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英語の美貌録。

さとうひろしの受験英語ブログです。文字通りの備忘録で、よくいえば独自研究、悪し様に言えば妄想の類いです。

クジラ構文と三段論法

2017-02-16 16:45:12 | 比較
常識説に従えば、クジラ構文は三段論法的に解釈される(三段論法とはいっても、疑似的なものであるが)。「明解国語辞典」によれば、三段論法とは、

「論理学で、大前提と小前提から結論を引き出す推論形式」とあり、例として「『すべての人間は死ぬ』と『アリストテレスは人間である』から『アリストテレスは死ぬ』という結論を導くの類をいう」

とある(私は素人なので、一般的な説明しかできないが)。

以下では、大前提を「前提[1]」、小前提を「前提[2]」と変えて説明したいと思う。すると、クジラ構文は次のように解釈できる。

1)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).

前提[1]
ウマがサカナである以上に、クジラがサカナであることはない。

前提[2]
然るに、(常識から言って)ウマはサカナではない。

結論
故に、クジラもサカナではない。


ご覧の通り、クジラ構文は三段論法的解釈が可能である。もっとも、これだけ聞いても「だから?」で終わってしまうが、実はこの手の三段論法は、私の理解する範囲では、英文法には他にもある。いずれも、

イ)文の一部が肯定文ながらも常識的見地から否定され、
ロ)それにつられて他の箇所も否定的に解釈され、
ハ)三段論法的解釈を許容する、

といったものである。その一つは同等比較を用いたもの(仮に「オナラ構文」と呼ぶ)であり、もう一つは修辞的条件文と呼ばれるもの(こちらは「法王構文」と命名する)である。

まずは「オナラ構文」である(呼び方が少々アレだが、これは実際にとある本で使われた例文がもとになっているので、ご容赦されたし)。これは形式上は同等比較構文ながらも、意味的には三段論法となっていて、従節内容は肯定文であれども、常識的に言って否定され、それにつられて主節内容も否定される、という代物である。

2)He is as welcome as a fart in the lift.

普通ならば、これは「彼はエレベーター内のオナラと同じくらいに歓迎だ」となるが、賢明なる読者諸氏のご明察通り、「エレベーター内のオナラは歓迎されるべくもない」ので、結局、彼は歓迎されざる客人となる。興味深いのは、どこにも否定語がないにもかかわらず、文全体が否定的に理解される点であろうか。

では、三段論法的に表現してみよう。

前提[1]
彼はエレベーター内のオナラと同じくらいに歓迎だ。

前提[2]
然るに、(常識的に言って)エレベーター内のオナラは歓迎されるべくもない。

結論
故に、彼は歓迎されない。


三段論法的解釈といい、従節(as節)が肯定文ながらも常識的見地から否定されるのといい、ついでに主節も否定されるのといい、クジラ構文の解釈と瓜二つである(クジラなれども瓜とは、こはいかに)。

そして「法王構文」である。こちらは形の上では条件文であり、主節内容は肯定文ながらも常識的に否定され、そのついでに従節内容も否定される。こちらも否定語はどこにも見えないのに、文全体が否定的に理解される。

3)If he's Irish, I'm the Pope.

文字通りには、「彼がアイルランド人ならば、俺様は法王様だ」となるが、勿論「俺様が法王様であるはずもない」のであり、だから「彼がアイルランド人であることもない」となって、三段論法の完成である。

前提[1]

彼がアイルランド人ならば、俺様は法王様だ。

前提[2]
然るに、俺様が法王様であるはずもない。

結論
故に、彼がアイルランド人であることもない。


こうして見ると、クジラ構文であれオナラ構文であれ、あるいは法王構文であれ、いずれも文の一部が形式的には肯定文でありながらも、常識的見地から否定され、それに応じて文の他の一部も否定され、それが三段論法的に解釈されている。その意味で、これらの構文は深層においては同一の論理構造を共有する、と言えるのかもしれない。

では、論理構造が共有されているのだとしたら、一方を他方にパラフレーズできるのだろうか?仮にパラフレーズできたとしたら、意味に違いは生じないのだろうか?

