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越中国の歴史と文化

越中国(富山県)の歴史と文化を紹介します。

おわりに

2007-11-02 18:15:09 | 越中国年代記
文化・文政から慶応に至る約六十年間の越中人とその活動を、年代を追って概観してきました。
 ともすれば時代劇などの影響で、維新前を暗黒の時代、虐げられた時代と見てしまいがちですが、
 いったん偏見を取り除き、歴史を現代との連続の中で観察してみましょう。
 すると新たな発見がきっとあることでしょう。
 歴史を過ぎ去った出来事と捉えるのではなく、私たちの生活へ積極的に生かすことが出来れば、
 人々の考え方にゆとりができ、多くの問題解決にも役立つのです。
 歴史は先人の顕彰碑でもあります。またこれからの世代に歴史を継承していく責務を背負った現代人は、
 歴史に試されてもいるのです。事実を歪めず、卑屈になることなく、誇りをもって、伝えていきたいものです。



【参考文献】

 『富山県史』近世、通史編・史料編、年表(富山県)
 『越中史料』巻三(富山県、明治四十二年)
 『射水郡志』上・下巻(射水郡役所、明治四十二年)
 『高岡史料』上巻、下巻(高岡市、明治四十二年)
 『高岡市史』中巻(高岡市、昭和三十八年)
 『高岡水道史』(高岡水道局、昭和五十四年)
 『伏木史料総覧』(伏木文化会、昭和二十四年)
 『戸出史料』(戸出村、大正八年)
 『中田町誌』(中田町誌編纂委員会、昭和四十三年)
 『福岡町史』(福岡町史編纂委員会、昭和四十四年)
 『越中二塚史』(車政雄、昭和六十年)
 『庄川』(庄川編さん委員会、昭和三十九年)
 『氷見市史』(氷見市史編修委員会、昭和三十八年)
 『大門町史』(大門町、昭和五十六年)
 『大島村史』(大島村役場、昭和三十八年)
 『新湊市史』(新湊市、昭和三十九年)
 『しんみなとの歴史』(新湊市、平成九年)
 『小杉町史』(小杉町役場、平成九年)
 『下村史』(下村、昭和六十一年)
 『砺波市史』(砺波市史編纂委員会、昭和四十年)
 「出町史資料」第十五章衛生醫事(砺波市立図書館蔵)
 『出町のあゆみ』(出町史編纂委員会、昭和二十四年)
 『庄川町史』上巻(庄川町史編纂委員会、昭和五十年)
 『福野町史』(福野町、昭和三十九年)
 『福光町史』上巻(福光町、昭和四十六年)
 『利賀村史2』近世(利賀村史編纂委員会、平成十一年)
 『上平村誌』(上平村役場、昭和五十七年)『越中五箇山平村史』上巻(平村史編纂委員会、昭和六十年)
 『越中五箇山平村史』上巻(平村史編纂委員会、昭和六十年)
 『井波町史』下巻(井波町史編纂委員会、昭和四十五年)
 『小矢部市史』下巻(小矢部市史編集委員会、昭和四十六年)
 『井口村史』上巻、通史編(井口村史編纂委員会、平成七年)
 『黒部市誌』(黒部市、昭和三十九年)
 『魚津市史』上(魚津市役所、昭和四十三年)
 『入善町誌』(入善町誌編纂委員会、昭和四十二年)
 『朝日町史』歴史編(朝日町、昭和五十九年)
 『宇奈月町史』(宇奈月町、昭和四十四年)
 『追録 宇奈月町史』歴史編(宇奈月町史追録編纂委員会、平成元年)
 『宮崎村の歴史と生活~舟と石垣の村~』(宮崎村史編纂委員会、昭和二十九年)
 『下新川郡史稿』上巻(下新川郡役所、明治四十二年)
 『立山町史』下巻(立山町、昭和五十九年)
 『上市町誌』(上市町誌編纂委員会、昭和四十二年)
 『滑川町誌』上巻(滑川町役場、大正二年)
 『椎名道三伝』(高橋政二、昭和六十二年)
 『舟橋村誌』第2編(舟橋村、昭和三十八年)
 『細入村史』通史編(細入村史編纂委員会、昭和六十二年)
 『山田村史』上巻(山田村史編纂委員会、昭和五十九年) 
 『大山町史』(大山町、昭和三十九年)
 『八尾町史』(八尾町史編纂委員会、昭和四十二年)
 『婦中町史』通史編(婦中町史編纂委員会、平成八年) 
 『大沢野町誌』上巻(大沢野町誌編纂委員会、昭和三十三年)
 『富山市史』(富山市役所、明治四十二年)、第貳編(大正三年)
 『富山市史』上・下巻(富山市、昭和四十二年)
 『富山市史』第一巻(富山市史編修委員会、昭和三十五年)
 『富山藩天保の飢饉留記』(桂書房、平成七年)
 『水橋郷土史』(水橋町役場、昭和二十六年)
 『金澤藩 藩法集』(創文社、昭和三十八年)
 『藩法集6 続金澤藩』(創文社、昭和四十年)
 『町吟味所御触留』(桂書房、平成四年)
 坂井誠一『富山藩』(巧言出版、昭和四十九年)
 八木均「新川郡備荒倉の成立と篇額」(昭和六十三年)
 同「下越能三州備荒倉と新川郡備荒倉の成立」(『富山史壇』上百九号・下百十号、平成五年)
 水島茂『加賀藩・富山藩の社会経済史研究』(文献出版、昭和五十七年)
 明神博幸「百五十年前に黒船がやってきた」
 同「越中国の教育史」
 同「越中国の蘭学事始」 その他



