神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

主の再臨はなぜ雲に乗って公然と降臨することだけでなく、秘かに降臨する受肉を伴うのか。

2020-12-20 23:45:41 | 天の国の福音

 参考聖書箇所

 「見よ、わたしは盗人のように来る」(ヨハネの黙示録 16:15)

 「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書 25:6)

 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)

 「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイによる福音書 24:36)

 「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書 24:30)

「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録1:7)

 関連する神の言葉

 終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

 中略

 裁きの働きは神自身の働きであり、そのため当然ながら神が自ら行わなければならない。それは神の代わりに人が行うことはできない。裁きとは真理を用いて人類を征服することなので、この働きを人のあいだで行うために神が受肉した姿で再び現れることは疑いもないことである。つまり、終わりの日においてキリストは真理を用いて世界各地の人々を教え、彼らにあらゆる真理を知らしめる。これが神の裁きの働きである。『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

 終わりの日において、神は人を完全にするのに、おもに言葉を用いる。神は、人に圧力をかけたり人を確信させたりするのに、しるしや不思議を用いない。それは、神の力を明らかにしない。もし神がしるしや不思議を示すだけならば、神の実在性を明らかにすることは不可能である。したがって、人を完全にすることも不可能である。神は、しるしや不思議によって人を完全にせず、人を潤し牧養するのに言葉を用いる。そしてその後、人は完全な従順と神についての認識を達成することができる。これが、神が行う働きと神が話す言葉の目的である。神は、人を完全にするのにしるしや不思議を示すという方法を用いない。神は言葉を用い、多くの異なる働きの方法を用いて人を完全にする。それが精錬であろうと、取り扱い、刈り込み、あるいは言葉の施しであろうと、神は、人を完全にするために、人に神の働き、神の知恵や驚くべき力についてのより大きな認識を与えるために、多くの異なる観点から話す。『言葉は肉において現れる』の「すべては神の言葉が達成する」より引用

 十字架につけられたのはイエスの肉、罪のための捧げ物としてイエスが捧げた肉体である。普通の人間性をもつ肉体という手段によってイエスはサタンに勝利し、人間を完全に十字架から救った。そして、二度目に受肉した神が征服の働きを行い、サタンを打ち負かすのは、完全な肉の体としてである。完全に普通で現実的な肉だけが征服の働きをその全体におよんで行い、力強い証しを示すことができる。つまり、人間の征服は、受肉した神の現実性と正常さによって効果的になるのであって、超常的な奇跡や啓示によるのではない。この受肉した神の職分は、話すことであり、それによって人間を征服し、完全にすることにある。つまり、肉として現れた霊の働き、肉の務めは、話すことで、それによって人間を征服し、顕示し、完全にし、淘汰することである。『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より引用

 神が肉として到来するのは、おもに神の実際の業を人々が見ることができ、形のない霊を肉において実体化し、人々が神を見たり触れたりできるようにするためである。このようにして、神によって完全にされる人々は神を現すように生き、神のものとされ、神の心に適うものとなる。神が天において話すだけで、実際に地上に来なかったのなら、人々はまだ神を知ることができず、空虚な理論を使って神の業を説くことができるだけで、現実として神の言葉を持つことができない。神が地上に来たのは何よりも、神に獲得されるべき人々の模範、手本として行動するためである。このようにしてのみ、人々は実際に神を知り、神に触れ、神を見ることができ、そうして初めて神のものとして獲得されるのである。『言葉は肉において現れる』の「実際の神は神自身であることを知るべきである」より引用

 神は中国本土、つまり香港や台湾の同胞が言うところの「内地」において受肉した。神が天から地上に来た時、天地の誰もそれに気づかなかった。これが、神が隠れて戻る本当の意味だからである。神は長い間、肉において働き、生活してきたが、誰もそれに気づかなかった。今日に至ってさえ、誰もそのことに気づいていない。おそらく、これは永遠に謎のままだろう。神が今回肉において来たことは、誰一人気づけることではない。聖霊の働きの影響がいかに大規模で強力だとしても、神はいつも平然としており、決して何もさらけ出さない。神の働きのこの段階は、天の領域で行なわれているも同然だと言うことができる。そのことは、目が見える全員にとって明白なのだが、誰もそれに気づかない。神がこの段階の働きを終える時、全人類がそれまでの態度を捨て去り[1]、長い夢から目覚める。かつて神が、「今回肉において来たのは、虎のねぐらに落ちるようなものだ」と言ったことをわたしは覚えている。これが意味するのは、今回の神の働きにおいて神は肉となり、そしてさらに、赤い大きな竜の住み家で生まれるので、今回地上へ来たことで、神は以前にも増して非常な危険に直面するということである。神が直面するのはナイフと銃、そしてこん棒である。神が直面するのは試みである。神が直面するのは殺意に満ちた顔つきをしている群衆である。神は今すぐにも殺される危険を冒している。神は怒りを携えてきた。しかし、神は完全化の働きを行なうために来た。つまり、贖いの働きの後に続く自身の働きの第二部を行なうために来たのである。この段階の働きのために、神は精一杯考え、配慮し、考え得るすべての手段を用いて試みの攻撃を避けており、謙虚に身を潜め、決して自身の身分を誇示しない。……夜が明けるころ、神は大衆に知られることなく地上に来て、肉における生活を始めた。人々はこの到来の瞬間に気づかなかった。みなぐっすり眠っていたかもしれないし、注意深く目を覚ましていた多くの人が待っていたかもしれない。そして多くの人が天の神に無言で祈っていたかもしれない。しかし、これら多くの人の中に、神がすでに地上へ到着していることを知る者は一人としていなかった。神は自身の働きをより円滑に実行し、よりよい結果を達成するために、このようにして働きを行なったのであり、それはさらなる試みの機先を制するためでもあった。人が春の眠りから覚める時、神の働きはそのずっと前に終わっており、神は地上を歩き回って逗留する生活に終止符を打ち、旅立つだろう。『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(4)」より引用

 ユダヤで働きを行なっていた当時、イエスは公然とそうしたが、今、わたしはあなたがたのあいだで秘かに働きを行ない、そして語る。未信者はまったくこれに気づいていない。あなたがたのあいだにおけるわたしの働きは、部外者には閉ざされている。これらの言葉、刑罰、そして裁きはあなたがただけに知らされており、他は誰も知らない。この働きはすべてあなたがたのあいだで実行され、あなたがたにしか明かされていない。未信者の誰もこれを知らない。まだ時が来ていないからである。ここにいるこの人たちは刑罰に耐えた後、完全にされつつあるが、部外者はこのことを何一つ知らない。この働きはあまりにも隠されている。彼らに対し、受肉した神は隠されているが、この流れにある人たちには、神は明らかにされたと言うことができる。神においてはすべてが明らかで、何もかもが明かされており、すべてが解放されているが、これは神を信じる人にだけ当てはまり、その他の者、未信者に関する限り、何も知らされていない。現在、あなたがたのあいだで、中国において行なわれている働きは、彼らが知ることのないよう厳しく封じられている。その働きに気づくようなことがあっても、彼らはそれを断罪し、迫害の対象とするだけで、信じることはないだろう。最も進歩の遅れたこの場所、すなわち赤い大きな竜の国で働くのは決して簡単なことではない。もしこの働きが知られたら、続けるのは不可能だろう。この段階の働きをこの場所で実行するなどとうていできない。もしこの働きが公然と実行されたなら、どうして前進することが許されるだろうか。それはこの働きをもっと大きな危険に晒すことにならないだろうか。この働きが隠されておらず、イエスが見事に病人を癒やし、悪霊を追い出したときのように行なわれたなら、とうの昔に悪魔の「虜にされて」いたのではないだろうか。悪魔は神の存在を我慢できるだろうか。今、わたしが人に説教をし、教えるために会堂へ入って行こうとしたら、とっくの昔に粉々に砕かれていたのではないだろうか。だとしたら、わたしの働きをどうして続けられようか。しるしや不思議が公然と明かされない理由は、隠すためである。だから、わたしの働きは未信者に見られることも、知られることも、発見されることもない。この段階の働きが恵みの時代におけるイエスの働きと同じように行なわれたなら、それは今ほど安定したものではなかっただろう。だから、このようにして密かに働きを行なうのは、あなたがたにとっても、働き全体にとっても有益なのである。地上における神の働きが終わるとき、つまりこの密かな働きが終わるとき、この段階の働きは一気に公にされる。中国に勝利者の集団がいることを、すべての人が知るだろう。肉となった神が中国にいて、その働きが終わったことを知るだろう。その時初めて、人は理解し始める。なぜ中国はいまだ衰退や崩壊の兆しを見せていないのか。実のところ、神が中国でその働きを自ら実行し、人々の集団を完全にして勝利者にしたのである。

 肉となった神は、その働きを自ら実行する間、自分に付き従う人にだけ自身を示すのであり、すべての被造物に示すのではない。神は働きの一段階を完成させるためにだけ肉となったのであり、人に自身の姿を見せるためではない。しかし、神の働きは神自身によって実行されなければならず、よって神が肉においてそうすることが必要なのである。この働きが終わると、神は人間の世界から去る。来たるべき働きの妨げにならないよう、人類のあいだに長期間留まることはできないのである。神が大衆に示すのは、神の義なる性質と神のすべての業だけで、二度肉となったときの姿ではない。なぜなら、神の姿は神の性質を通じてのみ示すことができ、受肉した肉体の姿がそれに取って代わることはできないからである。神の肉体の姿は限られた数の人たちにだけ、つまり神が肉において働く際、神に付き従う人たちにだけ示される。これこそ今、働きが秘かに行われている理由である。『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より引用

