日本書紀 巻第二十五
天萬豊日天皇 四十八
・百済・新羅の朝貢
・旻法師の死
・遣唐使船、難破する
・皇太子が遷都を勧める
・皇太子、皇祖母尊らを率いて倭飛鳥河辺行宮に移る
六月、
百濟、新羅が遣使(つかわしめ)して、
貢調(みつき)と物を
献(たてまつ)りました。
所々の大道を修治(しゅうじ)しました。
天皇は、
旻法師(みんほうし)が、
命を終えたと聞いて、
遣使(つかわしめ)して、
弔いをさせました。
あわせて多くの贈を送りました。
皇祖母尊(すめみおやのみこと)
及び皇太子等は、
皆、遺使(つかわしめ)して、
旻法師の喪を弔いさせました。
遂に法師のために、
画工の狛堅部子麻呂
(こまのたてべのこまろ)、
鯽魚戸直
(ふなとのあたい)等に命じて、
多くの仏菩薩の像を造らせ、
川原寺(かわらでら)に安置させました。
(或る本は云う、山田寺に居ると)
秋七月、
大唐(もろこし)に遣わされる使人、
高田根麻呂(たかたのねまろ)等は、
薩麻(さつま)の曲(くま)、
竹嶋(たかしま)の間で、
船とともに水に沈んで死にました。
ただ、
五人が、
一つの板に胸を繋(つな)げ、
竹嶋に流れつきました。
どうしたらいいのか分かりませんでした。
五人の中で、
門部金(かどべのかね)は、
竹を採り筏(いかだし)とし、
神嶋に泊まりました。
凡そこの五人は、六日六夜を経て、
全く飯を食べていませんでした。
ここにおいて、
金を褒めて、位を進め、
祿を給いました。
この歲、
太子は奏請して、
「冀(こいねが)います。
倭の京に遷りたいと思います」
といいました。
天皇は、
許しませんでした。
皇太子は、乃ち、
皇祖母尊(すめみおやのみこと)と
間人皇后(はしひと)を奉じ、
あわせて皇弟等を率いて、
倭の飛鳥河辺行宮
(あすかのかわらのかりみや)に
往き居ました。
この時、公卿、大夫、百官人等も
皆、随って遷りました。
これによりて、
天皇は、
恨み国位(くに)を捨てたいと思い、
宮を山碕に造らせました。
乃ち、
間人皇后に歌を送って、いいました。
鉗(かなき)を着けて
私が飼っていた駒(コマ)は
引き出しもせず 私が飼ふ駒を
どうして人が見たのだろうか
といいました。
・修治(しゅうじ)
つくろってなおすこと。手を入れること
(感想)
(白雉4年)
6月、
百濟、新羅が使者を派遣して、
貢調と物を献上しました。
所々の大道を修理しました。
天皇は、
旻法師が、
命を終えたと聞いて、
使者を派遣して、
弔問させました。
皇極天皇および皇太子らは、
皆、使者を派遣して、
旻法師の喪を弔いさせました。
遂に法師のために、
画工の狛堅部子麻呂、
鯽魚戸直らに命じて、
多くの仏菩薩の像を造らせ、
川原寺に安置させました。
(或る本は云う、山田寺に居ると)
秋7月、
大唐(もろこし)に派遣される使者、
高田根麻呂(たかたのねまろ)らは、
薩摩の曲(くま)、
竹嶋の間で、
船とともに水に沈んで死にました。
ただ、
五人が、
一つの板に胸を繋(つな)げ、
竹嶋に流れつきました。
どうしたらいいのか分かりませんでした。
五人の中で、
門部金は、
竹を採り筏とし、
神嶋に停泊しました。
およそ、
その五人は、六日六夜を経て、
全く食料を食べていませんでした。
ここにおいて、
金を褒めて、
位を進め、
祿を給いました。
この歲、
中大兄皇子は奏請して、
「請い願います。
倭の京に遷りたいと思います」
といいました。
天皇は、
許しませんでした。
皇太子は、
乃ち、
皇極天皇と
孝徳天皇の皇后・間人皇后を奉じ、
あわせて皇弟らを率いて、
倭の飛鳥河辺行宮に移り住みました。
この時、公卿、大夫、百官人等も
皆、随って遷りました。
これによりて、
天皇は、恨み国位(くに)を
捨てたいと思い、
宮を山碕に造らせました。
乃ち、間人皇后に歌を送って、いいました。
鉗を着けて
私が飼っていた駒(コマ)は
引き出しもせず
私が飼ふ駒を
どうして人が見たのだろうか
といいました。
中大兄皇子は、
何故、
倭の京に遷りたい
、と言ったのでしょうか?
また、
何故、
反対されたにも関わらず、
皆を連れて強行移動したのでしょうか?
理由が記載されていないので
気になります。
まあ、
おそらく、
日本書紀を編纂した側に
不都合な事実があり
理由を記載しなかったのでしょう。
しかし、
一人残された
孝徳天皇が可哀想ですね。
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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