「ゴルフと私」 L.坂本興一 (会報No.75掲載)
一九七〇年(昭和四十五年大阪万万国博開催年)。
ゴルフを世間ではスポーツと認めてもらいない頃の話です。
県内のゴルフ場は、近い所で伊香保カントリー、赤城国際、藤岡ゴルフ、
伊香保国際位で、遠くには大田や草津もありましたが、
埼玉のチサン岡部コースと美里コースを訪ねたりして、
密かにプレーを楽しんでいた頃。
当然クラブはまだハーフセットでフルセット等は高嶺の花、
とても手が届く代物ではない。
だがスタートすれば必ず2ラウンド廻らないと気が済まないし、
又廻りたければいくらでも廻してくれた良き時代。
しかしキャディーさんは乗用カートはもちろん
電動カートもないもっぱら人力で4バッグを引くのだから大変で、
我々は2ラウンド廻りたいばかりでに、謝りながらカートを引いたり
押したり手伝って廻った。
どうしても1ラウンドではものたりず帰る気にもなれなかったから。
そんな苦労をして、プレーをしても、帰ってから町内の皆さんと
ゴルフ談義等とても出来た世相ではなかった。
話したくて仕方がないのに話せば回りから白い目で見られた時代。
今では老いも若きもゴルフ談義は何とも心地よくストレスの発散とさえなっているが、
当時町内建設業界でのゴルフ談義は一切禁句であり、
不謹慎極まりない事と一喝されてしまう時代だった。
前橋や高崎の大手業者間では可成普及しており、ゴルフの後、
夜は町に繰り出したり、四角いグリーンを囲んだりして余韻を楽しんでいたのを
聞いてはいが、当時町内業界トップ皆さんの心意気はすごいものがあって、
私自身ゴルフをする事さえ話すことが出来なかった。
そんな時代にゴルフ好きの仲間で、ゴルフ練習場を造ろうと話が始まった。
当時練習場は、前橋の浮島ゴルフ場内になる川原の練習場位で、他に無く、
練習に不便を来していた。
すき物仲間は、東京芝の練習場(四階建)や、新宿の練習場(三階建)を見学に行き、
翌四十六年に群馬で初の二階建練習場と、六ホールのショートコースを
利根川の辺りに、自分達の手で造り上げてしまった。
ゴルフ好きの仲間ばかりで造ったものだから、朝から日暮迄ゴルフを貪った。
これが私とゴルフの縁を深いものにした。
このゴルフのお陰ですばらしい仲間を数え切れない程得る所となり、
知り合った方々との縁は、私の計り知れない財産となって、今日に至っております。
ゴルフはこんなにすばらしい贈り物を私に授けてくれました。
数年後(昭和五十一年)世相が変わって、群馬町にもゴルフを話題に出来る様になり、
国分寺ゴルフの蜂巣賀支配人に同業の一人として相談したり、
有志皆様の協力を得て、愛好会の結成を計る事となりました。
会長には何としても大山高平社長(当時)さんにお願いする以外に無しとの事で、
蜂巣賀さんと二人でお願いに行き、立派な役員構成の群馬町ゴルフ愛好会が誕生し、
その後群馬町ゴルフクラブとして町の体育協会にも加盟し、町民の親睦を計り、
そのチャリティー益金は社会福祉協議会へ長年贈り続け、多大な貢献を果たし、
その役目を負う迄となりました。
この町民大会へ、L・Cメンバー各位に、毎回多勢の参加協力と、大会スポンサーとして、
商品の協賛迄お願いし、大会を盛り上げて頂いており、誠にありがたくこの場をお借りして
心より感謝を申し上げます。
以上、私とゴルフの係わりをほんのさわり程度記しましたが、
他に三度のホールインワンの話や、台湾女子プロとの話等、
想い出は止まる所なく、切りがありません。
今回はこの辺でペンを置きますが、とにかくゴルフは楽しく、その上すばらしい友を得て、
一層人生に厚みを増す最高の秘薬です。
効能がいっぱいのゴルフ、残された人生、健康に心して体の利かなくなる迄
プレーに興じ出来たらと念ずる今日この頃です。
一九七〇年(昭和四十五年大阪万万国博開催年)。
