神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

聖霊の御言葉「完全にされた人々への約束」

2020-11-12 22:41:14 | 聖霊の御言葉

聖霊の御言葉「完全にされた人々への約束」

 

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

2020-11-11 21:22:39 | 天の国の福音

 ヤーウェの警告に対するニネベとソドムの反応の明らかな相違点

   滅びる、とは何を意味するであろうか。言葉通りに解釈すれば、消滅するということである。しかし、どのようにして消滅するであろうか。一体誰が町全体を滅びさせることができようか。当然、そのようなことは人間には不可能である。ニネベの人々は愚かではなかったので、この宣告を聞いてすぐに、その旨を理解した。ニネベの人々は、その宣告が神から伝えられたものであること、神が業を行うつもりであること、自分達の邪悪さがヤーウェ神の怒りに触れ、その怒りが自分達に対するもので、程なくしてニネベの町も自分達も滅ぼされるであろうことを理解した。ヤーウェ神の警告に対し、ニネベの人々はどのように行動したであろうか。聖書では、王から一般人まで、ニネベの人々の反応が詳細に記載されている。聖句には、「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。…』とある。

 ヤーウェ神の宣告を聞いた後、ニネベの人々はソドムの人々が見せた態度とは正反対の態度を取った。ソドムの人々は、何の躊躇もなく、神に反抗し、邪悪を重ねたが、ニネベの人々は、この宣告を聞いた後、それを無視することも、それに反抗することも無く、神を信じ、断食を命じた。ここで「信じ」、とは何を意味するであろうか。言葉自体は、信仰と服従を意味する。ニネベの人々が実際に取った行動で説明すれば、ニネベの人々は、神は言葉通りの業を行うことが可能であり、またその通り実行することを信じ、悔い改めることを望んだ、という意味である。ニネベの人々は喫緊の災いに瀕して恐れを感じていたであろうか。ニネベの人々が恐れたのは、信仰のためである。ニネベの人々の信仰と恐れは、何によって証明することが出来るであろうか。それは聖句にある通りである。すなわち、「断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。」つまり、ニネベの人々には真の信仰があり、その信仰から恐れが生まれ、その結果として、断食と粗布の着用が行われた。ニネベの人々は、こうして悔い改めの開始を示した。ソドムの人々とは全く対照的に、ニネベの人々は神に反抗しなかっただけでなく、自分達の行動により悔い改めを明示した。無論、これはニネベの一般人だけでなく、王も例外ではなかった。

 ニネベの王の悔い改めがヤーウェ神のニネベに対する称賛を獲得した

 このうわさを聞いたニネベの王は、王座から立ち上がって王衣から荒布に着替え、灰の中に座った。そして王は、町の人々全員に対し、全員何一つ口にしてはならない、そして家畜、羊、牛も飲食してはならない、と宣言した。人間も家畜も同様に粗布を身にまとっていた。人々は熱心に神に懇願した。また王は、各人が悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ、と宣言した。こうした行動から判断すれば、ニネベの王は心から悔い改めを示していた。王座から立ち上がり、礼服から粗布に着替え、灰の中に座るという、王が取った一連の行動は、人々に対してニネベの王が王という身分を投げだし、一般人と同様に粗布をまとっていたことを伝えた。これは、ヤーウェ神の宣告を聞いたニネベの王が王位を継続し、その手で邪悪や不法を続けることは無く、むしろ王の権威を捨て、ヤーウェ神の前で悔い改めた、ということを示すものである。この時、ニネベの王は、王として悔い改めていたのではなく、普通の一信者として神の前で罪を告白し、悔い改めた。その上、王は、王に倣って、ヤーウェ神の前で自分の罪を告白して悔い改めることを町全体に命じた。その上、聖句にあるとおり、どのように悔い改めるかについて、王には具体的な計画があった。すなわち「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。…ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。」と命じた。町を支配する存在として、王には最高の地位と権力があり、全てが王の意のままであった。ヤーウェ神の宣言を聞いた王は、それを無視したり、自分だけが悔い改めて罪の告白をしたりすることもできたはずである。王は、町の人々が悔い改めるか如何について、完全に気に留めずにいることも出来たはずである。しかし、ニネベの王は、そのような行動を一切とらなかった。王は、王座から立ち上がり、粗布を身にまとって灰の中に座ってヤーウェ神の前で罪を告白し、悔い改めた上、町の人々全員、家畜のすべてに対し、王と同様に行動するよう命じた。王は人々に対し「ひたすら神に呼ばわり」とさえ命じている。これら一連の行動により、ニネベの王は、支配者が真に達成すべき目標を達成した。王が取った一連の行動は、人類史上のなかで、どの王にとっても為し難いことであり、それまでのいずれの王も為し得なかった行動であった。これらの行動は、人類史上で前例の無いことであったと言えるであろう。こうした行動は、称賛し、人類が倣う価値のある行動であった。人類の黎明以来、王は皆、臣民に対して、神を反抗し、反対するように統治を行っていた。それまで、それぞれの悪に対して神に贖いを求めるよう臣民を祈らせ、ヤーウェ神の赦しを得て、喫緊の罰を免れた者は、誰も居なかった。しかしニネベの王は、臣民に対して、神に立ち返り、各人が悪の道を離れ、その手から不法を捨てるよう指導した。加えて、ニネベの王は自らの王位を捨て、それに対してヤーウェ神は思い直して宣告した災いをくだすのを取りやめ、ニネベの町の人々は滅びを免れ、生き残ることができた。ニネベの王の行動は、人類史上希にみる奇跡であると言うほか無い。これらの行動は、腐敗した人類が神の前で罪の告白と悔い改めを行う際の模範とも呼べるであろう。