私見によれば、パラフレーズは必ずしも不可能ではなく、その場合には、心理的意味は異なるかもしれないが(ネイティブならざる私にはわかりかねるのだが)、論理的にはほぼ同意であるように思われる。

もっとも(まずは<クジラ構文⇔オナラ構文>のパラフレーズを考えてみると)、クジラ文をそのままオナラ構文にパラフレーズするのは無理だろう、何故なら、一般にオナラ構文は通常の同等比較構文を採用して<as+段階性形容詞+as>となっているのに対し、クジラ文は一般的な優劣比較構文とは違って、<more+非段階的名詞+than>となっているからである。故に、パラフレーズするなら少々手を加える必要がある。例えば、

1)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).
≒A whale is a fish as much as a horse is a fish.

前提[1]
ウマがサカナであるのと同じくらい、クジラはサカナである。

前提[2]
然るに、ウマはサカナではない。

結論
故に、クジラはサカナではない。


どうだろうか?細部はおいといて、ざっくり言えば、だいたいのところは同意であるように思えるのだが。私は両者が同等だと主張する者ではないが、両者の深層には同じ論理が横たわっているので、パラフレーズできないことはない、とおずおずと口にしているだけである。

では、クジラ文を法王構文にパラフレーズするのはどうだろうか。あれこれ悩んでいても詮ないので、実際に例文を作成してみよう。

1)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).
≒If a whale is a fish, then a horse is a fish.

前提[1]
もしクジラがサカナならば、ウマもサカナである。

前提[2]
然るに、ウマがサカナであるはずもない。

結論
故に、クジラもサカナではない。


細かいところはさておき、ひとまずできなくはないようである。

では、逆に法王文をクジラ構文にパラフレーズするのはできるのだろうか?あるいは、法王文をクジラ構文にパラフレーズなんぞは可能なのだろうか?過ちは求道者の特権であろう。これに甘えて挑戦してみよう。

2)He is as welcome as a fart in the lift.
≒He is no more welcome than a fart in the lift.

3)If he's Irish, I'm the Pope.
≒He's no more Irish than I'm the Pope.


どうであろうか。これらのパラフレーズがどれほど無理をしたものなのか。クジラとともにエレベーターに乗るくらい狂気の沙汰なのか、それとも法王様とエレベーターにご一緒するくらいの無理さ加減ですんでいるのか、ひょっとしたら満員のエレベーター内で×(自主規制有り)をこくくらいの難事なのか、私にはわかりかねるところではあるが。

fishを段階的に解釈できないのか 

2017-02-16 16:43:37 | 比較
クジラ文を通常の<no 比較級 than>と同じものとして、a fishを段階語と解釈することはできないだろうか。つまり、このfishなる語をいわば「サカナ度」と考え、クジラ構文を<no 比較級 than>と同様にみなし、優劣を否定した同等比較の文とみなすのである。詳しく説明しよう。

4)Tom is no taller than Jack.

この例文において、

【1】noはTomとJackの優劣(身長差)を否定し、
【2】形容詞tallを否定する。

TomとJackの身長差がゼロとなり、tallが否定されて反意語と同義になるのだから、

5)Tom is as short as Jack.

4)≒5)となる。ここで、クジラの例文におけるa fishを段階語と解釈すること、

1)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).

