東雲号(しののめごう)

わが東雲号の出帆。さまよえる東雲号が難破するまでの軌跡を追って。

第五回ギリシャ旅行(6) イタキ島からケファロニア島

2007年11月12日 13時58分02秒 | Weblog
2007/10/30 (火)
ケファロニア島
 MOUIKIS HOTEL 泊
 
イタキ島からケファロニア島
イタキ島のヴァティ港からケファロニア島のサミー港行きのカーフェリーは、一日一本で朝7時の出発です。イタキ島のピサエトス港から、一日もう一本午後4時にケファロニア島のサミー港行きが出ていますが、ケファロニア島での観光の時間がなくなるので、早朝に出るヴァティ港7時発のカーフェリーを選びました。船上からはまだ薄暗いヴァティの町の明かりと朝焼けの雲がきれいでした。雨もまばらに降っていて寒いので船室で過ごしました。行程一時間たらずだったので航行時間は瞬く間に過ぎました。ケファロニア島のサミー港について、一緒に下船した乗客もそれぞれが各方面に散らばって、私たちだけがとり残されてしまったころ、一台のタクシーがら近付いてきたので、とりあえずこれに乗ることにしました。


夜明けのイタキの港町、ヴァティ (午前6時ごろ)


女性タクシードライバーメンマさんのタクシーでドライブ
タクシーの運転手さんは女性でギリシャ人には、よくあるタイプのお相撲さんの小錦関も負けそうな、超肥満型の人でした。パンフレットであらかじめ目星をつけておいた、ケファロニ島第一の町、アルゴストーリのムイキスホテルへ行ってもらいました。ムイキスホテルでお風呂付のあき部屋があるそうなので、下見をさせて欲しいと頼むと、今、まだお掃除がしてないので、島の観光から帰ったころにはお部屋をきれいにしておいてあげるからといって見せてくれません。荷物を預けて、同じ女性運転手さんのタクシーでケファロニア島第二の町、リクスーリへ向かいました。リクスーリは細く長い、湾を隔てたアルゴストリーの対岸に位置します。イオニア諸島では産業がないせいがどこも海水は底が見えるほど澄んできれいでした。この湾も例にもれずきれいな海水でした。対岸のリクスーリの町が手に取るように見えてきれいでした。湾の海岸に沿って、湾をぐるりとまわり、リスクーリの町までは、2時間ぐらいで到着しました。陸路に比べて、目と鼻の先にあるアルゴストーリーまではカーフェリーでだと15分ぐらいで戻れます。メンマさんのおすすめで私たちはカーフェリーでホテルのあるアルゴストーリーへ戻ることにして、リスクーリ港で運転手のメンマさんと別れました。メンマさんは私たちと別れたあと、一人でケファロニア島の中央に横たわる山を超えて、サミーの港まで、戻らなければならないそうなのです。チップを大目に弾んで、お孫さんのお土産に日本の折り紙をプレゼントしました。何よりも良かったのはメンマさんの低速度の安全運転でした。


アルゴストーリとリクスーリを隔てる湾


タクシードライバー メンマさん


カーフェリーでリクスール港からアルゴストーリーへ
リクスーリ港で、そこから対岸のアルゴストーリーに出ているカーフェリーの時間を調べました。カーフェリーは30分ごとに出ていました。カフェテリヤで飲み物を飲んで一休みしたあと、次のカーフェリーに乗って、ホテルのあるアルゴストーリーへ向かいました。ムイキスホテルのレセプションの女の人には、なんだかだまされた思いでした。入ったお部屋は古臭く、お風呂なし、シャワーつき、寝具も汚い感じでした。洗濯物がたまっていたので、洗面所の洗面台の栓はちゃんとついていたことベランダに洗濯を干すためのロープが張られていたこと、ロープには洗濯バサミが取り付けってあったことを知って すべてを許せる思いがしました。洗濯物が風に翻っているのを見るのも気持ちのいいものでした。


リクスーリの港でみたサボテン

ケファロニア島第一の町、アルゴストーリ散策
ホテルのある通りの一区画向こうの通りがアルゴストーリの繁華街でした。繁華街を端から端までゆっくり歩いても2,30分もかからないくらいの距離です。大勢の人で賑わっていました。飲食店や衣料品店が立ち並んでいました。飲食店ではテーブルが道にせり出していて、そこに座った人々は道行く人を観察したり、おしゃべりしたりして楽しんでいるようでした。私たちも人々の注目を引いているようでした。


アルゴストーリのメイン通りで、長の立ち話をする男3人


第五回ギリシャ旅行(5) レフカダ島からイタキ島

2007年11月12日 11時19分38秒 | Weblog
 2007/10/29(月)
イタキ島

レフカダ島からイタキ島へ行くカーフェリーは、早朝7時5分発です。私たちは30分前にカーフェリーに乗り込みました。日本と違って外国では、乗りものが遅れて出発する場合が多いのですが、定刻前に出発したという経験はこれまでにありません。ところが定刻まで、まだ2,3分を残した時点で船は出てしまいました。高速バスにのった際に、バスの時計が不正確なことが良くあります。ギリシャ人は日本人ほど正確な時間にこだわらない国民性のためでしょうか。でも時間ぎりぎりに港に駆けつけた人が一日一本しかない船に、間に合わなっかたらどうするのでしょうか。しばらくそのような人がいないかと、港から目がはなせませんでした。レフカダ島の南端にあるバシリキ港からイサキ島の北部にあるフリケス港までは、地図の上では、たった2キロメートルの隔たりです。どうして2時間もかかるのか不思議に思っていました。傍を通りかかった船員さんの一人に「どうして、イタキ島まで2時間もかかるのですか」ときいてみました。船員さんの答えは、まず、ケファロニアの北端のフィスカルド港までが1時間、そのあとでイタキ島フリケス港までが1時間かかるというのでした。 私たちのことをこっそり見守って、くれていた乗客の一人が、小一時間たって、ケファロニア島で降りる準備をしながら、「あなたたちはここで降りてはいけませんよ」と忠告をしてくれました。


ケファロニアのフィスカルド

イタキ島に上陸
イタキ島のフリケス港に船が着き、乗客全員が船から吐き出され、港はほんの一瞬大混雑です。客待ちタクシーも2、3台見かけましたが、私たちが乗らないようすなので行ってしまいました。港には人影がなくなってしまいました。気がつくと、私たちだけが取り残されてしまっていました。先ほど私たちが乗ってきた、船が遠ざかっていく様子をカメラにおさめたあと、港の周辺をぶらぶら歩いてみましたが、何もありません。小さな店の前で、のんびり座って退屈そうな様子の2人のうち、一人の男の人が「どこへ行くのですか」と声をかけてくれました。「明日、ケファロニア島へ行きたいのでケファロニア島へ行く船の出るヴァティ港の近くで、ホテルを探したいのですが」というと、携帯電話でタクシーを呼んでくれました。


イタキ島のフリケス港


フリケス港を遠ざかるカーフェリー

タクシーでドライブ
間もなく来たタクシーの運転手と打ち合わせをしました。ヴァティでホテルを見つけた後、島の観光スポットに、案内してもらうことにしました。はじめに運転手さんが連れて行ってくれたホテルは運転手さんの身内の人が営んでいるようで、女主人とは顔馴染みのようでした。そこは世界中を駆け巡るバックパックの若者が、何日間かそこに立ち寄ってとどまるための安い貸し部屋のようで、お風呂もなく、私たちにはそぐわないものでした。即座に断りました。次に立ち寄ったホテルで交渉をし、部屋を下見させてもらいました。シーズンオフのせいか、二つの続き部屋を両方使っても良いといわれ、お風呂もあり、気に入たので、そのホテルに決めて、続きのドライブに出発しました。運転手さんはイタキ島で一番見晴らしが良い、ペラホリという高台になった地点を勧めてくれました。そこからはイサキ島のヴァティの町と東の海岸を見下ろすことができました。オデュッセウスが20年ぶりにイサキへ連れ帰えられて置き去りにされたのはどのあたりの海岸だったのかしらとかその頃の人々の町や村の様子を想像したりしました。今度、ホメロスのイリアスやオデュッセイアを読むときはもっと面白く読めるのではと再読が楽しみになりました。


