神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

世界は大災難に見舞われている--私たちは大患難の前に引き上げられるのか

2020-04-14 11:43:17 | 福音を証しするシリーズ

世界は大災難に見舞われている──私たちは大患難の前に引き上げられるのか

 


 今日、世界各地で大災害がますます激化しつつあります。ニュースは飢饉や地震、洪水、旱魃の記事であふれています。あなたは、主の再臨の預言は成就されたのになぜ私たちは主に迎えられていないのだろう、と心の中で考えたことはありますか?このようなことが続くなら大艱難が到来したとき、私たちも大災害に陥ることにならないでしょうか? 主は私たちを一体いつ天の御国に引き上げてくださるのでしょうか? 

携挙されるとき、私たちは実際に空中に引き上げられるのか

 主の信者の多くは聖書の次のような言葉を読んでいます。

「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(テサロニケ人への第一の手紙 4:17)

 信者は主が来られたとき空中に引き上げられ、主にお会いすることを待ち望んでいます。ところが実際は、この言葉は主イエスのお口から発せられたのでも、ヨハネの黙示録にある預言でもありません。使徒パウロの言葉にすぎないのです。主の来臨のお迎えに関して、パウロの言葉を信頼することは正しいのでしょうか? パウロの言葉は主の御言葉を表せるのでしょうか? 終わりの日の主がどう到着され、主を信じる者をどう神の国に連れて行かれるかということは、神ご自身の働きです。パウロは、主に代わってお告げを広めている使徒にすぎません。パウロはこのようなことをどうして知っていたのでしょうか? 主の到来をお迎えすることはとてつもなく重要な事柄であり、私たちにとって唯一正しいのは主イエスの御言葉を信頼することです。主イエスはこうおっしゃっています。

「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイによる福音書 6: 9–10)

 ヨハネの黙示録には次のような預言もあります。

「また、聖なる都、新しいエルサレムが、……神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、』」(ヨハネの黙示録 21:2-3)

「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(ヨハネの黙示録 11:15)

 これらの預言の中にある、「天から下って来る」、「神の幕屋が人と共にあり」、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった」といった言葉は、神が地上に神の国を打ち立てるであろうことと、神が人のために用意された終着点も地上にあることを示しています。天に引き上げられたいという私たちの強い願望は、自らの観念や想像から生じているのではありませんか? そしてそれは、神から離れた道を歩くことになるのではありませんか?

       実際には、神が人々を空中に引き上げると言われたことはありません。それは神の働きの事実から確認できることです。神がはじめに土のちりで人を作ってエデンの園に置かれると、人はそこで暮らし神をしかるべき方法で崇めました。ノアの時代に神は、ノアとその家族が洪水を免れるよう彼らを空中に引き上げようともされませんでした。その代わり、地上での箱舟作りという実際的な行動をとるよう、ノアに命じられたのです。その後律法の時代に、人々は神の律法を破ったがために処刑される危険にさらされました。神は罪の贖いの供物を得るために人々を空中に引き上げるようなことはされず、神ご自身が肉となって地上に来られ、ここで人間のために自ら十字架に架けられ人間を罪から解放されました。こうしたことから、地上で人間を救うため、また人間が生活し、神を崇める中で導くために、神が絶えず働いておられることがわかります。空中に引き上げられたいという私たちの強い願望は、神の御心と明らかに食い違っているのです! 

大患難の前の携挙とは何か

 皆さんの中には、「携挙される」ということが実際にどういうことかわからない、という人もいるでしょう。このことを理解するために、まず神がどんな御言葉を発されているのか見てみましょう。神はこのように言われています。

「『引き上げられる』とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。『引き上げられる』とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「第百四章」より引用)

この御言葉は、携挙されることは、私たちが想像するように空中に引き上げられて主にお会いすることではないと述べています。むしろ、神の声を聞いたあとにその新たな働きを受け入れて従えることと、子羊の足跡にぴったり歩調を合わせること、神が地上に来られて働きを行われるときにその御前に出ることを意味するのです。これが唯一の真の携挙です。主イエスが贖いの働きをされるために来られたときと、まったく同じなのです。ペテロもサマリア人の女性、ヤコブといった者も、主の御言葉を聞いたときはその声を聞き分けて、この方が来臨される救世主であると判断しました。その結果、恵みの時代に主の救いを受け、全員が主の御前に引き上げらました。 終わりの日に主の再来をお迎えし、神の現在の働きを受け入れる者はみな、子羊の足跡を追う者であり、主の御前に引き上げられる者なのです! 