第六章 元治慶応年間 ~国内動乱と治安維持~

2007-11-02 18:10:39 | 越中国年代記
元治二年・慶応元年(一八六五) 四月八日改元
●産業・文化
 二月薬種仕方大綱ができ、五月他国酒の津入を許可する。六月に銀札相場の取り決めがあった。十一月瓦・陶器焼立稼の役立を差し止め、十二月絹布・木綿の判押・判賃を差し止めた。閏五月家中に百石に付き百五十匁と町在へ借上銀を命じた。
 今石動を再建するため、今石動奉行所は藩へ福町村と福岡を併合することを願い出るが、実現しなかった。津沢に小矢部川の舟橋が架設された。倶利伽羅運河に関し、七月に今石動から竹橋までの計画が出来る。福岡町美濃屋長九郎が蝦夷地へ移出する筵の買い集め人を任され、翌年に藩から資金の融通を受けた。閏五月射水郡紙仕法が制定され、出来紙が二千八百二十丸になった。藩は射水郡の丘陵で茶の実五石を配布し栽培する。十一月には産物方から新川郡の上滝平野にも茶の栽培を勧奨する。五月に釜ケ渕用水の取水量が増加する。十月上滝村九郎兵衛が大川寺の高台に作小屋を設け、田形新開をした。魚売捌人から魚津町奉行所に鑑札発行の申請があり、毎年銀百五十枚を上納することで許可する。また時化の夜に難渋する者が多いことを憂慮した魚津町奉行小川渡は、角川尻に高さ五?の石造の万灯台を設置する。火の番には浜屋彦市を任じ、新札三百六十貫文を油屋十二軒に八朱の利息で貸与し、その利息は油で納めさせ、これで火を燈した。藩医松田三須等が薬種を求めて山巡りをし、奥山へも立ち入ったかもしれない。金沢の能登屋甚兵衛が音沢村の小屋山で鉛を採掘することを願い出た。新川郡三万二千七百十八軒に町方二十六匁・郡方十六匁を割付した。
 四月に得能覚兵衛等八人から郡奉行所へ荷物改番所設置が上申される。井波町から八尾への道筋領境の井栗谷村(加賀藩領)に一ヶ所、河内村(富山藩領)に一ヶ所とし、経費は借家賃を一軒に五十目、炭油料等を一ヶ所百目、番人の賃金を一人百五十目と見積もる。閏五月に砺波郡の杉木新町では惣井戸が真光寺の門辺りに完成した。それまでは磯右衛門旧宅の井戸を皆で使用していたそうである。八月十七日砺波の新明宮相撲興行があり、十八日朝大勢が見に来る。その際に桟敷が崩壊し下になった五郎丸屋伝吉郎が圧死、十村菊池家では手代を急派して検視する。二三日後には重傷の若林屋助九郎倅武吉も亡くなった。
 富山藩では、三月町人の中に剣術をやって異形の姿で徘徊する者がいることを戒め、鼬川表の橋を改修した。四月物価引下の幕令を公布し、六月御印紙銀一匁が百三十文であったのを百文に改め、諸物価を引き上げないよう触れた。七月銭相場の引き上げを禁止した。八月末に富山藩校廣徳館では学則を改訂し、教官家塾の創立を改めて促した。十二月賭の諸勝負に使う品の売買を停止し、綿問屋株・打綿株を差し止めた。
●災害・危機
紛争 五月に庄川が減水し、庄内用水の江下より水を分けてほしいとの願いがある。そこで分水していたら、江下村々より大勢やってきて、庄金剛寺村の茂助を殴りつけるという事件が起きる。殴りかかったものはすぐに取り押さえられた。新川郡で本宮村と原村の紛争が翌年まで続く。安政五年の地震で本宮村は多数の男手を失い困窮していた。しかし原村は村境があいまいであるため、林代を払わずに本宮村で畑作し、地所は両村の入会山であると主張する。そのため本宮村が十村へ訴え出たもので、小見・亀谷両村の肝煎りが調停検分し、本宮村の勝ちとなった。
不作 この年は霖雨が続き、不作であった。十月に米の移入を許可し、移入に係る税を免除した。富山藩では閏五月に極難渋人へ十一日から一人一日に五合を買えるよう五文ずつ札米で渡し(代金不足分は藩が米屋に支払う)、なるだけ粗食して食いつなぐよう、また稼ぎが不足する者は男女とも家中へ奉公せよ、該当者は町役人が書き出しておくように、と告知した。
火事 一月十日西水橋の八左衛門宅で出火し、八軒が類焼する。そのため御貸米五石六斗が支給された。三月富山で火の元の用心を触れる。八月二十日正午に仁右衛門町室屋徳兵衛宅から出火し、鼬川を越えて向川原町から立町を焼き払い、下金屋町で鎮火する。焼失千軒余であった。九月諸道具類を間違って持っていった者へ早急に役所へ届け出ることを申し渡し、木材の高値売買を禁じて、大工左官などの割り増し賃金を禁止した。十月に被災者へ今年度分四分の御用捨を伝える。また文久三年の大火で被災した人々が難渋していたため、今年度分の納税は七歩を御用捨する。
疫病 砺波郡杉木新町で種痘所を設置する申請が四月に出され、閏五月に頭川村の吉岡亮伯と嶋村の丘村隆介が種痘を学んでいるので、郡内の医者へ伝習して郡内六ヵ所で種痘をしたく、五箇山へは種痘医を派遣したい、と上申した。そこで藩は現時点では種痘医が少ないため、福光と福岡の二ヶ所で開くことにし、六月十日に福光・十三日に福岡・七月十日に杉木新町で開設した。五箇山で麻疹が流行し、塩硝生産に支障が出るほどであった。
海防・軍事 五月に長州征伐のため出兵した高田藩が越中を通過し、小杉で小休憩をとり、高岡で一泊した。加賀藩は十一月に西洋流稽古を拒む藩士を処罰する。銃卒に関しては、一月に出席の督促をし、三月沼保に泊銃卒の稽古所を設営した。五月に新川郡に本格的な農兵隊の編成を企図し、三日市に教砲舎を設けて二十歳前後を選んで銃剣を教え、魚津在住が視察する。魚津に一大隊・三百六十人を町奉行の指揮下に置いた。当初は金沢から来て教えたが、地元から金沢へ指揮官養成の講習を受けにいき、交替して魚津町と三日市に駐屯する。
 塩硝増産を促進するため、郡奉行に責任をもたせた。五箇山で上煮の自由参入がうまくいかず、四月に取り止めた。生産力が低かったことや、年数が係ることを嫌い当座稼ぎを優先したこと等が理由のようである。
 富山藩では二月二十六・二十七日に布瀬川原で砲術稽古がある。四月二十六から二十八日にかけ同地で不動流の大筒稽古があった。


