猫と山歩きと本とお城

私の好きなもの...猫と山歩きと読書とお城。あと、ボーッとする事。

      

秋祭りの話し合い

2015年08月05日 | お城倶楽部
  市民センター秋祭り

ワッショイ♪ワッショイ♪...と浮かれている場合ではありません。

今日の座学は『お城クラブ』は何を発表するかの話し合いがありました。市民センターで開催中の会やクラブの数は多く、割り当てられるスペースは長机ひとつとパネル1枚だけです。この限られたスペースで何をどのようにアピールするか...あと五名、会員の増強を望んでる、わがお城クラブの先生は私達会員以上に張り切ってますq(^-^q)q(^-^q)

昨年度に登城したお城をマークした地図がもう出来てました。これをどのように使用するのかと言うと、パネルの中心に貼り、回りに登城時の集合写真と城の説明文を貼り、押しピンと色分けした糸を使い、地図と写真を結ぶのです。

『お城クラブ 活動計画』を手に取ってもらう為にキャッチコピーのポップを作り、日本5大天守閣の写真を貼ることになりました。

 他には・・( -_・)? 考え中~

お城倶楽部

2015年07月21日 | お城倶楽部

今日は、お城倶楽部の座学の日。松本城を学びました。松本城といえば、3年前、山の会で涸沢の帰りに寄りました。





当時は、お城倶楽部に入ってませんでしたからあまり興味がなくて、正直印象が残ってません。勿体無いことしたんだなぁと思ってます。

10月は、お城倶楽部がある市民センターの秋祭りです。各クラブや部会は昨年1年間の活動を展示・発表しなくてはいけません。お城倶楽部として展示・発表の話し合いをしました。
『1年間の座学の内容と登城時の集合写真をパネルに張りましょう』に決まりました。

ほんとはね。山城のジオラマを造って展示しょうと案が出て、私は『やったねp(^-^)q』と嬉しかったのですが、今からでは時間もなくて簡単には造れないから、無理だと却下。
山城のジオラマ造りは、面白そうだから・・・来年の祭りに出す予定にして少しずつ造ろうと有志で決めました。

今日も雨が降ったり止んだり。


お城クラブで萩城跡へ

2015年06月14日 | お城倶楽部

6月2日、お城クラブで津和野城と
萩城へ行って参りました。

萩城(国指定史跡)
所 在 地 萩市大字堀内字旧城
指定月日 昭和26年6月9日

関ヶ原の合戦の敗戦で、西軍の総大将
であった毛利輝元は、長門、周防2国
に移封されました。
輝元は1604年(慶長9年)日本海に面し
た長門国の萩に築城を開始し山麓には
本丸が築かれたことから指月城とも呼
ばれます。

城郭の構造は指月山麓の平城の部分と
山城の部分を合わせた平山城の形式で
山麓には、本丸、二の丸、三の丸を
備えていました。

本丸は東西百十間、南北八十間、その
南北には内堀を掘りめぐらし、高さ六
間の石垣を築いて五層の天守閣がそび
え、内部には藩主の居館や政庁などが
立ち並んでいました。

内堀に接してその外に二の丸が城下町
と外堀を隔てて造られてました。
城跡は指月公園となり、壮大な本丸の
石垣や天守閣跡が往時を偲ばせます。

バスに揺られて、萩城に到着。
橋を渡った奥の料金所で入城料を
支払います。


橋から堀を覗いたら...
 凄い数の鯉と亀が、餌をくれくれと
 集まってきました。びっくり(@_@)
 黒いのが、亀です。


大きくて立派な石です。


ガンギです。1段の高さが広く、上り
辛いです。ここを約100キロある甲
冑を着て上ったらしい。
   恐ろしいほどの体力




天守閣跡です。






大きくて四角い礎石です。頑丈な
天守閣を造れますね。

   萩城跡周囲Map




(1)天守閣
本丸の南西にあたる位置に高さ14.4m
下層は東西19.8m南北16.2mの五層の
天守閣がありました。最上階は高欄を
巡らした桃山初期の形式を示す白亜の
もので、初層が石垣の外に張り出した

俯射装置として利用出来るようになっ
てました。


(2)花江茶亭(自在庵)
もと藩主 毛利 敬親の別宅にあった茶室
を明治20年頃移築したものです。
幕末の頃、敬親が茶事にこと寄せて家臣と

共に国事の密議を凝らした場所で
有名です。この場所は藩主居館の奥書
院にあたり、庭石、池、築山は当時の
ままです。


(3)
万歳橋
万歳橋嘉永2年(1849)に現在の江向の
地に建てられた藩校明倫館にあったも
のです。

(4)東園跡
城内藩主遊息の庭園であった。二代藩
主 綱広は園円に稲田を設け自ら耕した
という。現在のものは、大正14年に
復元修理したもので風趣に富む。


(5)銃眼土塀
二の丸は東西153間、南北58間で
その間に13の矢倉、井戸34ケ所、
蔵元役所などがありました。東門から
潮入門に至る土塁に城壁が続いており
ましたが、この土塀は昭和40年春、
一部復元したものです。