どうすれば大患難の前に携挙されるか

 では、主をお迎えして大災難の前に携挙されるためには、一体どうしたらよいのでしょう? このことは、はるか昔に聖書の中で主イエスが次のように言われたときに預言されています。

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)

ヨハネの黙示録の第2、第3章には、預言が再三登場します。

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

第3章20節でもこう述べられています。

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」

神の御言葉はこう告げています。

「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より引用)神の御言葉は、私たちが主をお迎えしたいなら、神の働きと御言葉を探求することが鍵となると語っています。今日教会に向けた聖霊の御言葉がどこにあるのか、今日神の現れと働きがどこにあるのかを探すことほど重要なことはありません。もし私たちが自分から神の足跡を探そうとせず、神の声を聞くことを重視もせず、その代わり空の雲をぼんやりと見つめて、主が来られて自分を空中に引き上げられるのを無為に待っているとしたら、そうした思いは空想になるのではないですか? そして永遠に主をお迎えできず、最終的に神に携挙されるチャンスを逸することになりはしないでしょうか? 

 では主の足跡はどこにあるのでしょう? また神はどこで御言葉を発されているのでしょう? 今日全能神教会だけが人類に対し公に、主がすでに再来されていることを証ししています。つまりそれは、終わりの日の受肉した神である、全能神なのです。全能神は何百万語もの御言葉を述べられ、多くの真理と奥義を啓示されるともに、私たちのために神の六千年の経営計画や受肉の奥義、聖書の奥義を明らかにされています。さらにまた人を裁き、本性を暴く御言葉を述べられ、サタンの手による私たちの堕落と私たちのさまざまなサタン的な本性について真実を明らかにされています。私たちは神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れることにより、自らの堕落に気づくと同時に、自分の示す一切のものが傲慢、わがまま、下劣さ、不誠実さ、ずる賢さといったサタン的な性質で、良心と理知が欠けていることを自覚するようになります。私たちは神の御言葉を完全に確信し、後悔にうちのめされて神の御前にひれ伏し、神の義で聖なる性質についていくらか認識を得ます。すると私たちの中で神への畏敬と服従の念が生じ、全能神によって表される全てが真理で、人々を清め変えることができることを心の内側から確信するのです。

 今日、全能神の御言葉は人類の間で広がっています。キリスト教のさまざまな宗派に属していても、真の信者で真理を心から愛する多くの人は、神の声を聞いて神の御言葉により覚醒し、その御座の前に戻っています。そうした人々は神の御言葉の水と糧を浴びて、こうした御言葉にいかに権威と力があるのかを悟り、全能神は主イエスの再臨であると判断しています。彼らは大艱難の前に携挙される人々なのです!全能神の御言葉を読みましょう。

「わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の『オリーブ山』に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、『ユダヤ人の息子』ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた『赤児』である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。」(『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より引用)

 この神の御言葉を読んでどう思いますか? 胸が踊りませんか? 創造主が人類全体に対して話されていることだと思いますか? 神はすでに再来したと、神が私たちに今証言されていると思いますか? あなたがどう思おうと、私たちの前には差し迫った課題があります。思慮深い処女となり、全能神が語られた御言葉に耳を傾け、先入観をもたずに終わりの日の神の働きを探求しなければなりません。大患難の前に携挙される道は他にないのです!

ベッキー、アメリカ


復活祭と真の意味を知っていますか

2020-04-08 21:38:17 | 福音を証しするシリーズ

復活祭と真の意味を知っていますか


復活祭とは?復活祭の起源

 復活祭とは、復活の主日とも呼ばれ、主イエスが十字架につけられた三日後に起こった主の復活を祝う祭日です。その正確な時期は、毎年春分になってから最初の満月の後の最初の日曜日です。イエスの復活を記念し、イエスが人類にもたらされた救いと希望を思い起こすために、毎年三月から四月に世界中のキリスト教徒が復活祭の日にお祝いをします。私たちキリスト教徒はイエスの復活を記念しますが、それでは、すでに贖いの働きを終えられたのになぜ主は死人の中から蘇って人の前に出現されたのかを私たちは知っているでしょうか。そして、主の復活と人の前での出現の背後にはどのような意味があるのでしょうか。

主イエスの復活と人の前での出現の意味

 神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)「主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。……主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