慶応二年(一八六六)
●産業・文化
 加賀藩では二月に入津口銭を三十八品目に限定した。三月家中から百石に付き八石三百二十五合の増借知をする。四月に前田斉泰が正式に隠居し、前田慶寧が封襲して幕府に倣って制度の総見直しを行なう。帰国の時に各家へ祝米三升が配布された。産物方会所は手続きが複雑で生産者に不利であり、物価の引き下げには役立たない、前年の不作の時にも有効に機能しなかった、という批判を容れて、四月に金沢以外全て廃止した。八月末には街道人馬賃銭について幕令では六割増であったが、これを五割増に止めた。また高方仕法以来の懸作地取り返しを廃止する。
 砺波郡では納税の際、庄東の農民は中田へ、庄西の農民は戸出へ、一部が福野・津沢・小矢部へ持っていくことになっていたが、杉木新周辺では戸出へ運搬するのが難渋事で、地元に蔵を設置してほしいという要望が宝暦十二年来出されていたものの、着手されないままであった。これがようやく実現することになる。五月八日に杉木新町中出蔵を杉木蔵に改めた。また伏木の屎物商人が巨額の利を上げているとの指摘があり、伏木商人への鯡代金支払いの方法と価格を決め、津沢・福野・大門新・春日吉江村に屎物仕法を定めた。中田駅で仕法講を許可を得て行なう。売り捌く枚数は千枚で、売捌をする札元を株主に、一枚の株の代価を定めて株主に手数料を支払った。定会は毎月で、二十五貫目の規模であったが、七月五千貫、十月に一万貫と拡大し、十二月に停止した。福岡町矢部では大和国郡山から種鯉数匹を持ち込み養殖を始めている。
 高岡銅器が横浜から盛んに輸出される。安政六年に小馬出町の角羽勘左衛門が居留地に進出し、この年には御馬出の金森宗七が出店した。
 新川郡では加賀藩領境松木以南の磧開拓に岩峅寺目代の諒解を得るため、上滝村が一ヵ年に九百目の燈明銭を納めることにした。金山方辻安兵衛が小川温泉の奥にあるつるかね山を見分するため、地元から報告書を提出させる。それにはそのような山は存在せず入山は危険である、と記されていた。
 富山藩へ七日市藩家老保坂正義(剣の達人で後に七日市戸長)が騒擾事件の仲裁を頼みにくる。藩主前田利豁は元の富山藩主前田利幹の八男であることによる。
●災害・危機
紛争 三月三十日夜四ツ時頃、荒屋敷村の西小矢部川原に十五・六人程が集合しているという報せが十村五十嵐小豊次宅に入り、金沢出張中であったため息子の孫六が代理で村役人に取り締まりを指示する。翌日夜八ツ時頃に群衆が叫びだしたが、厳重な警戒の中それ以上には拡大しなかった。調査では笠の価格が下落したことに原因があった。
 新川郡富山藩領で七月二十一日に奥山村と太田薄波村に山境争いが起きる。奥山村には領有権を認めた享保以来の書き付けがあったが、実際に管理していたのは太田薄波村であった。十村金山十次郎は才判人の横内村弥右衛門と山室江口村理兵衛に調査させ、九月に協定書を交わして境界線を確定させた。
火事 九月一日放生津新規町で昼八ツ時に出火し、百三十軒が類焼した。二月八日生地村で夜、宮川町漁師源三郎宅から出火し、七十八軒を焼いた。十月三日西水橋で嶋屋次兵衛宅で出火し、二十九軒が焼けて、潰家一軒・潰納屋二棟がある。そこで御貸米十九石二斗五升があった。十月二十五日夜に滑川町の養照寺を再建するための大工小屋から出火し、南風に煽られ被災地が拡大した。
洪水 七月十二・十三日に和田川・小矢部川が出水した。新川郡でもこの時に常願寺川が出水し、利田前・高野開発・田添堤が決壊する。八月二十七日には神通川が出水し、水位が一丈二尺に達して、三千軒が浸水した。砺波郡では春に柳瀬村又九郎倅善太郎が、居村の御普請所堰留の節に格別の働きがあり、しかも重傷を負いその後亡くなった。検地奉行は六月に父の又九郎へ三十貫文を渡している。
大風 五月十五日朝に砺波では北風が強く吹き、所々で根返りがあった。八月七日夜に大風が吹き、福光では桐木七十本と家屋に被害が出た。
海防・軍事 砺波郡で三月に神島村で銃卒大隊を調練する。また遠所在住・遠所馬廻の廃止が検討されるが、万一の備えと領民鎮撫の必要から残置された。
 富山藩は火薬製造所の水車場を上新川郡明黒瀬村(維新後の払下げ文書には袋村とある)と婦負郡井田村に建設し、弾薬製造所を市街地南の元塩硝蔵御倉に二棟と西ノ丸中に建設した。十二月に西欧式兵制の中核を担う人材を育成するため、新調組を編成し、教練所を設置して大小砲術稽古を行なう。


慶応三年(一八六七)
●産業・文化
 加賀藩では一月敦賀から京までの糧道建設を幕府から任され、石黒家一門が活躍する。三月新川郡福田村幸吉が琵琶湖までの運河計画を届け出た。また一月に十村等御目見以上の村役人の帯刀を許し、四月に七木の制を統一し、松・杉・槻・樫・檜・栂・唐竹と定め、御林を一ヵ村一ヶ所、他は百姓林とした。他国出の手続きを簡略化し、村役人名印の小札があればよいことにする。十月に産物方を廃止した。
 六月砺波郡矢木村の藤次郎から舟戸用水祖泉橋の西縁に仮納屋を建てて波止場役を徴収したいとの願い出がある(一年で銀二十五匁ずつ盆暮れに上納できると記載)。九月に杉木新町磯右衛門と高岡町の服部三郎左衛門は麦を原料に造酒の許可を受けたが、砺波郡では酒造屋の反対に遭う。池尻村等五ヵ村が年貢米を井波御蔵から池尻備荒倉への変更を願い出たが、結局沙汰止みになる。五箇山で楮方仕法と紙方仕法を廃止し、藩は買い入れないので生産した全てを売り出してよいことにした。福岡町で沢川村より高岡へ売却する炭の宿口銭(通行税)について佐加野宿と取り決め、陸路運搬の荷物は宿場の馬と人足を雇用して運び、次の宿場でそこの馬と人足に切り替えることを原則としつつも、積み替えるのが面倒ならその宿駅に宿口銭を支払えばそのままでよいことにした。国吉六ヵ村と関係諸村を含めた十九ヵ村で、九月に五位用水管理規定書を作り、潅漑地域を六千三十七石とした。
 氷見で中田村と小境村で麻苧台網を作る。また十二町村の矢崎嘉十郎が窪新川堀を出願し、これまで反対していた人々も、洪水対策になるならと認め、十村笠間作五郎(七郎兵衛、大門二口出身)が指導し、着工する。人夫は延べ四万四千四百七十一人、その賃銀五万三千三百六十五貫二百文(経費の七二?)、藩費四万二千二百五十九貫五百六十四文・村費二万四千百二十九貫二百三十一文・矢崎嘉十郎八千四十五貫九百二十一文を支出し、富山湾へ向かい九百?・深さ四?・上幅二十二?・下幅十八?の規模であった。豪雨で決壊する等一旦中止になったが、翌年八月十八日から工事を再開し、明治二年八月三日に八幡疏水として完成した。小杉では宿駅の経費不足で仕法講が許可された。
 所口に入港しているイギリス・フランス・アメリカ船が伏木へ入港した場合に備え、六月に勝興寺法会の際は中門を閉めきること等を指示する。
 新川郡魚津で北山鉱泉(北山村仁右衛門鎮守森後方で発見)が開湯し、二月に郡奉行所は百文銭を八十八文の扱いにすると通告する。五月殿村屋六郎右衛門から石灰焼立が出願され、六月郡奉行所が早月川から境川までの村々見取図を作製する。九月に上野用水の堀立が計画される。翌年に許可され、明治五年に完成した。黒牧村では九月に石炭八貫目を掘り出す。掘出人足は三人で一人に八匁を支払い、岩瀬までの運搬で四百文を駄賃として渡している。
 富山藩では七月に大沢野の開墾を進める。用水は文政二年の計画を下敷きに、改作奉行森覚右衛門等が村々に意見を聴きながら修正・調整して、翌年に試流する。
●災害・危機
紛争 伏木で十月七日作事用の材木を御用地へ運搬したところ、門前地の者多数が材木全てを本船に積み戻すという事件があった。十一月二日に犯人を手配すると、十日勝興寺廣輝(澤映)が自らの引退と引き替えに暴徒の宥免を金沢で願う。十七日に藩は進退の件は保留した上で暴徒は糾すと返事して、一斉検挙する。しかし同四年二月二十七日の大赦で逮捕者は赦免された。
 新川郡荒川村清右衛門等の頭振が、同村肝煎文右衛門等の請作取り扱いに不正があると訴えた。
救恤 六月から三州の無宿乞食を撫育生産方で取り扱うことにする。新川郡で一月に小沢屋善四郎が三百九十九貫五百文を泊町に寄付し、難渋人三百八軒に分けた。内訳は一軒あたり一貫七百文から八百文であり、独り者は四百文とされた。
 富山藩では八月新川郡吉金村に貯用米蔵を作る。三百歩の規模で、二石七斗(一歩に付九合ずつ)の合盛米を十一月二十日までに精米して在所肝煎に渡すこと、蔵を囲む植木で田が日陰になる箇所は柵にすること、在所に迷惑をかけないよう注意すること等が定められている。
火事 十二月二十三日西水橋の下飯屋藤四郎宅から出火し、六十九軒と納屋七棟を焼き、御貸米が支給された。
洪水 七月十三日小矢部川の洪水で稲に被害が出た。特に医王山で大雨が降る。新川郡でも九月二十一日の大雨で笹川の堤防が決壊して被害が出た。
狼害 砺波の出町往来や福野の田で狼が出る。砺波郡では銃卒が狼退治に出動している。
海防・軍事 加賀藩では二月に銃卒を再編するため、領内から十七・八から四十歳まで十五軒に一人の割合で一万乃至一万五千人を集めて、給与一人扶持を与えて壮猶館で調練するという計画が建てられる。六月に騎兵創設のため、領内の馬数・馬場を調査した。十一月藩兵を銃隊編制とする。五箇山で十月塩硝の上煮屋株立を復活させ、新たに煮屋になった者は一株に付き金十五両を古煮屋に支払えば、上煮を継続できることにした。こういった工夫により、加賀藩の貯蔵弾薬は格段に増加した。六月泊町小沢屋善四郎・草野屋孫右衛門・沼保村孫七から大筒製作費の献上が申請される。八月外国奉行菊地伊代守一行が沿岸を巡視する。
 富山藩は廣徳館で六月文武奨励申渡書を発して、同地西に武術稽古所を建てる。師範役には高島流を修得した渡辺順三郎が就任した。
その他の慶応年間の出来事 この頃新川木綿が隆盛であり、八尾では姫蚕の卵を桑紙に貼りつけ、毎年十万枚以上を製造した。