このクジラ文においは、

【1】両者の優劣を否定し、
【2】noの修飾する語(a whale)を否定する(ただし、tallの反意語は存在するが、多分whaleの反意語は存在しない)。すると、

【1】両者のサカナ度の差が否定されてゼロになるのだから、ウマがサカナである程度とクジラがサカナである程度とが等しくなり、
【2】両者がサカナであることも否定するので、

「ウマがサカナである程度と、クジラがサカナである程度とは等しく、かつウマもクジラも実はサカナではないので、ウマがサカナである度合いはゼロであり、クジラがサカナである度合いもゼロである」

となる。どうだろうか(上の試訳は意味を汲んでわかりやすくしたので、あまり流暢ではないが、そこそこ正確だと思う)。

私は、この解釈には難があると思う。生物学に詳しいのならいざ知らず、素人からすれば、クジラもサカナも水中に暮らし、泳ぎ、歩けず、足はなく、陸地を闊歩しない。対してウマは、水中に暮らさず、泳がず、歩き、足をもち、陸地を闊歩する。どう贔屓目に見ても、ウマのサカナ度よりもクジラのサカナ度の方が高く、故に両者の程度差を否定するなんぞ思いもよらない。だから、a fishを段階語であり「サカナ度」ととらえるのは、無理があるように思う。


何故than節は肯定文なのに否定的に解釈されるのか

2017-02-16 16:41:46 | 比較
何故than節は肯定文なのに否定的に解釈されるのか。二つ、考えてみた(独断と偏見です)。


【1】射程説

否定語は文中の実にいろいろな箇所を否定する。換言すれば、notの射程は文中のいろいろな範囲に及ぶ。

例えば、

1)Jane hasn't been here for two months.

という文は二通りの解釈を許す。

(a)notの射程が文末にまで及べば、「ここに来てから2ヶ月と経っていない」となる。が、
(b)notの射程が文末のfor two monthsに及ばないとすれば、「2ヶ月間ここを離れている」となる。

(a)Jane hasn't [been here for two months].

→notは[been here for two months]を否定しており、「[2ヶ月間ここにいた]のでない」(=ここに来て2ヶ月経ってない)となる。

(b)Jane hasn't [been here] for two months.

→notは[been here]のみを否定して、「[ここにいた]のでないのは2ヶ月間」(=2ヶ月間ずっとここにいない)となる。

他に例をあげれば、かのnot~because…である。これは文脈によって(多分、文法ではなく)、主節にのみであれ従節にのみであれ、あるいはその双方にであれ、notの射程は及ぶのができる。

2)I will not be in class tomorrow because I am going on vacation to Paris.

素直に解釈すれば、この文のnotは主節にだけ及んでいて、従節には及んでいない。「休暇でパリに行くから、明日の授業には出席しない」。

3)She didn't come home because it was raining.

普通に考えれば、こちらのnotは従節のみに到っており、主節は飛び越えている。つまり、notはShe+come homeにはかかってないので彼女は帰宅していないことはなく、またnotはbecause it was rainingに及んでいるので、雨だからという理由を否定している。「彼女は帰宅したのだが、理由は雨だったからではない(他に理由があった)」。

4)You should not despise a man just because he is poorly dressed.

これはよく参考書でお目にかかる例文である。ここでは、notは主節にも従節にもどちらにも思いっきり及んでいると考えるのが自然だろう。すなわち、「単に身なりが貧しいからといって軽蔑すべき『ではない』」と。これを、notが従節にのみ届くとすると、「人間は軽蔑すべきたが、理由が単に身なりが貧しいからというのではいけない」となって、これではまるで貧しき者が、自分と同じ貧しき者には同情しても、それ以外の者みなを恨んでいるかのように見える。不自然な解釈だろう。

こんな調子なのだから、クジラ文においても、noが主節にも従節にも及んだところで、文句は誰も言うまい。

5)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).

