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英語の美貌録。

さとうひろしの受験英語ブログです。文字通りの備忘録で、よくいえば独自研究、悪し様に言えば妄想の類いです。

クジラ構文補遺

2019-08-27 22:53:46 | 比較
クジラ構文とは、あるかもしれないことを絶対にありえないことを持ち出して強意的に否定する比喩的表現をいう。例えば、
I can no more sim than a stone can.
人は、私が泳げるかもしれないと思っているので、カナヅチの私はそれが絶対にありえないことを、石が泳げないということに喩えて言おうとするのだ。
クジラ構文には、以下の型がある。(訳例も記す)

1) no more ~ than A「Aと同様~ない」
2) no more ~ than SV「SがVしないのと同様~ない」
3) as ~ as A「Aと同様~ない」
4) as ~ as SV「SがVしないのと同様~ない」

1) と 3)、2) と4) は同意なので、文によって書き換えもできる(これ、僕の独断ではあるが)。

1) That guy is no more welcome than a cockroach in an elevator.
3) That guy is as welcome as a cockroach in an elevator.
2) A plane can no more fly itself around than a modern operating room can perform an operation by itself.
4) A plane can fly itself around as much as a modern operating room can perform an operation by itself.(この文は、確か兵庫医科大の過去問にあったもの)

3) の文が、否定語がないのになぜ否定的に訳されるのかといえば、次のように考えればよい。

3) That guy is as welcome as a cockroach in an elevator.
That guy が歓迎される程度は、a cockroach in an elevator と同程度である。然るに、a cockroach in an elevator の歓迎度はゼロである。ゆえに、that guy も歓迎度はゼロであり、歓迎されない、と。

ところで、no less ~ than A という言い回しがある。

5) no less ~ than A「Aと同様~だ」

5-1) The education of the nation is no less important than its defense.
5-2) Mental suffering is no less painful than physical suffering.

いずれも、あるかもしれないことを絶対にありだということを持ち出して強意的に肯定する比喩的表現である。5-1)では、教育の重要性が疑問視されている状況で、「国防が絶対に重要であるのように、教育が重要でないはずがない」といった意味合いであり、5-2)では、精神的苦痛がどれほど苦痛であるのかがよく知られていない状況で、「身体的苦痛が絶対に苦しいのと同様に、精神的苦痛だって苦しくないはずもない」ということを言っている。その本質的意味合いとしては、no more ~ than も no less ~ than も変わらない。

オナラ構文 

2017-02-16 17:00:04 | 比較
オナラ構文とは、<A is as X as B (is X)>という同等比較構文の形式を採用しつつも、

[1]AがXであるのはBがXであるのと同程度である。
[2]然るに、Bは(常識的に)Xではあり得ないので、
[3]AもXではない。

という三段論法(疑似的ながらも)を含意するものである(私がここでオナラ構文と呼ぶのは、ミントンの「」に紹介されている例文を参考にしたからである。他意はないので深く気になさらぬよう)。さて、その傾向としては、


イ)形式的には同等比較構文でありながらも、
ロ)解釈上は常識の見地からas節内容が肯定文ながらも否定され、また
ハ)文法的特徴としては、普通の同等比較構文なら比較されないものどうしが比べられている。

では、ミントンの例文を紹介がてら詳細に検討しよう。

1)He's as welcome as a fart in a lift.

[1]彼はエレベーター内のオナラと同程度に歓迎される。
[2]然るに、エレベーター内のオナラは歓迎されるはずもない。
[3]故に、彼も歓迎されるわけもない。

この構文は、否定語がないのに常識的観点からas節内容が否定される、という一風変わった解釈を許容している。変わっているのは解釈だけではない。通常、比較し得るのは同種のものだけなので、

This mountain is as high as that mountain.

とは言っても、

This mountain is as high as Tom.

などとは、普通は言わない。ところが、この「オナラ文」では、いくら人体から排出されるとはいえ、また自己の排出物に限ってたいていの者がそこはかとない愛着を示すとはいえ、この独特の刺激物と人間とを比べているのだから、少なからず事件であろう。

他にも、安藤貞雄の「現代英文法講義」などでは、次のような例文を挙げている(この構文はサリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」で何度か登場しているらしい。確かめようと思って、読み始めたんだけれども、途中で飽きたw)。

2)That guy Morrow was about as sensitive as a goddam toilet seat.

3)She was about as kind-hearted as a goddam wolf.

4)I liked him as much as Churchill liked Hitler.