ヴァティの街の遠景


アルファ銀行のマークは、オの鏡文字
ホテルに帰って、ヴァティの街を散歩に出かけました。ギリシャではカタカナのオを左右反対のしたようなマークの建物をよく見かけます。ホテルの近くにもこのマークの建物がありました。アルファ銀行の建物でした。現金の持ち合わせが少なくなったので、持っていったユーロ立てのトラベラールチェックをこの銀行で両替してもらうことにしました。なぜヨーロッパの銀行のマークが日本語のオの字の鏡文字のなのでしょう。疑問が残りますが、少なくとも、このマークがアルファ銀行のマークだということはわかりました。パスポートの掲示を求められ、宿泊のホテル名を聞かれましたがホテル名に注意を払わないでチェックインをすませてしまっていたので、答えることができませんでした。それでも、両替に応じてもらうことができました。外国人に厳しいロシアでは、おそらく両替をしてもらえなかったでしょう。あとで確かめるとホテルの名前はメントールでした。


食事の問題
夜は海岸にあるタベルナで夕食をとりました。肝膵系に病気のある私は油っこいお料理をとることができません。ここにきて、やっとあぶら抜きのお料理を注文することができるようになった私は、心配だったギリシャでの食生活にも問題がなくなりました。「ギリシャ風サラダを頼むときは「オリーブ油は無しで願いします。(フォリース ラーディ パラカロー)」でOKです。「お酢でお願いします(メ クシーディ パパカロー)」と言うと野菜とチーズの盛り合わせたお皿と、お酢の入ったソースが運ばれてきます。イカやタコも油を使わないで焼いただけのグリルを注文することができました。わたしのお気に入りの料理の一つはギリシャ風のサンドイッチです。こんがりとしたサンドイッチの焼き加減がとても気に入っています。これもバター抜きでと注文します。食生活の上で問題があるのはむしろ夫の方です。夫の場合はむしろ嗜好上の問題で、ギリシャ料理が口に合わないそうです。食事に手をつけないで、ビールやワインばかり飲んでいる夫の健康が心配でした。タベルナではブルガリアから出稼ぎに来ている若い女性がウエイトレスでした。あたりでコオロギが鳴いていました。ジャスミンの花がかぐわしい芳香をはなって咲いていました。海風が心地よくいつまでも座っていたい気持ちでした。明日ケファロニアに向かうカーフェリーの出る桟橋を確認したあとで、ホテルに帰りました。


ブルガリアからきたウエイトレス

第五回ギリシャ旅行(4) ケルキア島からレフカダ島 

2007年11月11日 21時36分01秒 | Weblog
2007/10/28(日)
 レフカダ島
 NIDRION BEACH HOTEL 泊
 
レンタカー返却日
テッサロニキで、10月26日午前8時にレンタカーをレンタルして、テッサロニキを出発し、ギリシャ北部を横断し、イグメニッツァ港よりケルキア島のケルキア港へカーフェリーで渡り、10月27日ケルキア島北部のドライブにあて、ケルキア島で2泊した後の10月28日、ケルキア港から再びイグメニッツァに引き返し、ギリシャ北部の西海岸を南下し、レフカダ島の中心都ニドリで10月28日午後8時にレンタカーを返却する予定でした。

カーフェリーは7時に出港です。朝食無しで、ホテルを6時に出発しました。港の近くで、船員たちが朝食に立ち寄っているカフェテリアが開店しているのを見つけ、その店に入りました。ここでは珍しい存在の私たちは周りのお客の注目の的のようでした。チョコレート入りのクロアッサンとコーヒーを注文し、そそくさと食事を終えて店を出ました。「7時出発のカーフェリーの切符はどこで買いますか」「イグメニッツァ行きのカーフェリーはどの桟橋から出ますか」などと聞くたびにギリシャ人は親切に答えてくれます。中には近くまで付き添ってくれる人もいます。来た時よりも船は大型で船室は豪華でソファーのすわり心地も良かったので1時間45分のほとんどを船室で過ごしました。朝早かったのでソファーに座って、うとうとできたのは良い休養になりました。


港近くのカフェテリア



快適な船室



レフカダ島へ向かう道路は車の数も少なく、道路標示が分かりやすく書かれていたので、ほとんど道に迷うことなく、レフカダ島近くのアテネへ向かう道路との分かれ道に当たるアンフィロフィアに行きつくことができました。アンフィロフィアはにぎやかな街でした。ちょうどお昼ごろでしたので、ここで休憩し、昼食をとることにしました。道路にせり出したテーブルの一つに座ると隣のあいたテーブルにギリシャ人一家が座ってきました。お父さんとお母さんと20歳前後の二人の息子の4人家族です。お父さんは日本に関心のある人のようでした。向こうから私たちに話しかけてきました。お父さんは船員として日本に何度も来ているそうです。東京・横浜・神戸・・・といろいろな港町の名前をあげていました。息子さんたちにビールをプレゼントして、お互いの健康を願って乾杯をして別れました。


西海岸の道



アンフィロフィアであった家族 夫婦


アンフィロフィアであった家族 息子たち


レフカダ島は紀元前6世紀に船の航行ができるように、幅20メートルの運河を掘ったため本土と切り離されて島となったそうです。今でも水路として使われていますが、レフカダ島へは橋を渡って行き来します。レフカダ島の第一の都市はレフカダで、レフカダはレフカダ島へ入るとすぐのところにあります。そこから東海岸に沿って南下し、南端までの距離の中ほどにあるニドリに直行し、レンタカー会社を探しました。ニドリに入ってすぐにレンタカー会社は見つかりました。8時にはまだ十分に時間が残っている午後4時ごろでしたが、留守番の従業員は日曜日なので彼女とデートの約束がしてあったようで、私たちの到着を今か今かといらいらして待っていたようでした。私たちは返却までまだ時間が残っているので、レフカダを車で回ってきて、8時前には返しに来るといいますと、だれもいなくなるので困ると言い張るのです。ここでもテッサロニキで、午前9時出発を主張する従業員に契約どおり、8時出発を敢行させた主人の巧みな交渉術がものを言いました。従業員は近くの業者仲間の支援を依頼し、代わりに車の返却に立ち会ってくれる算段をしてくれました。

私たちは翌日のフェリーが出るレフカダ島南端のバシリキ港へのドライブを続けました。船の出港は午前7時5分だそうです。「チケット売り場の人にトイレはどこにありますか」とたずねると、近くにはないので「時間があったら、今、入ってきた船で借りるといい」というのです。船がしっかり着岸して、トイレを借りることができるまでには、まだ時間がかかりそうです。日暮れも近く、レフカダ島のもう一つの南端に古代の女流詩人サッポウが投身自殺を図った場所といわれているドゥカード岬へと先を急いでいたので、そこでトイレを借りるのはあきらめることにしました。結局、ドゥカード岬へは道を間違えて行き着けませんでした。途中でろばに乗ったおばあさんに会いました。おばあさんにお願いして写真を撮らせてもらいました。早くニドリに戻り、レンタカーを返却する前に、ホテルを探さなければなりません。シーズンオフに差し掛かり、しかも日曜日なのでどのホテルも人の気配がありません。幸いレンタカー会社の近くにホテルを見つけることができました。シャワーだけのお風呂のないホテルでしたが贅沢は言っておられません。すぐにチェックインをすませ、レンタカーの返却に急ぎました。

ホテルも決まり、レンタカーの返却も終え、一息つくことができたので、夕方のニドリの街を散策し、夕食のできるレストランを探しましたが、どの店もしまっていて、途方にくれてしまいました。朝早く出発し、長距離の移動でまともな食事をしていません。なんとしてもエネルギーの補給をしておかなければと探し続けた努力が報われて、ファーストフードと書かれた看板のある店が見つかりました。簡単な食事をすませたあと、ホテルに入りました。お風呂がないとはいえ、寝具も清潔で、シャワー室は洗面室とガラス戸で仕切られていて広々したつくりで、その上、海に面して、眺めの良い居心地のいい部屋でした。明日6時20分にタクシーを呼んでもらうことにして早く寝ることにしました。


