神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第三章」抜粋48

2020-10-26 22:23:49 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第三章」抜粋48

 

 勝利を収めた王は、栄光の玉座に着く。王は贖いを成し遂げ、自らの民をすべて導いて、栄光の中に出現させた。王は万物をその手中にしており、その神聖な知恵と力によってシオンを堅く打ち立てた。王はその威厳をもって、罪深い世界を裁く。すべての国々と民とを裁き、地と海とそこに住むあらゆる生き物を裁き、淫乱の葡萄酒に酔いしれた者たちにも裁きを下したのだ。神は必ずや彼らを裁き、必ずや彼らに怒りを示すだろう。そこに神の威厳があらわされる。神の裁きは一瞬のうちに、遅れることなく下される。神の怒りの炎は必ずや彼らの凶悪な犯罪を焼き尽くし、災いはいつでも彼らに降り注ぐだろう。そのとき彼らは、逃げ道も隠れる場所もないことを知り、涙を流して歯ぎしりし、自らに破滅をもたらすだろう。

 神に愛された勝利の子らは、確かにシオンに留まり、決してそこを離れることはない。群衆は神の声にじっと耳を傾け、神の行いを注意深く見守り、讃美の声は絶えることがない。唯一の真の神が現れたのだ! 私たちは霊の中で神を確信し、しっかりと付き従う。全力で突き進み、もうためらうことはない。世界の終わりが私たちの目前で明らかになりつつあるのだ。正しい教会生活と、私たちを取り囲む人々、出来事、物事は今も、私たちの訓練を強化している。深くこの世を愛してしまった心を急いで取り戻そう。ひどく曇ってしまった視力を急いで取り戻そう。境界を越えないように、ここで歩みを止めよう。口を閉ざして神の言葉の中を歩み、自分の損得のために争うことをやめるのだ。ああ、俗世間と富への欲深い愛を手放せ。ああ、夫や息子、娘たちへの愛着から自らを解放せよ。ああ、独自の見解や偏見に背を向けよ。ああ、目を覚ませ、時間がないのだ。霊の中から見上げ、神に支配を委ねなさい。何があっても、ロトの妻のようになってはいけない。見捨てられるのはなんと惨めなことか。ああ、なんと惨めなことか! ああ、目を覚ましなさい!

『言葉は肉において現れる』より


日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第一章」抜粋46

2020-10-25 21:35:34 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第一章」抜粋46

 

 シオンに讃美がもたらされ、神の存する場所が現われた。栄光に満ちた聖なる名が万民に讃えられ、広まる。ああ、全能神よ。宇宙の頭、終わりの日のキリスト。この方こそ、全宇宙に堂々と威厳に満ちてそびえ立つシオンの山に登った輝く太陽である。

 全能神よ!私たちは喜んであなたに呼びかけ、踊り、そして歌う。あなたは真に私たちの贖い主、全宇宙の偉大なる王!あなたは勝利者の一団を作り、神の経営(救いの)計画を全うした。すべての民がこの山に集い、玉座の前に跪く。あなたこそ唯一の真の神であり、栄光と栄誉はあなたにふさわしい。すべての栄光、讃美、権威がその玉座にあるように。いのちの泉が玉座から流れ出て、神の民の群衆を潤し、養う。いのちは日々変化し、新しい光と啓示が私たちに伴い、神についての新たな識見が絶えず与えられる。私たちは経験の中で、神についての完全なる確信を得る。神の言葉が絶え間なく現われ、正しい人に現われる。私たちはまさに祝福されている!日々神に対面し、万事において神と交わり、すべてを神の統治に明け渡す。神の言葉を注意深く思い巡らし、心は神の中で静まり、かくして私たちは神の前に出て、そこで神の光を受ける。自分の生活、行動、言葉、思い、考えにおいて、私たちは毎日神の言葉の中で生き、常に識別することができる。神の言葉は針に糸を通す。つまり、私たちの内面に隠されたものが不意に次々と現われる。神との交わりは少しの遅れも許さず、私たちの思いや考えは神によって露わにされる。私たちは一瞬一瞬をキリストの座の前で生きており、そこで裁きを受ける。私たちの身体のどの部分もサタンに占領されたままである。今日、神の統治を取り戻すため、神殿を清めなければならない。完全に神のものとされるため、私たちは生死を賭けた戦いに加わらなければならない。古い自己が磔にされて初めて、キリストの復活したいのちによる至高の統治が可能となる。

