神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

中国共産党政府と宗教界の邪悪な本質とは何でしょうか。

2020-11-24 17:29:37 | 書籍

参照聖書箇所

 「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」(マタイによる福音書23:33

 「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは……(ヨハネの黙示録12:9

関連する神の言葉

 「わたしが言う赤い大きな竜は、単なる一匹の赤い大きな竜ではない。むしろ、それは「赤い大きな竜」という同義語を持つ……『言葉は肉において現れる』の「第九十六章」より


 「この地は数千年にわたり不浄の地となっており、耐えがたいほど汚れ、悲劇に溢れる。至る所に幽霊が彷徨い、欺し偽り、根拠の無い告発を行い、冷酷かつ残忍であり、この幽霊の街を踏みつけて屍の山を残した。腐った屍の悪臭が地を覆って充満しており、その地は堅く警護されている。誰が空の彼方の世界を見ることが出来ようか。その悪魔は人の身体全体をがんじがらめにして両眼を見えなくし、両唇を堅く封じる。魔王は数千年にわたって現在まで猛威を振るい、幽霊の街を堅固に警備しており、それはあたかも難攻不落の悪魔の城のようである。その一方、警護に当たる番犬の群れが睨んでおり、番犬は神による不意討ちで完全に滅ぼされるのを強く怖れ、平和と幸福の余地は無い。……肉にある神が完全に隠れたままであっても、不思議では無い。悪魔が残忍非道をはたらくような、こうした暗黒社会において、瞬く間に人々を殺す魔王が、愛しく懇切で聖い神の存在を、どうして容認出来ようか。どうして魔王は神の到来に喝采を送ることができようか。まったく卑屈な者どもである。そうした者は恩を仇で返し、神を侮って久しく、神を虐待し、残忍を極め、神を少しも敬うことなく、強奪や略奪を行い、良心を完全に失い、……宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。……なぜ、神の業に対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺く様々な謀りを用いるのか。真の自由や正当な権利と権益はどこにあるのか。公平さは、どこにあるのか。安らぎは、どこにあるのか。温もりは、どこにあるのか。偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのは何故か。神が来るのを武力で抑制するのは何故か。神が造った地の上を、神に自由に移動させないのは、何故か。神が枕するところが無くなるほどに神を追うのは、何故か。人間の温もりは、どこにあるのか。人間同士の歓迎は、どこにあるのか。それほどまで絶望的な思慕を神に引き起こすのは、何故か。神に何度も叫ばせるのは、何故か。神の愛する子を神に強制的に憂わせるは、何故か。この暗黒社会とその哀れな番犬が、神の造った世界を神が自由に出入り出来るようにしないのは、何故か。」『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より

 「真理を求め、義に付き従う者は、何人いるだろうか。そうした悪魔は皆、肥やしの中のはえがたかり、ぶたや犬のような、頭を振って混乱を招く獣である。そうした悪魔は、自分達が腐敗物に群がるはえに過ぎないことには気づかず、地獄にいる自分達の王が、全ての王の中で至高の存在であると考えている。それだけではなく、自分達のぶたや犬の両親に頼り、神の存在に対して中傷的なことを述べる。そうした小ばえのような者は、自分達の両親がハクジラのように大きいものであると考えている。そうした者は、自分達は極めて小さい存在であるが、自分達の両親は自分達よりも10億倍大きく不浄なぶたや犬であることに気付かないのであろうか。そうした者は、自分の卑しさに気付かず、ぶたや犬の腐った臭いを根拠として暴れ回り、将来の世代を生み出す妄想にとらわれる。これは完全なる厚顔無恥である。そうした者は、自分の背中に緑色の羽根がある(自分が神を信仰していると主張することを指す)ことで、自惚れて自分の美しさと魅力を至るところで自慢するようになり、密かに自らの不浄を人間になすりつける。さらに、そうした者の自惚れは、あたかも虹色の羽根が自分の不浄を隠すことが出来るかのようであり、それゆえに真の神の存在を迫害する(これは、宗教界の内情を指す)。人間は殆ど知らないが、はえの羽根は美しく魅力的だが、所詮は不浄に満ち、細菌に覆われた、小さなハエである。そうした者は、両親であるぶたや犬の力を借り、圧倒的な凶暴さで地の上で暴れ回る(これは、真の神と真理を裏切る国家の強力な支援を受けて神を迫害する宗教関係者を指す)。それは、あたかもユダヤのパリサイ人の幽霊が、古巣である赤い大きな竜の国家へと、神と共に戻ったかのようである。そうした者は、自らの迫害の業を再開し、その数千年にわたる業を継続する。こうした堕落した者の集団が最後に地の上で滅びることは確実である。数千年が経過した後、不浄な霊は、さらに狡猾で悪賢くなっているようである。そうした者は、密かに神の業を台無しにする術を常に考えている。そうした者は狡猾で悪賢く、自国で数千年前の悲劇を再現することを望んでいる。そうした行いにより、神は突き動かされて大声で叫ぶ寸前の状態にされ、神は第三の天に戻ってそうした者を滅ぼさずにいられない。」『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