バシリキ港のチケット売り場


ろばの乗ったおばあさん


ニドリの入り江


ホテルのベランダから

第五回ギリシャ旅行(3) イオニア諸島のケルキア島

2007年11月11日 15時01分47秒 | Weblog

ケルキア港に着くと、観光案内所を探しましたが港の近くにはないようでした。仕方なく港の近くのホテルを片っ端からあたってみることにしました。最初に見つけたアトランテックホテルで交渉してみると、空き部屋があると言うことでした。確かお風呂もあると言う返事なのでここに泊まることにしました。数階建ての大きな立派な構えのホテルにもかかわらず部屋に入ってみてお風呂がないのに驚いて、部屋の変更をレセプションに願い出ました。このホテルは全部屋シャワーのみだそうです。日暮れに部屋が取れただけでも幸運だったかと思ってあきらめることにしました。夜近くの タベルナにでかけました。数人の大学生のグループと船員風の人や地元の人が来ていました。日本人は珍しいのか頼んだ写真撮影にも笑顔で応じてくれました。行き帰りきれいに照明された、停泊する大型船を見ました。まだ動いている小型の船もありました。


遠ざかるイグメニッツァ港



イオニア海



ケルキア港近くのタベルナ



停泊中の照明された大型船 


2007/10/27(土)
 ケルキア島
 HOTEL ASTRON 泊
 
アトランテックホテルで朝食をすませたあと早朝に宿を出ました。予定のドライブ前に今夜の宿探しをしておかなけれいけません。シャワーだけのホテルはいただけないので、まず今夜のホテルを探すことにしました。先ずは、港でもらったパンフレットにAクラスのホテルの先頭に書かれてあったアストロンホテルを目指します。行く手のすぐ先にアストロンホテルがあるのに一方通行で行き着けません。仕方がないので裏通りに入り込むと建て込んだ建物に行く手を阻まれて動きが取れないで困っていました。すると一人の中年の男の人が車に同乗して案内をかって出てくれました。幾つもの路地をすりぬけ裏側の大通りに出て一方通行の反対側からホテルの正面へたどりがつくことができました。近くに奥さんが銀製の装飾品のお店を構えているのでぜひ寄って行ってコーヒーでも飲んでいくようにすすめられましたが早くドライブに出発したいので、今晩訪問することを約束して別れました。ホテルはさすがAランクだけあって部屋は立派でお風呂もあるのでほっとしました。難を言えば、お風呂の栓はあるのですが洗面台に栓がないのでお風呂の栓を使って洗面器に水をためようとすると栓の大きさが合いません。排水の穴に栓を乗せて栓が動かないようにその上に重しを乗せて水をためて小物の洗濯をしました。ギリシャではトイレやお風呂や部屋の鍵やいろんなところに何がしかの問題があるのが普通なのであえて苦情は申し出ないで、すますこととしました。夫と「今度のギリシャ旅行にはいろいろなサイズの栓を持ってきた方がよさそうね」と話し合いました。


アストロンホテルの前は一方交通




島の北部へのドライブ。
日本人には馴染みの薄いイオニア諸島も欧米人には人気の観光スポットのようです。外国人(マイク・ジェラード)の書いた翻訳の観光案内書にあったおすすめのケルキア島の北部へのドライブコース。北部の東側はパンドラクラート山の占められているので、北部の西半分の内陸部の山側と西海岸を一巡りするコースです。日本でインターネットで調べた天気予報では晴れマークの日は少なく、雷と曇りマークの日が多く、気温も15度前後だったので特に寒がりやの私は寒さ対策ばかり考えていました。ところがこの日は快晴です。まるで真夏の陽気です。夫はセーターを脱いでランニングシャツ姿になっていました。見晴らしの良いカファテリアに行き着き、お昼の休憩をとることにしました。すぐ傍の砂浜は格好の海水浴場です。10月も末だというのに海水浴を楽しんでいる人がいました。下着の上に薄いスカーフを上手にまいて、おしゃれな海水着に仕上げている若い女の人もいました。午後は海岸線をはなれて山側への道をとりました。案内書のおすすめの島内屈指の景勝地トルンベタス峠へ向かいました。山の斜面にめぐらされた自動車道ではいたるところから西海岸やイオニア海を見下ろすことができました。おだやかなに横たわる海のかなたに島影やつき出た半島が形を変えながら出たりかくれたりしていました。どこかから虫の声がきこえてきたり、たわわに咲き乱れる花々にも目を奪われました。花や自然が人一倍好きな夫はサボテンの花をみつけて、そのまえで記念撮影の注文です。ランニングシャツ姿では花に失礼ではとは私だけの感覚でしょうか。


海岸のカフェテリア



海水浴をする観光客



山道から見下ろす西海岸



日向ぼっこをする猫



花をつけたサボテンの前でランニング姿で立つ夫



険しい岩肌の山



ケルキアの友達に会いに行く
夜、今朝、アストロンホテルへの案内してくれて、今晩の再開を約束していた親切な男の人に会いに行くことにしました。住所のメモ書きをたよりに奥さんのお店をどうにか見つけることができました。お店はしまっていました。土曜日なので閉まっているお店が多いようでした。やっと探し当てたのにガッカリして、そこを後にしようとしたところへ、彼がむこうからやってくるのが見えました。再会を喜びあって握手をかわしあと、コーヒーを飲んでいくようにとすすめられましたが立ち話の後、お礼に日本のお土産の折り紙と舞妓さんの絵柄のコースターなどをあげて、日本から写真を送る約束をして別れました。


私たちの自動車に乗って案内をしてくれた人


タベルナで
土曜日のせいか、夕食のできそうな、開いているお店はほとんどありませんでした。開いている数少ないお店の一つに入りました。ウエイターは私たちを見て一目で日本人と分かったようです。人懐っこい笑顔で迎えてくれました。船越を知っているかというので、ケルキアにまで名前の知られた船越さんとはだれだろうと考えあぐねているとさすが物知りの夫です。「K1の船越?」 大アタリでした。彼とは暫しギリシャ語の会話練習で盛り上がりました。 船乗りとして日本へ行ったことがあって、東京、横浜、神戸などと日本の港町をあげる中・高年のギリシャ人にはよく出くわしますが、若い人で、しかも、私にも分からないような有名人?の名前をあげる人は少ないように思います。ぜひ船越さんには国際親善のため頑張って欲しいものです。

第五回ギリシャ旅行(2) テッサロニキからイオニア諸島へ向かう 

2007年11月11日 13時50分03秒 | Weblog

2007/10/26(金)
 ケルキア島
 HOTEL ATOLANTIS 泊

朝早くホテルを出ました。テッサロニキの街の中心部は車が多く、車は日本と反対で右側通行です。運転には自信のある夫にとっても、ここでの運転は大変です。前日の交渉で、9時出発を8時出発に確約しておいたのは幸いでした。ラッシュアワーの前に街を出ることができました。ギリシャ北部を横断し、イオニア諸島の最北のケルキア島へ渡るフェリーの発着する港のあるイグメニッツァに向かうための高速道路は建設中でほぼ3分の2は完成していますが、途中未完成部分があり、その間、わき道に出て再び本道にはいりなおさなければならないのですが、本道に戻りそこなった私たちは、わき道ばかりをイグメニッツァまで行くことになってしまいました。幸か不幸か、旅を急ぐ必要のなかった私たちにはこのことが返って、良い選択でした。イグメニッツァ港からは頻回にしかも夜遅くまでケルキアへ船が出ています。急ぐ必要はありません。高速道路を飛ばしていくよりも途中の街々に立ち寄りながら、移り変わる景色を存分に楽しむことができました。ヒンドス山脈を越える峠からはアルバニアの雪山をみることができました。所々に見える谷底の村の色鮮やかな家々のたたずまい、いくつもいくつも通り過ぎる小さな十字架をかかげる御堂、突如現れる羊の群れ、色鮮やかな木々の紅葉、数は少ないがほっと一休みできる喫茶店風の飲食店など高速道路では味わえないものでした。私たちの昼食をとった小さな飲食店には、私は“ドイツ語を話します”と書かれた看板がありました。ギリシャ語よりはドイツ語が得意な私たちは早速ドイツ語で話しました。近くに美しい湖のあるイオアンナの街に立ち寄りました。街を歩くと日本人は珍しいのか人々の視線が私たちに向けられているのを感じました。