 神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

 神の宣告を聞いた後、ニネベの王と臣民たちは、一連の行動を取った。ニネベの人々の態度と行動の本質は何であろうか。すなわち、ニネベの人々の行動全体における真髄は何であろうか。ニネベの人々がそのような行動を取った理由は何であろうか。神の目には、ニネベの人々は、真摯に悔い改めたように映った。それはニネベの人々が神に心から誓願し罪を告白したからのみならず、ニネベの人々が悪の行いも捨てたからである。ニネベの人々がこのような行動を取ったのは、神の言葉を聞いたのち、ニネベの人々は大いに恐れ、神が言葉通りの業を行うものと信じていたからである。ニネベの人々は、自分達のあり方を改めて悪から離れ、ヤーウェ神に対して怒りを静めるよう祈りを捧げて裁きと差し迫った災いの取消を求める自分達の希望を、断食して粗布をまとい、灰の中に座ることで示すのを望んだ。ニネベの人々のすべての行動を検討すると、ニネベの人々は、従前の邪悪な行動がヤーウェ神により嫌悪されるものであること、またヤーウェが自分達を間もなく滅ぼす理由を既に知っていたことが分かる。そのため、ニネベの人々全員が完全に悔い改め、悪の道を離れ、その手から不法を捨てることを望んだ。換言すると、ニネベの人々がヤーウェ神の宣言を確認した後、ニネベの人々それぞれが心に恐怖を覚え、悪の道を離れて、ヤーウェ神が嫌悪する行動を続けることを止めた。さらに、ニネベの人々は従前の罪に対する赦しと、従前の行動に基づいて処分しないことを、ヤーウェ神に誓願した。ニネベの人々は悪に二度と戻らず、二度とヤーウェ神の怒りを買わないよう、ヤーウェ神の指示に従って行動する意志があった。ニネベの人々の悔い改めは真摯であり、徹底していた。その悔い改めは、ニネベの人々の心底から出たものであり、偽りでも一時的なものでもなかった。

 ヤーウェが自分達に対して怒られていることを、王から臣民までニネベの人々全員が知った後、ニネベの人々のあらゆる行動と態度、そしてあらゆる判断、あらゆる選択は、神の目に明らかなものであった。ニネベの人々の行動に従い、神の心が変わった。神は、この時点でどのように感じていたであろうか。その答えは、聖書に記されている。聖句には、「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった」とある。神は思い直したものの、神の御心に複雑な部分は一切なかった。単に神は、怒りを伝えていた状態から怒りを静める状態へと変化し、ニネベに災いをくだすのを止めることに決めた。神がニネベに災いをくだすのを止めることに決断したのが迅速であったのは、神がニネベの人々すべての心を確認したからであった。神は、ニネベの人々の心底にあったもの、すなわち自分達の罪の真摯な告白と悔い改め、ニネベの人々の神に対する真摯な信仰、ニネベの人々が、自分達の悪の行いが神の性質の怒りを買った理由に関する深い理解、その怒りの結果となるヤーウェの罰に対する恐れを理解した。それと同時に、ヤーウェは、ニネベの人々が災いを免れることができるよう、ヤーウェに自分達に対する怒りを静めるよう誓願するニネベの人々の心底からの信仰を聞いた。神がこうしたことを認識した時、神の怒りは徐々に静まっていった。神の従前の怒りがどれほど激しいかを問わず、人々の心底からの真摯な悔い改めを神が認めた場合、神の心はその悔い改めを喜び、神は災いをニネベの人々にもたらすことに耐え兼ね、ニネベの人々に対する怒りを静めた。その代わりに、神はニネベの人々に憐れみと寛容さを引き続き与え、引き続き導きと施しを与えた。

『言葉は肉において現れる』より


クリスチャンの証し 2020「苦しみから喜びを」日本語吹き替え

2020-11-10 17:26:28 | クリスチャンの証し

 

クリスチャンの証し 2020「苦しみから喜びを」日本語吹き替え

 

