日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 五
・妃と子どもたち
二年春三月、
五(人)の妃を納(い)れました。
元の妃は、
皇后の妹で
稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)
といいます。
石上皇子(いそのかみのみこ)を生みました。
次も皇后の妹で、
日影皇女(ひかげのひめみこ)といいます。
(ここに皇后の妹というのは、明らかに檜隈高田天皇(ひのくまのたかたのすめらみこと)の娘です。后妃の名を列ねると、母の妃の姓と、皇女の名字が見当たりません。何の書から出ているのかを知りません。後に勘者(かんじゃ)が知るでしょう。)
倉皇子(くらのみこ)を生みました。
次に蘇我大臣稲目宿禰
(そがのおおいぎみいなめのすくね)の娘で
堅鹽媛(きたしひめ)といいます。
(堅鹽これは岐拕志(きたし)といいます)
七男六女を生みました。
その一は、
大兄皇子(おおえのみこ)といいます。
橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)です。
その二は、
磐隈皇女(いわくまのひめみこ)といいます。
(更の名は夢皇女(ゆめのひめみこ))
初め伊勢大神に侍り祀っていました。
後に、皇子・茨城(うまらき)に
犯されたため(任を)解かれました。
その三は、
臈嘴鳥皇子(あとりのみこ)といいます。
その四は、
豊御食炊屋姫尊
(とよみけかしきやひめのみこと)
といいます。
その五は、
椀子皇子(まろこのみこ)といいます。
その六は、
大宅皇女(おおやけのひめみこ)といいます。
その七は、
石上部皇子(いそのかみべのみこ)といいます。
その八は、
山背皇子(やましろのみこ)といいます。
その九は、
大伴皇女(おおとものひめみこ)といいます。
その十は、
桜井皇子(さくらいのみこ)といいます。
その十一は、
肩野皇女(かたののひめみこ)といいます。
その十二は、
橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ)
といいます。
その十三は、
舎人皇女(とねりのひめみこ)といいます。
次の堅鹽媛の同母妹で
小姉君(おあねのきみ)といいます。
四男一女を生みました。
その一は、
茨城皇子(うまらきのみこ)といいます。
その二は、
葛城皇子(かずらきのみこ)といいます。
その三は、
泥部穴穂皇女
(はしひとのあなほべのひめみこ)
といいます。
その四は、
泥部穴穂部皇子
(はしひとのあなほべのみこ)といいます。
(更の名は天香子皇子(あまつかこのみこ)。一書はいう、更の名は住迹皇子(すみとのみこ)というと)
その五は、
泊瀬部皇子 (はつせべのみこ)といいます。
(一書はいう、その一は、茨城皇子といいます。その二は、泥部穴穂部皇女といいます。その三は、泥部穴穂部皇子といいます。更の名は住迹皇子。その四は、葛城皇子といいます。その五は、泊瀬部皇子という、と。
一書はいう、その一は、茨城皇子といいます。その二は、住迹皇子といいます。その三は、泥部穴穂皇女といいます。その四は、泥部穴穂部皇子といいます。更の名は天香子。その五は泊瀬部皇子という、と。
帝王本紀は、古字が多くあり、撰修する人が、しばしば(字を)変更しました。(加えて)後人が習い読むさい、意(図)して刊(けず)ったり、改めたりしました。伝写もすでに多く、遂には錯雑してしまいました。前後を失い、兄弟(姉妹)が参差(しんし)となり、今、古今を考え調べて、その真正に帰しました。いちおう見分けることが難しい者は、まず一つを撰んでよりどころにし、その異(本、異)は詳しく注(釈)しました。他も皆これにならうでしょう)
次に春日日抓(かすがのひつめ)の娘で、
糠子(あらこ)といいます。
春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)と
橘麻呂皇子(たちばなのまろこのみこ)を
生みました。
・参差(しんし)
互いにいりまじる。ふぞろいなさま
(感想)
本日は、ひたすら、
妃とその子どもたちの名前でした。
その子どもたち、
歴史の教科書に載っている方が
ちらほら見え始めましたね。
橘豊日尊は、
用明天皇(ようめいてんのう)。
豊御食炊屋姫尊は、
推古天皇(すいこてんのう)。
泊瀬部皇子(はつせべのみこ)は、
崇峻天皇(すしゅんてんのう)。
泥部穴穂皇女は、
後に用明天皇の皇后となり
厩戸皇子(聖徳太子)生みました。
何だかワクワクしてきましたよ。
さて、
今後はどの様なお話が出てくるのでしょうか。
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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