【第六章のまとめ】
 時代は幕末の動乱期に入り、加賀藩では前田慶寧が藩主に就任してから兵制の西欧化に拍車をかけ、管理的な産業政策を転換して自由商売を認め、藩は利益調整の役に専念していくようになる。富山藩でも藩内組織の改編を進めた。




第五章 文久年間 ~生活の向上と藩の福祉政策~

2007-11-02 18:07:54 | 越中国年代記
文久二年(一八六二)
●産業・文化
 加賀藩では改作縮方四十七ヵ条を一月、郡方縮方六十にヵ条を六月に制定し、六月漆・櫨の増産を奨励し、郡方に苗木を配布する。砺波郡は漆十六万六千余と櫨七千九百本が割り当てられた。また十村の世話で、射水郡六渡寺村湊屋清右衛門から鰊を一括購入する。この時期鰯が不漁で、鰊の入荷量が激増している。今石動で頼母子仕法が九月にできた。五箇山でだお道持林の伐採が許可される。四月上梨村温泉開湯で、田向村と猪谷村の流刑人小屋替えをする。福岡町では国吉組六ヵ村が五位庄用水加入を願い出る(慶応三年に拡張工事が完了し、管理規定書が作成される)。高岡の手塚屋新蔵が二月に黒部奥山から少量の苧麻を刈り出した。浦山では恵美須講角力があった。なお天保九年以来の一村立ては三州百十四ヵ村の内三月時点で越中は九十三ヵ村であった。また七月郡方に浪人の取締を命じた。八月二日から四日にかけて石黒信基がスイフトタットル彗星を観測した。
 富山藩では一月に除雪を指示し、三月に諸事質素倹約を達し、頻繁に琴・三味線の集まりをもつことを禁じた。十月伎芸の者を三州以外から呼び寄せることを禁じ、飛騨で先の震災で損傷した御用材を、高原川から神通川を通って川下げする。八月加賀藩による富山藩への家老派遣を停止し、十月十村も引き上げ民政を自立させた。十一月紙楮取引は野積谷の集所で販売するものとし、野積谷禅定村専念寺本堂に紙会所を開設する。紙の需要が高まったため八尾商人の活動を大幅に認めた。しかしやがて製紙輸出で粗製濫造し、信用を失ってしまう。安田村には籾御蔵が建てられた。五月四方と西岩瀬に仕法貸付米の返済を請求する。五月末に小麦を津留にする。閏八月に月岡野梨子役から、当年分十一両余のところ不熟のため半高を容赦してほしいとの願いが出された。
●災害・危機
紛争 富山藩領舟久保で二月に今生津村の者が「ほい」五十束を作って、雨が降ったので翌々日に取りにいくと、ない。その代わり足跡が芦生村の方に続いている。そこで芦生村肝煎喜右衛門に抗議したところ、村の寄り合いでこの場所は芦生村であると認定されたと返答してきた。そのため十村金山十次郎の裁定に委ね、閏八月にここは共有山として決めて、協定を結んだ。
火事 砺波郡では三月十日夜九ッ時に中神村宮が焼失する。六月二十五日蔵屋根を瓦葺に改めることにし、七月五日に成った。新川郡では三月五日西水橋辻ケ堂村忠蔵宅で出火し、辻ヶ堂村は類焼六軒と納屋一棟・西水橋では三百五十一軒が焼け、潰家二軒・土蔵十三棟・神社五宮と蓮照寺が被災し、知行米蔵四千七百六十七石三斗七升二合を失った。そのため御貸米二百五十石九斗五升がある。富山では四月に火の用心を触れた。
大風 三月十五日夜に大風が吹き、砺波郡で山田組で潰家二十軒があり、田中村や竹林村でも被害があった。
疫病 各郡で疱瘡と麻疹が流行し、砺波郡では野尻組で六千百二十三人(その内杉木五百二十七人)が羅患し、三百八十六人(内杉木二十九人)が没する。若林組では五千七百二十七人中三百八十一人が没する。井口組では五千二百余人が羅患し、三百九十九人が没する。五箇山で九月に七千四百四十五人中四百三十八人が没する。氷見の明泉寺過去帳では五十一人・柿谷光誓寺と西教寺過去帳では五十五人が記されているが、感染者が出たからであろうか。上市の弓庄村では百人が羅患して三十人が没している。福光では八月にコレラ患者も出た。藩は七月緊急に二万千五百貼を各組で施薬割付する。
 富山藩では六月に旅篭町畑太周と赤祖父昌斎が種痘所を設置する申請を提出していたのを認め、子供に施種する。七月麻疹の流行がはなはだしく、人が多く集まる取引を八月まで延期するよう指示する。十月他国人が病気になったら届け出るよう申し渡した。猪谷では、藩命で種痘が行なわれた。
狼害 福光で二月に狼の被害がある。
海防・軍事 加賀藩では六月に前田斉泰が家中に危急に備えるよう申し渡す。十二月に新川郡へ沿岸防衛のため在番六隊(一隊は士三十人と馬一疋、別に現地から人夫と馬)をとりあえず単身赴任させ、補助兵力として町在の領民からなる三州での銃卒の編成を命じた。越中では杉木・今石動・小杉・高岡・氷見・伏木・放生津・東岩瀬・魚津・生地・泊で徴集する。
 富山藩の調練場が三月に完成する。三月山田谷と細入谷で塩硝製造が申し付けられ、山田村の湯地区では百六坪をあてた。また領内に木灰の取り集めを指示した。西猪谷では七月から富山藩新番御徒歩一人と御先手足軽八人を増員し、八月鉄砲五挺と火縄十把・筒束三百が配備される。十月に増員分を御徒歩一人と足軽一人に改めた。
文久三年(一八六三)
●産業・文化
 加賀藩では今石動町・城端町・福光・井波・矢木・戸出・福岡・福野に産物会所を設置し、石崎市右衛門と荒木平助が担当する。九月に福光で糸の移出が許可された。二月石灰焼立停止を解除したため、五箇山では梨谷村六軒・小来栖村三軒・見座村二軒・中畑村二軒・相倉村四軒が願い出て、高沼と九里ケ当村で焼立を開始した。七月上梨村の温泉が許可され、藩へは年に銀五枚を納めるものとした。射水郡で十二月に菜種仕法書を作った。新川郡吉原沖では冬台網三十丁で運営し、射水郡海老江村四郎吉等四人を水主に招く。十二月一日には鰤が大漁で、漁獲代金七千四百九十八貫七十五文になった。この利益は五千九百四十二貫七百三十六文、水主一人当たり六十七貫九百十六文の収入になる。招いた四人には七十六貫四百六文、特に四郎吉には百十四貫六百九文を支払った。沼保村では善三郎が郡奉行所に綿の売買願いを出す。泊町の役人・商人などから異義があったものの許可される。新川郡の出来綿は百万反で、他国出が半分を占め、高岡へ十五万反、他は地元で用いた。手塚屋新蔵が苧麻採取のため入山を願い出て許可を受けた。七月には清水伊三郎が棟梁として愛本橋を架け替える。 
