軍需品の増産
(1) 硝石
硝石は塩硝.烙硝とも書き、硫黄とともに黒色火薬?の原料です。五箇山は古くから塩硝の産地として知られ、従来から藩へ上塩硝百十四箇を納めていました。嘉永元年よリ中塩硝も買い上げになリ、同三年二月中塩硝の他国出津が禁じられました。同六年には藩よリ塩硝土の増産が命じられ?、安政五年に「増方仕法」?を実行します。結果、当初計画された290箇の増産はほぼ達成され、上中塩硝合わせて年間九百箇前後が見込まれるまでになリました。更に増産を企図し、文久三年六月これまでの上煮二十人による株立て制を廃止し、生産参入を自由化しました。これによリ新規十二人が許可を得たものの、そう思惑通リには事が運ばず、元治二年に停止、慶応三年元の株立て制へ復しました。
これまで硝石生産は五箇山でしか許されていませんでしたが、安政二年から他所でも生産が許可され、壮猶館からも生産奨励の告示が出されます。しかし希望者が思いの外現われず、壮猶館が文久二年十二月に調査したところ、その原因が買い上げ値段の低さと生産過程での障害にあることが判明しました。前者の問題は壮猶館が藩と協議し、善処したことで解決しましたが、後者の間題はいささか複雑でした。
硝石を生産する方法には二通リあリます。一つは年数を経た家の床下の土から採取する方法、もう一つは硝石丘を築く方法です?。しかし床下から土を採取されることに難色を示す家が多かったため、十村を通じ説得に努めます。それは家の所有者には迷惑をかけないし、柱にも傷は付けないよう配慮する、取った土の分は新たに土を入れるようにするし、床板に破損箇所があれば修復もする、など念の入ったものでした。硝石丘を築く方法は大量生産が可能である分莫大な経費が必要で、その上原料の生石灰の取引は藩が禁じていました。そこで同三年正月より生産希望者への融資を開始し、三月に生石灰購入の入札を実施します。その結果、新川郡では舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門、礪波郡では福光村で中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門やその他、井波町で板倉屋覚兵衛といった面々が許可を受け、生産を開始しました?。
更に、文久三年に藩は領内十村全てを硝石製造督促係に任じ、各組ごと一・二ヶ所の土性の良い場所に五~十間程の小屋を三筋建てて硝石丘を築くよう指示を出しています。
こういった事情は富山藩も同様で、野積谷・細入村・山田谷での硝石製造促進のため、文久二年三月よリ技術指導を開始しました?。また家中・町・郡方の床下土・炬燵・炉などのなどの木灰を取リ集めるよう申し渡し、山村に硝石製造を奨励しました。慶応二年八月には城内西ノ丸に火薬製造所を建築し、長柄町の塩硝蔵にも弾薬製造蔵二棟を建てています。
(2) 鋼・鉄
嘉永六年十二月加賀藩は銅.鉄を買い入れる旨の触れを出し、更に翌年二月領民に古銅.鉄の供出と金銀の寄付を求めます?。また安政元年十二月には、大坂などで銅・鉄を買い溜めしている者は金山方役所へ員数を届け出ること、浜辺で砂鉄を集めて「若狭国釜元」へ売リ渡している者は金山方役所へ差し出すこと、を布令しました。また鉱脈探査のため嘉永七年四月に伯者国から鉱山師伴五郎と九右衛門の二人を招いて、領内山々や海辺を調査させています。しかし、かつて栄えた鉱山も、文化・文政の頃までにすっかリ鉱脈が枯れ、新たな開発は諦めざるを得ませんでした。
安政二年三月に幕府は"全国寺院梵鐘を大筒に改鋳せよ"との朝命を全国に発し?、加賀藩・富山藩両藩も直ちにこれを領内へ触れ、銅・鉄の不足を補うため民衆の理解のもとに回収を図ろうとしましたが、安政大地震の混乱があったことなどもあって、うまくいかなかったよ・つです。
(3) 硫黄
立山に硫黄が豊富にあることから、加賀藩はかねてから増産に努めていました?。御召硫黄は嘉永三年まで二百貫目でしたが、同四年から急増し始め、安政元年千八百貫目、同二年二千四百貫目、同五年三千四百貫目にも昇りました。
