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リートリンの覚書

日本書紀 巻第十三 穴穂天皇 三 ・天皇、大草香天皇に命を出す ・大草香皇子、命を受諾し宝を献上する ・根使主の讒言 ・大草香皇子、冤罪で討伐される ・中蒂姫命を皇后にする ・安康天皇の崩御


日本書紀 巻第十三 穴穂天皇 三

・天皇、大草香天皇に命を出す
・大草香皇子、命を受諾し宝を献上する
・根使主の讒言
・大草香皇子、冤罪で討伐される
・中蒂姫命を皇后にする
・安康天皇の崩御



元年春二月一日、
天皇は
大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)のために、

大草香皇子(おおくさかのみこ)の妹、
幡梭皇女(はたびのひめみこ)を
まねき迎えたいと欲(おも)いました。

則、
坂本臣の祖の根使主(ねのおみ)を遣わして、

大草香皇子に請うて、
「願わくは、
幡梭皇女を得て、
大泊瀬皇子に配したいと欲(おも)う」
といいました。

大草香皇子は答えて、
「僕はこの頃、
重病を患い、
愈(い)えることを得ません。

たとえていうと、
物を船に積んで
潮を待ちしているようなものです。

然るに、
死ぬもこれ命のかぎりです。
何を惜しむに足りるでしょうか。

ただ、
妹の幡梭皇女が
孤(ひと)りになってしまうので、
容易に死ぬことはできません。

今、陛下は、
その醜いのを嫌わず、
荇菜(おになめ)の数を満たそうとしました。

これは甚だ、大恩です。
何、かたじけない命を辞したりしましょうか。

故に、
その丹心(まことのこころ)を
呈(しめ)したいと欲(おも)い、
私の宝で名を押木玉縵(おしきのたまかずら)

(一は云う、立縵(たち)と。
又云いう、磐木縵と)

を捧げて、
遣わされた臣根使主に附(つ)けて、
敢えて奉献いたします。

願わくは、
軽賤(けいせん)な物ですが、
納めて信の契(しるし)としてください」
といいました。

ここにおいて、
根使主は押木玉縵を見て、
その麗美なのに感じて、
盗んで己の宝にしようと、

そこで詐(いつわ)って天皇に奏して、
「大草香皇子は、命を奉ぜず、
臣に語って、

『同族(おなじやから)であるが、
どうしてわが妹を妻にできるというのか』
といいました」
といい、

既に縵を己のもとに留めて、
献上しませんでした。

天皇は
根使主の讒言(ざんげん)を信じました。

則、
大怒して、
兵を起こし、
大草香皇子の家を囲み、
殺しました。

この時、
難波吉師日香蛟(なにわきしひかか)父子が、
並びに大草香皇子に仕えていました。

共に、
その君に罪がないのに死んだのを傷みました。

則、
父は王の頸を抱え、
二子は各々王の足を執り、

唱えて、
「吾が君。
罪のないのに死ぬとは、悲しいかな。

我父子三人は、
生きている時に仕え、
死ぬ時に殉ぜずとは、
臣とは言えません」
といいました。

即、
自ら刎(くびは)ねて、
皇子の屍の側で死にました。

軍衆は悉く流涕(りゅうてい)しました。

ここに
大草香皇子、
妻・中蒂姫(なかしひめ)を取り、

宮中に納(めしい)れ、
妃としました。

また、
遂に幡梭皇女を喚(よ)び、
大泊瀬皇子に配しました。

この年、太歳は甲午(きのえうま)。

二年春正月十七日、
中蒂姫命を立てて皇后としました。
甚だ寵(いつく)しみました。

初め中蒂姫命は、
大草香皇子とのあいだに
眉輪王(まよわのおおきみ)を生みました。

母によって免罪を得ました。
常に宮中で養いました。

三年秋八月九日、
天皇は眉輪王によって殺されました。

この話は、
くわしく大泊瀬天皇の紀にあります。

三年の後、菅原伏見陵に葬りました。



・荇菜(おになめ)
水草のあさざの別称。ここでは後宮のこと
押木玉縵(おしきのたまかずら)
上代の髪飾りの一種。形の良い木の枝に玉を付けたものか?
・軽賤(けいせん)
軽くいやいやしいこと。
・流涕(りゅうてい)
涙をながすこと。激しく泣くこと



(感想)

安康天皇元年春2月1日、

天皇は大泊瀬皇子のために、
大草香皇子の妹、
幡梭皇女を招き迎えたいと思いました。

天皇も妃の存在が見えないのに、
また、弟、大泊瀬皇子のために嫁探し?

