日本書紀 巻第十一に登場する人物
・淤宇宿禰
・麻呂
・倭吾子籠
・大草香皇子
・強頸
・茨田連衫子
淤宇宿禰
(おうのすくね)
倭の屯田司
出雲臣の祖
別名
意宇足奴
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十一
本文では、
このように登場しています。
“この時、額田大中彦皇子は、倭の屯田及び屯倉を手に入れようとして、その屯田司である、出雲臣の祖、淤宇宿禰に、「この屯田は、もともと山守の地である。これをもって、吾が治めよう。汝は司ってはならぬ」といいました。”
倭の屯田司で、出雲臣の祖です。
額田大中彦皇子
(ぬかたのおおなかつひこのみこ)は、
倭の屯田(みた)及び屯倉(みやけ)を
手に入れようとして、
その屯田司(みたのつかさ)である、
出雲臣の祖・淤宇宿禰に、
「この屯田はもともと山守の地であるから吾が治める。お前は司ってはならぬ」
といいました。
そこで、淤宇宿禰は皇太子に
申しあげましたが、
太子は大鷦鷯尊に申しあげなさい、
といいました。
そこで、
淤宇宿禰は大鷦鷯尊に申し上げました。
大鷦鷯尊は、
倭直(やまとのあたい)の祖の麻呂に
問いましたが麻呂は詳しくは知らず、
弟の吾子籠(あごこ)が
知っていると答えました。
この時、
吾子籠は韓国(からくに)に
派遣されていました。
そこで、
大鷦鷯尊は淤宇宿禰に
吾子籠をよびに行かせました。
淤宇宿禰は急ぎ韓国へ行き、
吾子籠を引き連れてきました。
そこで吾子籠に倭の屯田の事を問うと、
垂仁天皇の世の勅旨では、
『倭の屯田は
御宇(ぎょう)の帝皇の屯田であり、
帝皇の子であっても、
司ることはできない』
とあります。
ですから、
倭の屯田は山守の地ということはありません
と答えました。
大鷦鷯尊は、
吾子籠を額田大中彦皇子のところに派遣して、
事情を知らせました。
大中彦皇子はそれ以上
言うことはありませんでした。
麻呂
倭直の祖
吾子籠の兄弟
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十一
本文では、
このように登場しています。
“大鷦鷯尊は、倭直の祖の麻呂に問いて、「倭の屯田はもともと山守の地というのはどういうことだ」答えて「臣は知りませんが、弟の吾子籠が知っております。」と答えました。”
倭直の祖です。
額田大中彦皇子
(ぬかたのおおなかつひこのみこ)は、
倭の屯田(みた)及び屯倉(みやけ)を
手に入れようとして、
その屯田司(みたのつかさ)である、
出雲臣の祖・淤宇宿禰(おうのすくね)に、
「この屯田はもともと
山守の地であるから吾が治める。
お前は司ってはならぬ」
といいました。
そこで、
淤宇宿禰は大鷦鷯尊に申し上げると、
大鷦鷯尊は、
倭直(やまとのあたい)の祖の麻呂に
問いました。
しかし、麻呂は詳しくは知らず、
弟の吾子籠(あごこ)が知っている
と答えました。
この時、
吾子籠は韓国(からくに)に
派遣されていました。
そこで、
大鷦鷯尊は淤宇宿禰に
吾子籠をよびに行かせました。
淤宇宿禰は急ぎ韓国へ行き、
吾子籠を引き連れてきました。
そこで吾子籠に倭の屯田の事を問うと、
垂仁天皇の世の勅旨では、
『倭の屯田は御宇(ぎょう)の帝皇の
屯田であり、帝皇の子であっても、
司ることはできない』
とあります。
ですから、
倭の屯田は山守の地ということは
ありません
と答えました。
大鷦鷯尊は、
吾子籠を額田大中彦皇子のところに派遣して、
事情を知らせました。
大中彦皇子は
それ以上言うことはありませんでした。
倭吾子籠
(やまとのあごこ)
倭国造の祖先
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十一
本文では、
このように登場しています。
“「臣は知りませんが、弟の吾子籠が知っております。」と答えました。この時、吾子籠は韓国に派遣されており、まだ還っていませんでした。”