文化元年二月 玉薬奉行中制法硫黄二〇〇貫
嘉永二年五月 召上硫黄二〇〇貫
三年八月 玉薬方御用花硫黄二〇〇貫
四年六月 召上硫黄二〇〇貫
九月 常式花硫黄二〇〇貫のほか二〇〇貫
召上常硫黄二〇〇貫
六年七月 花硫黄二〇〇貫 常硫黄二〇〇貫
安政元年六月 鉄砲方御用一二〇〇貫目のうち六〇〇貫
七月 鉄砲方御用一二〇〇貫目のうち花硫黄四〇〇貫 常 硫黄二〇〇貫
玉薬方御用六〇〇貫目のうち花硫黄・常硫黄六〇〇貫
二年六月 鉄砲方御用六四五貫
七月 二五一〇貫目のうち花硫黄・常硫黄五五五貫
四〇〇貫目のうち残常硫黄二〇〇貫
九月 当年よリ定入一〇〇〇貫目十ヵ年御用 常硫一〇〇〇貫
三年七月 花硫黄二〇〇貫 常硫黄二〇〇貫
一〇〇〇貫目のうち花硫黄二六九貫
十月 一〇〇〇貫目のうち花硫黄・常硫黄七三一貫
四年 定入高四〇〇貫目のうち花硫黄二〇〇貫
定入高四〇〇貫目の・つち常硫黄二〇〇貫
増出来高一〇〇〇貫目の・つち花硫黄二〇〇貫
増出来高一〇〇〇貫目のうち並常硫黄八○○貫
五年八月 定入高二四〇〇貫目のうち花硫黄一〇二貫
定入高二四〇〇貫目のうち常硫黄二九八貫
卯年よリ増出来高一〇〇〇貫目のうち常硫黄三九八貫五〇〇匁
九月 定入高二四〇〇貫目のうち常硫黄八一九貫四〇〇匁
十月 定入高二四〇〇貫目のうち常硫黄七八七貫五〇〇匁
万延元年八月 定入高二四〇〇貫目のうち花硫黄四〇〇貫
定入高二四〇〇貫目のうち花硫黄・常硫黄四二二貫
九月 花硫黄・常硫黄八〇二貫
十月 花硫黄・常硫黄七七六貫
元治元年五月 去年分滑川土蔵に預リ分常硫黄一〇二四貫八○○ 匁
九月 鉄砲方御用常硫黄六八○貫 花硫黄一〇〇貫
十月 常硫黄七二〇貫
慶応三年十月 鉄砲方御用常硫黄八六七貫四〇〇匁
小柳村製薬所御用常硫黄五七二貫四〇〇匁
八月 寅年小柳村製薬所花硫黄一六八〇貫二〇〇匁
鉄砲方御用花硫黄三三〇貫 常硫黄五七六貫
小柳村製薬所御用花硫黄・常硫黄九二四貫九〇〇匁
伊東文書「留書」により作成(『富山県史 通史編?』223~ 225頁)
*花硫黄とは上品の硫黄のこと。
産出された硫黄は、金沢の土清水、小柳及び壮猶館にあった塩硝製造所に運ばれることになっていました。そのため?滑川御蔵所に硫黄蔵を設営し、「御鉄砲所御用」の名で小杉新、津幡を経て運搬されました。
(5) 石炭
膨大な燃焼エネルギーを発生させるため、当時世界で用いられていた化石燃料は石炭です。これによって銃砲も製造でき、蒸気船も動くのです。したがって防衛力増強を急いでいる加賀藩にとっても、石炭の確保は焦眉の急でした。文久元年正月藩は各十村へ石炭見本を送付し、管轄内での調査を依頼します。
元治元年には石炭発掘のため筑前国よリ山師を招き、近江国今津と梅津にあった加賀藩支配地を含む全領内をくまなく調査させました。壮猶館でも高峰精一・辻安兵衛・鈴木義六などが舎密方御用で調査に当たります。しかし残念ながら明治維新の前に増産体勢を整えるまでには至りませんでした。
ただ氷見の阿尾山で炭屑を見つけ、上流の磯辺で炭層を発見(黒石)し、地元民の手で掘り出されて、馬車と橇で阿尾に運び所口へ船で送付しています。
また新川郡黒牧村(現大山町)でも、慶応三年九月瀧谷山城生と東谷(現立山町)で採鉱し、人足三人で八貫目を掘り出し、十月金山方へ渡しています。五里ばかり離れた東岩瀬でいったん蔵入れし、船で所口へ運んだそうです。
(6) 木炭
石炭の採掘を待っていたのでは何も進まないため、当時一般的な燃料であった木炭を使って、銃砲などの武器を生産しました。特に高温度で焼いた灰白色の木炭(堅炭)は白炭と呼ばれる高級品で?、文久三年八月に新川郡十村へ壮猶館から調査依頼が来ています(目方と代金を報告)。
註
?黒色火薬
ロジャー・ベーコン(英国)
硝石41%
木炭・硫黄各19.5%
明代『天王開物』
直撃:硝石9 硫黄1
爆撃:硝石7 硫黄3
?