サタンは人道的で正しく、道徳があるように思われるが、その本質は残忍かつ邪悪である。

 「サタンは、一般大衆を騙すことにより、名声を得る。通常、サタンは義の先導者的かつ模範的存在として、自分自身の立場を確立する。義を守るという旗印のもと、サタンは人間を傷つけ、その魂を食い物とし、また人間を麻痺させ、騙し、扇動するためにあらゆる手段を講じる。サタンの目標は、自分の邪悪な行いを人間に認めさせ、それに人間を従わせること、サタンと共に神の権威と支配に反対させることである。しかし、その陰謀や策略、下劣な特徴についてわきまえるようになり、サタンの踏み台にされ、騙され、奴隷として仕えること、あるいはサタンと共に罰を受けて滅ぼされることを望まなくなると、サタンは従前の高徳な特徴を一変させ、仮面を破り捨て、真の邪悪で残忍で醜い獣のような素顔を現す。サタンは、自分に従うことを拒んだ者と、サタンの邪悪な力に反対した者全てを皆殺しにすることを、何よりも好む。この段階で、サタンは信頼のおける紳士的姿を装うことは出来なくなり、被っている羊の皮の下の醜い悪魔のような特徴を持つ正体を現す。サタンの陰謀が明るみに出た時、その真の特徴が現れた時、サタンは激怒してその野蛮さを現し、人間を傷つけ、食い物にするサタンの欲望が強くなって行く。これは、サタンが人間が目覚めることに対して激怒するからである。サタンは、捕らわれの身から解き放たれて自由と光を得ようとする人間に、強い復讐の念を抱いている。サタンの怒りは、サタンの邪悪さを保護するためのものであり、またその獣のような性質を真に披瀝するものである。

 サタンの『力』や、大胆さ、野望がどれほどのものであったとしても、サタンの損傷を与える能力がどれほど優れていたとしても、サタンが人間を腐敗させ、誘惑する能力の幅広さがどれほどのものであったとしても、サタンが人間を威嚇する謀略や計略がどれほど狡猾であったとしても、またサタンが存在する形態をどれほど変化させることができたとしても、サタンには生き物を造る能力や、万物に対する律法や規律を定める能力があったことは無く、命のあるものかないものかを問わず、どのようなものも支配する能力があったことは無い。広大な宇宙の中で、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに統治され、支配されている人間や物は、全く存在しない。それとは反対に、サタンは神の支配権の下で生活する必要があり、さらに神の指示と命令にすべて従う必要がある。神の許可なくしては、サタンにとってひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難である。また神の許可なくしては、サタンは蟻を地に這わせることさえままならないのであるから、神の造った人間を動かすことなど到底できるはずがない。神から見ると、サタンは山のユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣る。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人間のために仕え、神の業と神の経営(救いの)計画に資することである。サタンの本性がいかに悪意に満ちているか、その本質がいかに邪悪であるかによらず、サタンにできることは、神に仕え、神に対照を提供するという、その機能に従順に従うことのみである。これがサタンの本質であり位置づけである。サタンの本質は命や力、権威から切り離されており、サタンは神の手の中にある玩具のようなもの、神のための役立つ道具に過ぎない。」『言葉は肉において現れる』の「 唯一無二の神自身 1」より

 「サタンの行動や、サタンが起こした奇跡を何と呼ぶであろうか。それらは、力であろうか。それらを権威と呼べるであろうか。無論、それは力ではなく、権威とも呼べない。サタンは邪悪を率い、神の業のあらゆる側面を覆し、損なわせ、妨害する。現在まで数千年にわたり、人間を腐敗させ、虐待し、人間を誘惑し、欺して悪行を行わせ、神から拒否される存在にして、死の淵に向かわせたサタンは、かつて人間による祝賀や称賛、敬愛に値することを行ったことがあろうか。仮にサタンが権威と力を持っていたとすれば、人間はその権威や力により腐敗させられていたであろうか。仮にサタンが権威と力を持っていたとすれば、人間はその権威や力により危害を被ったであろうか。仮にサタンが権威と力を持つとすれば、人間はその権威や力により神を捨てて死へと向かうのであろうか。サタンには権威も力も無いのであれば、サタンの行為の本質は何であると判断すべきであろうか。サタンの行為全てを単なる謀略であると定義する人々もいるが、わたしはそうした定義はそれほど適切ではないと考える。人間の腐敗による邪悪な行いは、単なる謀略であろうか。サタンがヨブを虐げた邪悪な力と、ヨブを虐げ悩ませようとする激しい願望は、単なる謀略では得られないものである。思い出してみると、丘や山に広く群れていたヨブの動物たちは、一瞬にして消え去った。ヨブが所有していた大量の富が一瞬で消えた。これは謀略だけで成し得たことであろうか。サタンの業の性質は、損害、妨害、破壊、危害、邪悪、悪意、闇など、否定的な言葉に該当するので、そうした不正で邪悪な出来事の全てはサタンの行為と密接に繋がっており、サタンの邪悪な本質と不可分のものである。」『言葉は肉において現れる』の「 唯一無二の神自身 1」より

