神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

全能神が清めを得る道に私を導い

2020-09-15 20:32:09 | 天の国の福音

全能神が清めを得る道に私を導い

2007年、私は生計を立てるべく、単身シンガポールに赴きました。シンガポールは本当に一年中暑く、日々大量の汗をかきながら働きました。それは実に惨めで、そのうえ家族や友人もおらず、まったく馴染みのない場所で暮らしていたこともあり、生活が本当につまらなく、退屈なものに感じられました。8月のある日、仕事を終えて帰宅する途中、私は福音のパンフレットを受け取りましたが、そこにはこう記されていました。

「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」(ペテロの第一の手紙5:10)

その御言葉を読んだ瞬間、心の中が温まるのを感じました。その後、私はある兄弟と教会を訪れましたが、兄弟姉妹は私を熱烈に歓迎した上で、私の体調を気遣ってくれました。そのおかげで久しぶりに家族のぬくもりを感じることができ、我が家に戻った気がして突然両目に涙が溢れました。それからというもの、毎週日曜日に教会へ行くことが私の習慣になりました。

私はその年の12月に洗礼を受け、正式に信仰の道に足を踏み入れました。ある日教会で礼拝を行なっていたとき、牧師による『マタイによる福音書』18章21節から22節の朗読を聞きました。

「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか』。イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。』」

私はこれを聞いて考えました。

「主イエスの赦しと忍耐はどうしてこれほど偉大なんだろう。主は人を、七たびを七十倍するまでお赦しになる。本当に人間がこのようにできれば争いはなくなるし、愛と温かさだけになるはずだ!」

私は主の御言葉にとても感動し、主の教えにしたがって行動しようと決意しました。

それから2、3年後、私は上司の指示で建設現場の監督を行なうことになり、仕事に全精力を打ち込むとともに、定期的に集会に出るのをやめました。その後李さんという金融業者を紹介され、一緒に建設会社を立ち上げました。私はとても嬉しく、その会社に全力を注ごうと心に決めました。そうして金銭の渦にすっかり巻き込まれ、教会へ行って集会に出るのを完全にやめたのです。プロジェクトを成功させて他の人たちに自分の能力を賞賛してもらいたかった私は、作業員にますます多くの要求をするようになりました。彼らが間違ったことをしたり、私の要求に達していなかったりすれば、そのたびに容赦なく叱責したものです。チームリーダーは私に罵倒されてよく目に涙を浮かべていました。作業員は私を見るたびに怖がり、姿を隠すことさえありました。それまで仲のよかった友人ですら私に冷たくなり、心を開こうとしなくなりました。それを見るのはとてもつらいことでした。主イエスは私たちに、七たびを七十倍するまで赦しなさい、隣人を自分のように愛しなさいと教えられています。しかし私はただの一度も、ほんの少しでも、それを実践したことがありませんでした。それでどうしてクリスチャンと言えるでしょうか。自分が罪を犯しているのはわかっていたので、しばしば主に祈り、罪を告白して悔い改め、変わろうと決意しました。しかし何かが持ち上がるたび、私は依然として罪を犯さないではいられず、本当に苦悩していました。

2015年8月、経営不振に陥った私たちの会社は業務を停止し、私は故郷に戻りました。そして憂鬱と苦悩に陥り、一日中酒とギャンブルに明け暮れました。酒なんかやめなさいと妻に言われても、「これは俺の金だ。俺が稼いだんだ。好きなように使ってやる……」と怒鳴り返すだけ。妻はどうすることもできず、その場に座って泣くばかりでした。怒りをぶつけるたび、私は後悔して自分を憎むのですが、どうしても自分を抑えることができません。そのころにはクリスチャンとしての品位を完全に失い、私の振るまいと行ないは非信者のそれと何ら変わりませんでした。

苦痛と無力感の中、私は教会に戻って再び集会に出るようになりましたが、そのころは絶えず主イエスにこう祈っていました。

「ああ主よ!私は自分がしたくないことをたくさんしてしまい、他人を傷つけることをたくさん行なってしまいました。罪の中で暮らし、あなたに反抗していたのです。罪を犯すたび、私は後悔して心から自分を憎みますが、日中になると以前の状態に戻って再び罪を犯してしまいます。ああ主よ!どうか私をお救いください。罪から逃れるにはどうしたらよいのでしょうか?」