嘉永元年 上塩硝114 中塩硝78 計192箇(2421貫)
二年 114 79 193 (2434.5)
三年 114 110 224 (2853)
四年 114 174 288 (3723)
五年 114 198 312 (4041)
六年 114 298 412 (5396.2)
安政元年 155 259 414 (5363.5)
二年 163 222 385 (4960)
三年 374 80 454 (5580)
四年(見込高) 391 79 470 (5758.5)
「御用鑑」第一本(『利賀村史2 近世』215頁)
?増方仕法
塩硝土の仕込みから灰汁煮まで4・5年かかることを見越し、新たに土を仕込む者には初年度に五十貫目余、2年目から4年目まで年十六貫目余を貸し付け、5年目から毎年十貫目余ずつ10年賦で返済する、という増産方法。
?硝石の採取方法
床下の土から採る方法
1土を桶に入れ水に浸す。
2この水を灰に通すか、灰に通した水をこの水に加える。
3水溶液を煮詰めて結晶化させる。
4これを水に溶かし、ゴミや泥を沈澱させ、煮詰めなおして結晶化する。
5更に濾過して精製し、結晶化する。
硝石丘から採る方法
材料・黒土や上畑土・牛馬鳥などの死骸や古壁・厩牛小屋あるいは穴蔵・せせらぎ等の土・石灰・草木灰・大小便
これらを混ぜ合わせて丘を築き、その周囲を板張などで囲いを作リ、一年目及び二年目の八月頃まで毎月あるいは二ヵ月ごとに糞汁を入れて切リ返す。三年目になると丘の表面に硝石分ができるので、表面三分五厘程の土を削り取る。
混ぜ合わせる割合
黒土など百貫目に対し、牛馬の死骸や大小便など百五十貫目、石灰十五貫目、草木灰五十貫目 (『井波町史 上巻』)
村人は硝石丘製造場を「インシュ」(焔硝)蔵と呼び、異臭に辟易したという(福光町史 上巻』960頁)。
こういった方法とは別に、壮猶館の高峰精一は、蚕の蛹に窒素分が豊富であることに着目し、伝統的な技術を工夫して、木の桶を使い薬草と水を加え、低温の化学反応で40~50日かけ硝酸塩を作る。木灰のあく汁(アルカリ)を加えて煮出し、ゆっくり冷まして硝酸カリ(硝石)を沈殿させた。また藩への年貢米の替りに硝石を納める仕組みも考えた。
化学式は『利賀村史2 近世』の205~213頁を参照のこと。
?硝石生産
【新川郡】慶応二年十一月届け
舟見村清右衛門二万五千貫余、横尾村藤右衛門一万貫余
【福光】慶応二年
中村屋清右衛門六万貫目余、坂本屋五右衛門二万貫目余
【井波】安政六年
板倉屋覚兵衛六箱
?山田村での硝石生産 文久二年三月
烙硝作り坪数
一、山田村惣高 百四拾八石九升一合 烙硝作百六坪相当リ
右之内
三拾七石九斗九升三合持高
烙硝百六坪之内 三拾五坪当リ分也
(「山田温泉万留帳」)
?高岡町人よリ 嘉永七年二月
異国船渡来防禦二付御上御物入と奉察高岡惣中よリ御冥加として古鉄金銀等指上度願上候事 (「木町委細帳」)
?立山硫黄
天保三年には四万八千三百五十斤生産、これとは別に岩瞭寺へ二百目を納入した。同五年八万三千九百斤生産。 (「伊東留帳」)
?海岸防禦之ため此度諸国寺院之梵鐘を以可鋳換大炮小銃之旨被仰出候右ハ武備御充実之御趣意二候間此外銅鉄ハ勿論錫鉛硝石等いつれも必備之品二付右等二而相製侯義白今不相成事二侯且又梵鐘をも鋳換被仰出候程之義二付銅鉄を以新規二仏像等鋳造いたし候義難相成侯仏器之義も木製又ハ陶器等二而も相済候分ハ以来銅鉄類を以製造之義可為無用侯右之通り可被相触候
?もともと東御蔵御囲内にあり、天保五年に焼失したため、翌年二百間東方に再建した。
?木炭の燃焼堅炭は低温でゆっくり燃焼し、500から800度、最高で1,000度にまで
至る。軟炭は170度で発火、高温で急に燃焼する。
参考
○安政大地震(『砺波市史』)
安政五年二月廿五日夜九ツ半頃地震致、四半時ぱかりふり申候、すは地震といふより仏様巻とり、背戸へ出様子伺候処、震動する事おびたゝ゛敷、今にも打倒され可申哉と恐入、夜明頃迄背戸に有内二、三度もゆり申候、夜明て見分致候処、二階さまの子障子はづれ、塗揚戸前少々つき出し申候、町方二而ハ御宮石垣六尺程崩れ、其外石燈寵倒れ、酒屋酒桶少々こぼれ紺屋藍瓶もこぼれ候由、今石動ハ家拾五軒計つぶれ、町中割れ其中より水をふき出し申候由、城端は石動より一倍強き様子、高岡・大門・八尾杯大変、御城下左程無之由、御郡二而ハ井波蔵々相開候由、福光・福野・杉木・戸出・中田五ヶ所ハ左程二無之、放生津ハ六尺計沈み申候家拾弐軒有之、海の水沖へ引き候二付、津波来り可申哉と心の休まるひまも無之様子追々相知れ、誠に大変至極之事に候
同年七月廿二日夜九ツ過、大きなる地震致、一統驚申候、又候常願寺川止り候由専ラ沙汰致申候
○常願寺川河原に怪物