つまり、noが主節のa whale is a fishにも従節のa horse is a fishにもどちらも届いているとのであり、故にa horse is a fishの箇所は一見肯定文ながらも、その実否定文なのである。これを「射程説」と呼ぶことにする。



【2】常識説

別の解釈もある。than節は否定語がないにしても常識的にあり得ない話であるので、否定的に解釈される。

5)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).

a horse is (a fish).つまり、「ウマがサカナであるというのだが、ウマがサカナであるわけもない、故にthan節内容は否定される」というのである。(こちらを「常識説」と名づけることにする。)

しかし、「肯定文であっても常識的にあり得ない話だから否定的に解釈される」というのなら、世の否定語諸氏は少々肩身が狭くはならないだろうか。非常識な内容の文ならば否定語はいらないというのだろうか。聞き手に常識が通じない場合にはどうしたものだろうか。私見によれば、この常識説は間違っていないにしても、も少しばかり、この文の持つ否定的な「勢い」を感じてみたい。

(否定的な勢いについては、「意味と形式」をご覧あれ。また、「常識の見地から肯定文でも否定的に解釈される」というメカニズムについては、クジラ構文以外に「オナラ構文」や「法王構文」を参照されたし)


意味と形式  

2017-02-16 16:39:44 | 比較
以下において、

1)A whale is no more a fish than a horse is.

を「クジラ文」とし、この形式を用いた構文を「クジラ構文」と呼ぶことにする。

クジラ文は、形式的にも意味的にもありえないものであって、それ故に二重の意味で否定的である。この否定的性格ゆえに、than節は肯定文であっても、否定的色彩を帯びるものと考えられる。

詳述すれば、
イ)通常、moreは形容詞または副詞を修飾するにもかかわらず、クジラ文においてはmoreは名詞を修飾している。
ロ)また、比較級にできるのは段階的な語(以下、段階語)であるはずなのに、クジラ文においては、段階的でない語(以下、非段階語)が堂々と居座っている。

クジラ構文を用いた他の例文も検討してみよう。

2)Jim is no more tall than Jack is.

3)I can no more sing than I can fly.

4)I'm no more mad than you are.

2)比較級では、通常は一音節の語は-erとなり、二音節以上の語はmore+原級となるはずが、no more tallの例文では、一音節ながらもmore+原級となっている。

3)たいていmoreは形容詞か副詞にかかるのに、no more sing thanでは何と動詞修飾となっている。

4)madという形容詞は非段階的色合いが濃い。段階的形容詞は、veryやa littleなどの程度の副詞で修飾が可能であるが、madはその原義からいって極端な意味しか持っていないので(「オックスフォード」ではmadはvery stupid;not at all sensibleとかvery angryの意、とある)、very madと言えばvery very stupidとかvery very angryという意味になって冗語的であり、さりとて端から極端な意味であるため、a littleで修飾するにも無理がある。a little very stupidという言い回しがかなり微妙であるように。

以上から、クジラ構文は一般的文法規則から逸脱したかなり変則的な構文であり、「あり得ない」感が強い。ありえないから「まさか」と思い、まさかと思うからつい否定の勢いが生じ、この気分がthan節に投影されて、肯定文なのに否定したくもなってしまう。つまり、クジラ構文においてthan節内容が否定されるのは、一つには、意味上あり得ない話がされているからであり、一つには、形式的に見て主節には思わず否定したくなる要素に満ちているからである。

クジラ構文は優劣比較構文<more than>を拝借していながらも、その実、修辞的否定表現なのであり、形式上は優劣比較を用いていながらも、その力点は優劣比較ではなくって物事の否定にあるのであり、だから、通常の優劣比較とは話が違うのである。


では、形式的にあり得ない表現を用いると、意味的に(否定文でないにもかかわらず)否定的に解釈されるというのは、よくあるのだろうか。あるように思われる。以下の3つの例文をご覧あれ。

5)Tim writes as if he is left-handed.
6)Tim writes as if he was left-handed.
7)Tim writes as if he were left-handed.

as ifを用いた通常の表現である。論者にもよるらしいが、「ジーニアス」によれば、

5)ではTimは実際に左利きであり、
6)ではTimは左利きなのかどうかは不明であるが、これらに対して
7)のTimは実際には左利きではない(つまり、左利きであることが否定される)。