2016年の元日、私はアメリカの地に降り立ちました。金を稼ごうとニューヨークに来たのです。時間があれば教会に通い、礼拝グループにも加わって他の兄弟姉妹と聖書を読んだり祈ったりしているうち、そこで清蓮という姉妹と知り合いになりました。ある日、清蓮姉妹は私に電話をかけ、あなたに伝えたいよい知らせがあると言いました。よい知らせとは何か私が訊くと、彼女は「伝道師がいらしてるんです。その人の話を聞きに来ませんか?」と答えました。私が「それは楽しみだ!どこに行けばいい?」と尋ねたところ、彼女はこの時間に私の家に来てと、スケジュールを決めてくれました。

約束の日、私は清蓮姉妹の自宅を訪れました。そこには数名の兄弟姉妹がいて、初対面の挨拶を交わしたあと、みんなで聖書について話し合いました。中でも趙姉妹が説いてくれた教えはとても光に満ちていて、私は大いに啓かれました。そして彼女に、自分が絶えず罪を犯しては告白していることと、罪を取り除けない苦痛とを打ち明け、彼女の助けを求めました。すると彼女は教えを説く中で、私たちは主を信じ始めたあとでさえも、依然としていつも罪を犯していると言った上で、日中に罪を犯して夜に告白するという果てしない悪循環の中で人生を送り、そこから逃れることができないのは、あなただけを苦しめている問題ではないと話してくれました。それはむしろ、すべての信者に共通する問題だというのです。それから趙姉妹は、神の御言葉を朗読する動画を見せてくれました。次に挙げるのがその内容です。

「人の性質は、その本質を知ることから始まり、考え方、本性、精神状態を変えることを通じて、つまり根本的変化を通じて変わるべきである。このようにしてのみ、人の性質に本当の変化が達成される。人の堕落した性質は、サタンによって毒を盛られ、踏みにじられていることと、サタンが人の考え方、倫理観、見識、理知に与えたひどい被害を根源としている。まさに人のこうした根本的事柄がサタンによって堕落させられ、神がもともと造ったものとは完全に違ってしまったため、人は神に反対し、真理を理解しないのである。したがって、人の性質を変えるには、まず人の考え方、見識、理知を変え、それによって神に関する認識や真理に関する認識も変えることから始まるべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より)

私は心から感動してこう思いました。

「この御言葉が述べているのは自分のことじゃないか?俺はいつも他人を見下し、あれこれ叱ったり怒鳴りつけたりしている。道徳心も理知もなく、聖なる品格など面影もなくなってしまったんだ」

この御言葉の一言一句が私という存在の核を突き通しました。そのようなものはこれまで読んだことがなく、伝道師がそうした説教をするのを聞いたこともありません。自分が絶えず罪を犯していることに、私は大いに苦悩していましたが、それでも罪の束縛から逃れられなかったのです。この御言葉は私に罪を捨て去る道を示しました。そして私は驚嘆のあまりこう思いました。

「本当に素晴らしい御言葉だ。いったい誰に書けるだろう?」

すると趙姉妹は、これは神の御言葉で、主イエスはすでに肉においてお戻りになり、いまは終わりの日の御言葉を通じて人を裁いて清める働きをなさっていると教えてくれました。私は自分の耳を疑いました。主の再臨を待ち望まない信者などいるでしょうか。主の再臨というこの知らせを突然耳にした私は、興奮のあまりいささか戸惑いました。主は本当にお戻りになったのか。お話を続けてくださいと趙姉妹にせがむように頼んだところ、彼女はこう言いました。