どうであろうか。では、各自三段論法式に取り扱っていこう。

2)
[1]モローは便座シートと同程度にsensitiveである。
[2]然るに、便座シートはsensitiveのはずはない。
[3]故に、モローとてsensitiveのわけもない。

この例文も人間と便座シートを比較しているので、通常の同等比較構文の規則から逸脱しており、オナラ構文として解釈上するのが自然であり、as節内容は一般常識的に否定されている。また、sensitiveは人間(またはある種の高等動物)に固有の特質であって、これで便座を語ろうなんざ、百年早かろう。

3)
[1]彼女はオオカミと同程度に優しい。
[2]然るに、オオカミが優しいなんて、ちょっと考えにくい。
[3]故に、彼女も優しくはあるまい。

オオカミは(実際の生態はどうであれ)一般的通念からすれば優しくはない動物なので、この文は「オオカミと同様に優しくはない」と理解される。

4)
[1]私が彼を好きなのは、チャーチルがヒトラーが好きなのと同程度である。
[2]然るに、チャーチルがヒトラーを好いていたはずは絶対にないので、
[3]故に私が彼を好いているのもあり得ない。

もはや説明は不要であろう。

Your guess is as good as mine.  

2017-02-16 16:57:46 | 比較
1)Your guess is as good as mine.

という慣用表現がある。「ジーニアス」によれば、

1)「(質問を受けて)君と同じように私にもよくわかりません」

という意味であり、《「よく知らないので質問には答えられません」という含み》があるそうだ(以下、説明しやすいように、この文を「想像文」と呼ぶ。)。

私の考えでは、これは三段論法的に考えることができる。詳しく言えば、

[1]君の推測は私の推測と同じくらいよい。
[2]然るに、君はさっぱり推測できていない。
[3]故に、私の推測もさっぱり当たっていない。

三段論法的に考えると、これは《A is as X as B (is X)》という形式になっており、「AがXなのはBがXなのと同じくらいである。然るに、AはXではない。故に、BもXではない」という論理になっており、形式的にはオナラ構文と同じ同等比較構文であり、意味的にはオナラ文と一部重複し一部相違している。以下、オナラ構文を再確認しよう。

2)He's as welcome as a fart in a lift.

[1]彼が歓迎されるのは、エレベーター内のオナラが歓迎されるのと同じ程度である。
[2]然るに、エレベーター内のオナラは歓迎されない。
[3]故に、彼も歓迎されない。

こちらは、「AがXなのはBがXなのと同じくらいである。然るに、BはXではない。故に、AもXではない」となっている。

想像文とオナラ文の違いはといえば、

イ)第二前提[2]は、想像文ではAがXであるのを否定するが、オナラ文ではBがXであるのを否定する。
ロ)第二前提[2]で否定する際に、想像文はその場の文脈から否定するが、オナラ文では広く社会的文脈から否定する。

こう考えると、想像文とオナラ文とは似て非なるものであり、非ながらも酷似するものである。似て非なるのは、AとBのいずれを否定するかであり、否定もどのような文脈によるのかである。非ながらも酷似するのは、いずれも否定語を含まないながらも否定的に解釈されるところである。

なお、想像文を「オックスフォード」 で確認すれば、

used to tell sb that you do not know any more about a subject than the person that you are talking to does

とある。興味深い解説である。というのも、この短い小川にはクジラが隠れているのだから(do not know any more about a subject thanに刮目せられたし)。「オックスフォード」の説明からしても、あるいはどちらも三段論法の論理を含むという事実からも、想像文とクジラ構文との共通点を拾い上げるのも無理な話ではない。

ハ)想像文とオナラ構文とはどちらも三段論法で解しうる。
ニ)然るに、クジラ構文とオナラ構文もともに三段論法的である。
ホ)故に、クジラ構文と想像文とは同一の論理を共有する。

故に、現実にはあり得ないのであろうが、論理上は想像文からクジラ構文やオナラ構文へのパラフレーズは不可能ではあるまい。以下、パラフレーズしたものと、その三段論法的解釈を記してみる。

1)Your guess is as good as mine.
≒I can guess as well as you can.

[1]私は君と同じくらいよく推測できる。
[2]然るに、君は推測できていない。
[3]故に、私も推測できるはずもない。

≒I can no more guess than you can.