この解釈は必ずしも全ネイティブの共通見解でないのかもしれないが、こう理解される向きがあるのも、わからないではない。何故なら、

5)では、主節とas if節との時制が一致し、かつas if節内がhe isとなっているので、単純に考えれば、何ら「あり得ない」表現はなく、字義通りに理解される。ところが、

6)では、主節とas if節の時制が、どちらも現在の話であるにもかかわらず一致していない。だから「あり得ない」表現、つまり通常の文法規則から逸脱するように見えるものが一つある。

7)では、さらに主節とas if節の時制が不一致であるのみならず、as if節内がTim wereとなっていて、Tim isや、せめてTim wasならまだしも、三単現の規則にすら歯向かうので、「あり得ない」のが二箇所となっている。

以上から、7)の例文では、as if節内には、一見すると「あり得ない」表現が
二箇所もあるので、聞き手は「まさか」と感じ、その否定的な思いがas if節の内容に投影されて、その結果「左利きではない」と解釈される。6)では、一瞬「あり得ない」と感じられるのは一点だけなので、さほど違和感は強くなく、否定的勢いも弱いので、「左利きである」がやんわりと否定されて、「左利きなのかどうか」となる。

閑話(?)休題。クジラ文では主節に文法上「あり得ない」表現があるので、聞き手は「まさか」と思い、その否定的気分がthan節に投影されて、than節内容が否定される。また、than節内容は常識的にも否定される。than節が肯定文ながらも否定されるのは、否定の勢いが強いからである。

対して、as ifの仮定法では、as if節内容に二箇所文法上「あり得ない」表現があり、聞き手は「まさか」と感じ、その気分がas if節に投影されて、否定的に理解され、それが結果的に仮定法となるのである。



no 比較級 than と not 比較級 than の混交

2017-02-16 16:32:05 | 比較

いまでは、not 比較級 than の代わりに no 比較級 than が用いられるのも少なくない。この現象は混交とも考えられる。では、混交(または混成)とは何か。「ブリタニカ」によれば、「ある形式が他の形式に影響を及ぼして、両者の混合した第3の形ができる現象」であり、例として、

例1)とらえる+つかまえる→とらまえる
例2)chuckle「くすくす笑う」snort「鼻息を荒くする」→chortle「哄笑する」(L.キャロルの例)

などがあり、構文上の混交例としては、

例3)
I am friendly with him.
We are friends with him.
→I am friends with him.

などがある。3)の例では、I am friendlyとWe are friendsとが混じり合って、I am friendsとなるのである。

混交が起こる理由としては、意味または形式(あるいはその双方)が似通っているからと考えられる。意味的にも表現形式においても重複する領域があるからである。

例1)では、「とらえる」と「つかまえる」とでは、どちらもほぼ同義であり、また語尾も「える」になっており、意味も形式も似る。

例3)では、どちらも「私は彼と親しい」の意味を持ち、どちらもwithを伴う第2文型である。(キャロルの例は、どういう状況で作られたのかを知らないので、いまは述べない)

ここでさらに詳しく検討してみよう。混交には少なくとも二通りあるように思われる。

(1)融合タイプ
ここにX、Yという二つの表現があるとしよう。形式上または意味上(あるいはその両方で)、重複領域があるので混交が生じる。具体的には、Xは{a,b,c}から成り、Yは{c,d,e}から成り立つとする。すると、両者はcにおいて重複領域を有するので、このcを中核とし、他の要素の一部は融合し、一部は排除され、こうして混交が成就する、例えば{b,c,d}のように。

例えば、「とらまえる」である。これは{と,ら,え,る}と{つ,か,ま,え,る}との二つの表現の融合形であり、まず共通項たる{え,る}が中核となり、次いで他の諸要素は{と,ら}と{ま}とが融合し、{つ,か}は排除され、かくして両者の愛すべき娘{と,ら,ま,え,る}が産声をあげる。