「主イエスは本当にお戻りになり、いまは全能神、すなわち終わりの日の受肉されたキリストでいらっしゃいます。全能神は人類を清めて救うすべての真理を表わされ、神の家から始まる裁きの働きをお始めになりました。自分のサタン的本性に縛られ、自分では逃れられない罪の中で暮らしている私たちを、全能神はサタンの支配下から徹底的に救ってくださいます。最終的に私たちは完全な救いを得て、神のものにしていただけます。恵みの時代、主イエスがなさったのは贖いの働きだけでした。つまり、私たちがこれ以上律法のもとで断罪されることがないよう、私たちを罪から贖われ、私たちの罪をお赦しになったのです。主は私たちの罪をお赦しになりましたが、私たちのサタン的な本性や性質をお赦しになったわけではありません。傲慢、狡猾、利己心、貪欲、悪意といったサタン的性質は、依然として人間の中に存在しています。これらは罪より根深くしつこいものです。私たちが罪を犯し続けずにはいられず、律法に背く以上に深刻な罪さえ犯すのは、まさにこれらのサタン的な性質と本性が解消されていないからです。当時のパリサイ人について言えば、彼らが主に抵抗して断罪し、主を十字架にかけるところまで行ったのは、人間の罪深い本性が解消されていなかったのが理由ではないでしょうか。事実、私たち自身もみなこれらの堕落した性質に操られているため、このことを深く認識しています。そのためよく嘘をつき、人を騙す行動をとり、傲慢で自惚れていて、偉そうに他人を叱るのです。他人を赦し、隣人を自分のように愛せよと主がお求めになっていることを私たちははっきり知っていますが、それを実践することはありません。人々は互いにたくらみ合い、名声と利益に飛びつき、調和して仲良く生きることができません。病気や天災、あるいは人災に見舞われると、依然として神を責め、神を否定したり裏切ったりさえします。これらの事実は、私たちが自分のサタン的な本性と性質を解消しなければ、罪を犯しては告白し、告白しては罪を犯すことを繰り返す生活から決して逃れられないことを示しています。ゆえに、人が徹底的に罪から救われるには、神が裁きと清めの段階の働きをなさり、私たちの罪深い本性を解消してくださることが必要なのです。これが、私たちが神に清められ、完全に救われ、神のものとしていただける唯一の道です。全能神の御言葉をさらに数ヵ所読みましょう。そうすれば理解できます」

そして趙姉妹は神の御言葉の本を開き、次の御言葉を読み始めました。

「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

「人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

読み終わった趙姉妹はこう教えを説きました。

「これらの神の御言葉を読んだいま、私たちが自分のサタン的本性に絶えず縛られ、自分から罪を取り除けない理由がわかったのではないでしょうか。恵みの時代、神は贖いの働きをなさっただけで、人を裁き、清め、完全に救う、終わりの時の働きをなさったわけではありません。なので、私たちがどのように罪を告白して悔い改めようと、いかに自分を征服することを試みようと、どれだけ断食して祈ろうと、罪からの解放を成し遂げることはできないのです。そのことは、自分の罪深い本性による束縛と支配から自由になりたければ、主イエスによる贖いの働きを経るだけでは足りないことを意味しています。私たちは再臨された主イエスによる裁きの働きを受け入れなければなりません。終わりの日の裁きの働きをなさる中で、神は真理の数多くの側面を表わし、神に抵抗して裏切る人間のサタン的本性を裁いて暴かれるからです。そして神は、義にして清く、背きを許さないご自身の性質を表わされ、人類が神の御言葉の裁きと刑罰を通じて、自分がサタンによって深く堕落させられていることの真相をはっきり見抜き、人間の背きを許さない神の義なる性質を真に知り、神を畏れる心を育めるようになさり、そうして人間のサタン的性質を変化させて清め、人間をサタンの支配下から救ってくださるのです。威厳と怒りに満ちた神の裁きと刑罰の中で、私たちは神と対面します。神の御言葉は諸刃の剣のごとく私たちの心を突き通し、神に抵抗して裏切る私たちのサタン的本性だけでなく、心の奥底にある自分ですら見つけられない堕落した性質さえも明らかにします。私たちはそれによって、傲慢、自惚れ、利己心、卑劣、無責任、狡猾といったサタン的性質が自分の本性の本質を満たしていること、自分には人間らしさがほんの少しもなく、完全にサタンの化身であることを理解します。そのとき初めて、私たちは神の御前にひれ伏し、自分を憎んで呪い始めるのです。それと同時に、神の御言葉がすべて真理であり、神の性質の啓示であり、神のいのちがどのようなものであるかの啓示であることを、深く感じ取るようになります。神の義なる性質が背きを許さないこと、神の聖い本質が決して汚れないことを理解するのです。その結果、神を畏れる心が育まれ、私たちは全力で真理を追い求め、神の御言葉にしたがって振る舞い始めます。徐々に真理を理解するようになるにつれ、自分のサタン的な本性と性質をますます認識し、より大きな識別力を身につけます。神に関する知識も増えます。内なる堕落した性質が段々清められ、私たちは罪の束縛から自由になります。そして真に解放されて神の御前で自由に生きるのです。これがまさに、終わりの日における神の裁きの働きを通じて人類の間で達成される成果です。それゆえ、恵みの時代における『贖い』の働きと、終わりの日に『人間から罪を取り除く』働きは、2つの異なる段階の働きだということがわかります。『贖い』とは単に、主イエスが人の代わりにその罪を背負い、人間がおのれの罪のせいで受けていたであろう懲罰から逃れられるようになさることでした。しかしそのことは、それらの人たちに罪がないことを意味するのではなく、まして彼らが二度と罪を犯さないとか、完全に清められたなどという意味ではありません。一方、『人間から罪を取り除く』というのは、私たちがこれ以上自分の堕落した本性に頼らずとも生きられるようにすべく、そしていのちの変化を成し遂げ、完全に清めていただけるようにすべく、人類の罪深い本性を暴くことです。ゆえに、神の御言葉を受け入れることでのみ、私たちは自分の堕落した性質を徹底的に解消し、自分からサタンの支配を取り除いて救っていただけるとともに、神の国へと導かれて神の約束と祝福を得られるのです」