神の御言葉から私たちに分かるのは、主イエスが死人の中から蘇られてから弟子たちに何度も出現されたことには深い意味があり、その背後には神の惜しみない気づかいと思慮が隠れてもいるということです。当時主イエスに付き従った人々は主の教えを多く聞き、主がなされた多くの奇跡を見て、イエスが自分たちの主であり、神の子であると主張しましたが、イエスがキリストで神ご自身であることについては本当に理解しておらず、イエスはこのことをご存知でした。イエスがローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑されたとき、主に付き従った人々の多くは主の身分を疑い始め、主への信仰が段々弱まりました。特に主イエスが十字架に付けられて死んだとき、多くの人々は主に全く失望し、疑いとして始まったものが主イエスの否定に変わったのです。このような状況を背景として、もし主イエスが復活後に人の前に出現されなかったなら、主に付き従った人々の多くはもはやイエス・キリストを信じず、律法の時代に戻って旧約聖書の律法を守り続けたでしょう。しかし神は人の心の奥深くを見極め、人の弱さを理解しておられ、人々の霊的背丈が小さいことをご存知でした。主イエスはそれゆえに、死人の中から蘇り、何度も弟子たちの前に出現されたのです。主は弟子たちと語り、復活後のご自身の霊体を彼らに見せ、彼らと食事を共にし、聖書を解説されました。こうしたことをなさった目的は、主に付き従った人々が、主イエスは本当に死人の中から蘇られ、この方は人を愛し憐れみをかけてくださったイエスとやはり同じ人であり、受肉された神ご自身であり、聖書で預言された人類を贖うために来られるメシアであることを心の底から確信できるようにすることでした。彼らはもはや主イエスを疑いも否定もせず、それどころか誠実に主を信じ、イエス・キリストを自分たちの主と認めました。このことから私たちに分かるのは、イエスは復活なさり人々の前に出現されることによって、人々の信仰を強め、主を信じて従えるようになさったのであり、人間を神に近づけてくださったということです。これがイエスの復活の意味の一側面です。

これに加えて、イエスは肉となって現れて働き、律法の時代を完全に終わらせ、恵みの時代を始められました。受肉されたイエス・キリストは十字架にかけられましたが、罪と死を克服してサタンを破り、贖いの働きを成し遂げて栄光を得られたのであり、復活後の主イエスは人々にこの事実がはっきりと分かるようになさったのです。主イエスは新たな時代を開き、人類を旧約聖書の律法の時代から完全に脱却させ、恵みの時代にしっかりと定着させ、恵みの時代において神の導きと牧養と潤しを受けられるようになさいました。これにより、たとえイエスが復活して昇天なさり、もはや人と食事や生活を共にされることがなくなっても、人は今もイエスに祈り、御名を呼び、主の教えを守り、揺るがない信仰をもってイエスに付き従い、福音を広めることができるのです。特に、主イエスが復活なさり主に付き従った弟子たちの前に出現された後は、彼らの信仰は高まりました。主の福音を広め証しをすることに何の困難も危険も恐れず、不屈の忍耐力を持ち、福音を広めることに自らの全てを捧げ、主のために殉教さえしました。最終的には、イエスの福音は宇宙全体、世界中に広がり、主イエスに従う人の数は増え続け、やがてどの家庭の誰もが主の福音を耳にするまで万人に知れ渡ったのです。

主イエスは死人の中から蘇られた後、人々の前に出現し、彼らと接触して語りかけ、聖書を解説して親しく交わり、食事を共にするといったことをなさいました。これらの御業のおかげで、主イエスに付き従った人々は主の人への気づかいと思いやりを感じ、イエスがまさしく神ご自身で、受肉されたキリストであると確証することができ、神に従う人々は恵みの時代にしっかりと定着したのです。しかも、イエスの贖いの働きはその時から広まり始め、やがて宇宙全体、世界中に及びました。従って、イエスの復活と人類への出現の背後に深い意味があるのは明白です。なぜならこれらの御業には神の惜しみない気づかいと思慮だけでなく、神の知恵と全能性もこめられているからです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活の意味を理解し、主の働きの中に神の私たち人類への気づかいと思いやりを改めて感じることができるようにしてくださった神の啓きと導きに感謝しましょう。神に感謝!