もう一つの混交について述べてみよう。

(2)複製タイプ
XとYという二つの表現があるとする。Xには{a,b}の二つの意味があり、Yには{a}の意味しかない。然るに、共通する意味があるためにYはXと混同されて、YはX{b}の意味でも用いられるようになり、いつしかYには{a,b}の二つの意味が備わる。

例えば、persuadeには「説得する」と「納得させる」の二つの意味があるが、convinceにはかっては「説得はする」の意味はなかった。両者ともに「納得させる」の意味を持ち、《SV+A of B》=《SV+A that節》の形を取った。convinceはpersuadeと「納得させる」において、意味のみならず形式も共通するものだから、両者の一体性は強固であり、いつしかconvinceはpersuadeと混同されて「説得する」の意味までも帯びるようになった。persuadeにおける「説得」の意味がconvinceに言わば複製されるのである。

(このタイプの混交は、「ブリタニカ」の定義するような「両者の混合した第3の形」ができあがるのではないので、「混交」というよりかはむしろ「拡張」としたほうが望ましいかもしれない。ただ、「ジーニアス」にはhardly … than …、という形があり得るとして、「no sooner … than …構文との『混交』から生じたもの」と記されてあり、言ってみれば、「…するとすぐに…」という和語に相当する英語の形式が、hardly … when …の一つから、hardly … when …とhardly … than …の二つに増えて(拡張して)いるので、混交は拡張の別名と言えなくもない。私もこの「混交」されやすい語を用いてみた次第である)

では、ここで《A+not 比較級 than+B》と《A+no 比較級 than+B》とを改めて検討しよう。

《A+not 比較級 than+B》は《A+no 比較級 than+B》を含む。何故なら、(《A+比較級 than+B》を《A>B》だとすると)《A+not 比較級 than+B》は《A≦B》であり、《A+no 比較級 than+B》は《A=B》であるから。

A+not 比較級 than+B→A≦B
A+no 比較級 than+B→A=B

言い換えれば、《A+not 比較級 than+B》は「AはBと同等か、あるいはそれ以下である」のに対して、《A+no 比較級 than+B》は「AはBと同等である」のだから、意味からいって、《A+not 比較級 than+B》と《A+no 比較級 than+B》には重なる領域が存在する。また、形式的にはいずれも《否定語+比較級 than》となっており、両者の意味領域が一部重複するのみならず、形式にも共通項があるのだから、両者は「混交」されやすい条件を持つことになる。時が満ちれば交わるだろう。そして時は満ちた。

例4)
It is no more than two miles to the village.
村までたった2マイルだ。

It is not more than two miles to the village.
村までせいぜい2マイルだ。

前者の例文では村までピタリ2マイルだが、後者の例文では、2マイルちょうどのこともあれば、2マイルに満たないこともある。村まで2マイルちょうどの場合、話し手は前者を用いても後者を使ってもよい。

すると、convinceがpersuadeと同じ形式並びに同じ「納得」の意味を持つが故に、いつしかpersuadeの持つもう一つの「説得」の意味までも帯びていくように、本来ならば「同等」の意味しかなかったno 比較級 thanが、やがて似た形式を有するnot 比較級 thanの影響を受けて、「優劣」の意味を身に付けていくのである。そうなると、no 比較級 thanはnot 比較級 thanの影武者となって、密かにその任務を遂行することになる。

It is no more than two miles to the village.
訳1)村までたった2マイルだ。
訳2)村までせいぜい2マイルだ。

いまやこの例文は二通りの解釈を許容する厄介な手合いと化した。では、他に例はあるのだろうか。勿論である。

例5)
Cards postmarked no later than March 22 will be accepted.
3月22日までの消印のあるはがきは有効です。

ここに登場するno later thanは二重スパイであって、postmarked=March 22(3月22日の消印)でもよければ、postmarked<March 22(3月22日以前の消印)でも構わない。すなわち、postmarked≦March 22を意味する。無論、not later thanを出しても、咎められまい。《A+not 比較級 than+B》の意味が《A+no 比較級 than+B》に複製されたのである。