 今や聖霊が私たちの隅々に突撃し、争奪戦を戦う。自己を否定し、進んで神に協力する覚悟がある限り、神は必ずや私たちを内面から照らして清め、サタンが占領していたものを取り戻す。それにより、私たちが一刻も早く神によって完全にされるためである。時間を無駄にしてはならない。一瞬ごとを神の言葉の中で生きよ。聖徒とともに築き上げられ、神の国に連れて行かれ、神とともに栄光に入れ。

『言葉は肉において現れる』より


日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋13

2020-10-24 18:39:01 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋13

 

 六千年にわたる経営計画を通じて行なわれたすべての働きは、今やっと終わりに近づいてきた。その働きのすべてが人に明かされ、人類のあいだで実行されて初めて、人は神の性質、そして神が所有するものと神そのものを残らず知る。この段階の働きが完全に終わったとき、人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされ、これまで理解されなかったすべての真理が明確になり、人類は未来の道と終着点を告げられているだろう。これこそが、現段階でなされるべき働きの全体である。人間が今日歩く道は十字架の道であり、苦難の道でもあるが、人間が実践すること、および今日飲み食いして享受することは、律法の下にいる人間、また恵みの時代の人間に降りかかったこととは大きく異なる。今日人に求められることは、過去に求められたこととは異なり、律法の時代に求められたこととはさらに異なる。さて、神がイスラエルで働きを行なっていたとき、律法の下で人に求められたことは何だったか。それは、人は安息日とヤーウェの律法を守らなければならない、ということだけだった。安息日には誰も働くことが許されず、ヤーウェの律法を犯すことも許されなかった。しかし、今はそうではない。安息日でも、人はいつものように働き、集まり、祈り、何の制限も課せられていない。恵みの時代の人たちはバプテスマを受けなければならず、それに加えて断食をし、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、頭を覆い、他人の足を洗うことを求められていた。そのような規律は今や廃止されたが、人はもっと大きなことを要求されている。と言うのも、神の働きがますます深まり、人の入りがさらに高いところに到達するからである。かつてイエスは按手して祈ったが、すべてのことが述べられた現在、按手に何の意味があるのか。言葉だけで成果を挙げることができるのだ。かつてイエスが人の上に手を置いたとき、それは人を祝福し、病を癒すためだった。当時、聖霊はそのようにして働きを行なったが、今は違う。現在、聖霊は働きを行なって成果を挙げるために言葉を用いる。その言葉はあなたがたに明らかにされたのであり、あなたがたは言われたとおりにそれを実践しなければならない。神の言葉は神の旨であり、神が行なおうと望む働きである。あなたは神の言葉を通じて、神の旨と、神があなたに達成するよう求めていることを理解できる。そして、あなたは按手を必要とせず、ただ神の言葉を直接実践できる。中には「私の上に手を置いてください。あなたの祝福を受け取り、あなたにあずかることができるように、わたしの上に手を置いてください」と言う人もいるだろう。これらはどれも、現在は廃れて時代遅れになった過去の慣習である。聖霊は時代に応じて働きを行なうのであり、無作為に、あるいは一定の規則に応じて働くのではない。時代が変わり、新しい時代はそれとともに必ずや新しい働きをもたらす。これはどの段階の働きにも言えることであり、ゆえに神の働きは決して繰り返されない。恵みの時代、イエスは病を癒したり、悪霊を追い出したり、人の上に手を置いて祈ったり、祝福したりするといった働きを数多く行なった。しかし、現在再びそのようなことをするのは無意味だろう。聖霊は当時そのように働きを行なった。それは恵みの時代だったからであり、人が享受する恵みは十分にあった。人はいかなる支払いも求められず、信仰がある限り恵みを受け取ることができた。誰もが非常に寛大に扱われた。今、時代は変わり、神の働きはさらに前進した。そして刑罰と裁きを通じ、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれる。当時は贖いの段階だったので、神はそのように働きを行ない、人が享受するのに十分な恵みを示して、人が罪から贖われ、また恵みによって罪が赦されるようにすることを求められたのである。現在の段階は、刑罰、裁き、言葉の打撃、そして言葉による懲らしめと暴露を通じて人の中の不義を暴き、それによって人が後に救われるためのものである。これは贖いよりもさらに深い働きである。恵みの時代の恵みは、人が享受するのに十分だった。この恵みをすでに経験した今、人がそれを享受することはもはやない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通じて救われる。裁かれ、罰せられ、精錬されたあと、人の性質は変わる。これはすべて、わたしが語った言葉のゆえではないのか。各段階の働きは、人類全体の進歩と時代に合わせて行なわれる。すべての働きに意義があり、どれも最後の救いのためになされる。それは、人類が将来良い終着点を得られるようにするためであり、人類が最終的に種類に応じて分類されるようにするためである。

