が彼に対して何とかその技術力を活かしたいと思って営業しても、クライアントである企業が、彼と面談して、技術のチームに入れたら危ないという雰囲気を感じさせていたので、どうしようもなかった。
なんとか手を打ちたかったが、かなわなかった。

さて、私の引越しの件と当時5歳になっていた息子に、離婚について語る件は、明日書きます。生々しいドキュメンタリーですが、これは事実です。
感謝


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