 今日、神はパリサイ人とは関わらず、世界が知ることを許してもいない。そして神を知るのは、神に従うあなたがただけである。なぜなら、神が再び十字架にかけられることはないからである。恵みの時代、イエスは自身の福音の働きのために全土で公に教えを説いた。イエスは磔刑の働きのためにパリサイ人と関わった。もしもイエスがパリサイ人と関わり合いにならず、権力者たちがイエスのことを知らなかったならば、どうしてイエスが断罪され、そして裏切られて十字架にかけられるということがあり得ただろうか。したがって、イエスは十字架にかけられるためにパリサイ人と関わったのである。今日、神は試みを避けるべく秘密裏に働きを行なう。二度にわたる神の受肉において、その働きと意義は異なっており、設定も異なっているのだから、どうして神の行なう働きがまったく同じであり得るだろうか。『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

 わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」より引用

脚注

1.「過去の態度を逆転させる」は、いったん神を知ると神についての人々の観念や考えがどのように変化するかに言及している。


終わりの日における神の働きはなぜ霊を通して行われないのか。神はなぜ肉において働きを行うようになったのか。

2020-12-16 22:49:32 | 天の国の福音

 参考聖書箇所

 「モーセは言った、『どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください』。ヤーウェは言われた、『……あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである』」(出エジプト記 33:18-20)

 「ヤーウェはシナイ山の頂に下られた。そしてヤーウェがモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。ヤーウェはモーセに言われた、『下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、ヤーウェのところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである』」(出エジプト記 19:20-21)

 「民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った、『あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう』」(出エジプト記 20:18-19)

 「すると天から声があった、『わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう』。すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、『雷がなったのだ』と言い、ほかの人たちは、『御使が彼に話しかけたのだ』と言った」(ヨハネによる福音書 12:28-29)

 関連する神の言葉

 神による人の救いは、霊の手段や身分を直接用いて行なわれるのではない。と言うのも、神の霊は人が触れることも見ることもできないものであり、人が近づくこともできないからである。もしも神が霊のやり方で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け取ることができないだろう。そして、もしも神が被造物である人の容姿をまとわないなら、人はこの救いを受け取ることができないだろう。なぜなら、ヤーウェの雲に近づける者が誰もいなかったように、人には神に近づく術がないからである。被造物たる人間になることでのみ、つまり自身がなろうとしている肉の身体にその言葉を入れることでのみ、神は自身に付き従うすべての人に直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は神の言葉を自ら見聞きし、そしてさらに、神の言葉を自分のものにすることができ、それによって完全に救われるようになるのである。もしも神が肉とならなければ、血と肉からできた人は誰もそうした偉大な救いを受けることができないし、誰一人救われることもないだろう。神の霊が人類のあいだで直接働いたなら、人類は残らず打ち倒されてしまうか、神と接する術がないまま、完全にサタンの虜とされるだろう。『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

 受肉した神の働きが途方もなく素晴らしいことを、人は今や理解しており、そしてそこには、人には達成できず、奥義や不思議であることがたくさんある。ゆえに、多くの人が服従してきたのである。生まれてこのかた誰にも従ったことがない人たちも、今日、神の言葉を目にすると、そうと気づかないまま完全に従い、あえて吟味しようとも、他に何か言おうともしない。人類は言葉の下で倒れ、言葉の裁きの下にひれ伏している。もしも神の霊が直接人に話しかけたら、ダマスコへ向かうパウロが光の中で地にひれ伏したように、人類はみなその声に服従し、暴きの言葉がなくても倒れるだろう。神がこのように働きを続けたなら、人は言葉の裁きを通じて自分の堕落を知ることができず、ゆえに救いも得られないはずだ。神は肉となることでのみ、自身の言葉を自らすべての人の耳元に届けることができ、それによって聞く耳のある人がすべて言葉を聞き、言葉による裁きの働きを受けられるようにする。これだけが神の言葉による成果であり、霊が出現して人を脅かし、服従させるのではない。この実践的でありながら並はずれた働きを通じてのみ、長きにわたって奥深くに潜んでいた人の古い性質が完全に暴かれ、人はそれを認識して変えられるようになる。これらはすべて受肉した神の実践的働きである。この働きにおいて、彼は実践的に語り、裁きを下すことで、言葉による人への裁きという成果を挙げる。これが受肉した神の権威であり、神の受肉の意義である。それは受肉した神の権威と、言葉の働きが挙げた成果を知らしめるため、また霊が肉において降臨し、言葉による人間の裁きを通じてその権威を実証することを知らしめるためになされる。受肉した神の肉体は平凡かつ普通の人間性の外形だが、受肉した神が権威に満ちており、神自身であり、その言葉が神自身の表現であることを人に示すのは、彼の言葉が挙げる成果である。この手段により、受肉した神が神自身であること、肉となった神自身であること、誰にも犯されないこと、そして誰も言葉による彼の裁きを超えることはできず、いかなる闇の勢力も彼の権威に打ち勝てないことが、全人類に示される。人間が受肉した神に完全に服従するのは、ひとえに彼が肉となったことばであるため、彼の権威のため、そして言葉による彼の裁きのためである。受肉した神の肉体がもたらす働きは、彼のもつ権威である。神が肉になるのは、肉もまた権威をもつことができ、また受肉した神が現実的な方法で、つまり人が見たり触れたりできるような方法で、人類の間で働きを行なうことができるからである。その働きは、すべての権威を所有する神の霊によって直接なされる働きよりもはるかに現実的で、その成果も明らかである。これは、受肉した神の肉体が実践的な方法で語り、働きを行なえるからである。受肉した神の肉の外形は権威をもたず、人が近づけるものである。一方、受肉した神の本質は権威を伴うが、その権威は誰にも見えない。受肉した神が語り、働きを行なうとき、人は彼の権威の存在を感じ取れない。それにより、受肉した神は実際的な性質をもつ働きを容易に行なえる。その実際的な働きはすべて成果を挙げることができる。受肉した神が権威をもつことに誰も気づかなかったとしても、あるいは彼が誰にも犯されないことや、彼の怒りを誰一人知らなかったとしても、ヴェールに包まれた自身の権威、隠された怒り、そして自身が公然と語る言葉を通じ、彼は意図していた自身の言葉の成果を挙げる。言い換えると、受肉した神の口調、言葉の厳しさ、そして彼の言葉のあらゆる知恵を通じて、人は完全に納得するのである。このようにして、人は一見何の権威もないかのような受肉した神の言葉に服従し、それによって人の救いという神の目的を成就させるのである。これが受肉の意義のもう一つの側面である。つまり、より現実的に語り、自身の言葉の現実が人に効果を発揮するようにして、その結果、人は神の言葉の力を目の当たりにできる。したがって、この働きが受肉によってなされなければ、それはほんの少しも成果を挙げることができず、罪人たちを完全に救うことができない。もしも肉にならなければ、神は人には見ることも触れることもできない霊のままだろう。人は肉の被造物であり、人と神は二つの異なる世界に属し、違う性質を有している。神の霊は肉でできた人と相容れることができず、両者の間に関係を築く術はなく、また言うまでもなく、人が霊になることはできない。そうであれば、自身本来の働きを行なうべく、神の霊は被造物の一つにならなければならない。神は最も高い場所に昇ることもできれば、へりくだって人間という被造物になり、人類のあいだで働きを行ない、その中で暮らすこともできる。しかし、人は高みに昇って霊になることができず、ましてや最も低い場所に降りることなどできない。神が肉となって自身の働きを実行しなければならないのは、それが理由である。同じように、最初の受肉の際、受肉した神の肉体だけが磔刑を通じて人類を贖えたのであり、その一方、神の霊が人のための捧げ物として十字架にかけられることは不可能だったに違いない。神は直接肉になり、人のための捧げ物となることができたが、人が直接天に昇り、神が人のために用意した罪の捧げ物を受け取ることはできなかった。そういうわけで、可能なのは天地を何度か行き来するよう神に求めることだけで、人間を天に昇らせ、その救いを受け取らせるのは不可能だろう。と言うのも、人はすでに転落しており、またそれ以上に、人が天に昇ることは到底できず、まして罪の捧げ物を得るなど不可能だからである。よって、イエスが人類のあいだに来て、人には到底成し遂げられない働きを自ら行なうことが必要だった。神が肉となるたび、絶対にそうする必要がある。もしもいずれかの段階が神の霊によって直接行なわれることができたなら、神が受肉という屈辱に耐えることはなかっただろう。『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

 神は終わりの日における新たな働きの段階に入っている。神は自身の性質をより一層明らかにするが、それはイエスの時代の憐れみと愛ではない。神の手には新たな働きがあるので、それは新たな性質を伴う。ゆえに、もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神が受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通じて直接語り、人間には神と直接接触する術がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができるだろうか。もしもこの働きを行なうのが霊だけであれば、人間に神の性質を知る術はないだろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言葉が肉において現われるとき、そして神が自身の性質全体を肉によって表現するときだけである。神は本当に、真に人間のあいだで暮らしている。神は触れることができ、人間は神の性質、および神が所有するものと神そのものと実際に関わりをもつことができる。そうすることでのみ、人間は真に神を知るようになるのである。『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

