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フランス語習慣

仏検1級合格者によるフランスとフランス語のおいしい話。語学とフレンチに舌鼓。(Opera 推薦)

マカロン

2007-07-01 21:56:07 | 旅行
マカロンと言えば、コーヒーやティーのお供として食べる丸いお菓子。ぼくはお嫁さんからマカロンを教わりましたが、軽い口当たりがとても気に入っています。一節では、「カトリーヌ・ド・メディシスがアンリ2世のもとへ嫁入る際にイタリアから持っていった菓子」(Wikipedia) とありますから、中世から存在したお菓子ということになります。

彼女が生まれたのは1519年。16世紀に活躍した女性。フランス国内で新教徒とカトリックとの対立が激しくなり、有名なサン・バルテルミの虐殺が起こった時代です。この時代に活躍していた占い師が有名なノストラダムス。そんな時代からマカロンがあったと言うと不思議な気持ちです。

ただ、中世では、マカロン (macaron) には二つの意味があったとか。一つはお菓子。もう一つはポタージュだったというのです。

現在、一般的にマカロンと呼ばれているのは、マカロン・パリジャン (macaron parisien) で、これができたのは20世紀の最初。パリのお菓子職人ピエール・デフォンテーヌ (Pierre Desfontaines) によるものでした。ピエール・デフォンテーヌのおじいさんがルイ・エルネスト・ラデュレ (Louis Ernest Ladurée) という人で、有名なパリのお菓子屋ラデュレ (Ladurée) の創始者です。今回、ラデュレに足を運びましたが、そういうことだったんですね。



写真はボナパルト店。淡いグリーンの外装が印象的ですが、本店は rue Royale にあります。本店の内装は有名なポスター画家であるジュール・シェレ (Jules Chéret) によるもので、システィナ礼拝堂やパリのオペラ座で使われている技術にインスピレーションを得たのだとか。

参考までに、ボナパルト店の中はこんなふうに賑わっていました。



ラデュレができたのは1862年。フランス南西部出身のルイ・エルネスト・ラデュレ (Louis Ernest Ladurée) が 16 rue Royale に店を構えたのが始まりです。当時は、パリはジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンGeorges-Eugène Haussmann) がパリを含むセーヌ県の知事を務めていました。

19世紀初頭のパリはまだまだ曲がりくねった狭い通りが多く、近代的な都市とは言えませんでした。それを大胆に改革し、凱旋門から放射状に通りが延びるようにしたのがオスマン氏。シャンゼリゼ通りは彼による物です。ナポレオン三世の偉功を反映するために生まれた市街改造により、パリ市の60%が変わったのだとか。現在はノートルダム大聖堂などがあるシテ島も、当時は貧民窟として名高い場所だったとか。それを変えたのもオスマン氏です。

ちなみに、高級ブティックが並ぶオスマン通り (Boulevard Haussman) は彼の功績を讃えたものでしょう。

マカロンは20世紀の初頭に産声を上げて以来、ラデュレでは、毎朝ロワイヤル通り (la rue Royale) 通りのラボで作られています。アーモンド、卵、砂糖をきちんと量り、焼き上がってから48時間経って店頭に出すのだとか。マカロンには小さい物と大きい物があります。



お店では実際にマカロンを食べることもできます。ぼくたちもカフェを楽しむことにしました。



二階の席を得たのですが、対応が悪い。一部の店員はわざと無視をしていました。こういうときは正々堂々と文句を言いましょう。「あなたは待たせるね」と言ったところ、それから態度が激変。それからはすばらしい対応になりました。

日持ちは四日間ほどしかしませんので、おみやげとして日本に持ち帰る場合には、ぎりぎりに買うしかありません。ロワイヤル通り以外にも店舗はあり、シャンゼリゼ通りにもありますから、そちらを利用されるのも手です。

なお、マカロンに関しては、日本では「マカロンマニア」さんが秀逸。