猫と山歩きと本とお城

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沖出古墳

2015年07月23日 | 歴史探訪

嘉麻市の沖出公園に前方後円墳があるのは知っていましたが、ゆっくり行く機会がありませんでした。1度は行かなくてはと行きましたが、アップするのを忘れてました。

■沖出古墳公園■
公園整備は2度の調査に基づいて実像に近い復元が行われています。築造当時の状態は現在の古墳の下、約50cmの所に保存されています。



地形は沖出古墳が築かれた当時の地形を再現するために古墳に平行に、平野部に延びた谷筋の様子が伺えるようにされています。



■県指定史跡「沖出古墳」■
・指定年月日:平成9年7月25日
・所 在 地:福岡県嘉麻市漆生78番地の1、78番地の2
・古 墳 規 模 :全長約68m、後円部直径約40m、前方部幅26m、前方部2段、後円部3段

沖出古墳は、4世紀の終わり頃(約1600年前)に築かれた、筑豊地方で最も古い前方後円墳です。古墳は、遠賀川に向かって延びる標高約40mの丘陵の突き出した部分を切り離し、形を整え、築かれています。





調査により墳丘には、石が葺かれ、つぼ形、円筒、朝顔形、家形の埴輪が立てられていた事が分かりました。
家形埴輪は前方部の先端及び、後円部の墳頂付近に立てられていたようです。また、前方部からは『船』の絵が刻まれた朝顔形埴輪が出土しました。



後円部には、竪穴式石室が築かれ、室内中央には、割竹形石棺が置かれていました。しかし、盗掘により石室は荒らされ、石棺も割られていました。


出土した3種類の石製腕飾りは、ヤマト政権から分配されたものと考えられています。沖出古墳は石製腕飾りがそろって出土した九州唯一の古墳で、埋葬施設などからも大和政権と強い結び付きのあった人物のお墓ではないかと考えられています。

■埋葬施設について■
沖出古墳の後円部には、南北方面に竪穴式石炭室が築かれています。石室は長さ3.7m、幅1.49m、高さ1.2mで短い壁を挟み込むように長い壁が築かれ、壁は赤く塗られていました。床には粘土が張られ、その上に赤く塗られた川原石が敷き詰められていました。



床の中央は掘りくぼめられ砂岩で造られた割竹形石棺が置かれていました。当時の場所にあった石棺は、身(遺体を納める部分)の北側半分のみで、割られた身や蓋は転がっていました。

石棺は、長さ2.8m、高さ77cm、身の幅は73cmで、蓋は身よりやや幅が広くなっており、遺体は頭を北に向けて葬られていたと考えられます。



石室および盗掘坑からは、3種類の石製腕飾り(鍬形石、車輪石、石釧)や管玉、ガラス玉および鉄製品(刀、剣、斧、鏃、刀子)が出土しました。


遠賀郡芦屋町の遺跡

2015年07月20日 | 歴史探訪

夏井ケ浜はまゆう公園を歩いている時に、

遺跡がありました。


■夏井ケ浜遺跡出土の箱式石棺■

場 所:遠賀郡芦屋町山鹿(夏井ケ浜)
年月日:平成26年1月





この石棺は箱式石棺と呼ばれるもので弥生時代の埋葬遺跡です。当地点は響灘に突出した岬の根本にあり、夏井ケ浜A―3遺跡と云います。

埋葬施設として地表面を掘りくぼめた中に板石を箱状に組み合わせて作られ副葬品は出土していません。また片側の石材は抜き取られ残っていません。




当遺跡は海を見晴らす高台にあり、埋葬者は磁北を向いて葬られています。以前よりこの岬を中心に石棺群があったことが研究者の間では知られていましたが、いずれも調査されることなく消滅しました。

当遺跡の北東に夏井ケ浜古墳があり、当遺跡との関連が考えられます。いずれもこの響灘に面し眺望のすぐれた地にあり、海と深い関連をもった一族が葬られていた事が伺われます。




最近は、古墳を巡る人達が多いとか。ロマンを感じると聞きました。確かに、悠久の時を共有してるように感じるのかも知れません。


「十字架の塔」

2015年07月19日 | 歴史探訪
  戦没者慰霊施設「十字架の塔」

今日の朝刊で、

18日、オランダから中学生が参加して献花式が開かれた。塔は70年前の終戦直後、町内でイギリス人など外国人捕虜を強制労働させていた日本炭礦(日炭)が死者を葬った” 物証 „として造ったが、30年前にオランダから元捕虜が訪れたのを機に、日本国内で死亡したオランダ人兵士の慰霊施設として整備された。

....そうです。

関係者は、「今は水巻とオランダをつなぐ象徴となった」と話してます。

恥ずかしながら、新聞で見るまでは遠賀郡にこのような施設がある事を知りませんでした。行ってきました。

以前は、つる草に覆われ痛みが激しかった十字架は、白く塗り直され、銅板が設置され、銅板には全国で亡くなったオランダ人兵士871人の名前が刻まれてました。






回りはきれいに整備され多くの種類の草花が植えられてました。ちょっと珍しい色の紫陽花です。時期が過ぎて色褪せたのかも知れませんが。



安徳天皇と平氏一門の足趾

2015年07月13日 | 歴史探訪
「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり・・・」

古くから広く知れ渡ってきた「平家物語」の出だしの1節です。平 清盛は、「平氏に非ざるものは、人に非ず」と権力を振るい、一門の栄華を誇りました。しかし、勢いの盛んなものもやがて、必ず衰えます。