 「サタンの『力』や、大胆さ、野望がどれほどのものであったとしても、サタンの損傷を与える能力がどれほど優れていたとしても、サタンが人間を腐敗させ、誘惑する能力の幅広さがどれほどのものであったとしても、サタンが人間を威嚇する謀略や計略がどれほど狡猾であったとしても、またサタンが存在する形態をどれほど変化させることができたとしても、サタンには生き物を造る能力や、万物に対する律法や規律を定める能力があったことは無く、命のあるものかないものかを問わず、どのようなものも支配する能力があったことは無い。広大な宇宙の中で、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに統治され、支配されている人間や物は、全く存在しない。それとは反対に、サタンは神の支配権の下で生活する必要があり、さらに神の指示と命令にすべて従う必要がある。神の許可なくしては、サタンにとってひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難である。また神の許可なくしては、サタンは蟻を地に這わせることさえままならないのであるから、神の造った人間を動かすことなど到底できるはずがない。神から見ると、サタンは山のユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣る。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人間のために仕え、神の業と神の経営(救いの)計画に資することである。サタンの本性がいかに悪意に満ちているか、その本質がいかに邪悪であるかによらず、サタンにできることは、神に仕え、神に対照を提供するという、その機能に従順に従うことのみである。これがサタンの本質であり位置づけである。サタンの本質は命や力、権威から切り離されており、サタンは神の手の中にある玩具のようなもの、神のための役立つ道具に過ぎない。」『言葉は肉において現れる』の「 唯一無二の神自身 1」より

 


キリストは、真理を以て裁きの働きを行う(抜粋3)

2020-11-23 10:39:40 | 聖霊の御言葉
     裁きの働きは神自身の働きなので、当然、神自身が行う。神の代わりに人が行うことはできない。裁きは真理を通した人への征服なので、人の間でこの働きを行うため、神はやはり受肉した姿で現れることは疑う余地がない。つまり、終わりの日には、キリストが真理を用いて地球上の人を教え、真理を用いて彼らに真理を全て明らかにする。これが、神による裁きの働きだ。多くの者が、神の二度目の受肉について受け入れ難いものを感じる。なぜなら、神が受肉して裁きの働きを行うことは、人には信じ難いからだ。しかしわたしはあなたに告げなければならない。神の働きは往々にして人の予測をはるかに超えるもので、人の頭がそれを受け入れるのは難しいのだと。というのも、人は地上のウジ虫にすぎないが、神は宇宙を満たす至高の存在だ。人の頭は、ウジ虫しか生み出さない汚い水たまりに過ぎないが、神の考えに支配されたひとつひとつの働きは、神の知恵による結晶だ。人は、常に神に敵対することを望む。それなら結局誰が負けることになるかは自明だと、わたしは言おう。わたしは強く勧める、あなたがたがみな自分を金より重要だとみなさないようにと。もし他の人たちが神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたはできないのか。彼らに比べてあなたがどれほどの高みにいるというのか。もし他の人たちが真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたも同様にできないのか。神の働きの偉大な潮流を止めることはできない。神は、あなたの「功績」のために裁きの働きを繰り返すことはなく、あなたはそんな好機を逃したことを痛烈に後悔するだろう。もしあなたがわたしの言葉を信じないなら、天の偉大な白い玉座があなたの上に「裁きを下す」のを待つが良い!あなたは、全てのイスラエル人がイエスを拒絶し否定したにも関わらず、イエスによる人類への贖罪はいまだに世界の果てまで広がっているという事実を知るべきだ。これは、神がはるか昔に実現した事実ではないのか。もしあなたがまだイエスによって天に引き上げられるのを待っているのなら、あなたは頑固な一片の枯れ木だとわたしは言おう。イエスは、あなたのように真理に忠実でなく、祝福だけを求める偽の信者を認めないだろう。それどころか、神は容赦なく、何万年も焼かれるために火の湖にあなたを投げ入れるだろう。

    これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。それこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを不潔な霊の渦中に放り込む。その結果、彼らは二度と肉体をもつことはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。『言葉は肉において現れる』より引用


なぜ宗教界は全能神と全能神教会を罪に定め、狂気のごとく抵抗することにそれほど多くの努力を注ぐのでしょうか。

2020-11-23 10:07:05 | 書籍

 参照聖書箇所

   「もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。」(マタイによる福音書 21:33-39

   「そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して言った、『この人が多くのしるしを行っているのに、お互は何をしているのだ。もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう』。…… 彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。」(ヨハネによる福音書 11:47-4853