一、此度大地震ニ付、立山数ヶ所山抜ケ、常願寺川筋岡田村等ニ河原之中ニ四月廿七日昼四つ時此かたちの者十二・三人斗り相見へ申由、風聞二御座候
長三尺斗、色合赤きもの、目の光り金色ニ御座候
(安政三「諸品吉凶異変公事自他雑記」其二)
これは安政の大地震に関する記録です。いかに激しいものであったかが分かるでしょう。怪獣出現の噂にそのことが察せられます。次回にもこの地震に関することが出てきますので、ぜひ目を通しておいてください。

確認テスト
今回は軍需品である硝石などの資源探査について学びました。
次回は加賀藩と富山藩の藩政改革と、加賀藩の海軍についてお話します。
問
題
1 藩は硝石製造を拡大するため、五箇山以外でも製造することを奨励しました。次のうちから新川郡について説明しているものはどれでしょう。
1 舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
2 中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
3 板倉屋覚兵衛が応募し、生産する許可を受けた。
4 本江村茂左衛門が四百貫目を生産する計画で申請した。
5 矢波屋伊兵衛が申請し、生産する許可を受けた。
正解は1です。 硝石丘を築くために必要な生石灰の取引は従来禁止されていたが、文久三年三月十二日に入札をして払い下げることにした。このとき三位組では、音沢村徳次郎30俵・泊町豊丞204俵・舟見村和十郎50俵を落札している。しかし丘を築ける場所が、横尾村一箇所であるため、十一月生産希望者は2名に止まった。舟尾村清右衛門は藩から三貫目の貸与を受け(二貫五百目は翌年より無利息10年賦、五百目は翌年より無利息7年賦)、慶応元年と二年に二貫五百目ずつを借りた(慶応元年以降は五朱の利息で5年賦に改定)。実際の製造量は慶応二年十一月届で二万五千貫余であり、藩へは明治三年までに一貫二百五十目を返済したものの、これ以後藩が硝石の買い上げを止めたため出来なくなり、同四年九月に金沢県庁へ無利息50年賦にしてほしい旨申請する。だがその後のことは不明。 一方沼保村作右衛門は、同村の十兵衛屋敷に小屋を建てる計画を進めるが、隣接する泊町二十五軒町の住民が猛反対して、計画は頓挫してしまった。元治元年六月に十村が斡旋に乗り出すものの、秋になっても解決せず作右衛門は断念、翌年四月に製造権を横尾村藤右衛門に譲渡した。慶応二年十一月届で一万貫を製造している。
問
題
2 藩は硝石製造を拡大するため、五箇山以外でも製造することを奨励しました。次のうちから井波町について説明しているものはどれでしょう 。
1 舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
2 中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
3 板倉屋覚兵衛が応募し、生産する許可を受けた。
4 本江村茂左衛門が四百貫目を生産する計画で申請した。
5 矢波屋伊兵衛が申請し、生産する許可を受けた。
正解は3です。 安政五年に板倉屋覚兵衛は、自宅の床下土から作った硝石の見本を壮猶館に送付し、製造人への指定を願い出た。許可は出たものの、壮猶館の教習を受けよう指示され受講。その後翌年五月6箱を納入し、生産の継続が許された。
問
題
3 藩は硝石製造を拡大するため、五箇山以外でも製造することを奨励しました。次のうちから福光村について説明しているものはどれでしょう。
1 舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
2 中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
3 板倉屋覚兵衛が応募し、生産する許可を受けた。
4 本江村茂左衛門が四百貫目を生産する計画で申請した。
5 矢波屋伊兵衛が申請し、生産する許可を受けた。
正解は2です。 安政三年に中村屋清右衛門が資金の借用が許され、現在天神堂がある付近下江用水上方に製造場を建てた。文久三年に5箱、元治元年に13箱、慶応元年に12箱を納めた。 慶応元年三月に郡奉行が硝石御用を兼帯し、製造希望者へは技術指導して資金も貸与することを発表する。翌年十一月中村屋清右衛門は六万貫余、遅れて参入した坂本屋五右衛門も二万貫余を生産している。
問
題
4 藩は硝石製造を拡大するため、五箇山以外でも製造することを奨励しました。次のうちから城端町村について説明しているものはどれでしょう。
1 舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
