弟姫
(おとひめ)
允恭天皇の皇后・忍坂大中姫命の妹
允恭天皇の妃
別名
衣通姫(そとおりひめ)
衣通郎姫(そとおしのいらつめ)
衣通郎女
衣通王(そとおりのみこ)
その美しさが衣を通して輝くことから
この名の由来となっています。
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。
“皇后は惶れて、また起きて舞いました。舞い終えると、「娘子を奉ります」といいました。天皇は即ち、皇后に問うて、「奉る娘子は誰だ。姓字が知りたいと欲う」といいました。皇后はすでに獲ることができず、奏言して、「妾の妹で、名は弟姫です」といいました。“
允恭天皇の皇后・忍坂大中姫命の同母妹で、
允恭天皇の妃です。
衣通郎姫と呼ばれていました。
允恭天皇7年12月1日、
新室(にいむろ)で酒盛りをしました。
天皇が琴を弾き、皇后が舞を踊りましたが、舞い終えても禮事(いやごと)を言いませんでした。
この時代、宴会で舞う者は、舞い終わると、則ち、自分で座長(くらかみ)に対して、「娘子(おみな)を奉る」というものでした。
禮事を言わない皇后に対し、「天皇は何故、礼をしなかったのか?」といいました。
そこで皇后は再び舞を踊り、
「娘子を奉ります。妾の妹で、名は弟姫です」といいました。
弟姫は容貌が美しく、天皇の心は彼女にありました。ですから、皇后に強いて進めさせたのです。皇后はこれを知っていたので、たやすく禮事を言わなかったのです。
天皇は歓喜して、すぐに使者を遣わして弟姫を呼びました。
しかし、弟姫は姉・皇后に気兼ねして七度呼びだされましたが、参向しませんでした。
そこで天皇は、舎人の中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を派遣しました。
彼は乾し飯を衣の中につつみ弟姫のいる坂田に向かいました。
そこで、彼は、「『必ず召しつれて来いと、もし来れないと、必ず罪とする』、との天皇の命をうけています。故に、返って極刑をうけるよりも、むしろ庭に伏して死にます」といいました。
そして、七日経ても、庭の中に伏して、飲食を与えても食べませんでした。しかし、彼は懐の乾し飯を密かに食べていました。
皇后に気兼ねして天皇の呼びだしを拒んでいた弟姫でしたが、ここで天皇の忠臣を亡くしては自分の罪になると思い、烏賊津使主に従い京に向かいました。
途中、烏賊津使主は弟姫を倭直吾子籠の家に留めて、天皇に復命しました。
しかし、皇后の心は穏やかではありませんでした。そこで、弟姫を宮中に近づけず、別の殿屋を藤原に造り、そこに居させました。
大泊瀬天皇を産む夕にあたり、天皇ははじめて藤原宮に行幸しました。
皇后はこれを聞いて恨んで、自ら出て産殿を焼いて将に死のうとしました。
天皇はこれを聞いて大いに驚いて、「朕が過っていた」といい、因って、皇后の意を慰め、諭しました。
允恭天皇8年春2月、
藤原に行幸しました。
弟姫と天皇は歌を詠み合いますが、それを聞いた皇后が大いに恨みました。
そこで弟姫は、王居を離れて遠くにいたいと請願します。
そこで天皇は更に宮室を河内茅渟(ちぬ)に造り、そこに、弟姫を居させました。
この後、天皇はしきりに日根野に遊獵(ゆうりょう)しました。
允恭天皇9年春2月、
茅渟宮に行幸しました。
秋8月、
茅渟に行幸しました。
冬10月、
茅渟に行幸しました。
允恭天皇10年春1月、
茅渟に行幸しました。
ここで皇后が奏して、
「私は、毛先の末のごとく、少しも、弟姫を恨んでいません。しかし、陛下がしきりに茅渟に行幸するのは、百姓の苦しみになりませんか。願わくは、天皇が行幸する数を減らすようにしてください」と忠告しました。
この後、天皇はまれに行幸するようになりました。
允恭天皇11年春3月4日、
天皇は茅渟宮に行幸しました。弟姫が歌を詠いました。
とこしへに 君も会へやも
いさな取り 海の浜藻の
寄る時々を
天皇はその歌を他人に聞かせてはいけない。皇后が聞いたなら大いに恨むだろうといいました。
そこで時の人は浜藻を奈能利曽毛(なのりそも)とよびました。
これより以前に、衣通郎姫は、藤原宮に居ました。
この時、天皇は、大伴室屋連(おおとものむろやのむらじ)に詔して、
「朕は、よい乙女を得た。皇后の同母妹で、ことのほか、愛おしい。その名を後の世に伝いたい。どうしようか?」といいました。
そこで、諸国造らに科して衣通郎姫のために藤原部を定めました。
そのほか
・衣通姫(そとおりひめ)とは、『日本書紀』では、允恭(いんぎょう)天皇の皇后の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の弟姫、『古事記』では同じ皇后の子の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の名としています。
祀る神社
玉津島神社(和歌山県和歌山市)
小岩神社(東京都江戸川区)
勉強途中です。
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随時更新予定です。
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