 関連する神の言葉

   「何と不思議なことだろうか。神の受肉が人間により常に拒否され、非難されるのは何故だろうか。人間が神の受肉を全く理解しないのは何故だろうか。神が来た時期が誤っていたのであろうか。神が来た場所が誤っていたのであろうか。そうなるのは、人間の『署名』なしに神が独自に行動したためであろうか。人間の許可なく神が決意したことが原因だろうか。……人々は主の口から授けられた物を食べ、主の血を飲み、主が授けた恵みを享受する一方で、主に反抗した。なぜなら人々は自分にいのちを与えたのが誰かを知らなかったからである。最終的に、人間は主を十字架に架けたが、主は騒がなかった。現在も依然として主は黙している。人々は主の肉を食べ、主が人々のために作る食べ物を食べ、主が人々のために拓いた道を歩み、主の血を飲んでいる。しかし人間は依然として主を拒もうとし、実際に、自分にいのちを授けた神を敵とみなし、自分と同様の奴隷を天の父として扱う。人間は、そうした行動を取ることで、故意に神に反抗しているのではなかろうか。……人間は、自分の命と光が何処から来たかを知らず、人間のもとで苦難を受けた二千年前のイエスを再び磔刑にするかを謀るだけである。イエスは本当にそうした敵意を喚起するというのか。イエスの行ったことは、遠い昔に全て忘れ去られたのであろうか。数千年にわたって募った敵意は、遂に爆発するであろう。あなたがたはユダヤ人と同類である。あなたがたがイエスを憎むようになる程までに、あなたがたに対して何時イエスが敵意を抱いたというのか。イエスはあれほどにも行い、語った。そのどれもが、あなたがたにとって有益では無いというのか。主は自らのいのち何も見返りを求めずに、あなたがたに授けた。主は自らの全てをあなたがたに授けた。あなたがたは本当に主を生きたまま食べたいというのか。……『ユダヤ人』が見受けられない場所は無く、彼らは現在も同様の働きを、神に反抗する働きを行っているが、自分達は神を高く掲げていると信じている。人間が自らの眼で神を知ることが、どうして出来ようか。霊に由来し受肉した神を、肉にある人間が神として扱うことが、どうして出来ようか。人間のうち、誰が神を知ることが出来るというのか。人間の真理はどこにあるのか。真の義はどこにあるのか。誰が神の性質を知り得ようか。誰が天の神と争うことが出来ようか。神が人間のもとに来た時、誰も神を知らず、神は拒まれたのも不思議では無い。人間が神の存在を容認することが、どうして出来るだろうか。光が闇を追い払うことを、どうして人間が許すことが出来ようか。これらは人間の貴ぶべき献身では無いのか。それは人間がいのちに入る正しい道では無いのではなかろうか。」『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(10)」より

 「あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。これほど愚かで頑固で無知な人々が、神の祝福を得ることなどあり得ようか。彼らがメシアを見ることなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従わなかった。彼らの神への信仰の原則は、『どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない』というものである。これらの見方は不合理でばかばかしくないであろうか。あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、諸教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが表した全てをはねつけることとなる。それほど混乱しているのなら、イエスから何を得られるというのか。」『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

   「どの教団、教派の指導者を見ても、みな独善的で聖書を勝手に解釈しています。彼らは賜物と学識に頼って働いています。彼らが説教をすることが出来なければ、人々はそれでも付いて来るでしょうか。指導者たちはそれなりの知識を得、教義を少しは語ることができ、他の人々を勝ち取ったり策略を用いたりして自分達のところへ人を集め、欺いてきました。欺かれた人々は、名目上神を信じてはいますが、実際には神ではなく指導者に付き従っているのです。真の道を語る人に彼らが出会ったならば、「信仰について、私たちの指導者に相談する必要がありますね。」と言う者もいるでしょう。彼らには神に対する信仰に関して、誰かの承認が必要なのです。それは問題ではないでしょうか。指導者達はどのような存在になったのでしょう。パリサイ人、偽羊飼い、反キリスト、真の道を受け入れようとする人々にとっての躓きになったのではないでしょうか。」『キリストの言葉の記録』の「真理の追求のみが真の神への信仰」より

   「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。」『言葉は肉において現れる』の「神を知らない人はすべて神に反対する人である」より