 神は実際的に肉において現れ、いきいきと命に溢れて人々に見られ、肉において実際に霊の働きを行うことによって、また肉において人々の模範とすることによって、ひとつの群れを神のものとして獲得する。神が肉として到来するのは、おもに神の実際の業を人々が見ることができ、形のない霊を肉において実体化し、人々が神を見たり触れたりできるようにするためである。このようにして、神によって完全にされる人々は神を現すように生き、神のものとされ、神の心に適うものとなる。神が天において話すだけで、実際に地上に来なかったのなら、人々はまだ神を知ることができず、空虚な理論を使って神の業を説くことができるだけで、現実として神の言葉を持つことができない。神が地上に来たのは何よりも、神に獲得されるべき人々の模範、手本として行動するためである。このようにしてのみ、人々は実際に神を知り、神に触れ、神を見ることができ、そうして初めて神のものとして獲得されるのである。『言葉は肉において現れる』の「実際の神は神自身であることを知るべきである」より引用

 神がいまだ受肉していなかったとき、人々は神が言うことのほとんどを理解していませんでした。神の言葉が完全な神性から発せられていたためです。神の言葉の観点と背景は、人間が見ることも触れることもできないものでした。それは、人には見えない霊の領域から発せられていたのです。肉において生きる人間にとって、霊の領域に立ち入ることは不可能でした。しかし神は受肉したあと、人間性の観点から人に対して語り、霊の領域から出てそれを超えました。神は自身の神性、旨、および姿勢を、人間が想像できる物事や、生活の中で見たり遭遇したりする物事を通じ、人間が受け入れられる方法を用い、人間が理解できる言葉で、また人間が把握できる知識で表わしました。そうすることで、人間が神を知って理解し、人間の能力の範囲内で、そして人間に可能な程度まで、神の意図と神が求める基準を理解できるようにしたのです。これが、神の人間性における働きの方法と原則でした。神が肉において行なった働きの方法と原則は、もっぱら人間性によって実現されましたが、それはまさに、神性において直接働いたのでは得られない成果を獲得したのです。『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より引用

(神の言葉の一篇より)

堕落した人類には受肉した神による救いの方が必要である


 神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救いの働きの全段階で、人間をその働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在で、生身の体をもっているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、その働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために人間と同じ属性をもつ肉体をもたなければならない。神がその働きを行うために受肉しなければならないのは、人間が肉体をもっていて、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないためだ。受肉した神の本質と存在は人間の本質や存在とは全く異なるものなのだが、神の外見は人間と変わらず、通常の人間と同じように見える。神は普通の人間のように生活し、神を見る者は、普通の人間との違いを見いだせない。この普通の外見と普通の人間性とは、普通の人間として神がその神性の働きをするには十分である。神の受肉は普通の人間として働くことを可能にし、人々の間での働きを容易にし、さらに、その普通の人間性は人々の間で救いの働きを進めることの役に立つ。神の普通の人間性は人間の間に多くの混乱を招いたが、そうした混乱は神の働きの成果に影響を与えていない。つまり、神の普通の肉体の働きは人間に素晴らしく有益なのである。たいていの人は神が普通の人間であることを受け入れないが、それでも神の働きは効果的であることができ、そうした効果は神が普通の人間であることで達成される。この点に疑問の余地はない。神の肉体における働きから、人間は、神の普通の人間性について人間の間に存在する観念から受けるよりも十倍、数十倍のものを得る。そして、そうした観念はいずれ、すべて神の働きに飲み込まれることだろう。また、神の働きが達成した成果、つまり、人間がもつ神についての認識は、人間が神についてもっている観念をはるかに超える。神の肉体における働きは想像もできないし、測りようもない。神の体はどの人間の肉体とも異なっているからだ。外見は同じでも、本質は異なっている。神の肉体は、神について、人間の間に多くの観念を生み出す。しかし、神の肉体はまた、人間が多くの認識を得ることを可能にする。そして、似たような外見をもつどの人間をも征服できる。神は単なる人間ではなく、人間の外見をもつ神であり、誰も神を完全に理解することはできないからである。目に見えず、触れることもできない神を誰もが愛し、歓迎する。もし神が人間の目には見えない、ただの霊であるならば、人間が神を信じることは容易である。人間は自分の想像力を自由に働かせることができる。神の姿として、どんな姿でも好きなものを選び、それで喜んで満足していられる。このように、人間は自分の神が最も好むこと、この神が人に望むとおりのことなら何でも、何のとがめもなく行うことができる。さらに、人間は、自分よりも神に忠実で信心深い者は誰もいない、他の人はみな異邦の犬で、神に背いていると信じている。これが、神について漠然と教義に基づいた信仰をもつ人々が求めているものであると言える。彼らの求めているのは、どれも同じようなもので、ほとんど違いがない。これは単に、人々の想像している神の姿が異なっているというだけで、その本質は、実際のところ、同じなのだ。

 人間は自分の信仰がいいかげんなものであっても気にとめない。そして、好きなように神を信じている。これは誰も妨げることのできない「人間の権利と自由」の一つなのだ。なぜなら人間は他の誰のものでもない、自分の独自の神を信じているからである。これは私有財産であって、ほとんど誰でも、こうした私有財産をもっている。人間はこれを自分の貴い宝だとみなしているが、神にとっては、これ以上卑しく無価値なものはない。この人間の私有財産以上にはっきりと神に敵対するものはないからである。なぜなら、神が受肉してその働きを行うため、神は触れることのできる形を持ち、人が見、触れることのできる肉体になるからである。神は形のない霊ではなく、人間がさわり、見ることのできる肉体である。しかしながら、人々の信じる神々のほとんどは、生身の体をもたず、形がなく、不定形である。このように、受肉した神は、神を信じる者ほとんどの敵となり、同様に、受肉した神という事実を受け入れることのできない人々も、神の敵となった。人間は考え方や反抗心からではなく、この私有財産のために観念にとらわれているのだ。この私有財産のせいで、たいていの人は死に、この漠然とした、触れることができず、目にも見えない、実際に存在しない神のために、人間のいのちは損なわれている。人間のいのちが失われるのは、受肉した神のためではなく、まして、天の神のせいでもなく、人間が思い描いている神のせいなのである。神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人間のためであって、神自身のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもともと自分のものであるもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人間のためにすること、犠牲とすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人間のためである。受肉した神の働きには想像を超える困難が数多く伴うのだが、それが最終的に達成するものは、霊による直接の働きの成果をはるかに超える。肉の体の働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分をもたないし、霊のような超自然的な業は行えない。まして、霊と同じ権威をももたない。しかし、この平凡な肉の行う働きの本質は、霊が直接行う働きの本質をはるかに上回る。そしてこの肉自体が、全人類の必要に応えるものなのだ。救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊による感動、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは感動あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に備わった本質であるが、こうした働きは受肉した神にしかできない。もし霊だけで働いたなら、神の働きは効果的なものではないだろう――これは明確な事実である。大方の人は、肉のために神の敵になっているが、神がその働きを完了するとき、神に敵対する者たちは敵であることをやめるだけではなく、それどころか神の証人になるだろう。そうした人たちは神に征服された証人、神の心にかない、神と分かちがたい証人になる。神はその肉体における働きの重要性を人間に知らせる。そして人間は、人間の存在の意味にとってこの肉体がどれほど重要であるかを知り、人間のいのちの成長に対するその本当の価値を知り、そのうえ、この肉体が、離れることが到底できない、生きるいのちの泉となることを知るだろう。受肉した神は、本来の神の身分と地位には遠く及ばないし、人間からすると神の本来の地位と相容れないものと思われるだろうが、この肉体、すなわち神の真の姿や身分をもたないこの存在は、神の霊には直接できない働きができるのである。それが神の受肉の真の意味と価値であり、そしてこの意味と価値を人間は理解し、受け入れることができない。すべての人間は神の霊を仰ぎ、受肉した神を見下すが、彼らがどう判断し、どう考えるかに関わりなく、この肉体の真の意味と価値とは霊にはるかに優る。もちろん、これは堕落した人間との関連においてのみ言えることだ。真理を求め、神の現れを待ち望む者すべてにとって、霊の働きは感動と啓示、理解不能で想像もできない不思議な感覚、偉大で超越的で崇めるべきものであるが誰にも達成できず手に入れることのできないものという感覚だけを与える。人間と神の霊とは、遠くから互いを見ることしかできない。まるで両者の間に遠い隔たりがあるように。そして、けっして似ることがない。まるで、人間と神は目に見えない境界で隔てられているかのように。実は、これは霊が人間に与えた幻影である。なぜならば、霊と人間とは種類を異にするものであり、霊と人間はけっして同じ世界で共存できず、霊には人間的な要素は何もないからである。だから、人間には霊は必要ではない。霊には、人間に最も必要な働きを直接することができないからである。肉の働きは求めるべき真の目標、明確な言葉、そして、神が現実的かつ正常で謙虚で普通であるという感覚を人間に与える。人間は神を恐れはするだろうが、たいていの人は神と心安く付き合える。人間は神の顔を見、神の声を聞くことができるし、遠くから見る必要はない。この肉体は人間にとって近づきやすいように思われる。遠くの不可思議な存在ではなく、目に見え、触れられるのだ。この肉体は人間と同じ世界にあるのだから。

 肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには目指すべき目標が必要だ。そして、神を知るには、神の本当の業を見、神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した体でのみ可能なことだ。そして、いずれも普通の現実の体でのみ成し遂げられる。だから受肉が必要なのであり、すべての堕落した人間はこれを必要としているのだ。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の表象を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の表象を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られないだろう。人々の心にある漠然とした神の表象は、言葉だけではさらけ出したり、消し去ったり、完全に除いたりすることはできない。そうしてみても、人間の中に深く根付いているものを消し去るのは不可能だろう。実践の神と神の真の姿を、そうした漠然とした超自然的なものと入れ替え、人々にそれらを徐々に知らしめることによってのみ、目指すべき結果が得られるのだ。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであったことに気づく。これを成し遂げるのは、霊による直接の導きではなく、まして、特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が本格的にその働きを行うとき、人間の固定観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然な神とは正反対なものだからだ。人間の元来からの固定観念は、受肉した神との対照によってのみ明らかになる。受肉した神と比較することなしには、人間の固定観念は明らかにならない。言い換えれば、現にそこにあるものと比較しなければ、漠然とした物事は明らかにならない。言葉によってこの働きのできる者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者は誰もいない。ただ神自身がその働きができるのであって、ほかの誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がどんなに豊かであろうと、神の現実性と正常性を言い表すことはできない。神が人間のもとで自ら働き、自分の姿と実在とをすっかり示してはじめて、人間はもっと実際的に神を知ることができ、もっとはっきり神を見られるのだ。肉体をもつ人間には、この成果を成し遂げられない。もちろん、神の霊もまた、これを成し遂げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救うことができるが、この働きは、神の霊には直接できないことだ。そうではなく、神の霊のまとう人間の体だけが、受肉した神の肉体だけができることだ。この生身の体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備えている一人の人間であるが、また、完全な神性を備えた神でもあるのだ。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、それでも、人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。どのような名で呼ばれようと、つまるところ、それは人間を救う神そのものだ。神の霊は肉体から切り離すことはできず、肉の働きはまた、神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊として行われるのではなく、人間として行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、生身の体を必要とする働きは霊には直接できないもので、受肉した神だけが可能なのだ。これがこの働きに必要なものであり、また、堕落した人間に必要なものなのだ。神の働きの三つの段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接働くことはない。霊が行った律法の時代の働きは、堕落した人間の性質を変えることを伴わず、神について人間が知ることと何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代の受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救いの働きにおける重要かつ不可欠な部分である。だから、堕落した人間には受肉した神による救いの方が、受肉した神の直接的な働きの方がさらに必要である。人間には、受肉した神が導き、支え、水をやり、養い、裁き、罰する必要がある。そして、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要だ。受肉した神だけが人間の親友となり、牧者となり、現実に存在する助けとなることができる。これらすべてが現在と過去において受肉が必要とされる所以である。

 人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救いが必要だ。神の救いの対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救いと、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。したがって、それは二つの目的を一度に果たす働きである。神は肉において働き、肉において語り、すべての働きを肉において行う。人間とよりよく交わり、よりよく征服するためである。この神の最後の受肉において、世の終わりの神の働きは肉において完了する。神は受肉したままですべての人間を種類によって分け、すべての経営(救い)の働きを終え、また、肉における働きをもみな終える。地上での働きがすべて終わると、神は完全な勝利者となる。受肉して働いた神は完全に人間を征服し、人間をすべて自分のものとしている。これは、神による救いの計画がすべて終わるということではないか。神が肉における働きを終えるとき、サタンを完全に打ち破り、勝利するので、サタンには、もはや人間を堕落させる機会がない。神が最初に受肉したときの働きは、人間の罪の贖いと赦しであった。次の働きでは、人間を征服し、完全に自分のものとし、サタンがもはや働けないようになって完全に敗れ、神が完全な勝利者となる。これが肉の働きであり、神自身が行う働きなのだ。神の三段階の働きの最初のものは、霊が直接行ったもので、肉によるものではなかった。しかしながら、神による働きの三段階のうち、最後の働きは受肉した神が行うもので、霊が直接行うものではない。中間段階の贖いの働きもまた、神が受肉して行った。全経営計画を通して、最も重要な働きは人間をサタンの影響から救う働きである。重要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への畏敬の念を回復し、正常な生き方ができるようにする。つまり、神の被造物として正常な生き方ができるようにするのだ。この働きは最も重要なもので、経営の働きの核心である。救いの三段階の働きのうち、最初の段階の律法の時代の働きは、救いの働きの核心から遠いものだった。ただ救いの働きをわずかに現したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは、霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったからであり、律法の時代の働きは、人間の性質の変化はほとんど伴っておらず、どのようにして人間をサタンの領域から救うかという働きとは、さらに関わりがなかったからだ。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関わらない段階の働きを終えた。この段階の働きは、経営の核心にほとんど関係がなく、人間の救いという正式の働きとはあまり関係がなかった。だから、神が自ら受肉して働く必要がなかった。霊の働きはさりげなく行われ、測り難いものであり、人間には非常に恐ろしくて近寄りがたいものである。霊は直接救いの働きをするには適していないし、直接人間にいのちを与えるにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることで、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きをするということである。これには、神が受肉して霊の代わりに働くことが必要であり、人間のために神が働くのに、これ以上ふさわしい方法はない。こうした三段階の働きの中で、二つの段階は、肉体によって行われたが、その二つの段階は経営計画の中の肝要な部分である。二回の受肉はそれぞれ補い合うもので、補完的である。神が最初に受肉した段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、これは、神の二回の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は全経営の計画の中でまことに重要なものであるため、神が受肉してこの二つの段階を実行する。こう言ってもいいだろう――神の二回の受肉の働きがなければ、経営の計画全体は停止し、人類の救いの働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。この任務にふさわしい者は、それが行う働きの性質とその働きの重要性によって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち神の霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊による働きの性質と肉の働きの性質を比べたとき、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉のどちらによって働きを行うか決める際、神はこのように考えたのである。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、また、恣意的に行われたことでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神の働きの背後にある真実である。とりわけ、神自らが受肉して人間の間で働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そこで、神の知恵と神の存在すべてがあらゆる行為、考え、働きの構想に反映されている。これは神のより確固として体系的なありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間には想像しにくく、信じ難いし、そのうえ、知ることも困難だ。人間の行う働きは一般的な原則によるもので、それは人間には極めて満足のいくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは規模が壮大であるが、その陰には人間には想像もできないような多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階までもが原則に則っているだけではなく、人間の言語では表現できないようなことが数多く含まれている。そして、そうしたものは、人間には見えないものなのだ。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働く時、神の目的を伴っている。神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変える時)は、それ以上に目的があってのことである。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなくて、どうして進んで卑しくみなされ迫害される人になるのか。

 受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く――例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が目撃する受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きであって、中国の選民のためだけでも、少数の人のためでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きであるが、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうした言葉についての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。人間がそれをどう評価するかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目に受肉した神はその経営計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上に相応しいものはおらず、受肉した神以上に資格のあるものもいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。受肉して普通の人間性をもった神は、直接人間の不義を裁くことができる。これが神本来の聖さ、すばらしさである。神だけが人間を裁く資格があり、その地位にいる。神には真理と義があるから、人間を裁くことができる。真理と義のない者には他人を裁くことができない。この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出る言葉によって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の刑罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深い働きであり、神の働きの三段階のうちの最も大事な部分は、受肉による働きの二つの段階である。人間の甚だしい堕落は、受肉した神にとって大きな障害である。とりわけ、世の終わりの人々に対する働きは極めて困難で、敵意に満ちた環境で、どの種類の人々の素質もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、滞りなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神の働きの三つの段階は、肉において終結するだろう。そしてそれは受肉した神によって完結しなければならないのだ。最も重要かつ肝要な働きは肉において為され、人間の救いは神が受肉して自ら行わなければならない。人間はみな、受肉した神が人間と関わりがないと感じるだろうが、実際は、この肉体が、全人類の運命と存在に関わっているのだ。

 神の働きのどの段階も、人間のために行われるもので、それはすべての人間のためなのだ。それは受肉した神の働きであるが、それでもすべての人間を対象とする。神はすべての人間の神であり、すべての被造物とそうでないものの神である。受肉した神の働きは限られた範囲のものであるし、この働きの目的もまた限られているが、神が働きのために受肉するたびに、神は、その働きの対象として究極的な代表を選ぶ。神は単純で平凡な集団を働きの対象とはせず、肉の働きのために代表となることのできる人の集団を選ぶ。この集団が選ばれるのは、神が受肉して行う働きの範囲が限られているためで、受肉した神のために特に用意され、受肉した神の働きのために特に選ばれるのである。神が働きの対象を選ぶのは、根拠のないことではなく、原則による。働きの対象は、受肉した神の働きに有益なものでなければならず、また、すべての人間を代表する者でなければならない。たとえば、ユダヤ人はイエス自らによる贖罪を受け容れることで全人類を代表することができた。また、中国人は受肉した神自身による征服を受け容れることで全人類を代表できる。ユダヤ人が全人類を代表したことには根拠がある。また中国人が、神自らによる征服を受け容れることで全人類を代表することにも根拠がある。ユダヤ人の間で行われた贖いの働き以上に贖いの意義を示すものはない。また、中国人の間での征服以上に征服の働きの完全性と成功を明らかにするものもない。受肉した神の働きと言葉は、少数の集団にだけ向けられているもののように見えるが、実際は、この小集団のもとでの神の働きは全宇宙の働きであって、その言葉は全人類に向けられたものなのだ。受肉しての神の働きが終わった後、神に従う人々は、自分たちの間で神が行った働きを広めることとなる。受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類へのな旨を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救いの働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊ではなく、受肉した神の働きの結果なのだ。神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや存在するようでいて存在しないようでもあるものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。神が肉における働きを広めると、神に従う人々は、神が受肉して行った働きをすべての宗教、すべての宗派に伝え、その言葉全部をすべての人間の耳に伝えるだろう。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実で、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、事実であって、噂ではない。こうした事実は神がその働きを広める証拠であり、また、その働きを広めるために用いる道具である。事実がなければ、神の福音はすべての国々、あらゆる場所に伝わらない。事実なしで人間の想像だけであれば、神はけっして全宇宙を征服する働きを行うことはできない。霊は人間には触れることのできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。神はこの段階まで働きを実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神が受肉して直接行った働きは、すでに彼の経営全体の働きの九十パーセントを完了している。この肉体は神の働きすべての良き始まりと神の働き全部のまとめを提供してきたのであり、神の働きすべてを広め、この働き全体に最終的かつ周到な付け足しをした。だから、もう神の働きには、また神が受肉して行う第四の段階はなく、三度目に受肉した神が驚くべき働きを行うこともない。