神の御言葉と姉妹が説く教えを聞いた私は、それが現実と完全に一致しており、とても現実的だと感じました。信者として過ごした長年の日々を振り返りると、自分はよく嘘をついて騙しただけでなく、傲慢で慎みがなく、粗野で理不尽でわがままでした。自分のために働いてくれた人たちは私のことを恐れて距離を置き、自宅でさえも妻や娘は私のことをいささか怖がっていました。誰一人私に心を開こうとせず、私には信頼できる親しい友人さえいませんでした。それはつらいことで、私は無力感を覚えていました。しばしば聖書を読んで祈り、主に罪を告白し、果ては自分を嫌悪しても、それまでと同じひどいことをし続けてしまうのです。私は自分を変えることがまったくできませんでした。絶えず罪を犯して主に抵抗している私のような人間は、終わりの日における神の裁きの働きを大いに必要としているのです!主イエスはいまや再臨され、受肉された全能神でいらっしゃいます。今日、神のお声を聞く機会、そして主イエスが再びおいでになって真理を届けられ、人を裁き、清め、救う働きをお引き受けになったことを知る機会に恵まれた私は、本当に幸運そのものなのです!私が待ちきれない思いで一杯なのを見てとったその姉妹は、『神の羊は神の御声を聞く』という神の御言葉の本を私にくれました。私は喜んでそれを受け取り、全能神への信仰をきちんと実践しようと決意しました。

終わりの日における全能神の働きを受け入れたあと、私は神の御言葉を数多く読みました。神の働きの3段階、受肉の奥義、神の御名の意義、聖書の内幕、勝利者はいかにして作られるか、キリストの御国はいかにして実現されるか、各種の人間の最終的な結末と終着点はどのように定められるかなどといった真理の側面を読み、徐々にそれらを理解するようになったのです。また神への信仰もさらにもつようになりました。

当初、かくも厳しく人間を裁いて暴く神の御言葉を読んだとき、私は苦悩と不安を覚え、御言葉について多少の観念を抱きました。神の御言葉があまりに厳格だと感じられたのです。神はもう少しお優しくできないのでしょうか。神がこのように人間を裁かれるのなら、人間は罪に定められないでしょうか。そうなれば、どうして真に救っていただけるでしょうか。その後、私は神の御言葉から次の部分を読みました。

「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)

「神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする。一部の人々は理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う。彼らは『神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうやって完全になれるのであろうか』と言う。神の働きを理解しない人々はそう話すのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく、少しの気遣いもなく、人の内にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の内にある本質を顕わにするが、神はその裁きを通じて人に肉体の本質についての深遠な認識を授け、それにより人は神の前に従順を示すのである。人の肉は罪から成り、サタンによるものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である──であるから、人に自分を理解させるためには、神の裁きの言葉が人にもたらされねばならず、あらゆる精錬が行われねばならない。それにより初めて神の働きは成果を生むのである。」(『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」より)

神の御言葉から、神は真理を表わすことで終わりの日における裁きの働きをなさり、神に反抗する人間の堕落した性質、サタン的本性、そして悪事を厳格に裁き、暴き、断罪なさることを認識しました。神がそうなさるのは、私たちが自分の堕落の真相をはっきり見て、自分の堕落した性質の本質を徹底的に理解し、自分のサタン的な本性と堕落の根源を知るようにするためです。そうすることでのみ、私たちは自分を嫌悪して肉を捨てることができるのです。さらに、私たちが神の義と聖さを目の当たりにし、自分の汚れ、醜さ、邪悪さをはっきり見ることができるのは、ひとえに神が裁きと刑罰を通じて義と威厳と怒りに満ちたご自身の性質を示してくださるからです。神はまたそうなさることで、私たちが自分のサタン的な本性と、自らの堕落の真相を知ることができるようにしてくださいます。神がこれほど厳格に人を裁かれず、事柄の核心を突くことで人間の堕落を暴かれず、ご自身の義と威厳に満ちた性質を表わされなかったら、サタンによってかくも深く堕落させられた私たち人間は、自分を反省することも知ることもできないでしょう。自分の堕落の真相も、自分のサタン的本性もわからないはずです。そうであれば、どうして自分の罪深い本性を取り除き、清めていただけるでしょうか。神の厳格な御言葉が成し遂げた成果から、その中には神の人間に対する真の愛と、人間を救うために払われた血のにじむような努力が隠されていることがわかります。神の御言葉を読めば読むほど、神の裁きの働きは何と素晴らしいものかとますます強く感じます。神の働きはかくも実践的なのです!神の厳格な御言葉だけが人間を清め、変え、救うことができます。終わりの日における神の裁きの働きこそ、まさに私たちが必要としているものなのです!