   「真理を求め、義に付き従う者は、何人いるだろうか。そうした悪魔は皆、肥やしの中のはえがたかり、ぶたや犬のような、頭を振って混乱を招く獣である。そうした悪魔は、自分達が腐敗物に群がるはえに過ぎないことには気づかず、地獄にいる自分達の王が、全ての王の中で至高の存在であると考えている。それだけではなく、自分達のぶたや犬の両親に頼り、神の存在に対して中傷的なことを述べる。そうした小ばえのような者は、自分達の両親がハクジラのように大きいものであると考えている。そうした者は、自分達は極めて小さい存在であるが、自分達の両親は自分達よりも10億倍大きく不浄なぶたや犬であることに気付かないのであろうか。そうした者は、自分の卑しさに気付かず、ぶたや犬の腐った臭いを根拠として暴れ回り、将来の世代を生み出す妄想にとらわれる。これは完全なる厚顔無恥である。そうした者は、自分の背中に緑色の羽根がある(自分が神を信仰していると主張することを指す)ことで、自惚れて自分の美しさと魅力を至るところで自慢するようになり、密かに自らの不浄を人間になすりつける。さらに、そうした者の自惚れは、あたかも虹色の羽根が自分の不浄を隠すことが出来るかのようであり、それゆえに真の神の存在を迫害する(これは、宗教界の内情を指す)。人間は殆ど知らないが、はえの羽根は美しく魅力的だが、所詮は不浄に満ち、細菌に覆われた、小さなハエである。そうした者は、両親であるぶたや犬の力を借り、圧倒的な凶暴さで地の上で暴れ回る(これは、真の神と真理を裏切る国家の強力な支援を受けて神を迫害する宗教関係者を指す)。それは、あたかもユダヤのパリサイ人の幽霊が、古巣である赤い大きな竜の国家へと、神と共に戻ったかのようである。そうした者は、自らの迫害の業を再開し、その数千年にわたる業を継続する。こうした堕落した者の集団が最後に地の上で滅びることは確実である。数千年が経過した後、不浄な霊は、さらに狡猾で悪賢くなっているようである。そうした者は、密かに神の業を台無しにする術を常に考えている。そうした者は狡猾で悪賢く、自国で数千年前の悲劇を再現することを望んでいる。そうした行いにより、神は突き動かされて大声で叫ぶ寸前の状態にされ、神は第三の天に戻ってそうした者を滅ぼさずにいられない。」『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より


日々の神の御言葉「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」抜粋556

2020-11-21 23:39:23 | 日々の神の御言葉

 

  真理を追求することでのみ、性質の変化を遂げることができます。これは人が完全に把握し、理解する必要のある事柄です。真理を十分に理解していなければ、容易に過ちをおかして道に迷います。いのちの成長を望むなら、万事において真理を求めなければなりません。何をしていても、どう振る舞えば真理と一致できるかを探求し、それに反するどのような汚れが自分の中にあるかを突き止める必要があります。こうしたことについて、あなたははっきり理解しなければなりません。自分が何をしていようとも、そこに価値があるかどうかを考えるべきです。有意義なことならしても構いませんが、無意味なことはしてはいけません。してもしなくてもよいことについて言えば、放っておけるものならそうしなさい。そうでなければ、そうしたことをしばらく行ない、後で放っておくべきだと気づいたなら、素早く判断してすぐに捨てなさい。これがあらゆる行為においてあなたが従うべき原則です。中には次のように疑問の声を上げる人もいます。「真理を求めて実践するのがこれほど難しいのはなぜなのか。まるで流れに逆らって舟を漕ぎ、漕ぐのをやめたら押し流されるようなものだ。悪事を犯したり無意味なことをしたりすることのほうが、流れに沿って舟を漕ぐようにずっと簡単なのはなぜなのか。どうしてそうなのか」。それは、人の本性が神を裏切るものだからです。人の中ではサタンの本性が主導権を握っていますが、それは反動的な力です。神を裏切る本性の持ち主は、当然ながら神を裏切ることをとかく行ないがちで、肯定的な物事をするのは自然と困難です。それはひとえに人の本性と本質に左右されます。ひとたび本当に真理を理解し、心からそれを愛するようになれば、真理と合致する物事を行なう力が生まれます。すると、それが普通のことになり、努力もいらず楽しいことにさえなって、否定的な何かをするのはかなりの努力が必要だと感じるようになります。それはあなたの心の中で真理が主導権を握ったからです。人生に関する真理やどのような人になるべきかの真理、つまり公明正大で率直な人、正直な人、神のために証しをして神に仕える人にどうすればなれるかを本当に理解すれば、神に背く悪事を行なうことはできなくなり、偽の指導者、偽の働き手、あるいは反キリストの役を演じることも二度となくなります。サタンがあなたを惑わそうと、悪人があなたをそそのかそうと、あなたがそうすることはありません。誰に強制されようと、あなたはそのように振る舞いません。人が真理を得て、真理がその人のいのちになったとき、その人は悪を憎み、否定的な物事に対して内なる嫌悪を感じることができるようになり、悪事を犯すのが難しくなります。それは、その人の性質が変わり、神によって完全にされたからです。
 