2 中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
3 板倉屋覚兵衛が応募し、生産する許可を受けた。
4 本江村茂左衛門が四百貫目を生産する計画で申請した。
5 矢波屋伊兵衛が申請し、生産する許可を受けた。
正解は5です。 文久四年(元治元年)に改まり早々のことであろうか、今石動町矢波屋伊兵衛は城端御坊所で床下土の採取による硝石製造が許された。二月には砺波郡才許組次郎八の息子で、組合頭茂左衛門が同様に願い出たが、却下されている。
問
題
5 藩は硝石製造を拡大するため、五箇山以外でも製造することを奨励しました。次のうちから放生津村について説明しているものはどれでしょう。
1 舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
2 中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
3 板倉屋覚兵衛が応募し、生産する許可を受けた。
4 本江村茂左衛門が四百貫目を生産する計画で申請した。
5 矢波屋伊兵衛が申請し、生産する許可を受けた。
正解は4です。 文久三年七月に本江村茂左衛門(設問4の解説にある人物と同一か)が四百貫目の製造を計画し、砺波郡と射水郡での活動、特に放生津寺庵の床下土を採取したい旨申請する。詳細は不明だが、一部は認められたらしい(砂土居次郎平蔵の文書『野尻村史料』、設問4解説も同書による)。
(1) 硝石
硝石は塩硝.烙硝とも書き、硫黄とともに黒色火薬?の原料です。五箇山は古くから塩硝の産地として知られ、従来から藩へ上塩硝百十四箇を納めていました。嘉永元年よリ中塩硝も買い上げになリ、同三年二月中塩硝の他国出津が禁じられました。同六年には藩よリ塩硝土の増産が命じられ?、安政五年に「増方仕法」?を実行します。結果、当初計画された290箇の増産はほぼ達成され、上中塩硝合わせて年間九百箇前後が見込まれるまでになリました。更に増産を企図し、文久三年六月これまでの上煮二十人による株立て制を廃止し、生産参入を自由化しました。これによリ新規十二人が許可を得たものの、そう思惑通リには事が運ばず、元治二年に停止、慶応三年元の株立て制へ復しました。
これまで硝石生産は五箇山でしか許されていませんでしたが、安政二年から他所でも生産が許可され、壮猶館からも生産奨励の告示が出されます。しかし希望者が思いの外現われず、壮猶館が文久二年十二月に調査したところ、その原因が買い上げ値段の低さと生産過程での障害にあることが判明しました。前者の問題は壮猶館が藩と協議し、善処したことで解決しましたが、後者の間題はいささか複雑でした。
硝石を生産する方法には二通リあリます。一つは年数を経た家の床下の土から採取する方法、もう一つは硝石丘を築く方法です?。しかし床下から土を採取されることに難色を示す家が多かったため、十村を通じ説得に努めます。それは家の所有者には迷惑をかけないし、柱にも傷は付けないよう配慮する、取った土の分は新たに土を入れるようにするし、床板に破損箇所があれば修復もする、など念の入ったものでした。硝石丘を築く方法は大量生産が可能である分莫大な経費が必要で、その上原料の生石灰の取引は藩が禁じていました。そこで同三年正月より生産希望者への融資を開始し、三月に生石灰購入の入札を実施します。その結果、新川郡では舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門、礪波郡では福光村で中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門やその他、井波町で板倉屋覚兵衛といった面々が許可を受け、生産を開始しました?。
更に、文久三年に藩は領内十村全てを硝石製造督促係に任じ、各組ごと一・二ヶ所の土性の良い場所に五~十間程の小屋を三筋建てて硝石丘を築くよう指示を出しています。
こういった事情は富山藩も同様で、野積谷・細入村・山田谷での硝石製造促進のため、文久二年三月よリ技術指導を開始しました?。また家中・町・郡方の床下土・炬燵・炉などのなどの木灰を取リ集めるよう申し渡し、山村に硝石製造を奨励しました。慶応二年八月には城内西ノ丸に火薬製造所を建築し、長柄町の塩硝蔵にも弾薬製造蔵二棟を建てています。
(2) 鋼・鉄
嘉永六年十二月加賀藩は銅.鉄を買い入れる旨の触れを出し、更に翌年二月領民に古銅.鉄の供出と金銀の寄付を求めます?。また安政元年十二月には、大坂などで銅・鉄を買い溜めしている者は金山方役所へ員数を届け出ること、浜辺で砂鉄を集めて「若狭国釜元」へ売リ渡している者は金山方役所へ差し出すこと、を布令しました。また鉱脈探査のため嘉永七年四月に伯者国から鉱山師伴五郎と九右衛門の二人を招いて、領内山々や海辺を調査させています。しかし、かつて栄えた鉱山も、文化・文政の頃までにすっかリ鉱脈が枯れ、新たな開発は諦めざるを得ませんでした。