 幕府は物価上昇の原因が商人による大量仕入と海外への販売にあると判断し、これを戒める幕令を発する。富山藩では九月にこれを公布した。四方町には一月に縮方を制定する。富山の芝居小屋が小島町に移転した(源十郎座)。 
●災害・危機
紛争 八月新川郡で開拓許可状を新庄野村・三塚新村・泊新村に許可するが、この地が三賀屋作兵衛に売却されていたので争いになる。下村木村の仁太郎が代理で訴え、判決は明治二年に出た。三ヵ村が元利金を添えて仁太郎に渡してこの地を購入し、またその購入資金は藩が立て替える、というものであった。この借金は結局藩には返済されないで廃藩を迎える。上滝村の久木を二月に善右衛門が開墾し麦を蒔いたが、十月ここに三室荒屋村の住民が麦を掘起こしてえん豆を蒔いたため、天正寺村十村十次郎に訴えた。
不作への備え 新川郡各地に常義倉を設置し、米・籾を貯えた。
火事 高岡町で百数十軒を焼く火事があった。魚津町でも四月二十六日全焼三百十二軒・土蔵五棟と納屋十二棟が全焼・半焼と潰家八軒という火事が発生する。加賀藩は二月に火消出役は他町・郡にまで出ないよう達する。水橋では七月十三日東水橋で出火し、焼失納屋五棟・潰家三軒を出した。八月には水橋中村市江屋弥四郎宅から出火し、「宗前沢福」五十束を焼き、東水橋へ類焼して十一軒を焼き、潰家一軒・潰納屋一棟を出す。そのため御貸米が八石五斗支給される。
 富山では二月十三日朝五ツ半頃に中野散地南田町の宗右衛門貸家生地屋庄五郎宅で出火し、南風に煽られ市中に飛び火し、三の丸等を焼失し、奥田村へ延焼する。頭以上の藩士十四軒と総家六千七百八十八軒が被災し、その内家中は九百六十軒・町本家千四百八十五軒・借家四千二百六十二軒と神社八社・大法寺等寺院三十七寺、神主三軒・農家三十二軒であり、毀家百十五軒・火元宅一軒・土蔵十六棟・倉庫三棟・納屋五十五棟、町数七十一ケ町にも及ぶ大火に拡大した。小島町の源十郎座も焼失する。この後新川郡土川から水を引いて町内に火防線路数条を設けて、道幅を拡張することを計画する。検地奉行の小柴平八郎は測量図を作ったが、工事の難しさと莫大な経費が係ることから延期し(明治二十年に着工)、掘抜井戸で火除溜池を充実させた。この頃城下で出火した際は郡方から消防援助人夫の定めがあり、この火事では婦負郡城下付近の村民二百七十八人を表彰し、二百九十五匁を渡した。一方協力しなかった五十九人に一人五匁の罰金を課した。また藩は翌日猪谷に御先手十五人を急派し、十八日鉄砲を配備して、二十八日まで国境を固めた。幕府は富山藩に命じていた美濃等の川普請上納の残金を免除した。
洪水 新川郡の椚山用水では洪水の被害がある。十一月二十二日は大雪であった。富山では除雪を申し渡す。
大風 砺波郡では二月十三日夜より辰巳風が翌日朝五ッ半頃まで吹き、多くの家が潰れ、大木が根返りした。深江村伊兵衛の新居が住む前に潰れたという。九月三日には大つむじ風があり、昼四ッ時に鷹栖御坊島辺りより吹き出し、苗加鷹栖江辺りより東へ稲圦(水量調整のため地中に埋めた樋)等を巻き上げて通った。その跡は田の水が濁り、四~五丈もの黒いものを虚空に引いて行き、その中が光を放っていた。稲圦の被害が多く、西町の豊蔵では五十宛固めてある二つが巻き上げられていた。又九郎の大根畑では五~六歩の過半が引き抜かれ、大豆・小豆等にも被害がある。稲は籾がこぼれて藁のみになり、木の枝に稲束がかかっていたという。
海防・軍事 一月藩主上京の時に海防手当人夫にかかわらず御用人夫を雇用することを告げ、藩から十村に海防への協力要請があり、領内の壮丁男子を書き上げた。また軍艦水主は射水郡で募集が完了し、他郡は念のため名簿のみ作成しておくことが命ぜられた。さらに沿岸を寺社奉行が巡視する。二月に銃卒稽古所が設置され、海防令を布達した。三月に海辺の医者を調査し、藩主から村役人に宛て異例の協力要請があり、異国人が不意に上陸してきたら郷里や家族を守り、鉈・鎌ででも防戦に努めてほしいと督励した。また在番が沿岸に展開する。四月人夫差出しを達し、銃卒稽古への参加手続きを簡略化する。家老横山三左衛門が泊在番を視察する。五月に銃卒撰方規則を定め、実質の動員可能人数を調査する。高岡では町奉行が銃卒奉行を兼任する。六月に銃卒奉行を任じた。これ以降加賀藩と富山藩では各地で銃卒稽古が本格的に行なわれ、遠隔地にも出張所が設置されて、庄川川原や放生津の浜・東岩瀬等で大隊調練まで実施する。八月には幕府から海防を下令された。九月に軍艦方御用の石炭掘方主付荒木平助が石炭出所を検分することを通達する。今石動奉行前田式部が伏木を視察する。この頃は加賀藩領で海防熱がピークに達し、各地から献金が相次いだ。その一方で富山藩の銃卒は受動的であったようであり、すでに十月には稽古の督促が出て十月に改めて申し渡されている。十一月に加賀藩は十村谷井左次兵衛等を銃卒稽古方取縮役に任じた。十二月新川郡の動員計画が建てられる。
 三月両藩ともイギリス船入港に備え、四月野尻村からも御郡詰五十人を出す。五月二十一日軍艦發機丸で前田斉泰と慶寧父子が勝興寺を法要する。十月に福光村で十九人から塩硝製造の願い出がある。五箇山では九月上煮屋の株立制を廃止し、十二人を増員して三十二人とした。新古土惣坪数は一万二百三十坪になる。新川郡では一月に生産を申し渡し、横尾村に火薬製造所を置く。富山藩でも四月に塩硝製造のため、床下土・木灰を集めるよう指示を出す。その際に床板等を破損させないよう注意するよう付け加えた。
 国境から浪人の侵入を警戒し、加賀藩は一月境関所の足軽を十人増やして三十人にする。八月二十八日東猪谷に足軽三人を増やし、富山藩は九月七日に西猪谷に新番徒歩一人・割場足軽十人と十四日に剣付鉄砲十挺を十月二十七日まで増置する。八尾商人には百八十二人に焼印木札を渡して通行を認めた。 十二月急激な西洋化を戒めた藩主と藩老本多政均・長連恭・奥村内膳が対立し、海防御用辞任を申し出る。前田斉泰は身を引き、慶寧が代理になって西洋化を進める。