 自分の中に真理が本当にあれば、自然と正しい道を歩むようになります。真理がなければたやすく悪事を犯し、そうせずにはいられなくなります。たとえば、自分の中に傲慢さや自惚れがあれば、神に反抗しないようにするのは不可能であり、どうしても神に反抗せずにはいられません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、最後は自分を神の立場に置いて自分の証しをするようになります。最終的に、自分の発想や思考や観念を、崇拝すべき真理に変えてしまうのです。傲慢で自惚れた本性に支配された人がいかに多くの悪事を働くかをご覧なさい!自分の邪悪な行ないを解消するには、まず本性の問題を解決しなければなりません。性質の変化なくして、この問題の根本的解決は不可能でしょう。神について多少認識し、自分の堕落を見ることができ、傲慢さと自惚れが卑劣で醜いことに気づけるとき、あなたは嫌悪を覚え、気分が悪くなり、苦悩する。あなたは神を満足させることを意識的に行なうことができ、そうする中で安らぎを感じる。あなたは意識的に神に証しをすることができ、そうする中で喜びを感じる。あなたは意識的に仮面を脱いで自分の醜さをさらけ出し、そうすることで内面的に気分がよくなり、精神状態が改善したのを感じる。ゆえに性質の変化を求める第一歩は、神の言葉を理解して真理に入るのを求めることです。真理を理解してはじめて識別力を得られ、識別力があってはじめて物事を完全に理解できるようになります。そして物事を完全に理解してはじめて肉を捨て去ることが可能となり、神への信仰をもって正しい道を一歩ずつ歩めるようになるのです。このことは、真理を求める時に人の決意がどれほど固いかと関連します。本気で決意している人は、6か月から1年後に正しい道へ乗り始め、3年から5年以内に結果が生まれ、いのちの進歩を遂げつつあると感じるでしょう。神を信じているが真理を追求しないのであれば、10年信じても何ら変化を経験しません。最後は、これがまさに神を信じるということだ、以前に俗世で暮らしていたときとまったく同じで、生きていても無意味だと思うでしょう。これは、真理のない人生が空虚であることを真に示しています。何かしらの教義を語れても、依然として不快さと不安を感じるのです。神に関する認識があり、有意義な人生を送る方法を知り、神を満足させることを行なえるなら、それが真の人生であり、そのように生きることでのみ人生が有意義になると感じ、少しは神を満足させて喜びを覚えるには、そのように生きなければならないと思うでしょう。意識的に神を満足させ、真理を実践し、自分と自分の考えを捨て去り、神の旨に従い、それに配慮することをすべて意識的に行なえるなら、それが真理を正確に実践するということ、真理を真に実践するということであり、想像に頼り、教義や規則に固執していた以前の状態とはまるで違います。実際のところ、真理を理解せずに何かを行ない、教義や規則を守り、目標をもたず無闇に物事を行なうのは疲れることです。真理がなければ自由になれないというのは嘘でなく、真理があれば容易かつ幸せに物事を行なえます。このような状態の人が真理を自分のものにしている人、性質が変化した人なのです。
『キリストの言葉の記録』より引用
 
 
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なぜ中国共産党政府は全能神と全能神教会を狂気のごとく弾圧し、残虐にも迫害するのでしょうか。

2020-11-20 12:30:12 | 天の国の福音

参照聖書箇所

   「この時代は邪悪な時代である。」(ルカによる福音書 11:29 「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。  (ヨハネの第一の手紙 5:19 「光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。」(ヨハネによる福音書 3:19-20  「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。」 ヨハネによる福音書 15:18

   「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。」(イザヤ書 14:12-14 「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。 ……龍は、自分が地上に投げ落されたと知ると、男子を産んだ女を追いかけた。」(ヨハネの黙示録 12:7-913

関連する神の言葉

   「以下はそれに対する事実である、地がまだ存在していなかったとき、大天使は天国の天使の中で最も偉大だった。大天使は、天国のすべての天使に対する権限を握っていた。それは神から大天使に与えられた権威だった。神を除いて、大天使は天国の天使の中で最も偉大だった。神が後に人間を創造したとき、大天使は地上において神に向けて大きな裏切りを行った。大天使は、人間を支配し、神の権威を超越したかったため、神を裏切ったとわたしは言うのである。エバを誘惑して罪に陥れたのは大天使だった。大天使が神を裏切ったのは、地上に自分の王国を建設し、人間に神を裏切らせて、代わりに自分に従わせたかったからである。……大天使はそのようにして神の権威を超越し、神を裏切ろうと考えた。後に大天使は多くの天使たちに神を裏切らせ、それが汚れた霊となった。」『言葉は肉において現れる』の「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」より

   「霊的世界ではこの線に沿って戦いが行われる。サタンの空しい望みは、人類をある程度堕落させ、世界を汚れて邪悪な場所にし、人を泥の中に引きずり落とし、神の計画を破壊することである。」『言葉は肉において現れる』の「第五章」より

   「神は業を行い、人間を慈しみ、見守るが、サタンは常に神の働きの邪魔をする。神が大事にする人間を、サタンも見ていてつけ回す。神がその人間を求めると、サタンは持てる力の全てでどんなことでもして神の行うことを阻もうとし、隠された目的を達成するため、あらゆる邪悪な方法で神の業を試し、邪魔し、挫折させようとする。サタンの目的は何であろうか。サタンは神が人間を得られなくなることを求めている。サタンは神が求める人間を求め、その者を自分のものとして支配し、掌握してサタンを崇拝させ、サタンと共に邪悪なことを行わせることを求めている。これはサタンの悪意に満ちた動機ではないか。……サタンは神と戦い、また神をつけ回している。サタンの目的は神が行おうとする業をすべて粉砕し、神が求める人間を自分のものとして支配し、完全に消滅させることである。こうした人間が消滅しなかった場合、その人間はサタンのものとなってサタンに用いられる。これがサタンの目的である。」『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身4」より