指月山に登ります。

     指月山


 指月山は日本海中の独立山で、本土
との間にできた砂嘴によって繋がれた
陸繋島です。山体は花崗石で出来てい
て海抜143m。防長二州に封じられ
た毛利氏はこの山を埋め立てて築城し
1608年(慶長13年)に完成しまし
たが、この時から約260年間に渡る
藩政時代を通じて、その森林は城内林
として保護され、そのまま維持され、
今日に至っています。

そのため山体を覆う森林は、よくその
姿をとどめ温暖帯照葉樹林として日本
でもまれに見る成熟した森林です。
これらの樹林は周囲6.4mもあるクス
ノキを始め、シイ、ツバキ、イスノキ
等の常緑広葉樹に多少の落葉樹が混生
してます。その他、サザンカの群生が

見られその自生北限地となってます。

指月山は国の天然記念物に指定されてます




結構な急登です。






さぁ~矢倉門に着きました。




今も残る土塀です。


ノミの跡が残ってます。

    萩城要害跡


 ここ指月山の山頂(標高143m)は
要害または詰丸と呼ばれ戦時に籠城す
るための、まさに最後の砦であった。
要害は周囲を石垣と土塀でとり囲み
要所には矢倉を配置していた。

平時には眺望の利く大小様々な矢倉か
ら陸地と海上を監視した。矢倉内には
緊急時に備え武器類も配備されていた
ようである。

矢倉門である要害門矢倉を抜けると、

二の丸が広がる。建物は現存しないが
二の丸には監視役の執務場所である要
害番所と宿所の居小屋が存在した。

萩城要害跡


さらに一段高くなった東側には本丸が
あった。本丸には天守が存在したと言
う記録はないが、藩主が要害登山時に
儀礼空間や酒肴の場として用いた茶屋
が建っていた。二の丸と本丸との間は
土塀で仕切られ、両者は棟門で連絡し
ていた。


また、本丸の東端には裏門となる埋門
があった。なお、鬼門の方角にあたる
北国矢倉の石垣は北東隅を欠いた石積
みとなっており、興味深い。この他に
も飲料や消火用の貯水施設であった用
水や池、石垣石要害の機能や築城過程
の一端を伺い知ることが出来る。










時打矢倉跡




萩城跡を巡り、記念写真を1枚。


日本海へ続く掘です。


北の総門へ行きます。

    北の総門


 萩城三の丸の東側に当たる出入口。
この門は他の門の北に位置して北の
総門と称し萩城外堀を隔てて城下町に
隣接した門番所があって暮れの六ツ時
から明け六ツ時まで門を閉め、夜中は
人も荷も手形を有する者に限り通行が
許された。








船着き場


土橋土塀


土塁






日帰りで、津和野城跡と萩城跡に登城
しました。1度で全てを巡れなかった
と思います。また、いつか、行きたい
です。

北九州への帰路の途中から、雨が降り
始めました。北九州に着いたら凄い雨
です。お城を巡っている間はお天気で
したから、良しとしましょう。


お城クラブで津和野城へ

2015年06月07日 | お城倶楽部
6月2日、お城クラブで津和野城と
 萩城に行って参りました🏯

午前8時出発💨
 先ずは、津和野に向けてバスは
 高速道路をひた走ります🚌


弁当を求めて🍱


しかし...弁当類がない💦💦
 道の駅なのに😰仕方ない。コンビニ
 を探しましょう🏪

現地に着く前に、津和野城について📝


国指定
  史跡 津和野城跡

史 跡 指 定 昭和17年10月14日
第1次追加指定 昭和17年05月26日
第2次追加指定 平成19年07月26日

津和野城は、
 標高362mの霊亀山上にあり、山麓
 からの比高は約200mを測る典型的な
 山城です。築城は吉見頼行·頼直が
 永仁3年(1295)から正中元年(1324)
 にかけて行ったと伝えられる。

吉見氏が築城した中世山城は、関ヶ原
 の戦い後の慶長6年(1601)に3万石
 の大名として入城した坂崎直盛によ
 って、高石垣を有する近代城郭へと
 大改修された。