養和元年(1181)2月、清盛の突然の死で平家没落が始まりました。壽永2年(1183)5月、平氏追討の旗を挙げた木曽義仲は越中砺波で平 惟盛率いる平氏軍を破り、京都に進撃しました。

追われるように都を捨てた平氏一門は同年7月、安徳天皇と神器と奉じて西海に向かう。いわゆる、都落ちです。

 ※神器 鏡・玉・剣のこと。

翌8月、平氏一門は筑前大宰府に着くが豊後の緒方惟義が大宰府を攻めると聞き、再び大宰府から逃れ7才のいたいけな安徳天皇と女房・女官・平氏の公達からなる一行の逃避行となった。

この場面が「平家物語」巻八「大宰府落」に描かれ、大宰府を逃れた一行は箱崎津から海岸沿いに宗像に至り、そこから山蹊を踏み分けて遠賀郡に入った。以下は、その下りです。

「・・・おりふしくだる雨車軸のごとし。吹風砂をあぐとかや。おつる涙。ふる雨、わきていづれも見えざりけり。住吉・箱崎・宗像伏し拝み、ただ主上舊都の還幸とのみぞ祈られける。たるみ山・鶉浜などいふ。峨々たる険難をしのぎ、緲々たる平沙へぞおもむき給ふ。いつならわしの御事なれば御足よりいづる血は沙をそめ、紅の袴は色をまし、白袴はすそ紅にぞなりにける。彼幻弉三蔵の流沙・惣領を凌がれけんくるしみも、是にはいかでまさるべき・・・」


平家一門が越えた「たるみ山」は、宗像市と遠賀郡を跨いで海からいきなりそばだつ標高471.4mの山で、今は湯川山と呼ばれています。「鶉の里」はこの山の北西山麓にある村里遠賀郡岡垣町内浦のことで、現在この地は海岸が退き、往昔の面影はありません。

内浦で一行は、遠賀川河口に拠点をもつ山鹿秀遠に出迎えられる。秀遠は檀の浦合戦では山鹿水軍を率いました。山鹿城で休息した後、一行は柳浦(北九州市門司区大里)を目指しました。
安徳天皇行在所趾の石碑があります。




「安徳天皇行在所趾」の石碑の反対側に安徳天皇を御祭神とする大君神社の鳥居があります。






大君神社参道。
訪れる人が少ないのでしょうか。参道には落ち葉が積もり、滑りやすい道を登ります。





大君神社拝殿


山頂には安徳天皇を祀る祠があります




祠には、菊のご紋が彫られています。


この道筋にあたる宗像から遠賀郡芦屋にかけては、逃避行の途中で落伍した一門の墓や、その跡を留める遺跡が散在してます。
檀の浦で戦死した清盛の五男知盛の一子が、この地に匿われて成人後、乳母の夫方の宗姓を名乗りました。

その子の四郎左衛門は、対馬で阿比留氏を平定し対馬の領主となり、その墓が内浦法応寺にあり、宗氏の始祖墓と伝えられています。


平 信盛 笠搭婆

2015年07月12日 | 歴史探訪

宗像市・瀬戸交差点から垂見峠に向かう国道495号線を上がると右側の道沿いに『平 信盛 墓所』と書いた案内板が立ってます。

宗像道の駅に行く時、この道を通るたび、気にはなっていた案内板です。今日は、ゆっくり寄ってみました。



宗像市教育委員会の説明があります。


それに依ると・・・

宗像市文化財第1号
 史蹟 昭和49年3月30日
 名称 平 信盛 笠搭婆 1基









説明
この墓碑は平 信盛(清盛の孫 父は中納言 知盛)月絵姫(大納言光盛の息女)御夫妻のもので人皇第81代安徳天皇が壽永4年3月平氏一門の壇の浦敗戦と共に二位の尼時子(清盛の妻)に懐かれて、入水崩御せられ平家一門も、この戦いに殆ど戦死や自殺して海底に沈み滅亡したが信盛は他日の再挙を期して深山幽谷に身を隠し、源氏の目を避けんとして、英彦山から宗像一の宮(辺津宮)孔大寺権現の杜にと供人85騎を従えて落ち延びた。

その後、たまたま鶴山(釣山)に金鉱(宗像市に金山があったのは確かです。昭和40年代全閉山したらしい)を見出だし、これの採掘に従事すると共に井上五郎大夫と改名し安住の地と定めた。その後、更に大賀と改姓、信盛より8代目大賀惣右エ門の世には極めて繁栄して千余戸を数える鉱山町となり禁裏より永野の姓を名のるよう指示があり今日に及んでいる。
※禁裏とは天皇の意。

この墓所は、はじめ石搭山にあったが洪水のため埋没したので明治21年11月、永野家一統が協議してコウモリ塚に移し墓石も永年の風雨に表面の刻字も磨滅したので新しくその節刻印し天蓋石と台石のみ800余年の寂影を留めている。
             by 宗像市教育委員会

こんな所に、平家一門の墓所が有ったとか...思いもしませんでした。
芦屋町の方に安徳天皇行在所趾と安徳天皇を祀った神社があるとの事に。後日、行ってきます。