ケルキア島の対岸の街、イグメニッツァにあるイグメニッツァ港に着いたのは4時ごろでした。港の近くでカーフェリーの乗り場を聞いて駆けつけるとすぐにあの船に乗るようにと指図され切符も買わずに乗り込みました。私たちは船員に大勢の中から見つけ出されて、船長室へ案内されました。そこで船長さん自ら、切符を売ってくれました。どうやら彼らは異国からやってきた珍客の私たちを特別に優遇して切符も無しに、今まさにで出ようとしている船に乗せてくれたようでした。おかげで、1時間45分後にはケルキア島のケルキア港に着くことができました。


私たちのレンタルした自動車 韓国製のチュンダイ



ギリシャ北部を横断する自動車道



ギリシャの北に隣接するアルバニアの雪山



道路わきにいばしば現れる御堂



突如、行く手に現れた羊の群れ



谷底の色鮮やかな家々



ギリシャの雪山



イオアンナの近くの湖

第五回ギリシャ旅行(1) テッサロニキ

2007年11月11日 10時42分58秒 | Weblog


準備
第五回目の今回は、過去4回のギリシャ旅行で行き残した、北部ギリシャとイオニア海に散らばるイオニア諸島へ行くことにしました。ツアー旅行にはほとんど組まれていない地域で観光案内書にもほとんど書かれていません。綿密な旅行計画を立て、行き帰りの飛行機のチケットと、最初の宿泊地テッサロニキでの2泊と最後の宿泊地アテネでの2泊のホテルの予約を旅行会社にとってもらいました。中5泊を予定していたイオニア諸島での宿泊は、日本での予約を旅行会社にしてもらえないので、現地でホテルを探すことにしました。テッサロニキからイオニア諸島に移動する交通手段が少ないので、テッサロニキでレンタカーを3日間借り、レフカダ島で返却することも旅行会社を通して、予約してもらっておきました。

2007/10/23(火)
名古屋(中部国際空港)/ ドバイ(ドバイ)
EMIRATES AIRLINES (エミレーツ航空)EK315 22:45 – 04:45 (10/24着)
2007/10/24(水)
ドバイ(ドバイ)/ アテネ(エレフテリオス・ヴェニゼス) 
EMIRATES AIRLINES (エミレーツ航空)EK105 09:35 – 13:30
アテネ(エレフテリオス・ヴェニゼス)/ テッサロニキ(THESSALONIKI ARPT)
OLYMPIC AIRLINES (オリンピック航空)OA169      15:40 – 16:35

旅立ち
中部名古屋空港より、エミレーツ航空で夜10時45部発のドバイ行きに乗り、ドバイで乗り継いでアテネに午後1時30部に着き、最初の目的地テッサロニキに夕方4時30分に着き、空港での手続きのあと、テッサロニキ空港からタクシーで約20分で予約してあったテッサロニキのカプシスホテルに予定通り6時ごろチェックインすることが出来ました。

 CAPSIS2泊2007/10/24(水)
テッサロニキでの一日目
カプシスホテルに決めたのは第二回目のギリシャ旅行の際、わたしたちの泊まったクレタ島の中心都市イラクレオンの中心地のあったイラクリオンの最高級ホテル、アストリア・カプシスホテルの印象がとても良かったからです。テッサロニキの街は、さすがアテネに次ぐギリシャ第二の都市だけあって、大都会の雰囲気です。私たちの宿泊したホテルは街の中心部にあって、ヨーロッパ風の立派な建物です。お風呂も総大理石造りで豪華なものでした。ただひとつ困ったことと言えば、これはクレタ島のイラクリオンのアストリア・カプシスホテルでも経験したことですがお湯の使い方がまったくわかりません。まるで飛行機の操縦席の前にある機械のようで、ひねったり押したりするつまみが10ぐらいもあって、こちらをひねるとこちらから、あちらをひねるとあちらから、思いがけない方向から水やお湯が飛び出してくるのです。全身ずぶぬれになって悪戦苦闘の後どうにか、バスタブにお湯ためることができました。夜具は快適で、長旅の疲れをとることができました。

ホテルに着いたのは夕方6時過ぎでした。ホテルで一休みし、疲れをとったあと、夕食のため街に出かけることにしました。ホテルはテッサロニキの駅の近くにあって、繁華街のそぞろ歩きにも便利な場所にありました。ホテルでギリシャ音楽を聴きながら食事をとれるタベルナ(居酒屋風の店)を教えてもらい、地図をたよりに目的の店に行き着きましたが、あいにくの定休日でした。3人のお巡りさんが、街角で立ち止まって、なにやら話し合っているのをみつけて、「日本から来たのだけど、ギリシャの音楽が好きなので、ギリシャ音楽を聞かせてくれるタベルナがこの辺にないかしら」ときくと親切に教えてくれました。「店の名前は」と聞くと「ポレス」だと答えてくれました。教えられた場所の近くで、通行人の一人に「ポレスというタベルナを知りませんか」と聞くとその人は「ホレス?」とけげんな顔をしていました。「ギリシャ音楽を聞かせてくれるタベルナです」というと「それなら、その辺にたくさんあるよ」と指を差して教えてくれました。ギリシャ語のわかる夫と私は、はっと気がついて大笑いです。「ポレス」とはギリシャ語で「たくさん」という意味だったのです。タベルナは女性名詞だから複数はポレスとなるのに気がついたわけです。つまり最初に聞いたお巡りさんは「それならたくさんあるよ」といったのを私たちは「ポレス」を店の名前だと思ってしまったのでした。

望み通りの一軒のタベルナに入りました。ほんの20人ぐらい入れるくらいの店には2人ずれの2組と8人ずれの1組と私たち2人。全部で12人でした。夫はギリシャ音楽のCDを機会あるごとに買い集めていて、50枚ぐらいもっています。二人のミュージシャンがブズーキを奏でながら次々に歌うどの歌も家で、あるいはドライブ中の車の中で聴かせてもらっているなじみのメロディーばかりです。 夫が中でもお気に入りの「フランゴシリアーニ」と「曇り空の日曜日」をリクエストすると二人のミュージシャンは快く応じてくれました。2曲が始まると地元のお客たちにも大うけでした。特に8人の中年女性のグループの人たちは手拍子を取って肩をゆすらせ、中には立ち上がって踊りだす人もいました。夫は赤ワイン。私は白ワイン。程よくワインと音楽に酔って、ギリシャの人々とも溶け合うことのできた楽しい宵でした。





タベルナで演奏する二人のミュージシャン



音楽に合わせて踊りだすお客


2007/10/25(木)
テッサロニキでの二日目
ホテルでバイキング方式の朝食をすませた後、テッサロニキ観光のための観光バスを調べるために観光案内所へ行くことにしました。街の地図みながら、途中で何度か道行く人にたずねながら、観光案内所に着いたのは11時ごろでした。テッサロニキ発の半日観光バスはないかと聞くと、観光バスは一切ないとのことでした。近くの観光名所へは路線バスがたくさん出ているからそれを利用すると良いといわれましたが時間の余裕がないので市内を散策することにしました。翌朝早く出発できるようにレンタカー会社に行って、日本でしておいた予約が間違いなく伝わっているか確認しておくことにしました。住所と地図をたよりにレンタカー会社を探し当てることができました。予約では10月25日午前8時から10月27日よる午後8時までと契約書に明記されているのに、午前9時に開店するので9時にならないとレンタルできないというのです。契約書を振りかざして一悶着の後、8時に出発の了承を得ることができました。翌日のドライブを控えていたので、夕方早くホテルに戻りました。晩御飯にいただいた日本から持っていったインスタントのお粥と缶詰が、超美味でした。



