常識説に従えば、クジラ構文は三段論法的に解釈される(三段論法とはいっても、疑似的なものであるが)。「明解国語辞典」によれば、三段論法とは、
「論理学で、大前提と小前提から結論を引き出す推論形式」とあり、例として「『すべての人間は死ぬ』と『アリストテレスは人間である』から『アリストテレスは死ぬ』という結論を導くの類をいう」
とある(私は素人なので、一般的な説明しかできないが)。
以下では、大前提を「前提[1]」、小前提を「前提[2]」と変えて説明したいと思う。すると、クジラ構文は次のように解釈できる。
1)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).
前提[1]
ウマがサカナである以上に、クジラがサカナであることはない。
前提[2]
然るに、(常識から言って)ウマはサカナではない。
結論
故に、クジラもサカナではない。
ご覧の通り、クジラ構文は三段論法的解釈が可能である。もっとも、これだけ聞いても「だから?」で終わってしまうが、実はこの手の三段論法は、私の理解する範囲では、英文法には他にもある。いずれも、
イ)文の一部が肯定文ながらも常識的見地から否定され、
ロ)それにつられて他の箇所も否定的に解釈され、
ハ)三段論法的解釈を許容する、
といったものである。その一つは同等比較を用いたもの(仮に「オナラ構文」と呼ぶ)であり、もう一つは修辞的条件文と呼ばれるもの(こちらは「法王構文」と命名する)である。
まずは「オナラ構文」である(呼び方が少々アレだが、これは実際にとある本で使われた例文がもとになっているので、ご容赦されたし)。これは形式上は同等比較構文ながらも、意味的には三段論法となっていて、従節内容は肯定文であれども、常識的に言って否定され、それにつられて主節内容も否定される、という代物である。
2)He is as welcome as a fart in the lift.
普通ならば、これは「彼はエレベーター内のオナラと同じくらいに歓迎だ」となるが、賢明なる読者諸氏のご明察通り、「エレベーター内のオナラは歓迎されるべくもない」ので、結局、彼は歓迎されざる客人となる。興味深いのは、どこにも否定語がないにもかかわらず、文全体が否定的に理解される点であろうか。
では、三段論法的に表現してみよう。
前提[1]
彼はエレベーター内のオナラと同じくらいに歓迎だ。
前提[2]
然るに、(常識的に言って)エレベーター内のオナラは歓迎されるべくもない。
結論
故に、彼は歓迎されない。
三段論法的解釈といい、従節(as節)が肯定文ながらも常識的見地から否定されるのといい、ついでに主節も否定されるのといい、クジラ構文の解釈と瓜二つである(クジラなれども瓜とは、こはいかに)。
そして「法王構文」である。こちらは形の上では条件文であり、主節内容は肯定文ながらも常識的に否定され、そのついでに従節内容も否定される。こちらも否定語はどこにも見えないのに、文全体が否定的に理解される。
3)If he's Irish, I'm the Pope.
文字通りには、「彼がアイルランド人ならば、俺様は法王様だ」となるが、勿論「俺様が法王様であるはずもない」のであり、だから「彼がアイルランド人であることもない」となって、三段論法の完成である。
前提[1]
彼がアイルランド人ならば、俺様は法王様だ。
前提[2]
然るに、俺様が法王様であるはずもない。
結論
故に、彼がアイルランド人であることもない。
こうして見ると、クジラ構文であれオナラ構文であれ、あるいは法王構文であれ、いずれも文の一部が形式的には肯定文でありながらも、常識的見地から否定され、それに応じて文の他の一部も否定され、それが三段論法的に解釈されている。その意味で、これらの構文は深層においては同一の論理構造を共有する、と言えるのかもしれない。
では、論理構造が共有されているのだとしたら、一方を他方にパラフレーズできるのだろうか?仮にパラフレーズできたとしたら、意味に違いは生じないのだろうか?