 受肉した神の働きは、肉において行われなければいけない。もし霊が直接行ったとしても、それは何の成果も得られないだろう。たとえ霊が行ったとしても、その働きはこれといった意味をもたず、結局は説得力を欠くであろう。被造物はみな、創造主の働きが有意義なものであるかどうか、それは何を示すのか、それは何が目的なのか、神の働きは権威と知恵に満ちたものなのかどうか、また、それが最高の価値と意義のあるものなのかを知りたいと願う。神が行う働きはすべての人間の救いのためであり、サタンを打ち破るためであり、そして万物のもとで自身の証をするためである。だから、神の行う働きにはまことに重要な意味があるはずだ。人間の肉はサタンによって堕落し、最も深く盲い、まことに深く損なわれた。神自らが受肉して働く最も根本的な理由は、救いの対象が肉の体をもつ人間であり、サタンもまた人間の肉を用いて神の働きを妨げているためである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救いの対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉を堕落させ、人間はサタンの体現者となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければいけない。この働きは極めて実際的なものだ。神が受肉して働いている時、神は実際はサタンと肉において戦っている。神が肉において働くとき、神は霊的領域の働きをしており、霊的領域での働きのすべてを地上で現実的なものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの体現者(もちろん、これもまた人間)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形をもつ人間になることがますます必要なのは、神がサタンと真の戦いを行えるようにであり、それにより神に対して不服従で神と同じ姿をもつ人間を征服し、神と同じ姿をもちサタンによって損なわれた人間を救うためである。神の敵は人間、その征服の対象は人間、救いの対象も神の被造物である人間だ。そこで、神は人間とならなければいけない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなるのだ。神はサタンに勝利し、人間を征服し、そのうえ、人間を救うことができる。この肉は普通で現実のものであるが、神はありふれた肉体ではない。神は単に人間である肉体なのではなく、人間と神の両方ある肉体なのだ。これは神と人間との違いであり、これが神の身分のしるしなのだ。このような肉体にだけ、神の意図する働きができ、肉における神の務めを果たし、人間たちの間での働きを完了できる。そうでなければ、神の人間たちの間での働きは、いつも空虚で不完全なものとなる。神がサタンの霊と戦って勝利者となることができても、それでは堕落した人間の古い本性はけっして直せないし、神に不服従で敵対する者たちは、けっして真に神の支配に服従することもできない。つまり、神はけっして人類を征服することができず、けっして人類全体を得られないということだ。神の地上での働きが完了しなければ、神の経営はけっして終わらず、全人類は安息に入ることができない。もし神がすべての被造物と共に安息に入れなければ、このような経営の成果はなく、神の栄光はその結果消える。神の肉体には何の権威もないが、神の行う働きは成果を達成していることだろう。これが神の働きの明確な方向である。神の肉体に権威があるかどうかにかかわらず、神としての働きを遂行できるならば、それは神そのものだ。この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がするべき働きができるのは、この肉が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉が人間にはできない働きができるのは、その内なる性質が人間のそれと異なっているためで、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからだ。この肉の体が人類にとって極めて重要なのは、それは人間である、かつそれ以上に神であるからだ。それは通常の人間には不可能な働きが可能だからであり、神には地上で共に暮らす堕落した人間を救うことが可能なためである。神は人間と同じ外見をもつが、受肉した神はどんな重要人物よりも人間にとって重要である。それは神の霊には不可能な働きが可能だからであり、神自身について霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人間を得ることができるからだ。その結果、この肉は普通で平凡であっても、その人類への貢献と人類存在にとっての意義により、この肉体は極めて尊いものとなる。そしてこの肉の真の価値と意味は誰にとってもはかりしれないものがある。この肉は直接サタンを滅ぼすことはできないが、神はその働きによって、人間を征服し、サタンを打ち負かせる。サタンを完全に支配下に下せる。これは、神が受肉したから、サタンに勝利して人類を救うことができるのだ。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きをするため受肉する。このようにして、神は被造物のもとで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、被造物のもとでよりよく神自身を証しできる。『言葉は肉において現れる』より引用


終わりの日に再臨した主イエスは、いったいどのような働きを行うのか。

2020-12-14 20:22:03 | 天の国の福音

参考聖書箇所

 「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:47-48)

 「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)

 「すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」(ヨハネの黙示録 5:5)

 「終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、『さあ、われわれはヤーウェの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう』と。律法はシオンから出、ヤーウェの言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」(イザヤ書 2:2-4)

 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(ヨハネの黙示録 22:12)

関連する神の言葉

 イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用

 神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用

 終わりの日に受肉した神が地上に来たのは、おもに言葉を述べるためである。イエスが来た時、天国の福音を広め、十字架の贖いの働きを成就した。イエスは律法の時代を終わらせ、古いものをすべて取り除いた。イエスの来たことで律法の時代が終わり、恵みの時代を招き入れたのである。終わりの日の受肉した神が来て、恵みの時代は終わった。神は、おもに言葉を述べるために来た。言葉を用いて人間を完全にし、人間を照らし、啓き、人間の心にある漠然とした神のいる場所を取り除くために来た。これはイエスが来たときに行った段階の働きではない。イエスが来た時には、多くの奇跡を行い、病人を癒やし、悪霊を追い払い、十字架で贖いの働きを行なった。その結果、人間の観念では、神はこのようでなければならないと考える。イエスが来た時、漠然とした神の姿を人間の心から取り除く働きはしなかったからである。イエスが来た時、十字架につけられ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、天国の福音を広めた。ある意味で、終わりの日の神の受肉は、人間の観念において漠然とした神が占めている場所を除き、それにより人間の心に漠然とした神がもはや存在しなくなるようにするのである。神はその実際の言葉と働き、地上のあらゆる場所を移動すること、そして人々の間で行う極めて現実的かつ普通の働きを通じて、人々に神が実在することを知らせ、人間の心にある漠然とした神の場所を取り除くのである。別の意味では、神は肉の体が語る言葉を使って人間を完全にし、すべてを成就する。これが神が終わりの日に達成する働きである。『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より引用

 終わりの日の働きは言葉を語ることである。言葉により、大きな変化が人の中で生じ得る。現在、それらの言葉を受け入れた人たちに生じる変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちに生じた変化よりもはるかに大きい。と言うのも、恵みの時代において、悪霊は按手と祈りによって人から追い出されたが、人の中の堕落した性質が依然残っていたからである。人は病を癒され、罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる。イエスが働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識はいまだ漠然として不明瞭だった。人はずっとイエスをダビデの子と信じ、イエスは偉大な預言者で、人の罪を贖う慈悲深い主であると宣言した。信仰のおかげで、イエスの衣の端を触っただけで癒された人もいたし、盲人たちは見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的性質が自分自身に深く根づいているのを見出すことができず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない。したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである。『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

 終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

  中略

 ……「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉をあなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日にキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

 今日、神はおもに「言葉が肉において現れる」という働きを完成するために、言葉を用いて人を完全にするために、そして人が言葉による取り扱いと精錬を受け入れるように、肉になった。神の言葉において、あなたは神に施され、いのちを与えられる。神の言葉において、あなたは神の働きと業を見る。神はあなたを罰し精錬するために言葉を用いる。したがって、もしあなたが苦難に会うなら、それはまた神の言葉によるものである。今日、神は事実でなく言葉を用いて働く。神の言葉があなたに届いてはじめて、聖霊はあなたの中で働きをすることができ、あなたに苦痛を感じさせたり甘美さを感じさせたりすることができる。神の言葉だけが、あなたを現実に至らせることができ、神の言葉だけが、あなたを完全にすることができる。したがって、終わりの日に神が行う働きはおもに言葉を用い、すべての人を完全にし、人を導くことであることを、せめてあなたは理解しなければならない。神はその働きのすべてを言葉を通じて行なう。神はあなたを罰するために事実を用いない。時には神に抵抗する人もいる。神はあなたに大きな不快感をもたらさず、あなたの肉は罰せられず、あなたは苦痛を味わうことはない。しかし、神の言葉があなたに届き、あなたを鍛錬するようになるとただちに、それはあなたにとって耐えられないものになる。そうではないであろうか。効力者の期間に、人を底なしの穴に投げ入れると神は言った。人は実際に底なしの穴に落ちたであろうか。人を鍛錬するための言葉だけで、人は底なしの穴に入っていった。このように、神が肉となる終わりの日には、神はすべてを成し遂げ、すべてを明らかにするためにおもに言葉を用いる。神の言葉の中においてのみ、神であるものを知ることができる。神の言葉の中においてのみ、神が神自身であることを知ることができる。肉となった神が地上に来るとき、神は言葉を話すこと以外のどのような他の働きもしない。したがって、事実は必要でない。言葉で十分である。おもにこの働きをするために、神の力と至高を人が神の言葉の中に見ることができるように、神が身を低くして自身を隠していることを人が神の言葉の中に見ることができるように、そして神の完全性を人が神の言葉の中に知ることができるように、神は来たからである。神が所有するものおよび神の存在のすべてが、神の言葉の中にある。神の知恵や素晴らしさも神の言葉の中にある。この中に、神が言葉を話す多くの方法を人は見ることができる。『言葉は肉において現れる』の「すべては神の言葉が達成する」より引用