安政二年三月に幕府は"全国寺院梵鐘を大筒に改鋳せよ"との朝命を全国に発し?、加賀藩・富山藩両藩も直ちにこれを領内へ触れ、銅・鉄の不足を補うため民衆の理解のもとに回収を図ろうとしましたが、安政大地震の混乱があったことなどもあって、うまくいかなかったよ・つです。
(3) 硫黄
立山に硫黄が豊富にあることから、加賀藩はかねてから増産に努めていました?。御召硫黄は嘉永三年まで二百貫目でしたが、同四年から急増し始め、安政元年千八百貫目、同二年二千四百貫目、同五年三千四百貫目にも昇りました。
文化元年二月 玉薬奉行中制法硫黄二〇〇貫
嘉永二年五月 召上硫黄二〇〇貫
三年八月 玉薬方御用花硫黄二〇〇貫
四年六月 召上硫黄二〇〇貫
九月 常式花硫黄二〇〇貫のほか二〇〇貫
召上常硫黄二〇〇貫
六年七月 花硫黄二〇〇貫 常硫黄二〇〇貫
安政元年六月 鉄砲方御用一二〇〇貫目のうち六〇〇貫
七月 鉄砲方御用一二〇〇貫目のうち花硫黄四〇〇貫 常 硫黄二〇〇貫
玉薬方御用六〇〇貫目のうち花硫黄・常硫黄六〇〇貫
二年六月 鉄砲方御用六四五貫
七月 二五一〇貫目のうち花硫黄・常硫黄五五五貫
四〇〇貫目のうち残常硫黄二〇〇貫
九月 当年よリ定入一〇〇〇貫目十ヵ年御用 常硫一〇〇〇貫
三年七月 花硫黄二〇〇貫 常硫黄二〇〇貫
一〇〇〇貫目のうち花硫黄二六九貫
十月 一〇〇〇貫目のうち花硫黄・常硫黄七三一貫
四年 定入高四〇〇貫目のうち花硫黄二〇〇貫
定入高四〇〇貫目の・つち常硫黄二〇〇貫
増出来高一〇〇〇貫目の・つち花硫黄二〇〇貫
増出来高一〇〇〇貫目のうち並常硫黄八○○貫
五年八月 定入高二四〇〇貫目のうち花硫黄一〇二貫
定入高二四〇〇貫目のうち常硫黄二九八貫
卯年よリ増出来高一〇〇〇貫目のうち常硫黄三九八貫五〇〇匁
九月 定入高二四〇〇貫目のうち常硫黄八一九貫四〇〇匁
十月 定入高二四〇〇貫目のうち常硫黄七八七貫五〇〇匁
万延元年八月 定入高二四〇〇貫目のうち花硫黄四〇〇貫
定入高二四〇〇貫目のうち花硫黄・常硫黄四二二貫
九月 花硫黄・常硫黄八〇二貫
十月 花硫黄・常硫黄七七六貫
元治元年五月 去年分滑川土蔵に預リ分常硫黄一〇二四貫八○○ 匁
九月 鉄砲方御用常硫黄六八○貫 花硫黄一〇〇貫
十月 常硫黄七二〇貫
慶応三年十月 鉄砲方御用常硫黄八六七貫四〇〇匁
小柳村製薬所御用常硫黄五七二貫四〇〇匁
八月 寅年小柳村製薬所花硫黄一六八〇貫二〇〇匁
鉄砲方御用花硫黄三三〇貫 常硫黄五七六貫
小柳村製薬所御用花硫黄・常硫黄九二四貫九〇〇匁
伊東文書「留書」により作成(『富山県史 通史編?』223~ 225頁)
*花硫黄とは上品の硫黄のこと。
産出された硫黄は、金沢の土清水、小柳及び壮猶館にあった塩硝製造所に運ばれることになっていました。そのため?滑川御蔵所に硫黄蔵を設営し、「御鉄砲所御用」の名で小杉新、津幡を経て運搬されました。
(5) 石炭
膨大な燃焼エネルギーを発生させるため、当時世界で用いられていた化石燃料は石炭です。これによって銃砲も製造でき、蒸気船も動くのです。したがって防衛力増強を急いでいる加賀藩にとっても、石炭の確保は焦眉の急でした。文久元年正月藩は各十村へ石炭見本を送付し、管轄内での調査を依頼します。
元治元年には石炭発掘のため筑前国よリ山師を招き、近江国今津と梅津にあった加賀藩支配地を含む全領内をくまなく調査させました。壮猶館でも高峰精一・辻安兵衛・鈴木義六などが舎密方御用で調査に当たります。しかし残念ながら明治維新の前に増産体勢を整えるまでには至りませんでした。
ただ氷見の阿尾山で炭屑を見つけ、上流の磯辺で炭層を発見(黒石)し、地元民の手で掘り出されて、馬車と橇で阿尾に運び所口へ船で送付しています。
また新川郡黒牧村(現大山町)でも、慶応三年九月瀧谷山城生と東谷(現立山町)で採鉱し、人足三人で八貫目を掘り出し、十月金山方へ渡しています。五里ばかり離れた東岩瀬でいったん蔵入れし、船で所口へ運んだそうです。
(6) 木炭
石炭の採掘を待っていたのでは何も進まないため、当時一般的な燃料であった木炭を使って、銃砲などの武器を生産しました。特に高温度で焼いた灰白色の木炭(堅炭)は白炭と呼ばれる高級品で?、文久三年八月に新川郡十村へ壮猶館から調査依頼が来ています(目方と代金を報告)。
註
?黒色火薬
ロジャー・ベーコン(英国)
硝石41%
木炭・硫黄各19.5%
明代『天王開物』
直撃:硝石9 硫黄1
爆撃:硝石7 硫黄3
?