ホテルのバイキング方式の朝食



テッサロニキの街並み



テッサロニキのスーパーマーケットの前の広場



テッサロニキのメインストリーの花時計





初秋のドライブ

2007年10月19日 21時02分34秒 | Weblog

今年の夏は例年になく猛暑日が続き、10月に入っても夏が終わったのか秋が始まったのかなかなか見極めのつかない日々が続いていました。10月5日朝、快晴の青空を見極めて、ドライブを決行しました。名古屋を昼前に出発し、木曽川と長良川にはさまれた長島町にある「なばなの里」に1時間弱で到着しました。おりしも130万本のコスモスの咲き誇るコスモス祭りの真っ只中に行き合わせました。コスモス畑でコスモスの花を堪能した後、地上45メートルもの高さに上がっていく「アイランド富士」という乗り物にのりました。1時間半ほどで「なばなの里」を後にして、次の目的地、御在所へ向かいました。四日市ICから湯ノ山温泉へ行く途中の菰野町で以前に一度訪れたことのある「茶々」という自然薯料理のおいしいお店にたちよりお昼をいただきました。テレビにも出たことのある、知る人ぞ知るちょっとした地元料理の有名店だそうです。素朴な味がとてもおいしく大満足でした。御在所ロープウエイの乗り場に着いたのは3時半を過ぎていました。帰りのロープウエイの最終時間は4時なので御在所頂上での滞在時間は15分ぐらいしかありませんでしたが、1212メートルの標高からの眺望はすばらしく、ま近に見える鎌ヶ岳が、ひときわその威容を誇っていました。夕刻の帰り道近鉄の線路脇に生えていたマンジュシャゲに魅せられました。


なばなの里のコスモス畑


 
アイランド富士
高さ45メートルまで上昇し、最頂部で展望台が1回転し360度の景色を堪能できる。



御在所ロープウエイ乗り場



御在所ロープウエイ



鎌ヶ岳



マンジュシャゲ
夫の大好きな花です






5回目のギリシャ旅行を計画

2007年10月03日 10時45分50秒 | Weblog

ギリシャ旅行5回目、これまでの4回のギリシャ旅行で行き残したイオニア諸島を訪問するのが主の目的です。イオニア諸島への旅行は旅行会社のツアーには、一つも組まれていません。10月23日夜22時45分名古屋発ドバイ経由アテネ行きと11月2日アテネ発ドバイ経由名古屋行きのエミレーツ航空の往復とアテネ発テッサロニキ行きのギリシャ国内線の便、ギリシャ到着後第一日目と第二日目の宿をテッサロニキにとったほかは、現地で自由に動き回るつもりです。紀元前1世紀にシーザーとポンペウスの戦いの舞台となったドゥラキウム、今はアルバニアに属するデュレスへも足をのばしたいと思っていますが、ちょっと無理かなとも思っています。
ギリシャ滞在九泊のうち、テッサロニキ二泊、アテネ二泊、を差し引いた残りの五泊をイオニア諸島の旅に当てたいと思っています。アテネとは違って、素朴さを残した、現地の人々と下手なギリシャ語を使って、お話するのを楽しみにしています。ギリシャ旅行の顛末はラピスラズリーに書き加えるつもりです。


カッムチャッカのガイドさん

2007年09月16日 11時16分18秒 | Weblog
カムチャッカのガイド
アンナさんのこと

ガイドのアンナさんが、カムチャッカ空港で私たちを出迎えてくれました。初対面の挨拶が終わって、夫は、アンナ・クチメンコさんという名前から、「ウクライナ風の名前ですね。ウクライナの出身でしょう」といいますと、アンナさんは「よくご存知ですね」と驚いた様子でした。その後、大いに、話が弾みました。以前、カムチャッカは僻地のため給料もよく、ウクライナよりも早く年金生活が保障されるという特点があったため、両親は移住を決意して移り住んだそうです。4歳の女の子は、毎夏、親類のいるウクライナへ行かせて、おばさんの世話になっているそうです。娘さんも黒海で海水浴が出来るので、ウクライナは大好きだそうです。ご主人は船員さんで遠方へ航海中で留守なので、この時期、独り身のアンナさんは仕事に打ち込めるのでありがたいそうです。学生時代一年間、山口県の大学に留学していたそうです。勉強家でカムチャッカの歴史、地理、動物、植物、鉱物のことに精通していて、最高級のガイドさんだと思いました。普段は経理の仕事をしていて夏の間は、休暇を取ってガイドの仕事をしているそうです。「休暇の間も休まないで、お仕事では大変ですね」というと、「この仕事は旅行者の人たちと一緒に、カムチャッカのあちこちを旅行が出来て楽しいので、お休みがなくても大丈夫」だそうです。私たちの次には、寝袋をもって、モスクワのお金持ちの9人の釣り客をつれて、ヘリコプターで宿泊施設のない奥地の川辺へ行き、3泊4日のキャンプ生活しながら釣りをするする企画のツアーの案内をするそうです。今度のモスクワ人のグループの人たちは、熊に襲われた場合の対策を、すごく心配して、うるさく質問してくるので旅行に先立っての説明が大変だったそうです。以前にも同じようなツアーで日本人の釣り客を案内したときに、実際に熊に出会ったそうです。そのときの日本人のグループの人たちの反応は、怖がるどころか、喜んで熊の写真を撮っていたそうです。アンナさんは両方のグループの違いを面白おかしく話してくれました。そんなわけで、同行の男のガイドさんは熊に襲われたときの緊急用に猟銃を持参するそうです。


ガイドのアンナさんとドライバーのアンドレイさん



下の、2枚の写真は、アンナさんによる、ご自慢の写真です。旅行中に迎えた私の誕生日にアンナさんから贈られたものです。写真の腕もさることながら、カムチャッカ中を頻繁に旅行しているアンナさんだからこそ、こんなシャッターチャンスにも恵まれたのでしょう。



小熊(アンナさん撮影)



川を渡る鹿の母子(アンナさん撮影)

カムチャッカを後にして

2007年09月12日 22時49分52秒 | Weblog
カムチャッカを後にして、ウラジオストクへ
いよいよ明日は日本へ

9月8日(土)
ペテロパブロフスクカムチャツキー 発 9:50
ウラジオストク 着 11:00

ウラジオストク市内観光
ウラジオストク空港で迎えてくれたのは現地ガイドのナターシャさんとドライバーのミーシャさんでした。ホテルに行く前にウラジオストクの市内観光の案内をしてもらいました。ウラジオストクは極東最大の町で、人口も60万以上と多く、シベリア鉄道の始発駅もあり、ウラジオストク空港、ウラジオストク港も市内にあって、国の内外の交通の拠点ともなっています。日本に近いにもかかわらず、日本との関係は、カムチャッカの方が強いように思いました。進出している企業も多くないようでした。ウラジオストクではレンタルした携帯電話も電話としての機能だけで、Iモードの接続は出来ませんでした。カムチャッカでは携帯電話のIモード接続を使って見ていた、日本のニュースもウラジオストクでは見ることが出来ませんでした。カムチャッカでは出来た、携帯電話でE-mailも送ることも出来ませんでした。日本からの情報は皆無でしたので、台風のニュースも大相撲が始まっていることも、プロ野球の順位が入れかわっていることも、日本へ帰ってはじめて知りました。ギリシャやドイツ、モスクワでは日本を身近に感じながら旅行が出来たのに比べると、飛行機でたった1時間で着くウラジオストクをより遠く感じたました。


ウラジオストク駅 シベリア鉄道始発駅のプラットホーム


ウラジオストク駅に隣接したウラジオストク港


ウラジオストク港につながる金角湾
(イスタンブールの金角湾によくにています)