文久四年・元治元年(一八六四) 二月二十日改元
●産業・文化
 加賀藩では家中へ自分知百石に付き毎年三十匁ずつ三ヵ年借り上げる。町方には十三匁・郡方には八匁を割り当てた。
 砺波で若林口と鷹栖口用水を合口する。これは、旱天の時に上流の村が川を塞き止め使うため下流が困る。そこで藩はこの用水を共同利用にして下流を救えばよいと考え、藩費や補助を支出して上流を説得する、という方法である。五箇山で九月上梨温泉への通路として庄川に藤橋を架け渡したいと願い出て許可を受ける。以後毎年架け替えた。十一月に城端近在で作った葉藍を砺波郡鷹栖村市十郎等が玉藍として金沢へ送付する時に、口銭を納めることとした。小松・松任・所口・高岡・今石動・氷見・城端・魚津の町年寄達が、郡方ばかりに藩が重点を置いていることは町方の衰微につながっている、と訴える。今石動・津幡・竹橋の三宿を再建するため、天田峠を繰りぬく倶利伽羅運河の計画が建てられた。小矢部川から河北潟まで運河を掘る計画も九月に立てられる。福岡には産物会所が作られる。この時期の菅笠の他国出津は千二百十万蓋であった。
 氷見では中村で二十八石の新開がある。大境村は中波村に倣い麻苧台網を作った。さらに二月大小縁取りした茣蓙一万七千二百束を氷見物産方として仕法立した。六月伏木浦への入浦禁止品目と他国廻り品の取縮を定める。高岡で二月に老若男女四千五百人の手間仕事として傘の他国出を願い出た。
 滑川でも産物会所が小泉屋太右衛門宅に設けられる。魚津では魚売捌人の立野屋五兵衛・浜屋弥右衛門・四十物屋半右衛門が協議し、買受地区を分担した。上市には中出蔵が建てられる。
 富山では五月に衣服の定めを厳重に守るよう達する。 朝廷にあっても物価の上昇を憂慮し給い、そのため幕府は諸民の難儀を顧みない者は処罰すると命じて、これを六月に公布した。七月物価引き下げを申し渡す。八月に南之升形御門外橋を普請し、十月末に町吟味所の建て替えがなった。十一月に十村安藤次郎四郎と高嶋庄右衛門が借財御用に任じられた。十二月に博打を厳禁する。またこの年も六月に小麦を津留にした。
●災害・危機
紛争 富山藩で七月一日に、加賀藩と協調しながら財政再建と高島流による軍備の充実を図っていた家老の山田嘉膳が、登城途中に三ノ丸で暗殺される(前田文書23「島田勝摩・山田嘉膳之一件」)。嘉膳は文化二年江戸浅草の商家に次男として生まれ、筑後柳川藩士の養子を経て、天保頃その才能を見出した富山藩士で十人扶持衣紋方山田五助純武の養子になる。天保六年作事奉行、同七年江戸定番足軽頭、そして四百石若年寄、安政六年に家老に、というような短期間に異例の昇進をした江戸派である。これに反対していた高知組で火消役・御先手頭並滝川玄蕃は富山派であり、同派の島田勝摩が嘉膳を斬った。
火事 十月三日伏木の中伏木屋彌十郎宅で、夜に菓子製造のための「ホイロ」から火が出て、二百軒余を焼く火事になった。十月六日生地で宮川町米屋長左衛門宅で夜に出火し、五百三十軒を焼いて翌日に鎮火した。中橋川北がほとんど全焼し、新治神社社殿も類焼する。上市では十月に折戸村で火事があり、全焼する。水橋で十月二十一日辻ケ堂村の仁三郎宅で出火し、三軒・納屋三棟・「けらだ」一つを焼き、西水橋に飛んで三軒を類焼、半潰一軒と小屋一棟を焼いた。
 富山藩は四月に町方出張番に火盗用心のため、十四日から夜四ツ時・九ツ時・八ツ時・暁七ツ時半に各家を廻って、火の用心を尋ねることを命じた。十二月にも火の用心を布告し、子供に留守させたり、隣家に頼んで入口戸縮のみで外出することは以ての外、と断じた。
高波 八月九日伏木で高波の被害があった。
疫病 砺波郡で麻疹が蔓延したため、医者畠伯春が薬を各戸へ配布する。
海防・軍事 五箇山で一月灰汁煮塩硝の値上げを申請し、六月高岡・魚津に火薬蔵、十一月東岩瀬に塩硝蔵を建てる計画を詮議した。
 三月に在番を帰任させ、以後金沢からの巡視で対応することにするが、領民の海防の熱は急速に冷めていく。二月に砺波の神島で銃卒を大々的に調練する施設を設営し、氷見や三日市でも稽古を始めたが、士気が高い高岡の銃卒を除いて各地の銃卒屯所で出席者が激減する。射水郡で六月に銃卒出方仕法定書を作成するなど、藩は督促に力を入れるが食い止めることは難しかった。十月に生地台場が修築された。さらに石炭調査が行なわれ、氷見の阿尾や新川郡の黒牧村・城生・東谷で発見された。
 水戸の天狗党二千人が越前穴馬郡大谷村へ赴き、飛騨野々俣に現われたため、六月二十六日西猪谷へ新番徒歩一人と割場足軽五人を派遣し、二十九日に着任した。十二月飛騨から富山藩へ救援を求める報が来たので、藩兵を国境に屯集して警戒に当たったともいう。また今後関所の警固は鉄砲足軽二十人と八尾の銃卒二十人、大筒二挺を含む六十二人で行なう、という計画を立てた。加賀藩は八月十一日から九月二十日まで五箇山大勘場の口留番所に定番御徒歩坂井八百次郎・近藤伝蔵を派遣した。十月他国者を警戒し、十月から関所で小札を渡して一泊ごとに裏書きするよう申し渡した。
 藩主名代前田慶寧は京で曖昧な行動を取ったため謹慎になり、これを機に十月加賀藩の勤王派は一掃される。
 富山藩では一月末に異国船渡来の際の合図を定める。まず二ノ丸御丸鐘を二つずつ打ち、市中寺院が受け継ぎ二つずつ急太鼓を打つ。御手当人諸向は火事の時と同様登城して下馬に詰め、火事具を着用することとした。八月に剣術師範達が自宅に稽古所を設置したいので、借銀をしたいと願い出た。