嘉永元年 上塩硝114 中塩硝78 計192箇(2421貫)
二年 114 79 193 (2434.5)
三年 114 110 224 (2853)
四年 114 174 288 (3723)
五年 114 198 312 (4041)
六年 114 298 412 (5396.2)
安政元年 155 259 414 (5363.5)
二年 163 222 385 (4960)
三年 374 80 454 (5580)
四年(見込高) 391 79 470 (5758.5)
「御用鑑」第一本(『利賀村史2 近世』215頁)
?増方仕法
塩硝土の仕込みから灰汁煮まで4・5年かかることを見越し、新たに土を仕込む者には初年度に五十貫目余、2年目から4年目まで年十六貫目余を貸し付け、5年目から毎年十貫目余ずつ10年賦で返済する、という増産方法。
?硝石の採取方法
床下の土から採る方法
1土を桶に入れ水に浸す。
2この水を灰に通すか、灰に通した水をこの水に加える。
3水溶液を煮詰めて結晶化させる。
4これを水に溶かし、ゴミや泥を沈澱させ、煮詰めなおして結晶化する。
5更に濾過して精製し、結晶化する。
硝石丘から採る方法
材料・黒土や上畑土・牛馬鳥などの死骸や古壁・厩牛小屋あるいは穴蔵・せせらぎ等の土・石灰・草木灰・大小便
これらを混ぜ合わせて丘を築き、その周囲を板張などで囲いを作リ、一年目及び二年目の八月頃まで毎月あるいは二ヵ月ごとに糞汁を入れて切リ返す。三年目になると丘の表面に硝石分ができるので、表面三分五厘程の土を削り取る。
混ぜ合わせる割合
黒土など百貫目に対し、牛馬の死骸や大小便など百五十貫目、石灰十五貫目、草木灰五十貫目 (『井波町史 上巻』)
村人は硝石丘製造場を「インシュ」(焔硝)蔵と呼び、異臭に辟易したという(福光町史 上巻』960頁)。
こういった方法とは別に、壮猶館の高峰精一は、蚕の蛹に窒素分が豊富であることに着目し、伝統的な技術を工夫して、木の桶を使い薬草と水を加え、低温の化学反応で40~50日かけ硝酸塩を作る。木灰のあく汁(アルカリ)を加えて煮出し、ゆっくり冷まして硝酸カリ(硝石)を沈殿させた。また藩への年貢米の替りに硝石を納める仕組みも考えた。
化学式は『利賀村史2 近世』の205~213頁を参照のこと。
?硝石生産
【新川郡】慶応二年十一月届け
舟見村清右衛門二万五千貫余、横尾村藤右衛門一万貫余
【福光】慶応二年
中村屋清右衛門六万貫目余、坂本屋五右衛門二万貫目余
【井波】安政六年
板倉屋覚兵衛六箱
?山田村での硝石生産 文久二年三月
烙硝作り坪数
一、山田村惣高 百四拾八石九升一合 烙硝作百六坪相当リ
右之内
三拾七石九斗九升三合持高
烙硝百六坪之内 三拾五坪当リ分也
(「山田温泉万留帳」)
?高岡町人よリ 嘉永七年二月
異国船渡来防禦二付御上御物入と奉察高岡惣中よリ御冥加として古鉄金銀等指上度願上候事 (「木町委細帳」)
?立山硫黄
天保三年には四万八千三百五十斤生産、これとは別に岩瞭寺へ二百目を納入した。同五年八万三千九百斤生産。 (「伊東留帳」)
?海岸防禦之ため此度諸国寺院之梵鐘を以可鋳換大炮小銃之旨被仰出候右ハ武備御充実之御趣意二候間此外銅鉄ハ勿論錫鉛硝石等いつれも必備之品二付右等二而相製侯義白今不相成事二侯且又梵鐘をも鋳換被仰出候程之義二付銅鉄を以新規二仏像等鋳造いたし候義難相成侯仏器之義も木製又ハ陶器等二而も相済候分ハ以来銅鉄類を以製造之義可為無用侯右之通り可被相触候
?もともと東御蔵御囲内にあり、天保五年に焼失したため、翌年二百間東方に再建した。
?木炭の燃焼堅炭は低温でゆっくり燃焼し、500から800度、最高で1,000度にまで
至る。軟炭は170度で発火、高温で急に燃焼する。
参考
○安政大地震(『砺波市史』)
安政五年二月廿五日夜九ツ半頃地震致、四半時ぱかりふり申候、すは地震といふより仏様巻とり、背戸へ出様子伺候処、震動する事おびたゝ゛敷、今にも打倒され可申哉と恐入、夜明頃迄背戸に有内二、三度もゆり申候、夜明て見分致候処、二階さまの子障子はづれ、塗揚戸前少々つき出し申候、町方二而ハ御宮石垣六尺程崩れ、其外石燈寵倒れ、酒屋酒桶少々こぼれ紺屋藍瓶もこぼれ候由、今石動ハ家拾五軒計つぶれ、町中割れ其中より水をふき出し申候由、城端は石動より一倍強き様子、高岡・大門・八尾杯大変、御城下左程無之由、御郡二而ハ井波蔵々相開候由、福光・福野・杉木・戸出・中田五ヶ所ハ左程二無之、放生津ハ六尺計沈み申候家拾弐軒有之、海の水沖へ引き候二付、津波来り可申哉と心の休まるひまも無之様子追々相知れ、誠に大変至極之事に候
同年七月廿二日夜九ツ過、大きなる地震致、一統驚申候、又候常願寺川止り候由専ラ沙汰致申候
○常願寺川河原に怪物
一、此度大地震ニ付、立山数ヶ所山抜ケ、常願寺川筋岡田村等ニ河原之中ニ四月廿七日昼四つ時此かたちの者十二・三人斗り相見へ申由、風聞二御座候
長三尺斗、色合赤きもの、目の光り金色ニ御座候
(安政三「諸品吉凶異変公事自他雑記」其二)
これは安政の大地震に関する記録です。いかに激しいものであったかが分かるでしょう。怪獣出現の噂にそのことが察せられます。次回にもこの地震に関することが出てきますので、ぜひ目を通しておいてください。

確認テスト
今回は軍需品である硝石などの資源探査について学びました。
次回は加賀藩と富山藩の藩政改革と、加賀藩の海軍についてお話します。
問
題
1 藩は硝石製造を拡大するため、五箇山以外でも製造することを奨励しました。次のうちから新川郡について説明しているものはどれでしょう。