私は傲慢かつ極めて独善的な自分の本性のせいで、他人と話すときによく偉そうに説教し、また行ないにおいても独断専行してばかりいました。他人に言うことを聞かせるのをいつも好み、自分を誇示しがちでした。集会のときも、自分が職場の問題にどう対処したか、指示に従わない作業員をどのように叱責して押さえつけたか、そして妻と子どもがいかに自分の言うとおりにしていたかを語ることが何度かありました。特に神の御言葉について交わるとき、私はよく「神の御言葉のこの一節はこんな意味だと私は信じている」とか「これぞまさに私が考えていることだ」などと言っていました。すると、私が自分でも気づかぬうちに絶えず傲慢かつ独善的な性質を表わしていると見てとった兄弟の一人が、ある集会でそれを私に指摘し、そのような言動は傲慢さと独善と理知のなさを表わしていると言いました。以前であれば、大勢の目の前で誰かが自分をそのように暴いたなら、私はきっと自分の意見を主張し、すぐに反論していたに違いありません。しかしそのときは、反論することも自己を正当化することもなく、無言のままでいることを選びました。ある説教の言葉が頭の中に浮かんだからです。

「自分が遭遇する事柄すべてにおいて『私はこう思う」と言うならば、自分の意見を捨て去るのが最善策です。私は、あなたに対し、自分の意見を捨てて真理を探究するよう、強く求めます。神の御言葉を検証する必要があります。あなたの『意見』は真理ではありません。……あなたは過度に傲慢で独善的です。真理を前にしてさえも、あなたは自分の観念や想像を捨て去れません。あなたは神に従うことを少しも望んでいません。真理を本当に追求し、本当に神を畏れる心を備えている者のうち、誰が依然として『私はこう思う』と言うでしょうか。そうした言い草は、既に除去されています。そうした言い草は、サタンのような性質の現れです」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(14)』の「神の言葉『神との正常な関係を確立することは極めて重要である』についての説教と交わり(3)」より)

この交わりのおかげで、自分は事あるごとに「私はこう思う」「私はこう主張する」「私はこう信じる」など、いつも「私は」で始まることを口に出し、何事についても絶えず決定権を握っていたことを思い出しました。自分自身で物事を見抜き、問題に対処できると信じていたのです。私はいつも他人に言うことを聞かせ、自分に従わせていました。常に自分を高く評価することで、まさに傲慢な性質を表わしていたのではないでしょうか。その兄弟が私の性質を指摘するにあたって言ったことはどれも本当で、私はそれを受け入れなければなりません。私が信じていることは自分の観念と想像から発せられたもの、サタンから生じたものであって、真理などではありませんでした。家庭でも、職場でも、あるいは同僚たちといるときも、私は常に自分がトップであるかのように振る舞っていました。私の言うことに耳を傾けなかったり、自分の考えにそぐわないことをしたりする人がいれば、私は腹を立ててその人を叱り飛ばしました。私がこのようなことを表わせたという事実は、心の中に神の居場所がなく、神を偉大なものとして崇めず、むしろ自分を偉大なものとして崇めていることを意味します。私はいつもこのように話して振る舞うことで、自分が信じられないほど傲慢な性質の持ち主だと証明していたのです!