 神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代の到来を知らせ、その働きの方法を変え、その時代全体の働きを行う。これが言葉の時代における神の働きの原則である。神はさまざまな視点から語るために肉となって、肉に現れた言葉である神を人間が真に目のあたりにし、神の知恵と驚くべき素晴らしさを目にできるようにした。このような働きは人間を征服し、完全にし、淘汰するという目的をより効果的に達成するために行われており、それが言葉の時代に言葉を用いて働きを行うことの真の意味なのである。こうした言葉を通して、人々は神の働き、神の性質、人間の本質、そして人間が何に入るべきかを知るようになる。言葉を通して、神が言葉の時代に行おうとしている働きの全体が実を結ぶのだ。こうした言葉を通して、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人々は神の言葉を目にし、その言葉を聞き、その言葉の存在を認識した。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、そして神の人間への愛と、人間を救いたいという願望とを信じるようになった。「言葉」という語は単純でごく普通かもしれないが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがし、人々の心を変革し、人々の観念と古い性質を変革し、世界全体の古い現れ方を変革する。多くの時代の中で、今日の神だけがこのように働いてきており、そして今日の神だけがこのように語り、このように人間を救いに来る。これ以降、人間は言葉の導きの下に生き、神の言葉により牧され、施しを受けることになる。人々は神の言葉の世界で、神の言葉の呪いと祝福の内に生きている。そしてさらに多くの人々が、神の言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになっている。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、そして過去の創造による世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、言葉をもって全宇宙の人々を導き、言葉をもって彼らを征服し救う。そして最終的に、神は言葉をもって古い世界全体を終わらせ、その経営(救いの)計画全体を完了させる。『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より引用

 神がこの時代に実行する働きは、おもに人間のいのちのための言葉を与えること、人間の堕落した性質および人間の本性の実質を暴くこと、そして宗教的観念、封建的思考、時代遅れの考え、さらに人間の知識と文化を一掃することである。これらのことはすべて神の言葉による暴きを通して清められなければならない。終わりの日において、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、それにより人間が言葉の中に神の知恵と愛らしさを見、神の性質を知り、神の業を目にするようにする。『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より引用

 時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

 刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。この働きが終わる時、生き残ることを許された人は、みな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。……悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用


「因果応報」と人はよく口にするが、神がいま悪人を残らず滅ぼさないのはなぜか

2020-12-10 13:50:59 | 天の国の福音

参考聖書箇所

 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」(伝道の書 3:1)

 「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう」(ルカによる福音書 17:26-30)

 「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう」(マタイによる福音書 16:27)

 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(ヨハネの黙示録 22:12)

 「万軍のヤーウェは言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。……また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる」(マラキ書 4:1-3)

関連する神の言葉

 神のすることはすべて緻密に計画されています。神が物事や状況を見るとき、神の目にはそれを測る基準があり、その基準によって神は、その物事や状況に対応するための計画を開始するか、またはどのようなやり方でそれを扱うかを決定します。神はあらゆる物事に対して、無関心だったり無感情だったりすることはなく、実際まったくその逆です。この聖書のくだりでは、神はノアにこう言っています。「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」。ここで神は、人間だけを滅ぼすと言っているでしょうか。そうは言っていません。神は肉なるものをすべて滅ぼすと言っているのです。なぜ神は滅ぼそうとしたのでしょうか。ここに、神の性質の現れをもう1つ見て取ることができます。神にとっては、人間の堕落とすべての肉なるものの汚れ、暴力、不従順に対して、忍耐できる限界があります。その限界とは何でしょうか。神はこう言っています。「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」。この「すべての人が地の上でその道を乱したからである」という部分は何を意味するのでしょうか。それは、神に従った者、神の名を呼んだ者、かつて神に全焼のいけにえを捧げた者、言葉で神の存在を認め賛美さえした者も含め、生きとし生けるすべての者は、その態度が堕落に満ちそれが神の目に触れれば、神によって滅ぼされずにいられないということです。それが神の忍耐の限界でした。ではどの程度まで神は人間に耐え、すべての肉なるものの堕落に耐えたのでしょうか。それは神に従った者もそうでない者も、すべての者が正しい道を歩まなくなるまでです。人間が単に道徳的に堕落し悪に満ちるだけでなく、誰一人として神の存在を信じなくなり、ましてや神が世界を支配していることや人々に光を与え正しい道へと導けることを、信じるものが一切いなくなるまでです。そして人間が神の存在を憎み、神の存在を認めなくなるまでです。人間の堕落がここまで来ると、神はもう忍耐できませんでした。ではその状態は何に取って代わられたのでしょうか。それは神の怒りと懲罰の到来です。それもまた、神の性質の部分的な現れではなかったでしょうか。現在この時代に、神の目から見て正しい者はいないのでしょうか。神の目から見て完全な者はいないのでしょうか。今の時代は、地上の肉なる者すべての振る舞いが、神の目に堕落と映る時代なのでしょうか。現代では、神が完全にしたいと望む者、神に従い神の救いを受け入れられる者を除けば、すべての肉なる人々が神の忍耐の限界に達しているのではないでしょうか。あなたがたの身の回りで起こること、目で見て耳で聞くこと、この世で日々体験することは、すべて暴虐に満ちてはいないでしょうか。神の目には、このような世界、このような時代は、もう滅ぼされるべきものなのではないでしょうか。今の時代背景はノアの時代背景とまったく違いますが、人間の堕落に対する神の感情と怒りはまったく同じです。神はその働きのために忍耐を持つことができますが、状況や条件を鑑みれば、神の目にはこの世界はとうの昔に滅ぼされているべきものなのです。今の世界の状況は、洪水で滅ぼされる前の世界よりもはるかにひどいものです。『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より引用

 ノアの時代、人々は神が見るに堪えないほど飲んだり、食べたり、勝手気ままに結婚したり結婚させたりしていたので、神は大洪水を引き起こして人類を滅ぼし、ただノアの家族八人とあらゆる種類の鳥と獣だけを残した。しかしながら、終わりの日に神に守られるのは、最後まで神に忠誠を尽くしたすべての人々である。どちらも神が見るに耐えないほどのひどい堕落の時代であり、どちらの時代の人類も主である神を否定するほどひどく堕落していたが、ノアの時代の人はすべて神に滅ぼされた。どちらの時代の人類も神をひどく悲しませたが、神は終わりの日の人々には今日に至るまで忍耐深い。それは何故なのか。あなたがたはこのことを一度も考えたことがなかったのか。本当にそれを知らないなら、わたしがあなたがたに話そう。終わりの日に神が人々を恵み深く取り扱うことができる理由は、彼らがノアの時代の人々ほど堕落していないからでも、彼らが神に悔い改めを示したからでもない。まして、テクノロジーが進歩した終わりの日に人間を滅ぼすことに神が耐えられないからでもない。むしろ、神には終わりの日に一群の人々に対して行う働きがあり、これは受肉の神自身によってなされるからである。その上、神はこの一群の一部を救いの対象、神の経営(救いの)計画の実として選び、そのような人々をともなって次の時代へと連れてゆくのである。『言葉は肉において現れる』の「あなたは知っていたか。神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを」より引用

 今日、そうした者の行動を問わず、そうした者は、神の経営を阻害せず、神の新たな働きと無関係である限り、相応の罰の対象とはならない。なぜなら、怒りの日はまだ到来していないからである。神が既に取り扱うべきであると人々が思っている事はたくさんあり、人々はそれらの悪を行う者は、できるだけ早く罰を受けるべきだと考えている。しかし、神の経営の働きはまだ終結しておらず、また怒りの日がまだ到来していないので、不義な者は不義な行動を行い続ける。……現在は、人間の罰の時ではなく、征服の働きを行う時であるが、神の経営を阻害する者が居る時はこの限りでなく、その場合、そうした人々は、行動のひどさにより罰を受けるであろう。『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より引用

 神が人に働きかける目的は、人が神の心を満足させることができるようにするためであり、それは人に救いをもたらすために行われる。従って、神による人の救いの期間においては、神は人を罰する働きはしない。人に救いをもたらしつつ、神は悪を罰したり、善人に報いたりせず、さまざまな種類の人の終着点を明らかにすることもない。その代わり、神の働きの最終段階が完了して初めて、神は悪を罰し、善に報いる業を行い、そこで初めてさまざまな種類の人々の最後を明らかにする。罰せられるのは実際に救いようのない人である。一方、救われる人は神が人を救う間に神の救いを獲得した人である。神による救いの働きが行われている間、救われることが出来る人はすべて、最大限まで救われ、誰ひとりとして見捨てられることはない。神の働きの目的は人を救うことだからである。神による人の救いの期間に、自分たちの性質の変化を達成できない者、また、完全に神に従うことのできない者はみな懲罰の対象となる。『言葉は肉において現れる』の「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」より引用

