日本書紀 巻第十四 大泊瀬幼武天皇 五
・池津媛叛く
・御馬瀬に行幸し狩をする
・群臣に怒り斬り殺す
二年秋七月、
百済の池津媛(いけつひめ)は、
天皇がめしいれようとしたのにそむき、
石川楯(いしかわのたて)と
淫(たわむ)れました。
(旧本は云う、石河股合首(いしかわのこむらのおびと)の祖の楯と)
天皇は大いに怒り、
大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)に
詔して、
来目部(くめべ)をつかわして、
夫婦の両手足を木に張って、
仮庪(さずき)上に置き、
火をもって焼き殺しました。
(百済新撰は云う、
己巳(つちのとみ)の年に、
蓋鹵王(がいろおう)が立ちました。
天皇は阿禮奴跪(あれなこ)を遣して、
来て、女郎(えはしと)を探しました。
百済は
慕尼夫人(むにはしかし)の娘を着飾らせ、
適稽女郎(ちゃくけいえはしと)と
いいました。
天皇に貢進しました)
冬十月三日、
吉野宮に幸しました。
六日、御馬瀬(みませ)に幸しました。
虞人(ぐじん)に命じて、
思うまま猟をしました。
重なる峰に登り、
長い草原を赴くと、
まだ日がかたむいていないのに、
十と七か八ほど獲りました。
猟する度に大いに獲れ、
鳥獣が将につきようとしていました。
遂に、
旋(めぐ)り林の泉で憩いました。
藪澤(やぶさわ)のもとで遊び、
行人(かりひと)を息(やす)ませ、
車馬を並ばせ、
群臣に問いて、
「狩場の楽しみは、
膳夫(かしわで)を使って、
鮮(なます)をつくらせることだが、
自らつくるのはどうだろうか」
といいました。
群臣はとっさに
答えることができませんでした。
ここにおいて、
天皇は大いに怒り、
刀を抜いて
御者、大津馬飼(おおつのうまかい)を
斬りました。
この日、
車駕(すめらみこと)は吉野から帰りました。
国内に居る民は、
皆振るえて怖れました。
・仮庪(さずき)
仮の棚または床
・虞人(ぐじん)
禽獣を掌る役人
(感想)
雄略天皇2年秋7月、
百済の池津媛は、
天皇が召し入れようとしたのに背き、
石川楯と戯れました。
(旧本は云う、石河股合首の祖の楯と)
天皇は大いに怒り、
大伴室屋大連に詔して、
来目部をつかわして、
夫婦の両手足を木に張って、
仮の棚の上に置き、
火をもって焼き殺しました。
うーむ。
池津媛は、
百済国から貢進された女性です。
その女性と密通した。
石川楯。
天皇を軽んじた行為をしたとなると、
処刑は当然かと…
処刑の仕方は
ちょっと酷いと思いますがね。
でも、
本当にそのような処刑をしたのか?
疑問が湧きます。
後世の人が勝手に
雄略天皇は残虐って
レッテルを貼り付けた
だけのような気もします。
(百済新撰は云う、己巳の年に、
蓋鹵王が立ちました。
天皇は阿禮奴跪を遣して、
来て、女郎を探しました。
百済は慕尼夫人の娘を着飾らせ、
適稽女郎といいました。
天皇に貢進しました)
この条を書いた人は、
百済国由縁の方かな?
…なんか、
わざわざ書かなくてもいい情報のような。
冬10月3日、
吉野宮に行幸しました。
6日、
御馬瀬に行幸しました。
禽獣を掌る役人に命じて、
思うまま猟をしました。
重なる峰に登り、
長い草原を赴くと、
まだ日が傾いていないのに、
十と七か八ほど獲りました。
猟する度に大いに獲れ、
鳥獣が尽きようとしていました。
遂に還り、
林の泉で休憩させました。
藪澤のもとで遊び、
狩に付き添っていた者たちを休ませ、
車馬を並ばせ、
群臣に問いて、
「狩場の楽しみは、
膳夫を使って、
鮮(なます)をつくらせることだが、
自らつくるのはどうだろうか」
といいました。
群臣はとっさに
答えることができませんでした。
なますとは、
切り分けた獣肉や魚肉に調味料を合わせて生食する料理をさします。
ここにおいて、
天皇は大いに怒り、
刀を抜いて御者、大津馬飼を斬りました。
いやだから、
少し、冷静になろう。
雄略天皇…
この日、天皇は吉野から帰りました。
国内に居る民は、
皆振るえて怖れました。
さて、
怒りん坊さんの雄略天皇は、
群臣に何をして欲しくて、
膳夫を使って、
鮮(なます)をつくらせることだが、
自らつくるのはどうだろうか
と質問したのか?
明日に続きます。
読んで頂き
ありがとうございました。
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