そこで、
坂本臣の祖の根使主を遣わして、

大草香皇子に請うて、
「願わくは、
幡梭皇女を得て、
大泊瀬皇子に配偶したいと思う」
といいました。

大草香皇子は答えて、
「僕はこの頃、
重病を患い、
癒えることありません。

例えて言うならば、
物を船に積んで
潮を待ちしているようなものです。

しかしながら、
死ぬとしてもこれ天命でしょう。

何を、
惜しむに足りるでしょうか。

ただ、
妹の幡梭皇女が
孤(ひと)りとなってしまいます。
ですから容易に死ぬことはできません。

今、
陛下は、その醜いのを嫌わず、
後宮の数を満たそうとしました。

これは大変、大恩です。

どうして、
かたじけない命を辞したりしましょうか。

そこで、
その誠の心を示したいと思い、

私の宝で名を
押木玉縵

(一は云う、立縵(たち)と。又云いう、磐木縵と)

を捧げて、
遣わされた臣根使主に付けて、
敢えて奉献いたします。

願わくは、
軽くいやいやしい物ですが、

納めて信のしるしとしてください」
といいました。


ここにおいて、
根使主は押木玉縵を見て、
その麗美なのに感じて、
盗んで己の宝にしようとしました。

そこで偽って天皇に奏して、
「大草香皇子は、
命を従わず、
臣に語って、

『同族であるが、
どうしてわが妹を妻にできるというのか』
といいました」
といい、

既に縵を己のもとに留めて、
献上しませんでした。

天皇は根使主の讒言を信じました。

おーい!
片方の言い分だけで
物事を決めつけないで下さい。

則、
大怒して、

兵を起こし、
大草香皇子の家を囲み、
殺しました。

この時、
難波吉師香蚊父子が、
並びに大草香皇子に仕えていました。

共に、
その君に罪がないのに死んだのを傷みました。

則、
父は王の頸を抱え、
二子は各々王の足を執り、

唱えて、
「吾が君。
罪のないのに死ぬとは、悲しい。

我ら父子三人は、

生きている時に仕え、
死の後に殉じないとは、
臣とは言えません」
といいました。

即、
自ら首をはねて、
皇子の屍の側で死にました。

軍衆は悉く涙をながし、
激しく泣きました。

大草香皇子。

天皇の命に対する、真摯な対応。
妹の将来を案ずる、家族思いな一面。
家臣に慕われ。

大変人柄が優れた方であるように感じます。

女にうつつを抜かす誰かさんより
天皇としての気質を持っていたのでは?

ここに大草香皇子の妻、
中蒂姫を取り、

宮中に召し入れ、
妃としました。

また、
遂に幡梭皇女をよび、
大泊瀬皇子に配しました。

この年、太歳は甲午。

もしかすると、
最初から中蒂姫狙いだった?
と思いましたが、

大草香皇子は病が重そうなので、
それはないかな。

安康天皇2年春1月17日、
中蒂姫命を立てて皇后としました。
大変、寵愛しました。

初め中蒂姫命は、
大草香皇子とのあいだに
眉輪王を生みました。

眉輪王は母によって罪を逃れました。
常に宮中で養育されました。

安康天皇3年秋8月9日、
天皇は眉輪王によって殺されました。

この話は、
くわしく大泊瀬天皇の紀にあります。

三年の後、菅原伏見陵に葬りました。

安康天皇。
眉輪王に殺されてしまいましたね。

ただ、
眉輪王の年齢は、6歳。
古事記では7歳。

年齢的に疑問が湧きます。

詳しくは大泊瀬天皇の紀に綴られています。

その大泊瀬天皇の紀は、
現在、訳している最中。

しばしお待ちくださいませ。

日本書紀 巻第十三はこれで終了です。

読んで頂き
ありがとうございました。


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