倭直の祖です。
額田大中彦皇子
(ぬかたのおおなかつひこのみこ)は、
倭の屯田(みた)及び屯倉(みやけ)を
手に入れようとして、
その屯田司(みたのつかさ)である、
出雲臣の祖・淤宇宿禰(おうのすくね)に、
「この屯田はもともと
山守の地であるから吾が治める。
お前は司ってはならぬ」
といいました。
そこで、
淤宇宿禰は大鷦鷯尊に申し上げると、
大鷦鷯尊は、
倭直(やまとのあたい)の祖の麻呂に
問いました。
しかし、麻呂は詳しくは知らず、
弟の吾子籠(あごこ)が知っている
と答えました。
この時、
吾子籠は韓国(からくに)に
派遣されていました。
そこで、
大鷦鷯尊は淤宇宿禰に
吾子籠をよびに行かせました。
淤宇宿禰は急ぎ韓国へ行き、
吾子籠を引き連れてきました。
(ぬかたのおおなかつひこのみこ)は、
倭の屯田(みた)及び屯倉(みやけ)を
手に入れようとして、
その屯田司(みたのつかさ)である、
出雲臣の祖・淤宇宿禰(おうのすくね)に、
「この屯田はもともと
山守の地であるから吾が治める。
お前は司ってはならぬ」
といいました。
そこで、
淤宇宿禰は大鷦鷯尊に申し上げると、
大鷦鷯尊は、
倭直(やまとのあたい)の祖の麻呂に
問いました。
しかし、麻呂は詳しくは知らず、
弟の吾子籠(あごこ)が知っている
と答えました。
この時、
吾子籠は韓国(からくに)に
派遣されていました。
そこで、
大鷦鷯尊は淤宇宿禰に
吾子籠をよびに行かせました。
淤宇宿禰は急ぎ韓国へ行き、
吾子籠を引き連れてきました。
そこで吾子籠に倭の屯田の事を問うと、
垂仁天皇の世の勅旨では、
『倭の屯田は御宇(ぎょう)の帝皇の
屯田であり、帝皇の子であっても、
司ることはできない』
とあります。
ですから、
倭の屯田は山守の地ということは
ありません
と答えました。
大鷦鷯尊は、
吾子籠を額田大中彦皇子のところに派遣して、
事情を知らせました。
大中彦皇子はそれ以上
言うことはありませんでした。
仁徳天皇62年夏5月、
遠江の国司が大樹が大井河より流れて、
川の曲がり角に停まっています、
と奏上しました。
そこで、
倭直吾子籠を遣わして船を造らせました。
そして南海より運び、
難波津にひいて来て、
御船(みふね)にあてました。
日本書紀 巻第十二
本文では、
このように登場しています。
謀叛を起こした仲皇子と仲が良かった吾子籠は、事前に謀り事を知り、密かに精兵をあつめて、仲皇子のために、太子を防ごうとしました。
しかし、太子の兵士が多いので恐れをなし、自分は太子を助けようと兵を備えてまっていたといいました。
しかし、太子はその心を疑って、殺そうとしましたが、吾子籠は己の妹・日之媛を献上して、死罪を許すよう請いました。
天皇はそれを許しました。倭直等が采女を献上するのは、この時に始まったのではないかという説があります。
日本書紀 巻第十三では
允恭天皇7年
烏賊津使主は天皇の命を受けて、允恭天皇の皇后の妹、弟姫を京に連れていく際、途中弟姫を倭直吾子籠の家に留めて、天皇に復命しました。
「古事記」では
古事記に記載はありません。
大草香皇子
(おおくさかのみこ)
仁徳天皇の子
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十一
本文では、
このように登場しています。
“また妃の日向髪長媛は、大草香皇子、幡梭皇女を生みました。”
仁徳天皇と
妃・日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)
の間に生まれた子です。
巻第十一では名前のみの登場で
詳しい活躍は記載されていません。
日本書紀 巻第十三では、
反正天皇5年1月、
反正天皇が皇太子を立てぬまま崩御され、次の天皇の候補者の一人として名を挙げられましたが、群卿は雄朝津間稚子宿禰皇子が、長で仁孝であるとし、雄朝津間稚子宿禰皇子に皇位を継ぐように請願しました。