 


 


迫害と逆境によって得た成長

2020-03-31 00:57:40 | 福音を証しするシリーズ

迫害と逆境によって得た成長

山東省徳州市 パァィ トゥオ

かつて、私は「神様の知恵はサタンの策略を伴って実践され、神様は賢い方で、サタンは神様に敗北した敵である」ということを理論として知っているだけで、実際の認識や体得はありませんでした。その後、神様が用意して下さった環境を通して、私は真理のこの側面に対する実体験を得ることができました。

ある日の午後、集会に参加していると、地区指導者が突然私に駆け寄ってきて、「あなたのお母さんが赤い大きな竜に連れ去られた。しばらくの間、自宅に帰らない方がいい。教会があなたにホストファミリーを用意するから。」と言いました。青天のへきれいのようなこの知らせにびっくりしてしまい、呆然としてしまいました。「お母さんが赤い大きな竜に連れ去られたですって?赤い大きな竜はお母さんにどんな拷問を与えるつもりだろう?お母さんは耐えられるのかしら。もう二度とお母さんに会えないかもしれない。どうしよう。」そんなことを考えると私の心は痛み、涙が止まりませんでした。集会が終わった後、私は教会が用意してくれたホストファミリーの家に案内されました。そこでの生活が落ち着くと、また母のことを考え始めました。私が家族の中で最も母に近い存在でした。未信者の父は私に信仰を捨てさせようとし、姉は私が神を信じたからと私を無視し、親戚もみな私と縁を切りました。それでも私が寂しくならなかったのは、同じ神様を信じる母がいたたからです。霊的にも肉体的にも、母は常に私を助け、愛情を注いでくれました。何か問題があれば、いつでも母に相談することができました。心の支えだったと言えます。その唯一の支えだった母が、赤い大きな竜に連れ去られたのです。私は突如として孤児になったかのように感じ、これからどう歩んでいけば良いのか、困難に直面したら誰に相談すれば良いのか分かりませんでした。その後数日間、私は泣き続け、苦しみと落胆の中にいました。その状態から抜け出すことができずにいると、自分の中で導きがありました。「そのように闇の中を歩き続け、サタンに笑いものにされるままになっていたいのですか。神の働きの中で神を認識し、光の中で生きていきたいと思わないのですか。」この言葉により、私はすぐに目覚めました。その通りだと思いました。こんな風に闇の中を生きてサタンの笑いものにされたいのか。いいえ、そんなのは絶対に嫌です!私に降り掛かったこの状況は、神様のご好意に違いない。その後、私は何度も神様の前に出て祈り求め、私を啓き、神様の御心が理解できるようにと願いました。

しばらくして、私は、それまで理解しておらず、実践することができなかった真理の一部において成長した自分に気が付きました。かつて私は家庭で甘やかされ、食事やファッション、そして遊びが私の時間のほとんどを占めていました。私の肉は自分の考えと異なる扱いや僅かな困難にも耐えられませんでした。私が家を離れてホストファミリーと暮らすようになって数日もすると、私は、家にいた時のように、したいこともできなくなり、好き勝手はできなくなりました。徐々に、私の甘やかされた性格や悪い癖は減り、食べ物と着る物がある生活に満足すべきであると理解するようになりました。また、肉の本質を見抜けるようになり、二度と肉の満足を追い求めなくなり、被造物にとって神様を満足させることを追い求めることが最も重要だと知るようになりました。かつて、母がまだ家にいた頃は、肉体にまつわる問題であれいのちの問題であれ、常に母に頼り、解決してもらいました。問題が起きた時には、神様に祈ることも真理を求めることもせず、神様とも正常な関係を築いていませんでした。母が連れ去られてからは、私は困難に遭遇した時に頼れる人がいなくなってしまいました。今まで以上に神様の前に祈り、神様の言葉を飲食し、御心を求める他ありませんでした。徐々に、私の心の中に占める母の場所は小さくなり、神様の場所が大きくなっていきました。必要であればいつでも神様は私を助けることができ、一瞬たりとも神様の側を離れることができないと感じました。さらに、私は、問題を解決するために、祈りに頼り、真理を追求することに頼ることも学びました。神様の側にいることによって得る平和、確信、信頼感を味わうことができました。家にいた頃は、神様を信じる人と信じない人は互いに相容れない二つの異なるグループであることは知っていましたが、自分の両親と姉だけが私の家族で、教会の兄弟姉妹は部外者のように距離を感じていました。神様は私が家から“追い出される”経験を用い、私が朝から晩までずっとホストファミリーの兄弟姉妹と過ごすようになったことで、兄弟姉妹の私に対する思いやりと配慮、忍耐と理解を感じることができました。私たちは同じ言葉を話し、同じ志を抱いて、助け合って生活しました。この人達こそ私の本当の家族で、教会の兄弟姉妹こそ私の父、母、兄弟だと、心から感じました。兄弟姉妹との間に距離を感じることはなくなり、大家族の中にいる温かさを感じるようになりました。兄弟姉妹と過ごす環境の中で、互いに愛し合い、赦し合い、支え合って生活することを学び、私は正常な人間性を取り戻していきました。家で生活し、集会と説教に頼って生活していた時には実践できなかった真理でした。母が赤い大きな竜に連れ去られて私が家を出なければならないという特異な環境の中、知らないうちに神様は私にこの真理をもたらし、理解を深めるようにしてくれました。この真理に入ってからは、神様を愛し、満足してもらう心がかつてないほど強くなり、人生の全てを神様のために生きるという思いが確固たるものになりました。かつての自分、つまり、神様を信じてはいるけれど、目的もなく、問題があればすぐに弱ってしまうような自分が、徐々に変化していきました。神様が私に授けてくださったものは、私が想像できないほど素晴らしいものでした。私の心に神様に対する感謝と称賛が溢れました。