   「魔王は人間の若い心に無神論の腫れ物の種を植え付け、『科学技術を学び、四つの近代化を実現せよ。この世に神はいない。』など、人間に偽りを諭した。それだけでなく、魔王は『私達の勤勉な労働により素晴らしい国を建てよう。』と繰り返し宣言し、全ての者に対して、幼少時代から自国のために仕える訓練をするよう要求した。人間は無意識のうちに魔王の前へと導かれ、魔王は(あらゆる人間を掌握している神を名乗り)躊躇無く人間を我がものとした。魔王は、一度も恥じらうことは無く、恥辱を覚えることは一切無かった。さらに、魔王は厚かましくも神の選民を自分の家の中に捕らえ、ねずみのように机上に飛び乗り、人間に自分を神として崇拝させた。魔王は、何という無法者であろうか。魔王は『この世に神はいない。風は自然の法則が原因である。雨は凝結して水滴となって地表に落ちる水分である。地震は地質学的変化に起因する地表の振動である。干ばつは太陽表面の原子核工学的障害により起こる大気の乾燥である。これらは自然現象である。そのうちどれが神の業だというのか。』などという衝撃的な中傷を唱える。その上魔王は、『人間は古代の類人猿から進化したもので、現在の世界は、約10億年前の原始社会から進化したものである。ある国家の栄枯盛衰は、その国家の国民の手により決まる。』などという恥知らずな事を呼びかける。後ろの方では、人間に魔王を上下逆にして壁に掛けさせ、机上に鎮座させて崇拝させる。魔王は『神はいない。』と唱えるが、魔王は自らを神とみなし、真の神を執拗に地の果ての外へと追いやろうとする。魔王は神の地位に立ち、魔王として君臨する。何と途方も無く馬鹿げたことであろうか。魔王は、有害な憎悪により人間に滅びをもたらす。神は魔王の宿敵であり、神は魔王と折り合いを付けることが不可能であると思われる。魔王は神の駆逐を謀り、罰を受けることも捕らわれることも無いままの、まさしく魔王である。どうして私たちが魔王の存在を容赦できようか。魔王は、神の業を阻止し、打ち砕いて台無しにするまで休むことが無く、それはあたかも最後にどちらかが滅びるまで、魔王は神に反抗し続けたいかのようである。魔王は、故意に神に反抗し、常に神に近付く。魔王の忌まわしい顔は、完全に仮面を剥がされて久しく、打ちのめされてあざが出来、窮状にあるが、それでも神への憎悪が衰えることは無く、それはあたかも魔王が神を一口に呑み込んで自分の心の憎しみを癒やすことを望んでいるかのようである。」『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

   「上から下まで、そして最初から最後まで、魔王は神の業を阻害し、神に協調しない行動を取り続けてきた。古代文化遺産や貴重な古代文化の知恵、道教や儒教の教え、儒教の五経と封建時代の礼に関する話が、人間を陰府に陥れた。現代の先進科学技術も、発展した農工業、そして商業も、全く見当たらない。むしろ魔王は、故意に神の業を阻害し、それに反対し、それを破壊するために、古代の『類人猿』により広められた、封建時代の礼をひたすら強調する。魔王は現在に至るまで人間を苦しめてきたが、それだけでなく人間を完全に食い物にすることを望んでいる。そうした封建時代の倫理規定に関する教え、古代文化の知恵の継承が、人間を長年にわたって蝕み、大小の悪魔へと変貌させて来た。神を快く受け容れ、神の降臨を歓迎するであろう者は、ごく僅かである。人間の表情は殺気に満ち、至る所で死の気配が感じられる。そうした者は、神をこの地から排除することを求め、神を抹消するために、刀剣を持って陣を組んでいる。悪魔の地全体において、偶像が広まり、人間は、神はいないと教えられ続けている。この地の上には、吐き気を催すような紙と香の焼ける臭いが強く漂っており、窒息するほどである。それはへびがとぐろを巻く時に放つ汚泥の臭いのようであり、人間は嘔吐ずにはいられないほどである。それに加えて、悪魔達の読経が、かすかに聞き取れる。その声色は陰府の遠い所から聞こえるようであり、人間は背筋が凍るのを感じずにはいられない。虹色の偶像がこの地全体に散在し、それがこの地を幻惑の世界へと変え、魔王は自分の邪悪な謀りが成就したかのように、常に薄笑いを浮かべている。その一方、人間はそれに全く気付かず、自分の理性が無くなり、自分が打ち倒されるほどまでに悪魔が自分を腐敗させたことに気付かない。悪魔は神の全てを一撃打破し、再び神を侮辱し、暗殺することを望み、神の業を打ち壊し、阻害しようとする。どうして悪魔は神が同等の地位にあることを甘受出来ようか。どうして悪魔は、地において人間の中で行う自分の業を神が『邪魔する』のを許すことが出来ようか。どうして悪魔は神が自分の醜悪な顔を暴くのを許すことが出来ようか。どうして悪魔は神が自分の業を阻止するのを許すことが出来ようか。そう酷く怒っている悪魔が、どうして神が地における権力の宮を治めるのを甘受するであろうか。どうして悪魔が敗北を認めることを望むであろうか。悪魔の醜悪な表情は悪魔の在り方を示しており、それゆえ人間は自分が笑うべきか泣くべきか分からなくなり、悪魔について語ることは極めて困難である。それが悪魔の本質ではなかろうか。」『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