坂道の多い町 ウラジオストク 
ウラジオストクは坂道の多い町です。大回りの自動車道を避けて、下の写真にある、短い距離のケーブルカーを学生たちが良く利用するそうです。急勾配の起伏の多い自動車道では冬の雪道でなくても、自転車、モーターバイク、車椅子などは不向きなようです。道行くお年寄りの姿もあまり見かけないようです。ガイドのナターシャさんの説明ではお年よりは郊外の別荘、ダーチャに住んでいる人が多いそうです。またウラジオストクには大学が多くて14もあるのに、卒業したらチャンスを求めて、モスクワに行ってしまう若者が多いのはどこでも同じでしょうか。ギリシャでもアテネに出る若者が多いことが、問題になっているようです。日本でも都会へ出る若い女性が多く、田舎に残ろうとする若者のお嫁さんのなり手がないのが深刻なようですからね。


正面の建物はケーブルカーの駅

週末にめぐり合わせて
ウラジオストクの市内観光の後、ヴェルサイユホテルにチェックインしました。今日は土曜日で結婚式があるので、ホテルのレストランは一般客は入れてもらえないと知らされました。もうロシア料理にも飽きたので、24時間開いているスーパーでパンと果物と飲み物で夕食を済ませることにしました。夕食のための買い物をした後、ホテルへの帰り道、私たちと同じヴェルサイユホテルを目指して足早にホテルに向かう日本人の一行が、私たちを追い抜いて行きました。ホテルに入るとその人たちがレセプションの人たちと通訳を通して話をしていました。せっかくヴェルサイユホテルのレストランで夕食をとることを楽しみにしていたのに結婚式のために、ことわられて途方にくれているところでした。今日は、町のいたるところで結婚式を見かけました。日本のように特別の日(大安や友引)だからではなく、週末にはいつでも結婚式が多いそうです。そう言えば、昨日も金曜日の夜だったので、結婚式に邪魔されてしまっていたこと思い出しました。アンナさんとのお別れにアンナさんとアンナさんのお友達を夕食に招待したのです。パラトゥンカホテルで一番良い「星の空」というレストランで、お別れの宴を持つつもりでした。ところが前日に予約をしてあったのに、結婚式が入ったので「星の空」には入れてもらえないというのです。しかたなく殺風景なホテルのバーで夕食をとるはめになりました。「星の空」は丸い天井に、夜空の星をちりばめたようなイージに仕上げ、カーテンや壁もブルーを基調にした、豪華な雰囲気の漂ったロマンチックな空間を作り出しているレストランなので、素敵な夕べを演出できると期待していただけにガッカリさせられたことを思い出しました。夜は夜中の1時か2時ごろまでドンちゃん騒ぎが続いて眠れない夜を過ごしたことも思い出されました。泣く子と地頭には勝てぬの諺通り、結婚式が相手では、黙って引き下がるより仕方がないようです。一年後には離婚するカップルは50%だそうなのにですよ。


ウラジオストク/ヴェルサイユホテル


9月9日(日)
ウラジオストク 発 14:50
新潟 着 14:20

最後の買い物のため街に出る
午前中、時間があったので、夫の大好きなロシアの有名な詩人の詩を歌にしたものやロマンスのCDを音楽の店で求めました。問題はCDのケースに歌の歌詞が入ってないことでした。歌詞の書いた本を探すことにしました。店員さんに聞くと、女の店員さんが雨の降っている中を傘もささずに近くまで連れて行ってくれました。その店で、目的の本を手に入れることが出来た夫は大満足のようでした。

ダスビダニア、ロシア
午後、出発の飛行機に乗る予定の私たちを、空港まで送ってくれた現地ガイドのピタリ君は韓国人でした。私たちとそっくりな顔立ちで、親しみがもてました。昨日のナターシャさんと同じ大学で日本語を学んだそうです。ナターシャさんは学生時代、函館に10日ぐらいホームステイをしただけだそうですし、ピタリくんは日本へ行ったことがないというのに二人とも日本語が達者なのには感心しました。大学の日本語教育が良いのでしょうか。私たちがチェックイン、セキュリティチェック、出国審査を無事通過できるか、柵の向こうから見守ってくれているピタリ君を見つけて、指で丸を作って、OKのサインを出すと人懐っこい笑顔を返してくれました。


新潟から名古屋へ
新潟 発 19:50
名古屋 (小牧)着 20:10
新潟空港からスーツケースを自宅に送る手続きを終えたあと、待ち時間が十分にあったのでタクシーで新潟駅方面に出て、お寿司を食べることにしました。時間が早いのであいているお寿司屋さんが少ないのではとタクシーの運転手さんが携帯電話で、開いているお寿司屋さんを探してくれました。運よく、駅前のお寿司屋さんが開いていたので久しぶりにおいしいお寿司をいただきました。






ウラジオストクとカムチャッカ 7日間の旅

2007年09月12日 19時53分40秒 | Weblog
夫と私にとって、前回は始めてのロシア旅行でしたので、「心ゆく旅」(黄金の輪、ロシア世界遺産の古都とモスクワ、サンクトペテルブルグ 10日間)(7月27日~8月6日) と銘打ったルックJTBの企画旅行に参加しました。モスクワ、スズダリ、サンクトペテルブルグとロシアの最も文化水準の高い都市でしたのでロシアの文化遺産の豪華さには、驚くばかりでした。面倒な手続きも旅行会社まかせでしたので、気楽な旅でした。老い先短い私たちには、旅を急ぐ理由がありました。これまで長い年月、勉強してきたロシア語も活用編に突入した今、今度はカムチャッカに行こうと思いつたのです。私たちを道中ずっと案内してくれていたガイドさんが旅行の1週間後にカムチャッカに行くことを知って、その旅行中に、私たちも連れて行って欲しいと頼み込んでみました。ガイドさんは旅行中にもかかわらず、旅行先から、ファックスで会社と連絡を取って、申し込みが可能かどうか問い合わせてくれました。ガイドさんの親身の努力にもかかわらず、その旅行は定員に達したので締め切られたということでしたので、あきらめざるを得ませんでした。各旅行会社のロシア旅行プランが軒並みに定員不足で催行取り消しだったので、少し意外でした。

帰国後、何度かお世話になったことのある名古支店の旅行会社のスタッフの方にカムチャッカ行きの企画はないか調べてもらいましたが、適当なものは見つかりませんでした。インターネットでロシア旅行の計画を相談してもらえる会社を探し出して、何度もメールのやり取りをして、カムチャッカ旅行の計画を完成させました。ロシアは他のヨーロッパ諸国とちがってビザが必要です。ビザ取得のために往復の飛行機便の確約、現地の受け入れ先の確約がなければなりません。旅行中勝手に宿泊地を変えたりすることは許されません。旅行日数も申請した通りでなければならないのです。ホテルや空港で、宿泊バウチャー、パスポート、ビザ、外国人滞在登録、出入国記録カードといろいろな証明書の提示が求められます。それを聞きなれないロシア語で請求されるとパニックになってしまいます。パック旅行のありがたさが分かります。

準備
はじめてロシアトラベルビュローと連絡を取ったのが8月12日(日)ですから、計画から出発まで3週間でした。カムチャッカ旅行の計画を完成させるために、メールのやり取りを送信17回、受信15回、直接電話で2度3度、相談しました。航空券とビザが手元に届いたのは8月30日(木)、出発のわずか4日前でした。翌日、8月31日(金)携帯電話のレンタルをし、スーツケースを宅配便で関空へ送り、ドルの準備をした段階で、やっと準備完了です。