1 舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
2 中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
3 板倉屋覚兵衛が応募し、生産する許可を受けた。
4 本江村茂左衛門が四百貫目を生産する計画で申請した。
5 矢波屋伊兵衛が申請し、生産する許可を受けた。
正解は1です。 硝石丘を築くために必要な生石灰の取引は従来禁止されていたが、文久三年三月十二日に入札をして払い下げることにした。このとき三位組では、音沢村徳次郎30俵・泊町豊丞204俵・舟見村和十郎50俵を落札している。しかし丘を築ける場所が、横尾村一箇所であるため、十一月生産希望者は2名に止まった。舟尾村清右衛門は藩から三貫目の貸与を受け(二貫五百目は翌年より無利息10年賦、五百目は翌年より無利息7年賦)、慶応元年と二年に二貫五百目ずつを借りた(慶応元年以降は五朱の利息で5年賦に改定)。実際の製造量は慶応二年十一月届で二万五千貫余であり、藩へは明治三年までに一貫二百五十目を返済したものの、これ以後藩が硝石の買い上げを止めたため出来なくなり、同四年九月に金沢県庁へ無利息50年賦にしてほしい旨申請する。だがその後のことは不明。 一方沼保村作右衛門は、同村の十兵衛屋敷に小屋を建てる計画を進めるが、隣接する泊町二十五軒町の住民が猛反対して、計画は頓挫してしまった。元治元年六月に十村が斡旋に乗り出すものの、秋になっても解決せず作右衛門は断念、翌年四月に製造権を横尾村藤右衛門に譲渡した。慶応二年十一月届で一万貫を製造している。
問
題
2 藩は硝石製造を拡大するため、五箇山以外でも製造することを奨励しました。次のうちから井波町について説明しているものはどれでしょう 。
1 舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
2 中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
3 板倉屋覚兵衛が応募し、生産する許可を受けた。
4 本江村茂左衛門が四百貫目を生産する計画で申請した。
5 矢波屋伊兵衛が申請し、生産する許可を受けた。
正解は3です。 安政五年に板倉屋覚兵衛は、自宅の床下土から作った硝石の見本を壮猶館に送付し、製造人への指定を願い出た。許可は出たものの、壮猶館の教習を受けよう指示され受講。その後翌年五月6箱を納入し、生産の継続が許された。
問
題
3 藩は硝石製造を拡大するため、五箇山以外でも製造することを奨励しました。次のうちから福光村について説明しているものはどれでしょう。
1 舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
2 中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
3 板倉屋覚兵衛が応募し、生産する許可を受けた。
4 本江村茂左衛門が四百貫目を生産する計画で申請した。
5 矢波屋伊兵衛が申請し、生産する許可を受けた。
正解は2です。 安政三年に中村屋清右衛門が資金の借用が許され、現在天神堂がある付近下江用水上方に製造場を建てた。文久三年に5箱、元治元年に13箱、慶応元年に12箱を納めた。 慶応元年三月に郡奉行が硝石御用を兼帯し、製造希望者へは技術指導して資金も貸与することを発表する。翌年十一月中村屋清右衛門は六万貫余、遅れて参入した坂本屋五右衛門も二万貫余を生産している。
問
題
4 藩は硝石製造を拡大するため、五箇山以外でも製造することを奨励しました。次のうちから城端町村について説明しているものはどれでしょう。
1 舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
2 中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
3 板倉屋覚兵衛が応募し、生産する許可を受けた。
4 本江村茂左衛門が四百貫目を生産する計画で申請した。
5 矢波屋伊兵衛が申請し、生産する許可を受けた。
正解は5です。 文久四年(元治元年)に改まり早々のことであろうか、今石動町矢波屋伊兵衛は城端御坊所で床下土の採取による硝石製造が許された。二月には砺波郡才許組次郎八の息子で、組合頭茂左衛門が同様に願い出たが、却下されている。
問
題
5 藩は硝石製造を拡大するため、五箇山以外でも製造することを奨励しました。次のうちから放生津村について説明しているものはどれでしょう。
1 舟見村清右衛門と横尾村藤右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
2 中村屋清右衛門と坂本屋五右衛門が応募し、生産する許可を受けた。
3 板倉屋覚兵衛が応募し、生産する許可を受けた。
4 本江村茂左衛門が四百貫目を生産する計画で申請した。
5 矢波屋伊兵衛が申請し、生産する許可を受けた。
正解は4です。 文久三年七月に本江村茂左衛門(設問4の解説にある人物と同一か)が四百貫目の製造を計画し、砺波郡と射水郡での活動、特に放生津寺庵の床下土を採取したい旨申請する。詳細は不明だが、一部は認められたらしい(砂土居次郎平蔵の文書『野尻村史料』、設問4解説も同書による)。