 ひとたび、善と悪によって分離されたら、人々は直ちに罰を受けたり報いを与えられたりするのではない。むしろ神は、終わりの日における征服の働きを遂行した後はじめて、悪を行う者を罰し、善を行う者に報いる働きを行う。実は、神が人類に対して働きをはじめた時からずっと、神は人類を分けるために善と悪を用いている。神は自身の働きを終えて初めて、義なる人を報い、悪である者を罰するのである。最後に働きを終えて悪者と義人を分けて、それからすぐ悪を罰し、善に報いる働きに着手するのではない。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用


世界がかくも暗く邪悪なのはなぜか。堕落の頂点にいる人類は滅ぼされるべきなのか

2020-12-08 00:31:05 | 天の国の福音

(1)世界がかくも暗く邪悪なのはなぜか


参考聖書箇所

 「全世界は悪しき者の配下にある」(ヨハネの第一の手紙 5:19)

 「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネによる福音書 1:5)

関連する神の言葉

 最初に神により造られたアダムとエバは、聖なる人間であった。すなわちエデンの園にいた間、彼らは聖く、けがれがなかった。また彼らはヤーウェに忠実であって、ヤーウェを裏切ることなど一切知らなかった。なぜなら、彼らはサタンの影響による妨害を全く受けず、サタンに毒されておらず、全人類の中で最も純粋だったからである。彼らはエデンの園に住み、一切けがれにけがされることなく、肉に囚われることなく、ヤーウェを畏れ敬っていた。その後、彼らがサタンに誘惑された時、彼らはへびの毒に見舞われ、ヤーウェを裏切ることを望み、サタンの影響の下で生きた。最初、彼らは聖なるものであり、ヤーウェを敬っていた。そうすることだけが、彼らを人間としていた。その後、彼らがサタンに誘惑された後、彼らは、善悪を知る木の実を食べて、サタンの影響の下で生きた。彼らは、サタンにより次第に堕落させられ、本来の人間の姿を失っていった。最初、人間にはヤーウェの息吹があり、不従順であることは一切なく、心には悪が一切なかった。この時、人間は本当の意味で人間であった。人間は、サタンにより堕落させられた後、獣となった。人間の考えは悪とけがれで満たされ、善や聖さはなかった。それはサタンではなかろうか。『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

 人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用

 数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪くなり、神に反対する悪魔になり、神への人の反抗の歴史は「史記」に記録されるほどになり、人自身でさえその反抗的行いに完全な説明ができなくなってしまっている。人はサタンにより深く堕落させられ、惑わされてしまったので、どちらに向いたらよいかわからなくなっているのである。今日でさえ、人はまだ神を裏切っている。人は神を見ると裏切り、神が見えないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る人々さえいる。そこでわたしは、人の理知はその本来の機能を失い、人の良心も本来の機能を失ったと言う。……ひどく汚れた地に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。時代遅れの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な人生哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と風俗、これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、サタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇に生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。こんなにも堕落した人類にどうして救いの可能性があり得ようか。どうしてこんなにも退廃した人類が光の中に生きることができようか。『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より引用

 人が神に反対し、反抗する根源はサタンによる堕落である。サタンによって堕落させられたので、人の良心は麻痺してしまい、不道徳になり、考え方は低下し、逆行する精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられる前は、人はもちろん神に従い、神の言葉を聞いた後それらに従っていた。人は健全な理知と良心を生来持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。人の性質の暴露は人の理知、見識、良心の表出であり、人の理知や見識は不健全で、良心は極めて鈍くなっているので、したがって人の性質は神に対して反抗的である。『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より引用

 夜が静かにしのび寄って来ても、人は気づかない。なぜなら、人の心は夜がどのようにして近づくのかも、それがどこから来るのかも感知できないからである。夜が静かに過ぎ去ると、人は日の光を歓迎するが、光がどこから来て、どのように夜の闇を追い払ったかについては、なおさら知るよしもなく、まして気づいてもいない。こうして繰り返される昼と夜の移り変わりによって、人は一つの時期から次の時期へ、一つの歴史的背景から次の歴史的背景へと導かれ、それと同時に、それぞれの時期における神の働きと、それぞれの時代における神の計画が確実に遂行される。人は神と共にこれらの時期を歩んできたが、神が万物と全ての生けるものの運命を支配することも、神がどのように万物を指揮し導くのかも知らない。これは太古の昔から現代まで、人には知るよしもないことであった。その理由は、神の業があまりにも隠され過ぎているからでも、神の計画がまだ実現されていないからでもない。それは、人の心と霊が神からあまりに遠く離れているため、神に従いながらもサタンに仕え続けるまでなり、しかも、まだそのことに気づいていないからである。神の足跡と顕現を積極的に探し求める者は一人もいない。また進んで神の配慮と加護の中で生存しようとする者もいない。その代わりに、この世と邪悪な人類が従う生存の掟に適応するために、邪悪な者、サタンの腐敗に頼ることを人は望む。この時点で人の心と霊は、サタンへの貢物となり、その餌食となった。その上、人間の心と霊はサタンの住みかとなり、サタンの恰好の遊び場となった。こうして人間は、人間であることの原則について、また人間存在の価値と意義についての理解を気づかないうちに失うのである。神の律法、そして神と人の間で交わされた契約は、人の心の中で次第に薄れ、人は神を求めることも神に注意を払うことも止めてしまう。時間が経つにつれ、人は神が人間を創造した理由も、神の口から出る言葉や神から来る全てをもはや理解しなくなる。それから人は神の律法と掟に抵抗し始め、人の心と霊は麻痺してしまう……。神は自らが最初に創造した人間を失い、人間はその始まりの根源を失う。これが人類の悲哀である。『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より引用

 人類が社会科学を考案して以来、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それから科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや神を礼拝するための充分な余地は人にはなくなり、神を礼拝するための好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められた。心の中に神が無いまま、人間の内面世界は暗く、希望も無く、空虚である。そのため、人類の心と精神を満たすために多くの社会科学者や歴史家、政治家が登場し、社会科学の理論や人類進化の理論、神が人を創造したという真理に矛盾するその他の理論を発表した。こうして、神が万物を造ったという真理を信じる人はますます少なくなり、進化論を信じる人の数はさらに増加した。神の働きの記録と旧約聖書の時代の神の言葉を神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに、神が存在し万物を支配しているという信条に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや人にとって重要ではなく、人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。……神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは神が人の終着点をいかに支配し、定めているのかを自らすすんで探し求める人はほとんどいない。こうして、人間の文明は、人間の知らないうちに、ますます人の望みどおりには行かなくなり、こんな世界に生きている自分達はすでに亡くなった人々に比べて不幸せだと感じている人さえ数多くいる。過去に高度の文明を築いた国々の人たちでさえそのような不満をあらわにしている。なぜなら、神の導きなしには、支配者や社会学者が人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どのような社会学的理論も人を悩ませる虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適さなどは、人間につかの間の慰めしかもたらさない。これらのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への渇望や欲求を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけで、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からないまま人を常に恐怖に怯えたままにさせるからである。人は科学や知識を恐れるまでになり、空虚感をそれ以上に恐れるようになる。この世であなたが自由な国に住んでいようと、人権のない国に住んでいようと、人類の運命から逃れることは決してできない。あなたが支配者であろうと、被支配者であろうと、人類の運命、奥義、そして終着点を探求したいという願望から逃れることは到底できない。ましてや、途方にくれるほどの空虚感から逃れることなどできない。全人類に共通するこの現象を社会学者は社会現象と呼んでいる。しかし、このような問題を解決できる偉人が現れることはない。人間は結局、人間に過ぎず、神の地位といのちに取って代われる人間はいない。誰もが食べる物があり、平等で自由で公平な社会だけが人類に必要なのではない。人類に必要なのは神の救いと神によるいのちの満たしである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の必要、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。一つの国や民族の人々が神の救いや配慮を得ることができなければ、その国や民族は暗黒に向かって、破滅への道を突き進み、神によって滅ぼされる。『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より引用

(2)堕落の頂点にいる人類は滅ぼされるべきなのか

参考聖書箇所

 「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。』」(創世記 6:12-13)

 「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう」(ルカによる福音書 17:26-30)

 「たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。」(詩篇 92:7)

 「ヤーウェは言われる、『全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「彼らはわが民である」と言い、彼らは「ヤーウェはわが神である」と言う』」(ゼカリヤ書 13:8-9)