[1]私は君が推測できる以上に推測できる。
[2]然るに、君は推測なんぞできていない。
[3]故に、私にも推測はできていない。


クジラとオナラと普通の比較

2017-02-16 16:54:45 | 比較
ここで、クジラ構文とオナラ構文とを通常の比較と比較検討してみよう。意味上は否定的色彩が濃いながらも、少なくとも形式上では、片や優劣を問い、片や同等性を主張しており、どちらも比較構文の範疇に属するので、同じ土俵に乗せて論ずるのも苦しゅうない。ここで検討材料として、いくつかの例文を再掲載しよう。

1)Jack is no taller than Jim.
2)Jack is no more tall than Jim.
3)A whale is no more fish than a horse is.
4)Tom is as tall as Jim.
5)He's as welcome as a fart in a lift.

1)これは何処にでも転がっているの優劣比較構文であり、通常の文法規則に従っており、単音節語のtallが比較級にされてtallerとなっている。

2)こちらはクジラ構文であって、tallは単音節ながらもmore tallとなっている。これは、クジラ構文が通常の比較構文から独立しているのを証明している<漂流>。もしクジラ構文が比較構文の一種であるならば、通常の規則に服してtallerとなっているだろう。然るに、規則に反してmore tallになっている。故に、これは比較構文からは独立した別個の構文である(三段論法)。実際、クジラ構文は形式上も意味的にも普通の優劣比較構文とは少しく異なっている。

3)これもクジラ構文であって通常の比較構文ではない。普通ならば、moreは形容詞か副詞を修飾するのだが、これは名詞を修飾しているのだから、比較構文ではあり得ない。

4)通常の同等比較構文であり、段階語tallが使用されてあり、TomとJimとが比較されている。

5)オナラ文(オナラ構文)であって同等比較構文ではない。通常の同等比較構文ならば、段階性の形容詞または副詞を用い、このwelcomeは段階性の形容詞だと考えられる。very welcomeとも、a little welcomeとも、言えないことはないからである。だから、ここまでならば同等比較構文とも考えられる。然るに、同等比較構文とは異なる点が二つある。一つは、まったく異なるカテゴリーのものが比較されていることである。4)では、同じ人間どうしが並べられているのに、5)となるや、人間とオナラという異なるカテゴリーに属するものが比べられている。もう一つは、as節内容が常識的観点から否定されることで(賢明なる読者諸君よ!)である。4)では、as節内容のJimの高身長を必ずしも否定しておらず、いや正確には身長が高いという前提は必ずしもあるのではないが、それに対して、5)ではごく常識的観点からas節内容が否定されている。

つまり、5)は見た目は同等比較構文とそっくりであっても、意味的にはオナラ構文なのである。

クジラ構文は形式的にも意味的にも優劣比較構文からは独立しているのに対して、オナラ構文の同等比較構文との関係を見ると、形式的には前者は後者に半ば従属しており、意味的には独立していることになる。形式的にオナラ構文が同等比較構文に従属するというのは、オナラ構文の見た目が同等比較構文と瓜二つだからであり、「半ば」というのは、ナラ構文は同等比較構文とは違って異なるカテゴリーに属するものが比べられているからである。意味的に独立しているというのは、同等比較構文ではas節が肯定文であっても常識的見地から否定されることはあり得ないのに対して、オナラ構文ではそれが為されるのである。「独立宣言未だし!」といったところか。神ならぬ身には予言なぞすべくもないが、敢えて言えば、オナラ構文で非段階語あるいは名詞や動詞が比較されるようになれば、オナラ構文は名実ともに同等比較構文から独立することになるだろうか。




アダム構文 

2017-02-16 16:49:47 | 比較
クジラ構文、オナラ構文、法王構文の他にも三段論法的に解釈されるものはあるのだろうか。実は、他にもある。オナラ構文と同じく、as~asを使用するものである。以下の例文をご覧あれ。

1)Tom is as old as Adam.

このタイプの文には次の特徴がある。

①全体的に慣用化されており、
②<X is as A as Y>という形式をとり、
③Yには一定の決められた名詞のみが入って節は取らず、
④前半のasを省くこともあり、
⑤その際には後半のasは代わりにlikeを用いることもあり、
⑥Aに重厚長大タイプの形容詞が入るとしても、その意味を含み、
⑦意味的には、同等比較というよりむしろ比喩に近く、比喩であると同時に強調であり、
⑧as Yの箇所は常識の見地から(必ずしも文法的にではなく)肯定される。

以上から、この構文(「アダム構文」と呼ぶことにする)も、形式的には同等比較構文と似ていながらも意味的には独立した構文であることがわかる。では、ひとつひとつ検討してみよう。

①全体的に慣用化されている。

このアダム構文は歴史的に定着した構文なので、例えば、Adamが高齢ならばEveだって同じ、とばかりに、Tom is as old as Eve.とは言えない。その意味で、同等比較構文よりも自由度は低い。

