リートリンの覚書

日本の神様110・大倉主 ・菟夫羅媛 ・中臣烏賊津連 改訂版2


日本の神様110

・大倉主
・菟夫羅媛
臣烏賊津連


大倉主
(おおくらぬし)


仲哀天皇の御船を止めた神


「日本書紀」では


日本書紀 巻第八では、
このように登場しています。

“御船が進むことが出来ないのは、臣の罪ではありません。この浦の国に男女の二神がいて、男神は大倉主といい、女神は菟夫羅媛といいます。きっとこの神の心でしょう”

仲哀天皇8年、1月4日、
天皇は筑紫に行幸しました。
この時、岡県主の祖である熊鰐(わに)が、
天皇の行幸を聞き、
周芳(すわ)の沙麼(さば)の浦に
参って迎えました。

熊鰐は、海路を導くと、
山鹿岬から廻り込み、
岡の浦に入りました。

しかし、
水門(みなと)に到着しようとすると、
御船は進むことができませんでした。

すぐに天皇は、
清い心を以て参って来たはずだが、
なぜ船は進まないのだ、
と熊鰐に問うと、

御船が進むことが出来ないのは、
臣の罪ではありません。
この浦の国に男女の二神がいて、
男神は大倉主(おおくらぬし)といい、
女神は菟夫羅媛(つぶらひめ)といいます。
きっとこの神の心でしょう、と答えました。

そこで天皇はすぐに祈り、
船頭で倭国の菟田の人、
伊賀彦を神官として祭らせました。
すると船は進むことができました。


祀る神社


高倉神社 (福岡県遠賀郡)
岡湊神社 (福岡県遠賀郡)


菟夫羅媛
(つぶらひめ)


仲哀天皇の御船を止めた女神


「日本書紀」では


日本書紀 巻第八では、
このように登場しています。

“御船が進むことが出来ないのは、臣の罪ではありません。この浦の国に男女の二神がいて、男神は大倉主といい、女神は菟夫羅媛といいます。きっとこの神の心でしょう”

仲哀天皇8年1月4日、
天皇は筑紫に行幸しました。
この時、岡県主の祖である熊鰐(わに)が、
天皇の行幸を聞き、
周芳(すわ)の沙麼(さば)の浦に
参って迎えました。

熊鰐は、海路を導くと、
山鹿岬から廻り込み、
岡の浦に入りました。

しかし、
水門(みなと)に到着しようとすると、
御船は進むことができませんでした。

すぐに天皇は、
清い心を以て参って来たはずだが、
なぜ船は進まないのだ、
と熊鰐に問うと、

御船が進むことが出来ないのは、
臣の罪ではありません。
この浦の国に男女の二神がいて、
男神は大倉主(おおくらぬし)といい、
女神は菟夫羅媛(つぶらひめ)といいます。
きっとこの神の心でしょう、と答えました。

そこで天皇はすぐに祈り、
船頭で倭国の菟田の人、
伊賀彦を神官として祭らせました。
すると船は進むことができました。


祀る神社


高倉神社 (福岡県遠賀郡)
岡湊神社 (福岡県遠賀郡)


中臣烏賊津連
(なかとみのいかつのむらじ)


中臣氏の祖


別名


中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)

烏賊津使主(いかつのおみ)

雷大臣命(いかつのおおおみのみこと)

雷大臣(いかつのおおおみ)

跨耳命(またみみのみこと)



「日本書紀」では


日本書紀 巻第八では、
このように登場しています。

“皇后は大臣及び中臣の大臣と中臣烏賊津連、大三輪大友主君、物部胆咋連、大伴武以連に詔して、”

仲哀天皇2月5日、
仲哀天皇は急に病気になり、
翌日崩御しました。

そこで皇后と大臣・武内宿禰は、
天皇が崩御されたことを隠しました。

皇后は大臣及び中臣の大臣と
中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)
大三輪大友主君(おおみわのおおともぬし)
物部胆咋連(もののべのいくいのむらじ)
大伴武以連(おおとものたけもつのむらじ)に、
天下は天皇の崩御を知らない。
もし百姓がこれ知ったら、
怠けてしまうだろう、
といいました。

そこで、4人の大夫に命じて、
百寮を支配し宮中を守らせました。
密かに天皇の屍を収めて、
武内宿禰を付けて、
海路を従い穴門に遷しました。
そして豊浦宮(とゆらのみや)
明かりもともさず葬儀を行いました。

巻第九では、

仲哀天皇9年2月、
仲哀天皇が筑紫の橿日宮で崩御しました。

皇后は、
天皇が神の教えに従わなかったことで
早くに崩じたことを痛み、
祟った神を知り、
財宝の国を求めたい、
と思い、

罪を祓い、
過ちを改めて、
更に斎宮(いつきのみや)
小山田邑(おやまだむら)に造りました。

3月1日、
皇后は吉日を選び、
自ら神主となりました。

そして武内宿禰に琴を弾かせ、

中臣烏賊津使主
審神者(さにわ)としました。

そして、
神の名をたずねると、
七日七夜に至って答えがあり、

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)

尾田の吾田節(あたふし)
淡郡(あわのこおり)に居る所にあり、

於天事代於虚事代玉籖入彦厳之事代主神

(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)


表筒男(うわつつのお)

中筒男(なかつつのお)

底筒男(そこつつのお)と答えました。


皇后は教えのとおりに祭りました。


日本書紀 巻第十三では、
允恭天皇7年

允恭天皇に呼び出された弟姫ですが、允恭天皇の皇后である同母姉、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)気兼ねして七度呼びだされましたが、参向しませんでした。

そこで天皇は、舎人の中臣烏賊津使主を派遣しました。

彼は乾し飯を衣の中につつみ弟姫のいる坂田に向かいました。

そこで、彼は、「『必ず召しつれて来いと、もし来れないと、必ず罪とする』、との天皇の命をうけています。故に、返って極刑をうけるよりも、むしろ庭に伏して死にます」といいました。

そして、七日経ても、庭の中に伏して、飲食を与えても食べませんでした。しかし、彼は懐の乾し飯を密かに食べていました。

皇后に気兼ねして天皇の呼びだしを拒んでいた弟姫でしたが、ここで天皇の忠臣を亡くしては自分の罪になると思い、烏賊津使主に従い京に向かいました。

途中、烏賊津使主は弟姫を倭直吾子籠の家に留めて、天皇に復命しました。

天皇はたいそうよろこんで烏賊津使主をほめて敦く寵(いつく)しみました。


「古事記」では


記載はありません。


そのほか


・対馬の厳原町豆酘にある雷神社は
新羅征討から帰還後に
雷大臣命が邸宅を構えた場所であり、
祝官として祭祀や礼や亀卜の術を
伝えたとされています。

・太祝詞神社には雷大臣命の墓があります。

・日本書紀 巻第九と巻十三に登場していますが、同名異人であるとも、伝承の混乱であるとも言われています。


祀る神社


雷神社(長崎県対馬市)
太祝詞神社(長崎県対馬市)



勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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