大嘗祭とは
大嘗祭は、
神祇官によって代行できた新嘗祭とは違い、
栄華を極めた摂政といえども
代行することが出来ない、
天皇一世一代の祭儀です。
大嘗祭は、
国郡卜定(カメの甲羅を焼いて占う)で
選ばれた畿外(都周辺の外)の
国郡二か所で収穫された稲がもちいられます。
京より東の国群より選ばれた
第一の国郡を悠紀(ゆき)国、
京より西の国群から選ばれた
第二の国郡を主基(すき)国といいます。
11月卯日に行われる大嘗祭は、
大嘗宮の中に左右対称の正殿である
悠紀殿・主基殿において行われます。
皇祖・天照大神、天神地祇に
新穀の神膳を捧げ、
神と天皇とが供食し、
国家の安寧と五穀豊穣を感謝し、
また祈念する祭儀です。

大嘗祭の起源
その1「日本書紀・神代巻」“高天原”
「日本書紀」神代巻の記事が
起源ともされています。
高天原において粟などの
陸田種子(はたつもの)と
稲の水田種子(たなつもの)を植えて、
天照大神の御田が耕作され、
その収穫で
天上の祭祀が営まれたというものです。
その天上の御田を地上に再現したのが、
天皇直営の「倭の屯田」です。
大嘗祭の起源
その2「ニイナエ」
大嘗祭の原型となったのは
大化前代のニイナエという神事です。
新穀を神と人が
供食(きょうしょく)をする儀式です。
ニイナエは古くから
日本の各地で行われていました。
農耕社会としては普遍的な祭りです。
「常陸国・風土記」、
「日本書紀」、
「万葉集」などに
ニイナエに関連したことが
書かれているので
古くから行われていたことは
間違いないでしょう。
しかし、
一種の収穫祭であるニイナエの儀式は
世界中で特に稲作地帯には
どこにでもありますが、
大嘗祭のような儀礼は
日本にしかないそうです。
供食について
古くから稲には
穀霊が宿っていると信仰されています。
また、
その稲・お米を食することが
神様の御魂をいただくことに
ほかなりません。
この考えを民俗学では神人供食と表現します。
神様にお供えする、
そして人も同じものを食する。
それにより神の御魂を体に宿し、
神人一体となる儀式です。
纏向遺跡
(まきむくいせき)
弥生時代末期から古墳時代前期に
かけての集落遺跡で、
纏向遺跡が
ヤマト王権成立の根拠地として
考えられています。
この遺跡内で
「祭祀遺跡」と考えられるものが、
多数見つかっています。
この地でニイナエが
行われていた可能性が高いと思われます。
大嘗祭の始まりはいつ?
大化前代、孝徳天皇は、神道を軽視。
斉明天皇・舒明天皇の両天皇は
ニイナエを行わない時もあったようです。
また、天智天皇は
仏教信仰を主としていました。
史料から考えられる大嘗祭の成立は
持統天皇の時代が始まりと思われます。
天武天皇朝において
ニイナエの伝統に変革が行われ、
持統天皇の大嘗祭は
その規定に基づいての
はじめての大嘗祭といえます。
大嘗祭と新嘗祭の相違点
新嘗祭の神事に用いる稲と粟は、
占いで定めた
「官田、屯田(みた)」のものを用いました。
官田(屯田)は、
大王の直接支配する田のことです。
これに対し、
大嘗祭の稲は占いで選ばれた
悠紀(ゆき)・主基(すき)地方のものです。
注目すべきは、その稲が
「公民・百姓(おおみたから)」
の耕作している田んぼからとれたものです。
彼らは、
豪族らの私的な支配から離れた
“公民”なのです。
官田はいわば
天皇の個別的支配の下にある田地。
これに対し百姓の耕作田は
原則として公的な国家の統治のもとにある
田地なのです。
また、
新嘗祭はおもに神祇官や宮内省、
宮内省付属の諸官司の奉仕のみによって
行われるのが原則で、
朝廷内部の祭祀といってよいでしょう。
これに対し大嘗祭は、
地方在住の民の奉仕が主体なのです。
諸身分の奉仕
「天神の寿詞」(あまつかみのよごと)
その中に、
大嘗祭の奉仕者に触れている箇所があります。
“天皇が朝廷に仕へ奉る親王・諸王・諸臣・百官人等・天下四方国の百姓”
大嘗祭は
国家の諸階層がみなそれぞれ奉仕している事
なのが特徴なのです。
氏族連合国家から、
中央集権的古代国家へ
律令制となり、天皇は、
理念上すべての公民を
直接に統治される立場になられました。
そのため天皇は、
日本に住むすべての人々が
一つとなる儀式が必要と
感じられたのではないでしょうか。
令和の大嘗祭が無事終えられたようで、
安堵しています。
天皇陛下おめでとうございます。
そして、お疲れさまでした。
続く