その後、私はこの神の御言葉を読みました。

「自分の内面に、本当に真理がある場合、あなたが歩む道は自然と正しい道となる。真理が無ければ、邪悪な行いをし易くなり、そうせずには居られないであろう。たとえば、あなたの内面に傲慢さと自惚れがある場合、神を裏切らずに居ることは出来ず、神を裏切らされるであろう。あなたは意図的にではなく、自分の傲慢で自惚れた本性の支配下でそうしたことを行うであろう。あなたは、自分の傲慢さや自惚れのため神を見下すようになり、神を無関係なものと認識するようになり、自分を賞揚するようになり、常に自分を誇示するようになり、最終的に自分を神の立場に置いて自分自身の証しに立つようになるであろう。最終的に、自分自身の観念や思考、論理を真理として崇拝するであろう。自分の傲慢で自惚れた本性の支配下にある人々が行った邪悪な行動がいかに多いかを理解する必要があるのだ。そうした人々の邪悪な行動を解消するためには、まずそうした人々の本性の問題を解決する必要がある。性情の変化なくして、この問題の根本的解決は不可能である」(『キリストの言葉の記録』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」より)

神のお語りになる一言一句は真実で、私はすっかり納得しました。そして建設現場で、あるいは同僚が見守る中で、またあるいは家の中で、自分が他の人たちに偉そうに説教していたことを思い出しました。それはどれも、自分が傲慢なサタン的性質に支配されていたのであって、自分が怒りっぽい人間だからでも、悪い気性をもっていたからでも、自己抑制が欠けていたからでもありません。私は自分のことを素質と才能の持ち主で、金を稼ぐ力もあると信じていましたが、それが私の傲慢さを膨らませ、生きる上での元手になってしまったのです。そのため自分は他人より優れていると思い込んでしまいました。他のみんなを見下し、他の誰よりも優れていると思い、絶えず他人に威張り散らしていたのです。私は自分の罪の根源を見つけるとともに、堕落したサタン的本性を解消しないまま放置することの危険な結果を目の当たりにしました。そこで、人間の傲慢な本性を裁いて暴く、数多くの神の御言葉を仰ぎ見て読むことに力を注ぎ、それと比較することで自分を反省しました。神による裁きと暴きの御言葉、および兄弟姉妹が集会で説いてくれる教えを通じ、私は自分の傲慢な本性について浅いながらも理解し始めました。そして、自分が実際には他の誰よりも優れてはいないこと、自分の能力と富はすべて神から授けられたものであり、何ら自慢すべきものではないことがわかりました。神が私に知恵と知性をお授けにならず、私を祝福してくださらなかったら、私は自分に頼るだけで何ができたでしょうか。この世には才能に恵まれた人が数多くいますが、生涯にわたって必死に苦労し、駆けずり回ったとしても、結局無駄骨に終わるのはなぜでしょうか。私はまた、自分の傲慢な本性を解消する道を神の御言葉の中に見つけました。それは兄弟姉妹による刈り込みと取り扱い、神の裁き、刑罰、試練、精錬をもっと受け入れ、神の御言葉に照らして自分自身を反省し、真の自己認識と自己嫌悪を成し遂げ、これ以上自分のサタン的性質にしたがって振る舞わず、神の御言葉にしたがって振る舞うことです。その後私は、裁きと刑罰、刈り込みと取り扱いを何度も受け、挫折や失敗もたくさん経験しました。すると、自分のサタン的本性と堕落した本質についての認識が徐々に深まり、神の偉大さ、義、聖さについても浅いながら理解しました。そして神の義と聖さを知れば知るほど、自分自身の汚さ、卑しさ、小ささ、そして惨めさがわかりました。それまで重要だと考えていた物事、自慢していた物事についても、いまでは触れる価値さえないと思うようになりました。知らず知らずのうちに、自分の傲慢な性質が変わり始めていたのです。兄弟姉妹、同僚、あるいは私の家族など、誰であろうと正しいことを言えば、私はそれを受け入れます。もはや他人に向かって偉そうに話すこともなく、その代わり謙虚さをもって振る舞い、独断専行することをやめました。問題が生じるたびに他の人と話し合い、誰であろうとその意見が正しければ、それにしたがって行動します。こうして周囲の人たちとの関係も徐々に正常なものになり始めました。私は心の中で安らぎと喜びを感じるとともに、ようやく少しは人間らしく生きているような気がしたのです。

