136・日本の神様
・木梨軽皇子
・軽大娘皇女
木梨軽皇子
(きなしのかるのみこ)
允恭天皇の皇子
別名
木梨軽太子
(きなしのかるのひつぎのみこ)
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。
“二年春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后としました。この日、皇后のために刑部を定めました。皇后は、木梨軽皇子、名形大娘皇女、境黒彦皇子、穴穂天皇、軽大娘皇女、八釣白彦皇子、大泊瀬稚武天皇、但馬橘大娘皇女、酒見皇女を生みました。“
允恭天皇と皇后・忍坂大中姫との間に
生まれた子です。
允恭天皇23年春3月7日、
木梨軽皇子を立てて皇太子としました。
皇太子の容貌は美しく見る者は自ずと感じました。
太子は常に同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)と交合したいと思っていました。
しかし、それは罪であると畏れ黙っていましたが、心は頂点まで達していて、将に死にそうになっていました。
そこで、どうせ無駄に空しく死にゆくよりも、罪となっても、耐え忍ぶことはできない。と思い、そして遂に密かに情を通じました。
允恭天皇24年夏6月、
御膳の羹(あつもの)の汁が氷を作り凝固しました。
天皇があやしみ、その理由を占わせると占者は「内の乱れがあり、近親相姦ではないでしょうか」といいました。
そこである者が、「木梨軽太子が、同母妹の軽大娘皇女を犯しました」といいました。そこで推問すると、事実でした。
太子は儲君(ひつぎのきみ)のため、刑することはできません。
そこで軽大娘皇女を伊予に移しました。
「古事記」では
允恭天皇23年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となり允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国に流されます。
その後、あとをおってきた軽大娘皇女とともに自害されたといわれています。
そのほか
・四国中央市にある東宮山古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされています。
・伊予国、現在の愛媛県四国中央市の妻鳥(めんどり)には「東宮陵」があり、軽皇子はこの妻鳥村に流罪となり、この場所に居を構え、松山市姫原に流罪された軽大娘皇女とは一度もあうことなく、この地で果てたという伝説が残っています。
祀る神社
春宮神社(愛媛県四国中央市)
軽之神社(愛媛県松山市)
軽大娘皇女
(かるのおおいらつめのひめみこ)
允恭天皇の皇女
別名
衣通郎女
衣通王(そとおりのみこ)
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。
“二年、春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后としました。この日、皇后のために刑部を定めました。
皇后は、木梨軽皇子、名形大娘皇女、境黒彦皇子、穴穂天皇、軽大娘皇女、八釣白彦皇子、大泊瀬稚武天皇、但馬橘大娘皇女、酒見皇女を生みました。“
允恭天皇と皇后・忍坂大中姫との間に
生まれた子です。
允恭天皇23年春3月7日、
同母兄・木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は常に軽大娘皇女と交合したいと思っていました。
しかし、それは罪であると畏れ黙っていましたが、心は頂点まで達していて、将に死にそうになっていました。
そこで、どうせ無駄に空しく死にゆくよりも、罪となっても、耐え忍ぶことはできない、と思い、遂に密かに情を通じました。
允恭天皇24年夏6月、
御膳の羹(あつもの)の汁が氷を作り凝固しました。
天皇があやしみ、その理由を占わせると占者は「内の乱れがあり、近親相姦ではないでしょうか」といいました。
そこである者が、「木梨軽太子が、同母妹の軽大娘皇女を犯しました」といいました。そこで推問すると、事実でした。
太子は儲君(ひつぎのきみ)のため、刑することはできません。そこで軽大娘皇女を伊予に移しました。
「古事記」では
『古事記』によりますと、美しい女性で、その美しさが衣をとおしてあらわれるようだと、いう意味を込めて「衣通郎女」または「衣通王」と呼ばれていました。
そのほか
・伊予国、現在の愛媛県四国中央市の妻鳥(めんどり)には「東宮陵」があり、軽皇子はこの妻鳥村に流罪となり、この場所に居を構え、松山市姫原に流罪された軽大娘皇女とは一度もあうことなく、この地で果てたという伝説が残っています。
・衣通姫とは、『日本書紀』では、允恭(いんぎょう)天皇の皇后の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の弟姫、『古事記』では同じ皇后の子の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の名としています。
祀る神社
軽之神社(愛媛県松山市)
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