『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋12

2020-10-23 21:53:37 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋12

 

六千年の経営(救いの)計画は働きの上で三段階に分けられている。どの段階も一つだけで三つの時代の働きを表すことはできず、全体の一部だけを表すことができる。ヤーウェの名前は神のすべての性質を表すことはできない。神が律法の時代に働きを実行した事実は、神が律法の下でしか神であることができないと証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を造るように命じた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表す。ヤーウェが行なった働きは、神は律法を守るようにと言う神だとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だと証明しているのではない。そのようなことは言えない。律法の下の働きは一つの時代だけを表すことができる。よって、もし神が律法の時代だけの働きをしたのなら、人は神のことを定義して、「神は神殿の中の神である。神に仕えるには、祭司の衣を着て、神殿に入らなければならない」と言うだろう。もし恵みの時代の働きが決して実行されず、律法の時代が現在まで続いていたら、神は憐み深く愛する神でもあることを人間は知らなかっただろう。もし律法の時代の働きがなされず、恵みの時代の働きしかなされなかったなら、神は人を贖い、人の罪を赦すことができることしか人間は知らなかっただろう。神は聖なる汚れのない存在であり、神は自身を犠牲にし人間のために十字架にかけられたことしか知らなかっただろう。人はこのことしか知らず、他のことは何も理解しなかっただろう。だから、それぞれの段階は神の性質の一部だけを現すのである。律法の時代はある側面を表し、恵みの時代は別のある面を表し、今の時代もまた別の側面を表している。神の性質はこれら三段階を合わせて、完全に現されることができる。人がこれら三段階すべてを知って初めて、それを完全に受け取ることができる。この三段階の一つも排除することはできない。これら三段階の働きを知って初めて、神の性質をその全体性において見ることができる。律法の時代における神の働きの完成は、神が律法の下の神であることを証明するのではなく、神の贖いの働きの完成は、神が永遠に人類を贖うことを示しているのでもない。これらはすべて人間によって引き出された結論である。恵みの時代は終わったが、神は十字架にしか属さず、十字架は神の救いを象徴すると言うことはできない。もしそうするならば、神を定義していることになる。この段階では、神はおもに言葉の働きをしているが、神は人に対して憐れみ深くあったことなどなく、神がもたらしたものは刑罰と裁きでしかないなどと言うことはできない。終わりの日の働きはヤーウェとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを表し、人類の中で救いの全ての働きを完結するためになされる。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてに終結をもたらす。人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされ、人は奥義についての識見を得て心の中ではっきりと理解できるようになる。その時初めて人はそれぞれの種類によって区分される。六千年の経営(救いの)計画が完成して初めて、人は神の性質の全体を理解できるようになる。なぜなら、神の経営(救い)はその時に終わるからである。

『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」抜粋525

2020-10-22 22:14:57 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」抜粋525

 

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。