絶えず神の御言葉を読み、教会生活を送ることで、自分が終わりの日における神の裁きの働きを受け入れられたのは本当に素晴らしいことなのだと、ますます強く感じるようになりました。自分では決して堕落した性質を解消できないことを、私は真に経験したのです。神の御言葉による裁きと刑罰を経て初めて、私は徐々に変わり、清められていきました。全能神教会には、真理を追求しようと懸命に働き、全能神の御言葉による裁きと刑罰を受け入れている兄弟姉妹が多数います。誰かが堕落を表わすたび、他の人がそれを指摘してみんなで助け合います。私たちはみな自分自身を反省し、神の御言葉に照らして自分を知り、真理を求めて自分の堕落を解消します。誰もが正直な人でいること、純粋で心を開くことを実践しています。交わりが真理にかなっていれば、私たちは必ずそれを受け入れて従い、自分の堕落した性質がさらに変わってゆきます。全能神の御言葉は本当に人を清めて変えることができるのです。受肉された神は私たちのあいだにおいでになり、直接御言葉を表わすことで私たちを裁いて清め、私たちが罪を捨てて完全に救っていただけるよう、私たちを導いてくださいます。私たちはこれほどまでに幸運なのです!主のお戻りをいまや遅しと待ちわび、罪の束縛を振り払って清められることを切望する真の信者のことを考えながら、私は神に祈って次の誓いを立てました。

「他の人が私のように、あなたの足跡に従い、清めと完全なる救いの道を歩み出せるよう、私はあなたの御国の福音を宣べ伝えてまいります!」

剛強 アメリカ

 


ヨハネの黙示録で預言されたように、終わりの日の神の裁きの働きは大きな白い玉座の裁きである

2020-09-14 21:20:39 | 天の国の福音

ヨハネの黙示録で預言されたように、終わりの日の神の裁きの働きは大きな白い玉座の裁きである


「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:11-15)

関連する神の言葉

過去に語られた神の家から始まる「裁き」において、その言葉における「裁き」は、終わりの日に神の玉座の前に来る人々に神が今日下す裁きのことを指す。終わりの日が来ると、神は天に大きな卓を据え、その上には白い布が広げられ、すべての人が地にひざまずいているところに神が大きな玉座につき、一人ひとりの人間の罪を明らかにし、それにより人々が天国に昇るか火と硫黄の湖に落とされるかを決める、というような超自然的な想像の表象を信じている人もおそらくいるであろう。人が何を想像しようと、それが神の働きの本質を変えることはできない。人の想像は人の思考の産物以外の何物でもない。それは人の脳に由来し、人が見たり聞いたりしてきたものからまとめられ組み合わされたものである。したがって、その生み出された表象がいかに輝かしくとも、それは線描でしかなく、神の働きの計画にとって代わることはできない、とわたしは言うのである。結局のところ、人間はサタンにより堕落させられてきている。それならば、どうして人間に神の考えを推し量ることができるというのか。神による裁きの働きを何かとてつもないものであると人間は考える。神自身が裁きの働きを行なうのだから、その働きは最大規模のもので、死する人間には到底理解できず、それは天のいたるところに鳴り響き、地を揺らすはずである、と人間は考える。そうでなければどうしてそれが神による裁きの働きでありえようか。それは裁きの働きであるので、神が働くときは特に堂々と威厳があるはずで、裁かれている人々は涙を流して叫び、ひざまずいて憐れみを請うているはずであると人間は考える。そのよう情景は確かに荘厳で、深く感情を揺さぶるであろう…誰もが、神の裁きの働きを奇跡的なものであると想像する。しかし、あなたは知っているのか。神がずいぶん前に人間のあいだでの裁きの働きを開始したとき、あなたは安らかな昏睡状態に留まっていることを。神の裁きの働きが正式に始まったとあなたが思うときには、神はすでに天と地を新しくしていることを。その時、おそらくあなたは人生の意味をちょうど理解しだしたばかりかもしれないが、神の容赦ない懲罰の働きが、まだ深く眠りについているあなたを地獄に落とす。その時になって初めて、神の裁きの働きがすでに終わったことにあなたは突然気づくのである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が証しする受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きではなく、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より

現在の征服の働きとは、人間の結末がどのようになるかを明らかにすることを意図するものである。なぜわたしは今日の刑罰と裁きとが、終わりの日の大きな白い座の前での裁きだと言うのか。あなたにはこれがわからないのか。なぜ征服の働きは最終段階であるのだろうか。これはまさしく、それぞれの種類の人間が最後にどうなるかを明らかにすることなのではないか。それは、すべての人が、刑罰と裁きとによる征服の働きの過程の中で、自分のありのままの姿をあらわし、その種類に応じて分類されるようにするためではないか。これはむしろ人間を征服するというよりも、各種の人間がどのような最後を迎えるのかを示すことだと言った方がいいだろう。つまり、これは彼らの罪を裁き、それから様々な種類の人間を示し、そのことによって、彼らが悪であるか義であるかを判定するのだ。征服の働きの後に、善に報い悪を罰する働きが続く。完全に従う人々、つまり、完全に征服された人々は次の段階に移され、その業を全宇宙に広める。征服されなかった者は闇の中に置かれ、災厄に遭う。このように人間はその種類によって分類され、悪を行う者たちは悪として分類され、二度と陽の光を見ることがない。また、義人は善として分類され、光を受け、永遠に光の中で生きる。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(1)」より