元和3年(1617)に因幡国鹿野城より
 亀井政矩が4万3千石の大名として
 入城後は、亀井氏11代の居城と
 して明治維新まで続いた。

津和野城は、
 本城の他に出丸(別名:織部丸)がある
 一城別郭の城であり、その間に大手
 道を設けるなど極めて実戦的な山城
 であった。かっては本丸、二の丸に
 三重天守と櫓があったが、貞享3年
 (1686)の雷火で消失した後は再建さ
 れなかった。

明治7~8年(1874~1875)に城の建物
 の大半は解体されたが、現在も山上
 には段状に連なる壮大な高石垣が残
 っており人力で行われた大土木工事
 の跡を見ることが出来る。

なお、津和野藩の藩庁は城山の北東側
 の山麓にあった。

さてさて。。。
 津和野城跡、リフト乗り場に到着
 しました。




リフト乗り場にはこんな注意書が。


そして、これも。うわぁ~九州では
考えられない😰💦💦


さぁ。リフトに乗ります。




所要時間5分のリフトの旅でした。


津和野城巡りのスタートです⏰
 出丸まで5分、井戸まで10分。
 天守台、南門などまで40分です。


先ずは、出丸へ。
みんな、何を見てるの??


これ...でした😰


先生の説明を真剣に聞いてます👂


堀切は、そっちだって~👇


出丸へ、急な道を上がります。出丸で
ランチタイム🍱






出丸への入口。




かなり広い出丸です。




これは、先生の貴重な、
 『どこでもチェアー💺』です。
 何と‼
  椅子にリュックが付いてます😵


出丸にての先生の講義。


我等の先生です。


石垣の間石です。


先へ進みます。今度は急な下り坂。




なるほど、なるほど📝(。_。)φ




『史跡 津和野城阯』


みんなで記念写真を。
 いち-たす-いち-は~にぃ~(*⌒∇⌒*)


いよいよ、本丸です。


お~ぉ。苔むした石垣....素晴らしい
 みんな、上を見て、キョロキョロ








『石垣について』
石垣の石材は、ひん岩と石英閃緑岩で
 約3km北方の寺田地区や枡ケ峠の青
 野山トンネル付近で採石し運びあげ
 たものである。

特に天守台の石垣は壮麗な石英閃緑岩
 で築かれ、大きい石は2トンを超え
 るものもある。

足場が...💦💦崩壊してる箇所も多い


津和野城の名前の由来の1つが
  この『ツワブキ』だとか。


天守台跡




三十間台へ 広い。










太鼓丸




文字が書いてある...


三十間台から見た、人質郭と三の丸
 穴があいた石がいくつかあります。
 何でしょう??


三の丸から人質郭




南門櫓


馬立跡、台所跡へ




国指定史跡
 津和野城跡(馬立、台所、海老櫓)

本丸の西、当城の三の丸にあたる。
 階段を上がって左は馬立と言われ、
 乗馬をつなぎ止めておく所、右は
 三段櫓の最上部の建物へ繋がる。
 
馬立の奥には台所があり、右列による
 排水の機能が見て取れる。さらに
 奥には海老櫓と言われる建物があり
 搦め手(喜時雨側)に直面する望楼で
 あった。

周囲には堀で囲まれ、その支柱を支え
 るための控え石がおおむね1間おき
 に置かれている。

控え石


排水機能


今日、初めてのお花です。


さて、リフトで下ります。
 津和野城跡をあるきましたが結構な
 時間がかかりました。






国指定史跡
 津和野城跡(馬場先櫓)








旧津和野藩邸の建物で現在残っている
のは、この櫓と喜楽園内の『物見櫓』
の二棟があります。もとの位置を変え
ず旧状を留めている唯一の建物となっ
ています。

津和野城跡が無事、終わりました。
次は、萩城跡です。

バス移動の時間、ひと休み。

笑顔😊笑顔😄笑顔(⌒‐⌒)

2015年05月19日 | お城倶楽部
 昨日は、お城クラブの座学の日
  会員が2名増えてました。

 昨日の勉強は、萩城と津和野城🏯
  お城クラブの勉強は、単にお城
  だけではありません。
 そのお城に関わる歴史を学びます
  一通りの歴史を学びますが

 それを...覚えるのは、難しい😨
  座学中、ぼーっとしている訳では
  決してないのです。
    が...いつの間にか頭から

    見事に消えてます💦💦
 
    『Oh~My God 』
  でも、まっ。良いかぁ~

 先日の城巡りの集合写真は
    みなさん、笑顔です😄


   楽しかったね~😃🎶
    
    ...と、皆さんの感想でした
 
 来月2日には、
  萩城と津和野城に登城します🏯
  山城ですから軽登山靴を履いての
  参加です。山歩きする私にとって
  これが楽しみのひとつです