②<X is as A as Y>という形式をとる。

ここだけ見れば同等比較構文なのだが…

③Yには一定の決められた名詞のみが入って節は取らない。

同等比較構文では、Yには節が入ってもいいのだが、アダム構文では節はお呼びでない。つまり、Tom is as old as Adam is.とは言えない。

④前半のasを省くこともある。

Tom is old as Adam.となってもよい。すると、as Adamは同等比較ではなくて、「アダムのように」というふうに解釈される。同等比較構文では、そうはいかない。

⑤その際には後半のasは代わりにlikeを用いることもある。

「アダムのように」とも解釈されるのだから、as Adamではなくって、like Adamとなっても構わない。

⑥Aに重厚長大タイプの形容詞が入るとしても、その意味を含む。

このアダム文では、重厚長大タイプの形容詞oldが使われており、普通の同等比較構文ならばその意味を含まないが、アダム構文ではその意味を含む。聖書に出てくるアダムは後期高齢者どころではなく長生きしており、現代の基準からすれば、その人生の大半は高齢者であるので、as old as AdamにはAdam is oldの含意がないと言われても困る。

⑦意味的には、同等比較というよりむしろ比喩であり、比喩であると同時に強調である。

「アダムと同じくらい高齢だ」というより「アダムのように高齢だ」と解釈したほうが自然であり、といっても、トムとアダムとを並べて比べているのではなく、「(アダムのように)きわめて高齢だ」と考えた方がより自然である。

⑧比較構文はたいてい同種のものを比較する。例えば、

Jim is as tall as Jack.(人と人)
This car is as expensive as that one.(車と車)

ところが、アダム構文は必ずしも同種のものを比較しない。

⑨as Yの箇所は常識の見地から(必ずしも文法的にではなく)肯定さる。アダム文では、アダムが年寄りであるかどうかは常識の見地から判断されている。こうして、常識的に文の一部の意味を判断するのは、クジラ構文などの三段論法と同じである。つまり、

・トムはアダムと同程度の年齢だ。
→然るに、常識的観点からアダムはかなり高齢だ。
→故に、トムも高齢だ。

アダム構文には以上の特色があるのである。

ここでアダム文とオナラ文の異動を確認すべく、両者を並べてみよう。

1)Tom is as old as Adam.
2)He is as welcome as a fart in the lift.

1)これは、次のように理解される。

・トムはアダムと同程度の年齢だ。
→然るに、常識的観点からアダムはかなり高齢だ。
→故に、トムも高齢だ。

2)は、それに対して

・彼はエレベーター内のオナラと同程度に歓迎する。
→然るに、常識的観点からエレベーター内のオナラは歓迎されない。
→故に、彼も歓迎されない。

となって、第二段目の箇所が対照的である。常識的見地から、アダム文ではその内容が肯定されるが、オナラでは否定されるからである。
アダム構文とオナラ構文は、形式面でも相違点がある。アダム文は後半のas以降に節を取らずに名詞のみをとるが、オナラ文は節を取るのも可能である。つまり、Tom is as old as Adam.がTom is as old as Adam is.となるのは無理な話だが、He is as welcome as a fart in the lift.がHe is as welcome as a fart in the lift is.となるのは無理な話ではない。さらに、

3)I like you as much as Churchill liked Hitler.という文もある。

アダム構文に話を戻すと、実に多様なものがあって、その一部を紹介すると、

as busy as a bee(非常に忙しい)
as proud as a peacock(大いばりで)
as dead as a doornail(完全に死んでいる)
as blind as a beetle(まったく目が見えない)
as pure as (the) driven snow([時に反語的]純真な、品行方正な《driven snowは風に吹かれて1か所に集まり、まだ踏まれたりして汚れていない雪》)
as clear as mud(<説明などが>ちっともわからない《反語用法》)
as cheap as dirt(①非常にやすい②<家族・女性が>低階層の、下品な)

などがあって、なかなかに興味深い。

as busy as a beeやas proud as a peacockは、比較や比喩のニュアンスも含むのだろうが、むしろas ~ as a beeやas ~ as a peacockの箇所は実質的意味を失って単なる「強調」となっている。他の表現も強意的である。

as dead as a doornailは、deadという非段階語を使用しているのが、通常の同等比較構文と異なるところである。as blind as a beetleも同じであって、blindが非段階語である。

as pure as (the) driven snow「雪と同じくらい純真」は、字義的には何ら矛盾した表現でなく、文脈によっては皮肉的意味になるのに対して、as clear as mud「泥と同じくらいきれい」は、字義的に矛盾しており、文脈に依存しなくても反語的である。