強頸
(こわくび)
日本古代の武蔵の人
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十一
本文では、
このように登場しています。
“北の河の澇を防ごうとして、茨田堤を築きました。この時、兩處、築いてもすぐに壊れて塞ぐのが難しいところがありました。この時、天皇が夢をみて、神があって教えさとして、
「武蔵の人、強頸と、河内の人、茨田連衫子の二人を以て、御河伯を祭ったなら、必ず塞ぐことができるだろう」といいました。“
幣として淀川に入水した人物です。
仁徳天皇11年冬10月、
宮の北の郊原(こうげん)を掘って、
南の水を引き、西の海に入らせました。
また北の河の澇(おおなみ)を防ごうとして、
茨田堤(まむたのつつみ)を築きました。
この時、
二箇所、
築いてもすぐに壊れて塞ぐのが
難しいところがありました。
この時、
天皇が夢をみて、
神がは、
武蔵の人、強頸(こわくび)と、
河内の人、茨田連衫子の二人を以て、
御河伯(かわのかみ)を祭ったなら、
必ず塞ぐことができると教えさとしました。
そこで、二人を探し求め見つかったので、
河の神に祭りました。
ここで強頸は泣いて悲しみ、
水に没して亡くなりました。
そこでその堤は完成しました。
一方、衫子は二箇のヒョウタンを取って、
水の中に投げ入れ、
河の神に、
「河の神。我を獲ようと欲するのなら、
この匏を沈めて浮かばせるな。
則、吾は真の神と知り、
自ら水の中に入ろう。
もし、匏を沈めることが出来ぬなら、
自ずと偽りの神と知れるだろう、
といいました。
すると飄風(つむじかぜ)が起きて、
ヒョウタンを引いて水
に沈めようとしましたが、
ヒョウタンは沈みませんでした。
というわけで、
衫子は死ぬことはありませんでした。
その堤もまた完成りました。
時の人はその二箇処を、
強頸断間(こわくびのたえま)、
衫子断間(ころものこのたえま)
と名づけました。
茨田連衫子
(まむたのむらじころものこ)
日本古代の河内国の人
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十一
本文では、
このように登場しています。
“北の河の澇を防ごうとして、茨田堤を築きました。この時、兩處、築いてもすぐに壊れて塞ぐのが難しいところがありました。この時、天皇が夢をみて、神があって教えさとして、
「武蔵の人、強頸と、河内の人、茨田連衫子の二人を以て、御河伯を祭ったなら、必ず塞ぐことができるだろう」といいました。“
仁徳天皇11年冬10月、
宮の北の郊原(こうげん)を掘って、
南の水を引き、
西の海に入らせました。
また北の河の澇(おおなみ)を防ごうとして、
茨田堤(まむたのつつみ)を築きました。
この時、二箇所、
築いてもすぐに壊れて塞ぐのが
難しいところがありました。
この時、天皇が夢をみて、
神は、武蔵の人、強頸(こわくび)と、
河内の人、茨田連衫子の二人を以て、
御河伯(かわのかみ)を祭ったなら、
必ず塞ぐことができると教えさとしました。
そこで、二人を探し求め見つかったので、
河の神に祭りました。
ここで強頸は泣いて悲しみ、
水に没して亡くなりました。
そこでその堤は完成しました。
一方、
衫子は二箇のヒョウタンを取って、
水の中に投げ入れ、
河の神に、
「河の神。我を獲ようと欲するのなら、
この匏を沈めて浮かばせるな。
則、吾は真の神と知り、
自ら水の中に入ろう。
もし、匏を沈めることが出来ぬなら、
自ずと偽りの神と知れるだろう、
といいました。
すると飄風(つむじかぜ)が起きて、
ヒョウタンを引いて
水に沈めようとしましたが、
匏は沈みませんでした。
というわけで、
衫子は死ぬことはありませんでした。
その堤もまた完成りました。
時の人はその二箇処を、
強頸断間(こわくびのたえま)、
衫子断間(ころものこのたえま)
と名づけました。