ロシアは広大な国
カムチャッカはロシアの僻地です。ロシアは大きいだけにいろいろな面で格差があります。その内の一つが地域の格差です。ロシアは広大な地域で同じ国の中で、時差が9時間もあります。夏時間では、日本からカムチャッカへ行くときには時計の針を4時間進める必要がありますが、モスクワやサンクトペテルブルグへ飛ぶと反対に6時間遅らせなければならないのです。同じ国の中でこんなに時間差があっては不便ではないか思わずにはいられませんが、長い間の習慣でうまく対処がなされているようです。たとえばウラジバストークからモスクワまで8日間かかるシベリア鉄道の時刻表は、途中のすべての駅でモスクワ時間で表示がされているそうです。今回のカムチャッカ旅行でも乗り継ぎのウラジオストクで2時間進め(日本より西にあるウラジオストクで2時間進めるのはおかしな感じですが・・・)、カムチャッカでまた2時間進めることが必要でした。時差と同じく文化水準にも大きな違いがありました。まだ道路は悪路が多かったり、観光地にもトイレがなかったり、廃棄物の処理施設が不十分だったり、住民の生活水準が低かったり問題は山積だそうです。

通貨
日本では、円やドルをロシアのルーブルに両替できないのです。ルーブルを持ち出すことも持ち込むことも出来ないのです。私たちは現地で両替がしやすいということでドルを用意しました。ドルと円とルーブルの換算をしながら支払いをしなければならず、老化現象著しい私たち老人には大変です。これにはシャープの小型の通貨換算の項目のついた電子辞書が大変便利でした。


プーチン人気
それでもプーチン大統領はカムチャッカでも人気があるようでした。私たちの旅行が、プーチン大統領がカムチャッカを訪問する日に重なり、いつもにまして警戒態勢が取られていたようでした。3年前にもプーチン大統領はカムチャッカを訪問したそうです。そのときにはプーチン大統領の視察の経路の道路がよくなったそうです。私たちをカムチャッカで案内してくれたガイドさんはプーチンは賢いから国政は安心してプーチンに任せられるといっていました。広い国土をくまなく視察しているのでしょうか。国民のために、国家のために努力している姿が受け入れられているようです。今度、2012年にソチで冬のオリンピックの開催地に選ばれたため、ウラジオストクではプーチンのプランを支持しようと書かれた大きな看板が掲げられていました。




2012の冬のオリンピックがソチに決まったことを受けて
ヴラジバストクの町に掲げられた看板

9月3日(月)
大阪(関空)発 13:20
ウラジオストク 着 17:20

出発の日
9月3日(月)の出発の日を迎えました。名古屋在住の私たちは、新幹線とJR特急はるかに乗り継いで関空に出発の約2時間前に到着しました。空港に着くとすぐに宅配便のサービスカウンターへ行き3日前に配送を依頼しておいたスーツケースを受け取り、エックス線検査を受け、チェックイン、手荷物検査、出国審査、搭乗待合室、搭乗ゲートと進みました。

ウラジオストクに到着
飛行機はほぼ定刻に出発しました。約二時間の飛行時間で2時間時差を修正し(2時間進める)、ウラジオストクに着いたのが夕方5時半ごろで、すでに空港内の銀行は閉店していました。ドルをルーブルに両替できないまま、ホテルにチェックインしました。ホテルの宿泊費は日本で支払ってありましたが、夕食は別払いです。ホテルの受付嬢はルーブルで支払わなければだめだといいます。一ルーブルの持ち合わせもなく困ってしまいましたが、幸いクレッジトカードが使えたので夕食にありつけました。

ウラジオストク空港ホテル/ヴェニスホテル泊
           

9月4日(火)
ウラジオストク 発 10:30
ペテロパブロフスクカムチャツキー 着 15:35

カムチャッカに向かう
ドルをルーブルに両替するために、ウラジオストクの国内線ターミーナルに、朝、早めに向かいました。警備をしている警察官に両替所はどこにあるのか聞いたところ、親切に案内してくれるそうなので、ついていくと白タクの運転手のところでした。ほかに両替するところがなさそうだし、警察官の紹介だから、その人に両替を頼みました。お金が手に入って人心地がつき安心しました。ペテロパブロフスクカムチャツキー行きのチェックインカウンターを教えてくれたのも先ほどのお巡りさんでした。私たちは良い鴨だったのかと変な気持ちでした。ロシアにルーブルが持ち込めないのだったら24時間対応できる両替所を設けるべきではないでしょうか。ペテロパブロフスクカムチャツキー行きの飛行機は50人乗り程度の小型飛行機で数人の日本人のほかはほとんどがカムチャッカ人のようでした。座席は満席には程遠く、空席が目立ちました。関空からの同行者が多く、日本でたくさんの買い物をしてきた人が多くいました。スーパーで買ったようなティシュペーパーを大量に透明なビニール袋に入れたものや電気製品のダンボール箱を機内預けにしている人を多くみかけました。飛行機は、ほぼ定刻に出発し、順調に飛行し、ペテロパブロフスクカムチャツキーに近付いて、きれいな富士山のような形の山、まず、ビュルチンスキー火山が、ついでアバチャ湾の向こうにコリャック火山が視界に入ってきました。山頂は雪に覆われていました。後で聞いたところによると、山頂には、3日前に新しい雪が降ったそうでした。到着ロビーを出ると出口のところで現地のガイドさんが「MR/MS KATO」のボードを持って待っていました。荷物の引換券を引き取って、ドライバーのアンドレーさんが荷物を受け取りに行ってくれました。ガイドのアンナさんは、明るい、気のよさそう人で、カムチャッカ滞在中、同じガイドさんとドライバーさんが同行してくれる約束です。二人にホテルまで連れて行ってもらい、ホテルのチェックインを手伝ってもらいました。ホテルでアンナさんにおすすめの散歩道の略図を書いてもらい、明日のスケジュールの約束をして、わかれました。ちょっと休んでから散歩に出かけることにして、しばらくベットに横になりました。カムチャッカでは、夜9時ごろでも明るいのです。ガイドさんの略図を頼りにアヴァチャ湾とレーニン広場と湖が、隣り合った場所に向かいました。道々、野犬がうろうろしていましたが、ガイドさんから、カムチャッカには狂犬病が発生しないと聞いていたので、多少は安心でした。


コリャック火山(飛行機から)



コリャック火山(飛行場から)



アヴァチャ湾の向こうに見えるビュルチンスキー火山



レーニン広場でローラースケートをする女の子



夜の散歩道 午後9時ごろ

ペテロパブロフスクカムチャツキー/アヴァチャホテル泊


9月5日(水)

ハイキング
ガイドさんの案内で、太平洋の海岸でフラワーウォチングと、海岸近くの森で、きのこ狩りをしました。ガイドのアンナさんは、動植物に関する知識の豊かな人。ドライバーのアンドレーさんは、きのこ狩りの名人。二人の案内で、楽しいハイキングを楽しむことが出来ました。お昼はお弁当を用意してくれていました。



クーラーボックスから取り出してお弁当の用意



蟻塚


ムハモール(ムハはハエ モールは死ぬで ハエが死ぬの意味)
 和名ベニテングダケ (毒キノコ)


パドアシーナビック(ヤマナラシの下の意味) 食用きのこ


太平洋の荒波 右上にかもめが羽を休める小島



太平洋の海岸の黒い砂浜
感触の良い、やわらかい砂だが今のところ利用価値がないそうです。

ペテロパブロフスクカムチャツキー/アヴァチャホテル泊


9月6日(木)

ペテロパブロフスクカムチャツキー観光
この日の午前中のスケジュールはアンドレーさんの運転とアンナさんの案内で、ペテロパブロフスクカムチャツキーの市内観光、礼拝堂見学、自由市場で買い物、スーパーマーケットで買い物、展望ポイントからアバチャ湾付近を見ること、郷土史博物館への入場です。何よりの収穫は、スーパーマーケットで、ATMを見つけたことです。ルーブル立ての金欠症にあえいでいた私たちは、キャッシュカードでルーブルを引き出すことができて、ほっとしました。お土産やら食べ物やらと、久しぶりに豪勢に買物をすることができました。礼拝堂では住民の60パーセントがロシア正教だということです。礼拝堂では、ロシア正教信者のアンナさんのまねをして、親指、人差し指、中指の先を物をつかむときのように合わせた右手の3本の指で、額、お腹、右肩、左肩の順にあてるロシア正教式の十字を切ってお祈りをしました。ロシア正教信者のイタリア人の友人のお土産に、礼拝堂の中の売店でイコンを買いました。


