日本書紀 巻第二十五
天萬豊日天皇 三十六
・蘇我臣日向の讒言
二十四日、
蘇我臣日向
(そがのおみひむか)が、
(日向は、字は身刺(むさし)です)
倉山田大臣
(くらのやまだのおおおみ)のことを
皇太子に譖(いつわ)って、
「僕の異母兄の麻呂は、
皇太子が海濱で遊ぶのを伺って、
まさに害そうとしています。
まさに久しからず、
反(そむ)くでしょう」
といいました。
皇太子はこれを信じました。
天皇は、
大伴狛連
(おおとものこまのむらじ)、
三国麻呂公
(みくにのまろのきみ)、
穗積嚙臣
(ほずみのくいのおみ)を
蘇我倉山田麻呂大臣の所へ行かせ、
反(そむ)きが
虛か実かを問わせました。
大臣は答えて、
「問われた所の報は、
僕が面して、
天皇の所で実を陳(の)べましょう」
といいました。
天皇は、
更に三国麻呂公
(みくにのまろのきみ)、
穗積嚙臣
(ほずみのくいのおみ)を
遣わして
その反(そむ)きの状を
審(つまび)らかにしようとしました。
麻呂大臣な、
また前の如く答えました。
天皇は、
乃ち、軍を興し、
大臣宅を囲もうとしました。
大臣は、
乃ち、ニ子の
法師(ほうし)と赤猪(あかい)
(更の名は秦)を連れて、
茅渟道(ちぬのみち)から逃げて、
倭国の境に向かいました。
大臣の長子・興志(こごし)は、
先より倭に在り、
(山田の家に在ったことをいいます)
寺を造営していました。
今、
忽(たちま)ち、
父が逃げて来たという事を聞いて、
今来(いまき)の大槻(おおつき)に
迎えにいき、
前行(ぜんこうう)に就き、
寺に入りました。
顧みて大臣に語って、
「興志は、請います。
直(ただ)ちに進み、
拒み来る軍を逆(むか)えさせてください」
といいました。
大臣は許しませんでした。
この夜、
興志は燒宮を焼こうと思っていました。
なお、
士卒(いくさびと)をあつめました。
(宮は小墾田宮(おはりだのみや)をいいます)
・今来(いまき)
奈良県高市郡など
・前行(ぜんこう)
1 前に進むこと。 前進。 2 他に先だって行くこと。 また、軍隊の先鋒 せんぽう)
・士卒(いくさびと)
兵士
(感想)
(大化5年3月)
24日、
蘇我臣日向は、
(日向は、字は身刺(むさし)です)
蘇我倉山田石川麻呂のことを
陥れようとして、
皇太子に偽りを告げて、
「僕の異母兄の麻呂は、
皇太子が海辺で遊ぶのを伺って、
まさに殺害しようとしています。
それは、
まさに遠からず、
謀反するでしょう」
といいました。
皇太子はこれを信じました。
天皇は、
大伴狛連、三国麻呂公、穂積嚙臣を
蘇我倉山田麻呂大臣の所へ行かせ、
謀反が虚か真かを問わせました。
大臣は答えて、
「問われた所の返報は、
僕が直に面会して、
天皇の所で真実をのべましょう」
といいました。
天皇は、
更に三国麻呂公、穂積嚙臣を派遣して、
その謀反の状況を審問しようとしました。
麻呂大臣は、
また前のように答えました。
天皇は、
この時、軍を興し、
大臣宅を囲もうとしました。
大臣は、その時、
二人の子の法師と赤猪(更の名は秦)を
連れて、
茅渟道を逃げて、
倭国の境に向かいました。
大臣の長子・興志は、
以前より倭国にいて、
(山田の家にいたことをいいます)
寺を造営していました。
今、急に父が逃げて来たという事を聞いて、
今来の大槻へと迎えにいき、
他に先だって行き、
寺に入りました。
顧みて大臣に語って、
「志請は、請います。
ただちに進み、
追ってくる軍を迎え防がせてください」
といいました。
大臣は許しませんでした。
この夜、
興志は宮を焼こうと思っていました。
なお、
兵士をあつめました。
(宮は小墾田宮をいいます)
明日に続きます。
読んでいただき
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