日本書紀 巻第三十
高天原廣野姫天皇 十一
・殯宮での葬礼
・天武天皇を大内陵に葬る
冬十一月四日、
皇太子が、
公卿、百寮の人等と諸蕃の賓客を率いて、
殯宮におもむいて慟哭をしました。
ここにおいて、
奠(てん)を奉り、
楯節儛(たたふしのまい)を奏しました。
諸臣は各々、
己の先祖等が仕えた狀(かたち)を挙げて、
次から次へと進み、
誄(しのびごと)をしました。
五日、
蝦夷・百九十余り人が、
調賦(みつき)としての負荷(ふか)をし、
誄をしました。
十一日、
布勢朝臣御主人
(ふせのあそみみぬし)、
大伴宿禰御行
(おおとものすくねみゆき)が、
次から次へと進み、
誄をしました。
直廣肆の当麻真人智徳
(たぎまのまひとちとこ)は、
皇祖等の騰極(ひつぎ)の次第を奉り、
誄をしました。
禮です。
古くは、日嗣いいます。
おわり大内陵(おおちのみさざき)に
葬りました。
十二月十二日、
蝦夷の男女、
二百十三人を飛鳥寺の西の槻の下で
饗(もてな)しました。
かさねて、
冠位を授け、物を賜りましたが、
各々差がありました。
・奠(てん)
供え物。供物
・楯節儛(たたふしのまい)
舞楽の一つ。闕腋(けってき)の打掛を着て甲冑をつけ、鉾(ほこ)を持って奏した舞。たてふしの舞
・負荷(ふか)
任務を負うこと。またその任務
・騰極(ひつぎ)
=とうきょく・即位する
(感想)
(持統天皇2年)
冬11月4日、
皇太子が、
公卿、百寮の人らと諸蕃の賓客を率いて、
殯宮におもむいて慟哭をしました。
この時、
香奠を奉り、
楯節舞を奏しました。
諸臣は各々、
己の先祖らが仕えた状況を挙げて、
次から次へと進み、
誄をしました。
5日、
蝦夷・190余り人が、
調賦としての任務を負い、
誄をしました。
11日、
布勢朝臣御主人、大伴宿禰御行が、
次から次へと進み、
誄をしました。
直広肆の当麻真人智徳は、
皇祖等の即位の次第を奉り、
誄をしました。
これは礼です。
古くは、日嗣といいます。
おわり大内陵に葬りました。
12月12日、
蝦夷の男女、213人を
飛鳥寺の西の槻の下で饗応しました。
かさねて、
冠位を授け、
物を与えましたが、
各々差がありました。
明日に続きます。
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