自由市場



自由市場の店先



ATMが設置されていたスーパーマーケット 



郷土史博物館の展示物



展望ポイントからの町の展望


ダーチャ訪問
午後はダーチャの訪問でした。ロシアではダーチャ(個人が郊外にもつセカンドハウス)をもっている人が一般的だそうです。私たちの訪問したダーチャの持ち主も都会のアパートのほかに、ご主人が建てたダーチャがあり、ご主人は自分の建てたダーチャが気に入って、寒い冬もダーチャに入りびたり、奥さんは雪のない季節だけ、ダーチャに住んで、庭に野菜や花を栽培し、雪の多い冬は都会のアパートに住んでいるそうです。ご主人の建てたダーチャも立派でしたが、奥さんの菜園や果樹園もよく手いれされていて感心させられました。私たちを、とりたての自家製の果物や野菜で作った、すばらしいお料理でもてなしてくれました。3匹の飼い犬が、空き地をかけずりまわって、じゃれあっていました。


ダーチャ ご主人が建てたセカンドハウス



ダーチャ 奥さんが作った菜園、家の横にはご主人の手作りの温室も


パラトゥンカ/ベルカムトゥールホテル泊

9月7日(金)

パルトゥンカ温泉
一日自由行動。パルトゥンカ温泉に宿を取る。パルトゥンカ温泉郷はペトロパブロスクカムチャツキーのアヴァチャ湾を隔てた反対側にあります。ペトロパブロスクカムチャツキーから車で30~40分の距離にあって、日帰りで温泉に入って帰ることの出来る距離です。医者の診断書がないと入れない医療施設を併せ持つものも多くあるようです。私たちの泊まったホテルの敷地内にもスプートニクという名前の加療・療養施設がありました。温泉はお風呂の温度程度のプールで水着を着けて入ります。


ベル カム トゥールホテル



ホテルへ向かう道



ホテル近くの高台から、ビュルチンスキー火山を撮る。手前の教会の金色の丸屋根が日を浴びてきれいでした。



ベルカムトゥールホテル近くの農家

おばあさんとロシア語で会話
ホテルのそばで、おばあさんが木苺を摘んでいました。話しかけると喜んで話し相手になってくれました。77歳で、画家だそうです。今日は、漁師の息子が運転するトヨタの車に乗って、パラトゥンカ温泉に日帰りで入浴に来たそうです。何十年も昔、汽船に乗って新潟港から、21日間も日本に旅行をしたことがあるそうです。東京にも行ったそうです。摘んだ木苺を全部あげるというので、ありがたくいただきました。お返しに日本のおせんべいやら秋刀魚の缶詰やらをもらってもらいました。おばあさんとの草むらでの長話のおかげで、しかもズボンでなくスカート姿で足が無防備だったせいで、私の足はまるで赤い水玉模様のように虫刺されのあとを作ってしまいました。2,3日はかゆくて、かゆくて夜も眠れませんでした。今も、記念の茶色に色あせた水玉模様がくっきりと膝頭から下の下腿部に残っています。これが消えるのに大分時間がかかりそうです。虫には注意するようにカムチャッカを訪れたことのある日本のJTBのガイドさんからも忠告をもらっていたのですが、夏も終わりがけの涼しいこの時期には大丈夫だらろうと、たかをくくっていたのは大間違いでした。ホテルの部屋には日本製の渦巻き型の蚊取り線香が置いてあったのも一興でした。


長話をしたおばあさん画家。

パラトゥンカ/ベルカムトゥールホテル泊



9月8日(土)
ペテロパブロフスクカムチャツキー 発 9:50
ウラジオストク 着 11:00

カムチャッカを後にしてウラジオストクに向かう
ガイドのアリョウシャさんは10年前釧路の大学へ、一年留学の経験者で日本語を日本人と同じように操れる人でした。朝早く空港へ送ってくれて、荷物の運搬を手伝ってくれました。道中、朝7時ごろの朝焼けのコリャック火山を写真に撮るために何度か車を止めてもらいました。


朝焼けのコリャック火山



コリャック火山の右に続くのはアヴァチャ火山



ペテロパブロフスクカムチャツキ空港からみたコリャック火山



ロシア旅行

2007年08月15日 11時12分02秒 | Weblog







1 モスクワ河の橋の上にたてられた奇妙な飾りものは、結婚したカップルが永遠に結ばれるように鍵をかけて誓いの言葉と共につりさげたものだそうですが10組に5組は一年後には離婚しているそうです。(07.7.29)







2 赤の広場の象徴ともいえるカラフルな聖ワシーリー寺院 (07.7.29)







3 セルゲイエフポサードの特産、「マトリョーシュカ人形」の工房で絵付け体験
小さいほうは私の作品です。大きいほうはお手本です。(07.7.31)






4 サンクトペテルブルグ郊外のペテルドバレツにあるピヨトル大帝夏の宮殿の入り口で「荒城の月」を奏でて迎える楽隊に気をよくした日本人観光客は赤いボールのような入れ物にお礼のお金を入れていました。(07.8.4)





5 サンクトペテルブルグのホテルの前で、居酒屋「ヨールキ パルキ」の看板ををみつけました。ロシア語でヨールキはもみの木、パルキは杖を意味し、二つあわせて「しまった」「やちゃった」の意味でよく使われるそうです。ロシア語の読める私たちはうれしくなって中へ入って、ちょっといっぱい、おやすみ前のお酒をいただきました。(07.8.3)








6 ナナカマドの木は日本で見るものよりもずっと大きな木でたくさん見られました。ナナカマドのリキュールをお土産に買いました。(07.7.31)   









流氷

2007年07月25日 10時16分20秒 | Weblog
これまでは冬の北海道の寒さにしり込みしていた夫と私は、思い切って極寒の北海道を体験することにしました。零下19度も思っていたほど耐え難いものではありませんでした。紋別港よりガリンコ号に乗ってオホーツク海の流氷を見学しました。耳をつんざくような音をたてて大きな氷を砕きながら航行する流氷船の乗ってオホーツク海の流氷群の真ん中に出ました。




1紋別港で出帆を待つガリンコ号 (07.2.20)






2オホーツク海の流氷群 (07.2.20)





3ガリンコ号流氷群に到着 (07.2.20)





4こんな巨大な氷塊を砕きながらの航行 (07.2.20)


ドイツ旅行2

2007年07月23日 10時54分29秒 | Weblog
ドイツの地下鉄の情景

ドイツの地下鉄では犬も自転車も伴ったまま、人は車両に乗り込むことが出来ます。一般にドイツ人は大柄ですべてが大きくゆったりとした作りに出来ていて、車両もプラットホームも日本に比べると大きいです。地下鉄で見たこんな情景は、ごく当たり前のようです。


 

1プラットホームに備えられた乗車券の自動販売機(07.6.2)






2自転車ごとプラットホームで立ち話をしている人 (07.6.2)









3犬を連れてプラットホームに座り込んで電車を待つ若者 (07.6.2)








4自転車ごと車両に乗り込んだ人 (07.6.2)






犬や自転車の切符は別料金なのかどうかは知りません。


      

ドイツ旅行1

2007年07月22日 10時59分48秒 | Weblog
サッカー全国大会優勝に沸くニュールンベルグ

ニュールンベルニュールンベルグ空港でのことです。ドイツ人の歓声が、突然、そこここで沸き起こりました。ニュールンベルグがドイツ全国大会で優勝のニュースの一報が入ったのです。普段はしかめっ面のドイツ人が小躍りする様子に私たちよそ者はびっくりです。その後はニュールンベルグの町中がハチャメチャのお祭り騒ぎです。ニュールンベルグサッカーチーム優勝記念のTシャツを着た夫は、あちこちから声をかけられ、人気者でした。(07.5.27)











ニュールンベルグ優勝グッズに群がる若者たち