 鍾心銘(チョン・シンミン)は教会の指導者で、本分のためなら苦しみに耐えることができ、良心と責任感を兼ね備えています。腰に問題を抱えていますが、痛みに負けず本分を尽くし続けます。しかし病状は悪化し、検査の結果、脊椎の四番目と五番目がヘルニアに冒されていると判明します。すぐに治療を受けなければ、寝たきりになるかもしれません。彼女は少し不安を覚えますが、この病状は神の許しを得て生じたもので、神は自分に試練を与え、自分の信仰と献身を試しているのだと信じます。そして治療に協力して本分を尽くし続ける限り、神はきっと守ってくださると思うのです。しかし時間が経つにつれて病状はますます悪化し、いつ身体が麻痺してもおかしくない状態に陥ります。病気というこの試練を彼女はどう乗り越えるのでしょう? そして最後にどうやって喜びを得るのでしょう? 『苦しみから喜びを』をご覧になり、その答えを見つけてください。

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クリスチャンの証し 2020「正しい道に戻る」日本語吹き替え

クリスチャンの証し 2020「神の御声に耳を傾け、主をお迎えする」日本語吹き替え


神はニネベを救われる

2020-11-09 19:37:39 | 天の国の福音

ニネベに届いたヤーウェ神の警告

 (ヨナ書1:1-2)主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。

 (ヨナ書3章)時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

 (ヨナ書4章)ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

 「神によるのニネベの救い」の聖句は長いものではないが、この聖句から神の義なる性質の別の側面を垣間見ることができる。その側面とは具体的に何を指すかを理解するためには、聖句で神の業を確認する必要がある。

 この聖句の次の部分、ヨナ書第3章に進む。「ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、『四十日を経たらニネベは滅びる』と言った。」この言葉は、神がニネベの人々に伝えるために直接ヨナに託した言葉である。またこの言葉は、当然ながら、ヤーウェがニネベの人々に伝えることを望んでいたものであった。この言葉からは、ニネベの人々の悪が神の目に触れたため、神がニネベの人々に嫌悪感を抱き、ニネベを滅ぼすことを望んでいたことが分かる。しかし、神がニネベを滅ぼす前に、神はニネベの人々にその旨を通知すると同時に、ニネベの人々に、悪を悔い改め、再出発する機会を与えた。この機会は40日間であった。つまり、ニネベの人々が悔い改めて罪を認め、40日以内にヤーウェの前にひれ伏さなかった場合、神はニネベの町を、ソドムと同様に滅ぼそうとしていた。これがヤーウェがニネベの人々に伝えることを望んだ内容であった。これは単なる宣告ではなかったことは明白である。この宣告はヤーウェ神の怒りを伝えるのみならず、ニネベの人々に対するヤーウェ神の姿勢を伝えるものでもあり、同時にこの簡単な宣告は、ニネベの町で生活する人々への厳粛な警告としての作用もあった。この警告では、ニネベの町の人々の悪がヤーウェ神の嫌悪を買うに至ったこと、人々の悪業により、人々は程なくして滅びの危機に見舞われること、したがって、ニネベの人々は喫緊の大惨事が待ち受けていることが伝えられた。

『言葉は肉において現れる』より

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神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

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神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる


日々の神の御言葉「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」抜粋287

2020-11-08 22:18:57 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」抜粋287

 

 あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は知性と観念のみであり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないか。今日なお、あなたがたはありとあらゆる真理の言葉に対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。あなたがたはキリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どうすれば聖霊の働きに入ることができるのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の策略の間の区別の仕方を知らない。あなたがたはただ、あなたがたの思いに沿わない、神が表明した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、必ず滅ぼされる部類に属する。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の跡継ぎであり、天使長の子孫であり、永遠の破滅を逃れることのできない輩である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。その時あなたは大きな興奮に包まれるだろう。だが、あなたがイエスが天から降臨することの証人となる時は、あなたが地獄へ送られ、懲罰される時でもあることを、あなたは知るべきだ。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人がしるしを見る前、真理の現れだけがある時に終わる。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽のキリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を差し出すイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に対処するしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、あまりに傲慢だ。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大きな救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりすべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしはあなたがたに、注意深く信仰の道を歩むよう助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたはうわべだけ神を信じたり、気楽に信じたりしてはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだあなたはおそらく、自分の信念と聖書に沿っている言葉は1万語にひとつだと信じているだろう。あなたはその1万分の1の言葉の中で求め続けなければならない。わたしは更にあなたに助言する。謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと。あなたの中の神に対するわずかな畏敬の念からより大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるだろう。これらの言葉をほんの数行読んだだけで、「これは聖霊の示しのほんの一部でしかない」とか、「人々を欺く偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるだろう。そのようなことを言える人たちはあまりに無知だ。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日に偽キリストが現れることにより、神の言葉を盲目的に非難してはならない。策略を恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないのか。もし良く調べた上で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと信じるなら、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないか。あなたは神の玉座の前に戻る幸いに与ることができないということではないのか。そのことを考えてみなさい。軽はずみで衝動的な人であってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のことを考え、前途を考え、そしてあなたのいのちのことを考え、自らをいい加減に扱わないようにしなさい。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』より引用