真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能神の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録1:12~16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)神の本当の顔は人間の言葉では十分明確に表現することはできないので、神はその本来の性質の表現を用いて人に本当の顔を示す。すなわち、人の子の本来の性質を経験した人々はすべて、人の子の本当の顔を見たのである。神はあまりに偉大なので、人の言葉で十分明確に表現することができないからである。いったん神の国の時代における神の働きの各段階を経験したら、ヨハネが燭台の明かりの中で人の子について語った言葉の意味を人は知るだろう。「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 


主イエス自らが神が働きを行なうために終わりの日に受肉し、人の子として現れると預言した

2020-09-13 11:20:41 | 書籍


主イエス自らが神が働きを行なうために終わりの日に受肉し、人の子として現れると預言した

 

参考聖書箇所

「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音書 12:40)

人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。」(マタイによる福音書 24:37)

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25)

「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録 1:12-16)

関連する神の言葉

イエスは自分が去ったのと同じように来ると言ったが、これらの言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。本当にイエスはあなたに伝えられたであろうか。あなたが知っているのは、イエスは雲に乗って去って行ったようにやって来るということだけである。しかし、神自身がその働きをいかに行なうのかをあなたは正確に知っているのか。あなたが本当に見ることができるとすれば、ではイエスの言葉はいかに説明されるべきであろうか。「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての民も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」とイエスは言った。あなたが知り、見ることができるのであれば、これらは空虚な言葉ということにならないであろうか。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見たのであれば、これらの言葉はみだりに語られたことにならないであろうか。そして、そのときイエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。…だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのか、人の子は知らないであろう。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、それはごく普通で平凡な人である。イエス自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。あなたがたには今聖霊の言葉が聞こえたか。神の言葉があなたがたに届いた。それが聞こえるか。神は終わりの日に言葉による働きを行うが、そのような言葉は聖霊の言葉である。神は聖霊であり、また肉になることもできるからである。したがって、過去に語られた聖霊の言葉は今日肉となった神の言葉である。聖霊の言葉は天から降りてきて人の耳に届くはずだと信じている多くの愚かな人がいる。このように考える人は誰も神の働きを知らない。実際、聖霊が語る言葉は肉となった神が語る言葉なのである。聖霊は人に直接語りかけることはできないし、ヤーウェは律法の時代でさえ人々に直接語りかけることはなかった。ましてや、今日、この時代に神が直接語りかけるなどとはまず考えられないのではないか。神が言葉を発して働きを実行するためには、肉とならなければならない。そうでなければ神の働きは目的を達成させることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より

数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能神の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録1:12~16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」より

 


キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え

2020-09-12 20:23:04 | キリスト教会漫才

キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする   日本語吹き替え


終わりの日、主イエスの再来を待つキリスト教徒たちの間で緊張感が高まる中、実際に主はいかにして再来されるのかという疑問が出る。「雲に乗ってお見えになる」と言う者もいるが、それに対し、再来の預言が他にもあると指摘して異議を唱える声もある。「見よ、わたしは盗人のように来る」(黙示録16:15)、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ 17:25)、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイ25:6)もし主が誰にでも見えるように雲に乗って来られるなら、主が密かに現れ、苦しみ、捨てられるという奥義や、再来の証しをする者たちが出て来るという御言葉はどう説明できるのだろうか。主はどのような形でお姿を表されるのか。本作「主の到来の形」は、私たちの疑問にユーモラスに答えていく。

[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


キリスト教映画「待つ」抜粋シーン(1)主の再臨にどう注意を向け、待つべきか

2020-09-11 20:05:46 | キリスト教映画

キリスト教映画「待つ」抜粋シーン(1)主の再臨にどう注意を向け、待つべきか


主が再び来られる時、雲に乗って来られるのでしょうか、それとも盗人のように密かに現れるのでしょうか。あなたは主の再来にどのように向き合いますか。 偽りのキリストに導かれることを恐れて、主を探し求めることを拒みますか?それとも、賢き乙女のように神の声に注意深く耳を傾けますか?私たちはどのように「注意を向け、待つ」べきでしょうか、主が来られた時に主を歓迎できるように。この短編動画を見て答えを探ってみましょう!

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。