関連する神の言葉

 神のすることはすべて緻密に計画されています。神が物事や状況を見るとき、神の目にはそれを測る基準があり、その基準によって神は、その物事や状況に対応するための計画を開始するか、またはどのようなやり方でそれを扱うかを決定します。神はあらゆる物事に対して、無関心だったり無感情だったりすることはなく、実際まったくその逆です。この聖書のくだりでは、神はノアにこう言っています。「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」。ここで神は、人間だけを滅ぼすと言っているでしょうか。そうは言っていません。神は肉なるものをすべて滅ぼすと言っているのです。なぜ神は滅ぼそうとしたのでしょうか。ここに、神の性質の現れをもう1つ見て取ることができます。神にとっては、人間の堕落とすべての肉なるものの汚れ、暴力、不従順に対して、忍耐できる限界があります。その限界とは何でしょうか。神はこう言っています。「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」。この「すべての人が地の上でその道を乱したからである」という部分は何を意味するのでしょうか。それは、神に従った者、神の名を呼んだ者、かつて神に全焼のいけにえを捧げた者、言葉で神の存在を認め賛美さえした者も含め、生きとし生けるすべての者は、その態度が堕落に満ちそれが神の目に触れれば、神によって滅ぼされずにいられないということです。それが神の忍耐の限界でした。ではどの程度まで神は人間に耐え、すべての肉なるものの堕落に耐えたのでしょうか。それは神に従った者もそうでない者も、すべての者が正しい道を歩まなくなるまでです。人間が単に道徳的に堕落し悪に満ちるだけでなく、誰一人として神の存在を信じなくなり、ましてや神が世界を支配していることや人々に光を与え正しい道へと導けることを、信じるものが一切いなくなるまでです。そして人間が神の存在を憎み、神の存在を認めなくなるまでです。人間の堕落がここまで来ると、神はもう忍耐できませんでした。ではその状態は何に取って代わられたのでしょうか。それは神の怒りと懲罰の到来です。それもまた、神の性質の部分的な現れではなかったでしょうか。現在この時代に、神の目から見て正しい者はいないのでしょうか。神の目から見て完全な者はいないのでしょうか。今の時代は、地上の肉なる者すべての振る舞いが、神の目に堕落と映る時代なのでしょうか。現代では、神が完全にしたいと望む者、神に従い神の救いを受け入れられる者を除けば、すべての肉なる人々が神の忍耐の限界に達しているのではないでしょうか。あなたがたの身の回りで起こること、目で見て耳で聞くこと、この世で日々体験することは、すべて暴虐に満ちてはいないでしょうか。神の目には、このような世界、このような時代は、もう滅ぼされるべきものなのではないでしょうか。今の時代背景はノアの時代背景とまったく違いますが、人間の堕落に対する神の感情と怒りはまったく同じです。神はその働きのために忍耐を持つことができますが、状況や条件を鑑みれば、神の目にはこの世界はとうの昔に滅ぼされているべきものなのです。今の世界の状況は、洪水で滅ぼされる前の世界よりもはるかにひどいものです。『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より引用

 ノアが箱舟を造った時代を振り返って見なさい。人類はひどく堕落し、人々は神の祝福から迷いはぐれ、もはや神の配慮は得られず、神の約束を失ってしまっていた。闇の中を神の光なしに生きていた。そして人の本性は放縦となり、おぞましい堕落に身を任せた。このような人々はもはや神の約束を受けることはできなかった。彼らは神の顔を見るにも、神の声を聞くにも相応しくなかった。なぜなら彼らは神を見捨て、神から与えられたものすべてを放棄し、神の教えを忘れてしまったからである。彼らの心は神から遠く離れて行くばかりで、それにつれてあらゆる理知と人間性を失い堕落し、邪悪さを増していった。そして彼らは死に歩み寄り、神の怒りと罰を受けた。ノアだけが神を礼拝し、悪を避けたので、神の声を聞くことができ、神の指示を聞くことができた。ノアは神の言葉の指示に従って箱舟を造り、あらゆる種類の生物をそこに集めた。こうしてひとたびすべての準備が整うと、神は世界に破滅をもたらした。ノアとその家族七人だけが破滅を逃れて生き残ったが、それはノアがヤーウェを礼拝し、悪を避けたからであった。『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より引用

 ノアの時代、人々は神が見るに堪えないほど飲んだり、食べたり、勝手気ままに結婚したり結婚させたりしていたので、神は大洪水を引き起こして人類を滅ぼし、ただノアの家族八人とあらゆる種類の鳥と獣だけを残した。しかしながら、終わりの日に神に守られるのは、最後まで神に忠誠を尽くしたすべての人々である。どちらも神が見るに耐えないほどのひどい堕落の時代であり、どちらの時代の人類も主である神を否定するほどひどく堕落していたが、ノアの時代の人はすべて神に滅ぼされた。どちらの時代の人類も神をひどく悲しませたが、神は終わりの日の人々には今日に至るまで忍耐深い。それは何故なのか。あなたがたはこのことを一度も考えたことがなかったのか。本当にそれを知らないなら、わたしがあなたがたに話そう。終わりの日に神が人々を恵み深く取り扱うことができる理由は、彼らがノアの時代の人々ほど堕落していないからでも、彼らが神に悔い改めを示したからでもない。まして、テクノロジーが進歩した終わりの日に人間を滅ぼすことに神が耐えられないからでもない。むしろ、神には終わりの日に一群の人々に対して行う働きがあり、これは受肉の神自身によってなされるからである。その上、神はこの一群の一部を救いの対象、神の経営(救いの)計画の実として選び、そのような人々をともなって次の時代へと連れてゆくのである。『言葉は肉において現れる』の「あなたは知っていたか。神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを」より引用.

 人間が堕落に満ち、嘆かわしいほど神に不従順だったとき、神は自らの性質と本質のため、そして自らの原則を守るために、その人間を滅ぼさなければなりませんでした。しかしその本質のため、神はそれでも人間を憐れんでおり、人間が生き続けられるよう、さまざまな方法で人間を救いたいとすら願っていました。しかし人間は神に反逆し、神に背き続け、神の救いを受け入れることを拒みました。つまり、神の善意を受け入れることを拒んだのです。神がどれほど人間に呼びかけ、言い聞かせ、与え、助け、寛容に接しても、人間はそのことを理解も感謝もせず、注意を払いもしませんでした。神は苦しみつつも、最大限の寛容さを与えることを忘れず、人間が心を改めるのを待ちました。そして限界に達したとき、神は自らが行わねばならないことを迷いなく行ったのです。言い換えれば、神が人間を滅ぼすことを計画したときから、実際に人間を滅ぼす働きを始めるまでには、一定の期間と過程があったということです。この過程は人間に心を改める機会を与えるためにあったもので、神が人間に与えた最後のチャンスでした。では神は、実際に人間を滅ぼすまでの期間、何をしていたのでしょうか。神は人間に言い聞かせ忠告するために、非常に多くの働きをしていたのです。心にどれほどの痛みと悲しみを抱えていようとも、神は人間を配慮し、気遣い、溢れるほどの憐れみを注ぎ続けたのです。『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より引用

 人間の堕落、汚れ、そして暴虐に対する神の忍耐には限界があります。その限界に達すると、神はもう耐えることはせず、新しい経営と新しい計画を開始し、しなければならないことをし始め、神の偉業とその性質のもう一つの面を現すのです。神のこの行いは、人が神を決して怒らせてはいけないとか、神が権威と怒りに満ちているということを示すためではなく、神が人間を滅せると示すためでもありません。ただこのような人間が自らの前で、自らの支配の下で生きていることを、神の性質とその聖い本質がそれ以上許せず、それ以上耐えることもできないのです。つまり、すべての人間が神に敵対したとき、地上で神が救うことができる人間がいなくなったとき、神はそのような人間に対し忍耐することをやめ、一切の躊躇なく、そのような人間を滅ぼす計画を実行するのです。こうした神の行動は神の性質によるところなのです。それは必然の結果であり、神の支配の下にあるすべての被造物がこれに耐えなければなりません。『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より引用

 愚かで無知な全人類に対する神の処分は、おもに憐れみと寛容に基づいています。その一方、神の怒りは、大部分の出来事において、ほぼ常に人間には隠され、知られることはありません。その結果、人間には神が怒りを表しているのを見極めたり、神の怒りそのものを理解したりすることは困難です。したがって、人間は神の怒りを軽視します。人間への忍耐と赦しからなる神の最終的な働きと段階に人間が直面したとき、すなわち、神の最後の憐れみと警告が人類に到達したとき、もし人間が以前と同じ方法で神に反抗したままで、悔い改めて自分自身のあり方を正し、神の憐れみを受け容れる努力を一切行なわなければ、神はもはや寛容と忍耐を人類に与えることはありません。逆に、このとき神は赦しを撤回します。その後、神は怒りしか放ちません。神が様々な方法で人間を罰し滅ぼすことができるように、神は様々な方法で怒りを表現することができます。『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 2」より引用

 神は人類の未来を嘆き、人類の堕落を悲しみ、人類が一歩一歩、滅びと戻ることのできない道に向かって進んでいることに心を痛めている。神の心を引き裂き、神を棄てて邪悪な者を求めた人類、このような人類がどこに向かっているのかを考えたことのある者がいるだろうか。まさにこれこそが、誰も神の怒りを感知せず、誰も神を喜ばせる道を求めようともせず、神のもとへ近づこうとすることもなく、さらには、誰も神の悲しみと痛みを理解しようとしない理由である。神の声を聞いた後でさえ、人は自分の道を歩み続け、頑なに神のもとから離れ去り、神の恵みと配慮を避け、神の真理を避けて、神の敵であるサタンに自身を売ることの方を好む。そして、人がこのまま頑なであり続けるなら、後ろを振り向くこともなく神を見捨てたこの人間に対して神がどのようにふるまうかについて、誰が考えたことがあるのか。神が繰り返し人に思い起こさせ、勧告する理由は、人間の肉体と魂にはとうてい耐えられないような、未だかつてない災難を神はその手に準備しているからだということを知る者はいない。この災難は単に肉体の懲罰だけではなく、魂の懲罰でもある。あなたは知らなければならない。神の計画が無駄になり、神の喚起と勧告に反応が無いなら、神はどのような怒りを注ぐであろうか。それは今までどんな被造物も経験したことも聞いたこともないようなものである。だからわたしは、この災難は前例がなく、二度と繰り返されることはないと言う。なぜなら、神の計画とは今回一度だけ人類を創造し、一度だけ人類を救うことだからである。これが最初であり、また最後である。『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より引用