私見によれば、パラフレーズは必ずしも不可能ではなく、その場合には、心理的意味は異なるかもしれないが(ネイティブならざる私にはわかりかねるのだが)、論理的にはほぼ同意であるように思われる。
もっとも(まずは<クジラ構文⇔オナラ構文>のパラフレーズを考えてみると)、クジラ文をそのままオナラ構文にパラフレーズするのは無理だろう、何故なら、一般にオナラ構文は通常の同等比較構文を採用して<as+段階性形容詞+as>となっているのに対し、クジラ文は一般的な優劣比較構文とは違って、<more+非段階的名詞+than>となっているからである。故に、パラフレーズするなら少々手を加える必要がある。例えば、
1)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).
≒A whale is a fish as much as a horse is a fish.
前提[1]
ウマがサカナであるのと同じくらい、クジラはサカナである。
前提[2]
然るに、ウマはサカナではない。
結論
故に、クジラはサカナではない。
どうだろうか?細部はおいといて、ざっくり言えば、だいたいのところは同意であるように思えるのだが。私は両者が同等だと主張する者ではないが、両者の深層には同じ論理が横たわっているので、パラフレーズできないことはない、とおずおずと口にしているだけである。
では、クジラ文を法王構文にパラフレーズするのはどうだろうか。あれこれ悩んでいても詮ないので、実際に例文を作成してみよう。
1)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).
≒If a whale is a fish, then a horse is a fish.
前提[1]
もしクジラがサカナならば、ウマもサカナである。
前提[2]
然るに、ウマがサカナであるはずもない。
結論
故に、クジラもサカナではない。
細かいところはさておき、ひとまずできなくはないようである。
では、逆に法王文をクジラ構文にパラフレーズするのはできるのだろうか?あるいは、法王文をクジラ構文にパラフレーズなんぞは可能なのだろうか?過ちは求道者の特権であろう。これに甘えて挑戦してみよう。
2)He is as welcome as a fart in the lift.
≒He is no more welcome than a fart in the lift.
3)If he's Irish, I'm the Pope.
≒He's no more Irish than I'm the Pope.
どうであろうか。これらのパラフレーズがどれほど無理をしたものなのか。クジラとともにエレベーターに乗るくらい狂気の沙汰なのか、それとも法王様とエレベーターにご一緒するくらいの無理さ加減ですんでいるのか、ひょっとしたら満員のエレベーター内で×(自主規制有り)をこくくらいの難事なのか、私にはわかりかねるところではあるが。
「論理学で、大前提と小前提から結論を引き出す推論形式」とあり、例として「『すべての人間は死ぬ』と『アリストテレスは人間である』から『アリストテレスは死ぬ』という結論を導くの類をいう」
とある(私は素人なので、一般的な説明しかできないが)。
以下では、大前提を「前提[1]」、小前提を「前提[2]」と変えて説明したいと思う。すると、クジラ構文は次のように解釈できる。
1)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).
前提[1]
ウマがサカナである以上に、クジラがサカナであることはない。
前提[2]
然るに、(常識から言って)ウマはサカナではない。
結論
故に、クジラもサカナではない。
ご覧の通り、クジラ構文は三段論法的解釈が可能である。もっとも、これだけ聞いても「だから?」で終わってしまうが、実はこの手の三段論法は、私の理解する範囲では、英文法には他にもある。いずれも、
イ)文の一部が肯定文ながらも常識的見地から否定され、
ロ)それにつられて他の箇所も否定的に解釈され、
ハ)三段論法的解釈を許容する、
といったものである。その一つは同等比較を用いたもの(仮に「オナラ構文」と呼ぶ)であり、もう一つは修辞的条件文と呼ばれるもの(こちらは「法王構文」と命名する)である。
まずは「オナラ構文」である(呼び方が少々アレだが、これは実際にとある本で使われた例文がもとになっているので、ご容赦されたし)。これは形式上は同等比較構文ながらも、意味的には三段論法となっていて、従節内容は肯定文であれども、常識的に言って否定され、それにつられて主節内容も否定される、という代物である。
2)He is as welcome as a fart in the lift.