ゴルフを世間ではスポーツと認めてもらいない頃の話です。
県内のゴルフ場は、近い所で伊香保カントリー、赤城国際、藤岡ゴルフ、
伊香保国際位で、遠くには大田や草津もありましたが、
埼玉のチサン岡部コースと美里コースを訪ねたりして、
密かにプレーを楽しんでいた頃。
当然クラブはまだハーフセットでフルセット等は高嶺の花、
とても手が届く代物ではない。
だがスタートすれば必ず2ラウンド廻らないと気が済まないし、
又廻りたければいくらでも廻してくれた良き時代。
しかしキャディーさんは乗用カートはもちろん
電動カートもないもっぱら人力で4バッグを引くのだから大変で、
我々は2ラウンド廻りたいばかりでに、謝りながらカートを引いたり
押したり手伝って廻った。
どうしても1ラウンドではものたりず帰る気にもなれなかったから。
そんな苦労をして、プレーをしても、帰ってから町内の皆さんと
ゴルフ談義等とても出来た世相ではなかった。
話したくて仕方がないのに話せば回りから白い目で見られた時代。
今では老いも若きもゴルフ談義は何とも心地よくストレスの発散とさえなっているが、
当時町内建設業界でのゴルフ談義は一切禁句であり、
不謹慎極まりない事と一喝されてしまう時代だった。
前橋や高崎の大手業者間では可成普及しており、ゴルフの後、
夜は町に繰り出したり、四角いグリーンを囲んだりして余韻を楽しんでいたのを
聞いてはいが、当時町内業界トップ皆さんの心意気はすごいものがあって、
私自身ゴルフをする事さえ話すことが出来なかった。
そんな時代にゴルフ好きの仲間で、ゴルフ練習場を造ろうと話が始まった。
当時練習場は、前橋の浮島ゴルフ場内になる川原の練習場位で、他に無く、
練習に不便を来していた。
すき物仲間は、東京芝の練習場(四階建)や、新宿の練習場(三階建)を見学に行き、
翌四十六年に群馬で初の二階建練習場と、六ホールのショートコースを
利根川の辺りに、自分達の手で造り上げてしまった。
ゴルフ好きの仲間ばかりで造ったものだから、朝から日暮迄ゴルフを貪った。
これが私とゴルフの縁を深いものにした。
このゴルフのお陰ですばらしい仲間を数え切れない程得る所となり、
知り合った方々との縁は、私の計り知れない財産となって、今日に至っております。
ゴルフはこんなにすばらしい贈り物を私に授けてくれました。
数年後(昭和五十一年)世相が変わって、群馬町にもゴルフを話題に出来る様になり、
国分寺ゴルフの蜂巣賀支配人に同業の一人として相談したり、
有志皆様の協力を得て、愛好会の結成を計る事となりました。
会長には何としても大山高平社長(当時)さんにお願いする以外に無しとの事で、
蜂巣賀さんと二人でお願いに行き、立派な役員構成の群馬町ゴルフ愛好会が誕生し、
その後群馬町ゴルフクラブとして町の体育協会にも加盟し、町民の親睦を計り、
そのチャリティー益金は社会福祉協議会へ長年贈り続け、多大な貢献を果たし、
その役目を負う迄となりました。
この町民大会へ、L・Cメンバー各位に、毎回多勢の参加協力と、大会スポンサーとして、
商品の協賛迄お願いし、大会を盛り上げて頂いており、誠にありがたくこの場をお借りして
心より感謝を申し上げます。
以上、私とゴルフの係わりをほんのさわり程度記しましたが、
他に三度のホールインワンの話や、台湾女子プロとの話等、
想い出は止まる所なく、切りがありません。
今回はこの辺でペンを置きますが、とにかくゴルフは楽しく、その上すばらしい友を得て、
一層人生に厚みを増す最高の秘薬です。
効能がいっぱいのゴルフ、残された人生、健康に心して体の利かなくなる迄
プレーに興じ出来たらと念ずる今日この頃です。
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