ある日、私がディボーションをしていると、神様の次のような言葉を目にしました。「この働きを行うに際して、神は、サタンによって堕落させられた人間が自身の素晴らしい救いを受けられるようにしただけでなく、自身の英知、全能性、および権威を人々が知るようにもした。そして最後に神は、人が自身の義の性質を見るようにする。つまり、邪悪な者を罰し、正しい者を報いる。神は今日まで戦ってきて、一度も負かされたことはない。それは神が知恵に満ちており、神の英知はサタンの策略に基づいて行使されるからだ。……神は今日、依然として同じ現実的方法で自身の働きを実行している。さらに神は、自身の働きを実行するとき、自身の英知と全能性を示す。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より)神様の言葉は突然私の心を照らしました。私は心の奥底からの感嘆の言葉を漏らしました。神様は本当に賢いお方!神様は本当に素晴らしい、人間には予測できない働きをされる。私の今の状況は一見、唯一頼ることのできた母が赤い大きな竜に連れ去られたために私は家に帰ることが困難になり、神様への信仰が妨げられ、サタンに屈服し、信仰的に弱り、信仰を手放すように赤い大きな竜に脅されているようなものと映るかもしれませんが、神様の知恵はサタンの策略の上に働いており、サタンの策略を大いに利用しているのです。神様は、私が自分の快適な巣から離れてこの環境にいることで私の意志を鍛え、試練を通る決意を完全なものとし、自立して生活できるように訓練し、正常な人間性を生きることを教え、真の人間になることを教えられました。楽で心地よい環境では理解することのできない、得ることのできない真理でした。この環境を通して、神様は私の人生において真理と神様そのものを教え、そうすることによって、赤い大きな竜による迫害に屈しないばかりか、神様からの真理を得て、神様の救いに導かれたのです。それだけでなく、赤い大きな竜の迫害により、神に抵抗する竜の残忍さと残酷さを更にはっきりと知りました。今まで以上に赤い大きな竜を嫌うようになり、神様を愛する気持ちが益々強くなりました。

神様に感謝します!このような経験をしたことで神様の全能性と支配を実際に理解し、また、神様の知恵がサタンの策略の上に働くことを経験することができました。私に降りかかることで人間の観念にそぐわないものには全て、神様のご好意が含まれているのだと分かりました。サタンがどれほど策を講じても、神様は常に賢いお方であり、神様の敵であるサタンは敗北するのです。それを理解した私の神様に従う意志は更に固いものとなったので、これからも信仰に満たされて前進していきます。

 


