日本書紀 巻第二十 渟中倉太珠敷天皇 二十一
・物部氏、天皇に抗議する
・物部氏、蘇我氏の寺を焼く
三月一日、
物部弓削守屋大連
(もののべのゆげのもりやおおむらじ)と
中臣勝海大夫
(なかとみのかつみのまへつきみ)とが、
奏して、
「何故、
臣の言を用いることを
よしとしないのですか。
孝天皇から、
陛下に及んで、
疫疾(えきしつ)が流行して、
国民が絶えてしまいます。
どうして。
もっぱら蘇我臣の興行(こうぎょう)する
仏法に由(よ)るものではないでしょうか」
といいました。
勅して、
「灼然(いやちこ)、
もっともなことだ。
仏法を断とう」
三十日、
物部弓削守屋大連は、
自ら寺に詣でて、
胡座(あぐら)に踞坐(ぎょざ)し、
其の塔を斫(き)り倒し、
火をつけて焼き、
併せて仏像と仏殿も焼きました。
即、
焼け余った仏像を取って
難波の堀江に棄てさせました。
この日、
雲が無いのに、
風雨がおき、
大連は雨衣(あまよそおい)を被り、
馬子宿禰と
従い法を行った侶(ひとども)を
訶責(かせき)して、
毀(やぶ)り、
辱(はずかし)める心を生じさせました。
すなわち、
佐伯造御室(さえきのみやつこみむろ)
を遣わして、
(更の名は、於閭礙(おろげ)といいます)
馬子宿禰の供える
善信等尼を喚(よ)びました。
これによりて、
馬子宿禰は、
敢えて命に違えず、
惻(いた)み、
愴(かな)しみ、
啼泣(ていきゅう)し、
尼等を喚(よ)び出し、
御室に付けました。
有司は、
尼等の三衣を奪って、
禁錮(からめとらえ)して、
海石榴市(つばきいち)の
亭(うまやたち)で
楚撻(しりかたうち)しました。
・疫疾(えきしつ)
流行病。疫。また、それを病むこと
・興行(こうぎょう)
法会・芸能・連歌・俳諧などの儀式や会を催すこと。またその会
・灼然(いやちこ)
神仏の霊験などが著しいさま。あらたかであるさま。非常にあからさまであること
・侶(ひとども)
とも。つれあい。みちづれ
・訶責(かせき)
叱り責める
・啼泣(ていきゅう)
声をあげて泣くこと
・禁錮(からめとらえ)
=きんこ・1・一室の中に閉じ込め、外出を許さないこと。幽閉2・自由の剥奪を内容とする刑罰
・楚撻(しりかたうち)
尻や肩を鞭でうつこと
(感想)
(敏達天皇14年)
3月1日、
物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫とが、
奏して、
「何故、
私めの言葉を用いることを
よしとしないのですか?
欽明天皇から、
陛下に及んで、
疫病が流行して、
このままでは、
国民が絶えてしまいます。
どうして
このようなことになったのでしょうか?
もっぱら蘇我臣が催した、
仏法によるものではないでしょうか?」
といいました。
勅して、
「灼然(いやちこ)、
もっともなことだ。
仏法を断とう」
30日、
物部弓削守屋大連は、
自ら寺に詣でて、
胡座(あぐら)に腰かけて、
その塔を切り倒し、
火を放ち焼き、
あわせて仏像と仏殿も焼きました。
すぐに、
焼け余った仏像を取り、
難波の堀江に棄てさせました。
この日、
雲が無いのに、
風雨がおき、
大連は雨衣(あまよそおい)を被り、
馬子宿禰に従い、
法を行った侶を叱り責めて、
そしり、
屈辱の心を生じさせました。
すなわち、
佐伯造御室を派遣して、
馬子宿禰の供える
善信ら尼を呼びだしました。
これによりて、
馬子宿禰は、
敢えて命に背かず、
いたみ、かなしみ、
声をあげて泣きながら、
尼らを呼び出し、
御室にあずけました。
有司は、
尼らの三衣を奪って、
自由を剥奪し、
海石榴市(つばきいち)の馬屋で
尻や肩を鞭で打ちました。
さて、
病が流行してしまいました。
大連は、
蘇我臣が行っている仏法のせいだとし、
寺、仏像を焼きました…
祟る神に対し大連の行った行為はいかに…
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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