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リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十五 天萬豊日天皇 四十九 ・中臣鎌足に紫冠を授ける ・遣唐使を送る



日本書紀 巻第二十五 
天萬豊日天皇 四十九

・中臣鎌足に紫冠を授ける
・遣唐使を送る



五年春正月一日、
夜、鼠が倭の都に向かい遷りました。

五日、
紫冠を中臣鎌足連
(なかとみのかまたりのむらじ)に
授けました。

封が、若干戸、増しました。 

二月、
大唐(もろこし)に遣わした、
押使(しべつかい)の
大錦上(だいきんじょう)の
高向史玄理
(たかむくのふびとげんり)、

(或る本は云う、夏五月に大唐に遣わした、押使(しべつかい)の大花下(だいかげ)の高向玄理(たかむくのげんり)と)

大使の小錦下(しょうきんげ)
の河辺臣麻呂(かわへのおみまろ)、

副使の大山下(だいせんげ)の
薬師恵日(くすしえにち)、

判官(まつりごとひと)の
大乙上(だいおつじょう)の
書直麻呂(ふみのあたいまろ)、
宮首阿彌陀(みやのおびとあみだ)
(或る本は云う、判官の小山下(しょうせんげ)の書直麻呂と)

小乙上(しょうおつじょう)の
岡君宜(おかのきみよろし)、

置始連大伯(おきそめのむらじおおく)、

小乙下(しょうおつげ)の
中臣間人連老
(なかとみのはしひとのむらじおゆ)

(老、これは於喩(おゆ)といいます)

田辺史鳥(たなへのふびととり)等は
二つの船に分けて乗りました。

留連(りゅうれん)して数ヶ月。

新羅の道を取り、
萊州(らいしゅう)に泊まりました。

遂に、
京に到り、
天子にまみえ奉りました。

ここにおいて、
東宮監門(とうきゅうのかんもん)の
郭丈舉(かくじょうきょ)は、

ことごとく、
日本国の地里及び
国の初めの神の名を問いました。

皆、問に隨い、答えました。

押使の高向玄理は、
大唐で卒(お)えました。

(伊吉博得(いきのはかとこ)は、「學問僧の惠妙は唐で死んだ。知聡(ちそう)は海で死んだ。智国(ちこく)は海で死んだ。智宗(ちそう)は庚寅の年に、新羅の船に付いて帰った。覚勝(かくしょう)は唐で死んだ。
義通(ぎつう)は海で死んだ。定恵(じょうえ)は、乙丑(きのとのうし)の年に劉徳高(りゅうとくこう)等の船に付いて帰った。妙位(みょうい)、法勝(ほうしょう)、學生の氷連老人(ひのむらじおきな)、高黄金(こうわうきん)、あわせて十二人。それとは別に、倭種(やまとのうじ)の韓智興(かんちこう)、趙元宝(でうがんほう)は、今年、使人と共に帰ったと」といいました。)



・留連(りゅうれん)
1・遊びや楽しみにふけって家に帰るのを忘れること。 遊興にふけって日を送ること。るれん。 ② 一所に長く留まること。 逗留
・萊州(らいしゅう)
中国の山東省萊州府
・東宮監門(とうきゅうのかんもん)
東宮諸門を管理してる人



(感想)

白雉5年春1月1日、
夜、鼠が倭の都に向かい遷りました。

5日、
紫冠を中臣鎌足連に授けました。

封戸が、若干戸、加増しました。 

2月、
大唐に派遣した、
押使の大錦上の高向史玄理、
(或る本は云う、夏5月に大唐に派遣した、押使の大花下の高向玄理と)

大使の小錦下の河辺臣麻呂、

副使の大山下の薬師恵日、

判官の大乙上の書直麻呂、宮首阿彌陀
(或る本は云う、判官の小山下の書直麻呂と)、

小乙上の岡君宜、置始連大伯、

小乙下の中臣間人連老
(老、これは於喩(おゆ)といいます)

田辺史鳥らは、

二つの船に分けて乗りました。

一所に長く留まること数ヶ月。
新羅の道を取り、
萊州に入港しました。

遂に、
長安の京に到着し、
天子に拝謁しました。

この時、
東宮監門の郭丈挙は、

日本国の地理および
国の初めの神の名を
ことごとく、
問いました。

皆、
問にしたがい、
答えました。

押使の高向玄理は、
大唐で亡くなりました。

(伊吉博得は、「学問僧の惠妙は唐で死んだ。知聡は海で死んだ。智国は海で死んだ。智宗は庚寅の年に、新羅の船に付いて帰った。覚勝は唐で死んだ。義通は海で死んだ。定恵は乙丑の年に劉徳高らの船に付いて帰った。妙位、法勝、学生の氷連老人、高黄金、あわせて十二人、それとは別に倭種の韓智興、趙元宝は、今年、使者と共に帰ったと」といいました)

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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