【第五章のまとめ】
 加賀藩では黒羽織党が政権に復帰し、物資の領外流出を防いで、領内の需要と移出を調整しながら、物価の下落と必要物資の確保を図った。
 富山藩では金札が加賀藩の管理下で整理され、政務・民政とも従前のしがらみを廃して刷新される。一方で宗藩と協力して財政再建を進めていた山田嘉膳が暗殺されたが、改革路線自体はそのまま継続され、財政再建の加速化と、迫り来る国政規模の変革に備え西洋兵制を定着させる。

水道の整備
 この頃には生活環境の整備が進んでいる。水道も埋設地が増えてきた。砺波郡では用水をそのまま引いて飲料水にしていたため、伝染病の危険が絶えなかったが、五箇山等の山間部では谷間の水を竹樋で引いている。伏木でも台地の上から崖下泉を、木の継手で竹樋を継ぎ足して引いているが、分水池を用いていた。この方式は高岡町でも使われ、奉行所官舎や片原町等では湧水を用い、金屋町や横田町等では庄川の伏流水を引いて、井戸で取水している。瑞龍寺でも千保川または伏流水を引いている。坂下町では地下二・五?に直径六十六?と高さ一・五?の桶を分水槽に用い、これに竹筒をはめ、各家の井戸に水を導いた。
教育の普及
 各地で寺子屋が創設され、男女とも教育を受けるようになった。有志の青年層は私塾へ進み、また和算を学んだ。僧侶達も学塾で研鑽を積んでいた。
福祉
 これまで概観したように、藩は飢饉・災害の時には生活資金・宅地建設資金や食料を無償援助し、あるいは長期間・低利(無利子)で御貸米・銀をする。また日頃から質素倹約を奨励し、各地に備蓄米や籾を準備することにも力を入れた。
 疫病流行の節は、藩医を派遣して巡回診療をしたり、薬を町医者に依頼し配布する。その際、事前に各戸へ配ってある札を持参することになっていた。これは現在の保険証に似ている。
 老齢者には扶持が支給された。加賀藩では八十五歳・富山藩では八十八歳から名簿を作成し、九十歳になって渡される。高岡町では文政十二年正月に九人、伏木村では文化十年から同十二年まで奈良屋源右衛門の母よりが受給している。この記録から、年に二回三月と十一月(閏十一月)に支給したことがわかる。戸出では文化九年三月六日に狼の布晒屋彌兵衛、嘉永二年戸出村七三郎母みい、同三年同村太左衛門祖母きめが受給した。文化七年に砺波郡岡御所村で肝煎(まだ現職である)儀左衛門が受けている。天保十三年には百歳の人に下賜があったことがわかっている。また孝行者や婚家で尽くした嫁にも賞与があった。
 幼児死亡率が高いため、藩政期の人口は横這いであり、一軒の平均二・三人程度である。藩は三児出産があると養育費を補助し、年一人扶持を支給する。たとえ養育数が減ったとしても、十五歳まで支給し続けた。また捨て子の養育者にも支給している。
 目の不自由な人々にも、男女を問わず資金を長期返済で融通した(実際に返済したかは不明)。