ノアの日々が来た」終わりの日の箱舟に乘る 日本語

2020-03-29 12:04:55 | 福音を証しするシリーズ

「ノアの日々が来た」終わりの日の箱舟に乗る  日本語 


ノアの時代の人類を振り返りましょう。悔い改めることを考えずに、人はあらゆる種類の邪悪な活動を行いました。誰も神の言葉を聞きませんでした。人々の頑固さと悪は神の怒りを呼び起こし、ついに大洪水の災いに人々は飲み込まれました。ノアと彼の八人の家族だけが に耳を傾け、生き延びられました。今日、世の終わりはすでに到来しました。人類の堕落はさらに深刻になってきています。誰もが悪をあがめます。宗教界全体は世界の潮流に従います。人々は真理を少しも愛しません。ノアの時代はすでに到来しました。人類を救うために、人類の中で世の終わりの裁きの働きを行おうと、神はもう一度再来しました。これは神が人を救う最後の時です。人類は何を選べばよいのでしょうか。
これは実話です。四川省の清平镇の住民たちは全能神の国の福音を受け入れることを繰り返し拒否したため、二度の災いを経験しました。汶川大地震の間、全能神を信じる多くの兄弟姉妹たちは神によって奇跡的に保護され、生き残りました。これらの事実は証しを立てられました。神を受け入れ従う人々と神を否定し抵抗する人々です。これらの二種類の人々には、ふたつの非常に異なる結末があります。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


終末の預言は成就された──主の二度目の来臨をどうお迎えすればよいか

2020-03-26 20:34:05 | 福音を証しするシリーズ

終末の預言は成就された──主の二度目の来臨をどうお迎えすればよいか

目次
● 主はどのように来られるか
● 再臨されたとき主はどのような働きをなさるのか
● 主の来臨をどうお迎えすればよいのか
2000年前、主の弟子たちはイエスに尋ねました。

「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」(マタイによる福音書 24:3)

主イエスは答えられました。

「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書 24:6–8)

今日、世界中でますます多くの災厄が発生しています。地震、伝染病の流行、飢饉、戦争、洪水が相次いで起こっています。2019年の暮れには、中国の武漢で新型コロナウィルスが発生しました。その感染率は驚異的です。わずか数ヶ月のうちに感染例が中国全土で出現し、中国はまたたく間に大混乱に陥りました。死亡者数が増えつづけるなか、多くの省、直轄市、村が次々と閉鎖されつつあります。このウィルスはさらに国境を越えて、世界の20ヶ国以上に広まっています。それに加えてオーストラリアでは、2019年の9月から2020年の1月にかけて森林火災のために、5900棟以上の建物が焼失し10億匹以上の動物の命が奪われました。2020年1月には同じオーストラリア大陸が百年に一度の集中豪雨に見舞われ、洪水が発生し多くの淡水生物が死にました。インドネシアでは同月の洪水のために、何万人という人々が家を失っています。さらにフィリピンで火山が噴火、アフリカで過去25年間で最悪のバッタが大量発生、中国の新疆でマグニチュード6.4の地震が発生……と、こうした例は枚挙に暇がありません。主の来臨を告げる聖書の預言が成就されているのです。こうしたことは主が戻られたことを明白に示しています。では私たちはなぜまだ主の到来をお迎えしていないのでしょうか? このようなことが続けば、私たちは大患難に陥るのではないでしょうか? また主の来臨をお迎えするために、私たちは一体何をすべきなのでしょうか?

主はどのように来られるか
多くの人が次のような聖書の言葉を読んでいます。

「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。」(ヨハネの黙示録 1:7)

「そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30)

そうした人々は主が雲に乗って来られると確信しています。それなのに私たちがこのような光景をまだ目にしていないのでなぜでしょう? これが主が来られる唯一の方法なのでしょうか? 実をいうと、私たちは主の来臨に関して大きなことを一つ見落としているのです。聖書には神が秘かに来られるという預言もあるのです。

「見よ、わたしは盗人のように来る。」(ヨハネの黙示録 16:15)

「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイによる福音書24:44)

「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24–25)

聖書にある「盗人のように」、「夜中に……呼ぶ声がした」という言葉は、終わりの日に再臨される主が、ひっそりと秘かに戻られることを示しています。では「人の子」は何を称しているのでしょうか? 「人の子」は間違いなく人から生まれます。母親と父親がいて肉と血から生まれるのです。たとえば主イエスです。イエスは人間の間で生活する普通の人間の姿で受肉されました。つまり「人の子」という言葉は受肉した神を称しているのです。霊は人の子とは呼ばれません。また聖書は次のようにも述べています。

「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」

この一節は紛れもなく、主が戻られるときは、ひどい苦しみを受けその時代の人々に捨てられるであろうと述べています。神が人の子として受肉したときに限って捨てられるのは、肉となった神があまりにも平凡すぎて、人々が神であると知らないせいであることを、私たちはみな知っています。人々が神を普通の人間として扱うので、その結果神は厳しい苦難に遭うのです。ところが主が霊として人の前に現れれば、善人であろうと悪人であろうと、信者であろうと不信仰者、あるいはたとえ神に敵対する者であろうと、あらゆる者が神の前にひれ伏して崇めるでしょう--そうなれば誰が神を捨てられましょう? またどうして神が苦しみを受けることになりましょう? こうしたことは、終わりの日の主が受肉した人の子として人間の前に現れることを示しているのです。