普通ならば、これは「彼はエレベーター内のオナラと同じくらいに歓迎だ」となるが、賢明なる読者諸氏のご明察通り、「エレベーター内のオナラは歓迎されるべくもない」ので、結局、彼は歓迎されざる客人となる。興味深いのは、どこにも否定語がないにもかかわらず、文全体が否定的に理解される点であろうか。
では、三段論法的に表現してみよう。
前提[1]
彼はエレベーター内のオナラと同じくらいに歓迎だ。
前提[2]
然るに、(常識的に言って)エレベーター内のオナラは歓迎されるべくもない。
結論
故に、彼は歓迎されない。
三段論法的解釈といい、従節(as節)が肯定文ながらも常識的見地から否定されるのといい、ついでに主節も否定されるのといい、クジラ構文の解釈と瓜二つである(クジラなれども瓜とは、こはいかに)。
そして「法王構文」である。こちらは形の上では条件文であり、主節内容は肯定文ながらも常識的に否定され、そのついでに従節内容も否定される。こちらも否定語はどこにも見えないのに、文全体が否定的に理解される。
3)If he's Irish, I'm the Pope.
文字通りには、「彼がアイルランド人ならば、俺様は法王様だ」となるが、勿論「俺様が法王様であるはずもない」のであり、だから「彼がアイルランド人であることもない」となって、三段論法の完成である。
前提[1]
彼がアイルランド人ならば、俺様は法王様だ。
前提[2]
然るに、俺様が法王様であるはずもない。
結論
故に、彼がアイルランド人であることもない。
こうして見ると、クジラ構文であれオナラ構文であれ、あるいは法王構文であれ、いずれも文の一部が形式的には肯定文でありながらも、常識的見地から否定され、それに応じて文の他の一部も否定され、それが三段論法的に解釈されている。その意味で、これらの構文は深層においては同一の論理構造を共有する、と言えるのかもしれない。
では、論理構造が共有されているのだとしたら、一方を他方にパラフレーズできるのだろうか?仮にパラフレーズできたとしたら、意味に違いは生じないのだろうか?
私見によれば、パラフレーズは必ずしも不可能ではなく、その場合には、心理的意味は異なるかもしれないが(ネイティブならざる私にはわかりかねるのだが)、論理的にはほぼ同意であるように思われる。
もっとも(まずは<クジラ構文⇔オナラ構文>のパラフレーズを考えてみると)、クジラ文をそのままオナラ構文にパラフレーズするのは無理だろう、何故なら、一般にオナラ構文は通常の同等比較構文を採用して<as+段階性形容詞+as>となっているのに対し、クジラ文は一般的な優劣比較構文とは違って、<more+非段階的名詞+than>となっているからである。故に、パラフレーズするなら少々手を加える必要がある。例えば、
1)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).
≒A whale is a fish as much as a horse is a fish.
前提[1]
ウマがサカナであるのと同じくらい、クジラはサカナである。
前提[2]
然るに、ウマはサカナではない。
結論
故に、クジラはサカナではない。
どうだろうか?細部はおいといて、ざっくり言えば、だいたいのところは同意であるように思えるのだが。私は両者が同等だと主張する者ではないが、両者の深層には同じ論理が横たわっているので、パラフレーズできないことはない、とおずおずと口にしているだけである。
では、クジラ文を法王構文にパラフレーズするのはどうだろうか。あれこれ悩んでいても詮ないので、実際に例文を作成してみよう。
1)A whale is no more a fish than a horse is (a fish).
≒If a whale is a fish, then a horse is a fish.
前提[1]
もしクジラがサカナならば、ウマもサカナである。
前提[2]
然るに、ウマがサカナであるはずもない。
結論
故に、クジラもサカナではない。
細かいところはさておき、ひとまずできなくはないようである。
では、逆に法王文をクジラ構文にパラフレーズするのはできるのだろうか?あるいは、法王文をクジラ構文にパラフレーズなんぞは可能なのだろうか?過ちは求道者の特権であろう。これに甘えて挑戦してみよう。
2)He is as welcome as a fart in the lift.
≒He is no more welcome than a fart in the lift.
3)If he's Irish, I'm the Pope.
≒He's no more Irish than I'm the Pope.
どうであろうか。これらのパラフレーズがどれほど無理をしたものなのか。クジラとともにエレベーターに乗るくらい狂気の沙汰なのか、それとも法王様とエレベーターにご一緒するくらいの無理さ加減ですんでいるのか、ひょっとしたら満員のエレベーター内で×(自主規制有り)をこくくらいの難事なのか、私にはわかりかねるところではあるが。
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