「気ままに・・・」 L.森下喜和 (会報No.81掲載)
PR・IT委員長より、リレーエッセイの執筆を頼まれたとき、
「あれ?もう俺の番かな?」(入会順というイメージがあったので)という感想と同時に、
「なにを書いたら良いのだろう?」と不安がよぎってしまいました。
気ままな趣味は多々あるものの、これ一番というものもなく・・・
結局はライオンズの事を書かせていただくことにしました。
昭 . . . 本文を読む
「思いつくまま」 L.森澤隆 (会報No.80掲載)
黄色と紫のアメリカ軍の兵隊さんのかぶるような帽子をかぶってた
集団を見かけた事があった。私には異様な姿に写った事を覚えている。
これがライオンズクラブの正帽であったのだという。
まさか私自身がこの帽子をかぶるとは想像もしなかった。
一九八〇年十月、第八代天田義英会長の時である、前L.堀内輝好氏の
勧めにより入会致しました。
三十 . . . 本文を読む
「ライオンズクラブ」 L.南貞芳 (会報No.79掲載)
ライオンズクラブは、アメリカ合衆国シカゴ市で生まれ当時保険代利点を経営の
メルビン・ジョーンズにより実業団体の有志に呼びかけ、一九一七年にホテル、
ラサールにおいて約二十名の代表者で初めての会合が行われたと言います。
そしてカナダ・オンタリオのウイザー市にアメリカ合衆国意外に第一番目の
クラブが結成されました。以来五十年余り時代 . . . 本文を読む
「三かく運動」 L.岸善一郎 (会報No.78掲載)
二〇〇〇年を記念し、グズな私が実行しても続くかなと思われる事柄を数点ピックアップし、
実行して数年を経過し、脱落事項も多くあったが、私自身に残った事柄はやはり数点ありました。
しかし常識が非常識、非常識が常識の世の中、失笑されますが、我が家のお勝手のゴミ、
居間のゴミ、会社のゴミ、目に付くゴミを片付ける当たり前の事ですが、
毎日とな . . . 本文を読む
「ライオンズクラブと私」 L.新井三知夫 (会報No.77掲載)
一九七六年、四代柳澤会長さんのご意向とのとのことで、
塚田幹事さんよりお話がございました。
当時私は、救世真教の会長で”青少年を国の宝に育てよう”をスローガンに
地元箕郷町にボーイスカウトとガールスカウトを発団させて頂きました。
そのスカウトの父親であった塚田幹事さんでしたので、すぐに入会を決まりました。
その後、群馬 . . . 本文を読む
「ライオンズクラブと私」 L.蜂巣賀辰夫 (会報 No.76掲載)
一九七三年、群馬=箕郷ライオンズクラブの発足時に入会を誘われました。
しかしながら私はゴルフ練習場の開業が目前でありましたので
仕事の見透しを立ててからと、大山町長の折角の薦めにも応じられず、
一九七六年町議会議員に当選させて頂きましたので、未熟でありますが、
入会させて頂きました。
以来、木曜日のライオンズでーとし . . . 本文を読む
「ゴルフと私」 L.坂本興一 (会報No.75掲載)
一九七〇年(昭和四十五年大阪万万国博開催年)。
ゴルフを世間ではスポーツと認めてもらいない頃の話です。
県内のゴルフ場は、近い所で伊香保カントリー、赤城国際、藤岡ゴルフ、
伊香保国際位で、遠くには大田や草津もありましたが、
埼玉のチサン岡部コースと美里コースを訪ねたりして、
密かにプレーを楽しんでいた頃。
当然クラブはまだハーフ . . . 本文を読む
「私の早起き」 L.柳沢本次 (会報No.74掲載)
超ヘビースモーカーだった昭和四十七年五月五日、
親友の二十日祭の日に何よりの好きだったタバコを止める決断をしました。
而し翌朝、目が醒めるとジットして居られない想いで1時間くらい
歩き廻りました。
来る日も、来る日もニコチンがきれているのでジットして居られないので
毎日歩き続けました。
片道約5籵ある金古の桃山稲荷迄、往復するこ . . . 本文を読む
「私とテニス」 L.大山好弘 (会報No.73掲載)
学業を終了した後、家業の農業に従事し、傍ら青年団活動に飛び込み、
数年間は夢中で走り回っていました。
その間野球の虜になり、そのころスポーツといえば野球しかなかった。
青年団対抗或いは実業団の対抗試合に熱中していました。
その後、今の建設業に転向し、スポーツ面から遠ざかっていたのですが、
或る銀行の支店長にすすめられておそるおそる . . . 本文を読む