再臨されたとき主はどのような働きをなさるのか
ここまで読んで、困惑している兄弟姉妹もいるかもしれません。終わりの日に主が秘かに来られて人間の間で働きをなされるなら、雲に乗って来られるという預言はどのようにして成就されるのかと。神の働きには段階と計画があります。神はまず肉となって秘かに到来し、人を救う働きを実行されてから、雲に乗って人の前に公に現れられます。この疑問を理解するために、私たちは主が終わりの日に再臨するときになさる働きについてもっと知らなくてはなりません。主イエスはこう語られています。

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)

「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:48)

「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。」(ヨハネによる福音書 5:22)

聖書には次のようにも書かれています。

「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

こうした聖句は、終わりの日の神がもっばら御言葉を発して、神の家から始まる裁きの働きを行うために来られると告げています。その結果、終わりの日における神の裁きの働きを受け入れる者は主の到着をお迎えし、神の前に引き上げられることになるのです! 今日、受肉した全能神がこれまで発された何百万もの御言葉はすべて、『言葉は肉において現れる』という本に収録されています。この本の中で全能神の御言葉は、これまで私たちに理解できなかった多くの謎を明らかにしています。たとえば人類の発達の歴史、サタンがいかに人類を堕落させ、神がいかに人を救うのか、どのような者が神に愛され、どんな者が嫌われるのか、さまざまな分類の人々にどのような結果や終着点があるのか、といったことです。それだけでなく神は、裁きと刑罰の御言葉をも表して、私たちの堕落した性質を明らかにされています。神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れる者はみな、堕落した性質を清められ変化を遂げるのです。そして大患難の前に勝利者とされ、最後には神の国に入り永遠の至福を享受することになるのです。神が肉となって秘かに働かれている時期にその声を聴こうとしない者や、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れない者、自らの観念や想像にもとづいて受肉した神を非難し冒涜する者は、正体を暴かれて神に淘汰されるでしょう。さらに小麦と毒麦、子羊と山羊、思慮深い処女と愚かな処女、よきしもべと悪しきしもべ、真理を愛する者と忌み嫌う者は、それぞれ真の姿を暴かれ種類に応じて分類されます。その後神は雲に乗って来臨し、地上のあらゆる国と諸民族の前に公然と現われて、良き者に報いを与え悪しき者を罰しはじめられます。かくして聖書の次の預言は成就されるのです。

「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7)

「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30)

その時神に敵対し、神を拒絶し、非難した者はみな、自らの悪行のために胸を打って後悔に苛まれることになります。神の働きから、神がいかに義であり全能で賢明であるかを、私たちは知るのです!

主の来臨をどうお迎えすればよいのか
今日、受肉した全能神はすでに一団の人々を征服し救われています。またそうして勝利者を完全にされています。神の秘かな働きは間もなく終了し、その後ただちに地上にあらゆる種類の大患難が降りかかるでしょう。私たちの前には、主イエスの再来をどうお迎えし、終わりの日の神の働きをどう受け入れるべきなのかという、差し迫った課題があります。主イエスはおっしゃっています。

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書 10:27)

聖書には次のような預言もあります。

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2:7)

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

さらに全能神はこう語られています。

「神の働きは強く打ち寄せる大波のようなものである。誰も神を引き留めることはできないし、誰も神の歩みを停止させることはできない。神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め、渇望する人々だけ神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる。そうしない者は圧倒的な災難を被り、当然の罰を受ける。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)あなたは子羊の歩みと歩調を合わせたいですか? 主をお迎えしたいですか? 大患難の前に引き上げられたいと切に願いますか? 神の御言葉が私たちに告げているのは、主をお迎えするつもりがあるなら、重要なのは全能神によって表現された御言葉が真理かどうか、それが諸教会に向けた聖霊の御言葉なのかどうかを考え、それにより神の声に耳を傾ける方法を知るということです。へりくだった心をもって真理を探究し切望すれば、神はすぐにも主をお迎するよう私たちを導いてくださると私は信じます!

アン・ユエン、フィリピン