   「この地は数千年にわたり不浄の地となっており、耐えがたいほど汚れ、悲劇に溢れる。至る所に幽霊が彷徨い、欺し偽り、根拠の無い告発を行い、冷酷かつ残忍であり、この幽霊の街を踏みつけて屍の山を残した。腐った屍の悪臭が地を覆って充満しており、その地は堅く警護されている。誰が空の彼方の世界を見ることが出来ようか。その悪魔は人の身体全体をがんじがらめにして両眼を見えなくし、両唇を堅く封じる。魔王は数千年にわたって現在まで猛威を振るい、幽霊の街を堅固に警備しており、それはあたかも難攻不落の悪魔の城のようである。その一方、警護に当たる番犬の群れが睨んでおり、番犬は神による不意討ちで完全に滅ぼされるのを強く怖れ、平和と幸福の余地は無い。……肉にある神が完全に隠れたままであっても、不思議では無い。悪魔が残忍非道をはたらくような、こうした暗黒社会において、瞬く間に人々を殺す魔王が、愛しく懇切で聖い神の存在を、どうして容認出来ようか。どうして魔王は神の到来に喝采を送ることができようか。まったく卑屈な者どもである。そうした者は恩を仇で返し、神を侮って久しく、神を虐待し、残忍を極め、神を少しも敬うことなく、強奪や略奪を行い、良心を完全に失い、……宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。……なぜ、神の業に対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺く様々な謀りを用いるのか。真の自由や正当な権利と権益はどこにあるのか。公平さは、どこにあるのか。安らぎは、どこにあるのか。温もりは、どこにあるのか。偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのは何故か。神が来るのを武力で抑制するのは何故か。神が造った地の上を、神に自由に移動させないのは、何故か。神が枕するところが無くなるほどに神を追うのは、何故か。人間の温もりは、どこにあるのか。人間同士の歓迎は、どこにあるのか。それほどまで絶望的な思慕を神に引き起こすのは、何故か。神に何度も叫ばせるのは、何故か。神の愛する子を神に強制的に憂わせるは、何故か。この暗黒社会とその哀れな番犬が、神の造った世界を神が自由に出入り出来るようにしないのは、何故か。」『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より

   「サタンは、一般大衆を騙すことにより、名声を得る。通常、サタンは義の先導者的かつ模範的存在として、自分自身の立場を確立する。義を守るという旗印のもと、サタンは人間を傷つけ、その魂を食い物とし、また人間を麻痺させ、騙し、扇動するためにあらゆる手段を講じる。サタンの目標は、自分の邪悪な行いを人間に認めさせ、それに人間を従わせること、サタンと共に神の権威と支配に反対させることである。しかし、その陰謀や策略、下劣な特徴についてわきまえるようになり、サタンの踏み台にされ、騙され、奴隷として仕えること、あるいはサタンと共に罰を受けて滅ぼされることを望まなくなると、サタンは従前の高徳な特徴を一変させ、仮面を破り捨て、真の邪悪で残忍で醜い獣のような素顔を現す。サタンは、自分に従うことを拒んだ者と、サタンの邪悪な力に反対した者全てを皆殺しにすることを、何よりも好む。この段階で、サタンは信頼のおける紳士的姿を装うことは出来なくなり、被っている羊の皮の下の醜い悪魔のような特徴を持つ正体を現す。サタンの陰謀が明るみに出た時、その真の特徴が現れた時、サタンは激怒してその野蛮さを現し、人間を傷つけ、食い物にするサタンの欲望が強くなって行く。これは、サタンが人間が目覚めることに対して激怒するからである。サタンは、捕らわれの身から解き放たれて自由と光を得ようとする人間に、強い復讐の念を抱いている。サタンの怒りは、サタンの邪悪さを保護するためのものであり、またその獣のような性質を真に披瀝するものである。サタンが憤慨し、激怒する理由は、サタンの陰謀が明らかになったことや、その策略を成功させるのが困難であること、神の代わりとして君臨するというサタンの向こう見ずな野心と願望が打ち砕かれ、阻止されたこと、人間を支配する目標が何の価値もないものとなり、永遠に達成出来なくなることなどである。」『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身2」より

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