第四章 安政万延年間 ~疫病と地震への対処?~

2007-11-02 18:06:22 | 越中国年代記
安政六年(一八五九)
●産業・文化
 五箇山で十一月湯谷川橋の架け替えがなった。庄川で大門大橋を架け替えることになり、五月に古橋の払下入札を公示する。条件は古橋杭を抜き取ることで、古材はそのまま持っていっていいが、金属類は回収する。もし水際で切断したら、一本に付き十匁を入札価格に加算するという。翌年四月に竣工し、作道村十村斉藤庄五郎父子と串田村組合頭伝兵衛が表彰され、文久二年五月には藩から斉藤家へ銀一枚・伝兵衛へ銀二匁が下された。この橋には駒除が中央に一ヶ所ずつ橋の左右に設けてあった。また高岡小馬出町の銅器商角羽勘左衛門が、横浜居留地に進出して海外貿易を始めている。
 加賀藩は十一月幕府より十月十七日に炎上した江戸城本丸を再建するための助役として、五万両を納めるように命じられる。高岡町ではかつての楼経営者達が瞽女を養女にして町弾きさせていた。町ではこれを禁じるが、生活保障上やむを得ないと考えた町奉行の長屋八内は、自身が退任する月に、遊女屋にはならないことを誓わせて楼の復興を許す。
 富山藩では二月に町内の警戒を厳重にして治安の維持にあたる。六月前田利聲の参勤が病気を名目に延期され、八月心労が祟ってか前田利保が薨去し、九月に前田利聲の隱居と本藩から前田斉泰の九男で安政三年六月二十七日誕生の稠松が養子として藩主に就任することが発表される。それにともない宗家から家老や横目等が派遣される。十一月二十八日に幕府から藩主交替が承認され、いったん利当と名のった後、利同に改めた。積雪があり除雪を申し渡し、八月と十二月に反魂丹・頼母子方を勘定所管轄下で再興を図る。また鼬川裏橋の架け替えがなった。
●災害・危機
 紛争 九月糸商売をめぐる争いに福光が勝訴する。高岡町では遺言状の開封に不正が横行し、九月当分の間町方足軽(定員二十一人)が立ち会うことにする。しかし面目を失した町役人から、これでは女子供が思いを申せなくなる等の抗議を受け、十月に撤回せざるを得なくなった。
 救済 高岡町では救恤が継続される。一月二十四日から三十日間五百九十軒・二千八十人に粥一日一合ずつ、三十一石二斗を支給する。戸出でも窮民救済措置が取られている。砺波の御貸籾が継続され、杉木新町七俵七斗八合、太郎丸村九俵四斗八合、深江村三俵一斗四升、神島村五俵一斗九升五合、大辻村一俵三斗三升三合であった。富山では六月いつものように小麦津留を通達する。
 火事 砺波郡の野尻村で二月二十八日に万兵衛宅が焼失し類焼する。放生津で二月九日夜八時光山寺が火事になり、十三軒が類焼する。一月に佐渡沖で異国船が出没したとの報があり緊張が高まっていた。そのため住民はこの火事を異国船が襲来したと誤り、騒動になっている。四月二十二日夜四ツ時光明寺で出火し、十一軒を焼いた。氷見では三月二十五日湊町で御用うどん師の稻積屋六左衛門宅で出火し、湊町二十六軒と中町一軒が類焼する。大聖寺藩前田利極側室寿聖院の御用紙とうどん二十把も焼けた。高岡では六月五日に繁久寺が焼けている。
 滑川で九月三十日に宿方頭振の菰原屋安兵衛宅から出火し、晩に南風が吹いて、町では千八百八軒中三百八十六軒が類焼、その内六十五軒が農家・三百二十一軒が頭振、御本陣の類焼一軒・潰家十七軒・割屋借家人類焼五十九軒・焼失土蔵五棟・焼失納屋五棟・その他寺院、浦方では二百二十四軒中九十二軒が類焼し、内二十一軒猟師・七十一軒頭振、潰家三軒・割家借家人焼失七軒・寺家村では百四十四軒中六十八軒が類焼し、内六十軒農家・八軒頭振、燒失土蔵一棟・その他寺院、田中村では四十九軒中三軒類焼し、一軒農家・二軒頭振である。総計燒失五百五十軒中潰家二十軒・借家六十六軒・寺院搭中十一ケ寺で土蔵六棟・納屋五棟・神社二社・舞々五軒となった。
 洪水 この年は雨が多くて南風が強く、五月に雹が降る。六月には婦負郡笹津村より上手で三・四寸積もった。五月十九日から二十一日に小矢部川・千保川・庄川で出水し、砺波郡や高岡の木町・下川原町に被害が出る。八月十二・三日小矢部川が出水、砺波郡では浸水があり、そのうえ十九日には積雪の雪が溶けたことで、洪水が発生する。氷見では五月に湊川が出水した。
 富山藩領でも加賀沢村山嶺が崩壊し、五月二十日神通川を塞ぎ、諸川が出水する。水位は一丈二尺五寸に達し、三千二百軒が浸水する。富山藩は六月に二十八石を支給し、三千五百石を免祖した。十一月二日・三日・九日に西水橋で高波があり、潰家六軒・半潰十六軒・波が裏口から前口へ通り抜けた家三十一軒・波付十軒・人家囲波除二つの流失があった。
 竜巻 砺波郡油田で四月十一日に竜巻が発生し、晒布や立木・花草等を巻き上げながら、放寺より新明の方向へ進んでいく。その道筋には雹が多く降ったという。
 疫病 春に疱瘡が流行し、東岩瀬町で羅患者五百二十人・死者百五人、大広田村九十八人・十六人、針原村八十二人・十一人、浜黒崎村八十七人・十二人、三日市では前年十月から五月まで七百八十人・二百六十人であった。
 コレラが昨年来各地で流行する。放生津では八月十八日にコロリ祭りがあり、悪疫退散を願って、各町から下山車が出た。砺波郡では九月二十四日から十月一日までの内、晴天両日に祭りをするよう指示があり、砺波で中止されていた歌舞伎山を四日間引き出した。郡内各地では獅子舞、五郎丸では丈四間余の鐘馗大臣の作り物も出た。新川郡では九月六・七日に実施するよう指示が出ている。
 下新川では十二月晦日貧民に芳香散代銀十一貫二百二十二匁余を支給する。富山では日々七・八十人が病没したともいう。
 海防・軍事 三月加賀藩では異国船発見時の報告を簡略にし、平時への復帰を図っていたが、四月二十四日に四方沖を異国船が通航する。富山藩では御馬廻組一組(西尾左次馬)と御先手筒足軽の御異風組で高島流を修業した二組(渡辺尚義と金岡勝亮)を派遣する。前者は二十七日に、後者は二十九日に撤収した。二十五日西猪谷と切詰両関所へ新番御徒歩一人と御先手足軽十人を派遣する。爾後の対策として、五月二十五日富田俊政と花木初彌は、本藩の奧村河内守に四方・西岩瀬間に御台場一ヶ所を設置することを提案した。
 この異国船は二十四日のうちに伏木へ到着、端船を降ろし無断で湊内に侵入して測量をする。すぐ飛脚が金沢や各地の奉行所に飛び、今石動奉行所では御台場守衛のため与力を派遣し、高岡町奉行所では金沢からの部隊到着に備え、船の手配など迅速に行なった。しかし金沢では事態を冷静に受けとめ、船も立ち去ったため、部隊の派遣は見送り、五月四日に家老を派遣するに止める。この異国船はロシア船であることが、伏木村役人の絵図を付した報告書で明らかであり、この時修好条約締結国では開港予定地の新潟が地質上外港としては不適当ではないか、との懸念をもっていたため、代替港を調べていた。その候補に所口や伏木浦もあがっていたようである。なお、この事件の後、加賀藩では異国船渡来時の飛脚注進方法を明確にした。また十一月に生地台場で布目大太郎と馬場三郎を配置に就けた。
 五箇山では三月に塩硝新土切直し人夫賃を借り受ける。四月に上野村五郎右衛門が上塩硝上ケ尻株一箇を代銀一貫二百目で入手する。十一月生地御台場の大筒打人を魚津御馬廻の子息達に命じた。
 富山藩で三月十五日に布瀬川原で酒井流大筒稽古をしている。


安政七年・万延元年(一八六〇) 三月十八日改元
●産業・文化
 加賀藩では五月幕府へ納める費用を捻出するため、一年五匁ずつ三ヵ年町在から借入銀をした。六月に農民の頼母子世話方を禁止し、八月蔵宿縮方を触れた。十月屎物に石灰の使用を禁じた。福光と福光新町が曽代糸の移出を出願したが、不良品が混入していたため却下された。これは小松の商人の願いを容れたからで、これからは領内で売り捌くよう命じた。井波町で臼浪水と旧井波城二の丸境の内濠土居を崩して埋める。五箇山では一月に小谷川東又の四か村入会山で境界が確定する。三月に上梨村湯出島で湯が多く出る。これは前々年の地震の影響であろうか。村では入湯の仮小屋掛を出願した。閏三月籠渡村で獅子舞の獅子頭と衣裳が作られている。高岡では六月に三木屋市右衛門が主付になり、高岡玉綿場を再興するために仕法書を定めた。新川郡では末三ケ野の内十万四千百十歩に新庄野村の流民が引っ越す。さらに十四か村の流民も移った。舟見村で愛本橋の架け橋を願い出る。そこで藩は鎮守森の材木を徴発し、橋を作る準備に入った。浦山村では五月に六右衛門林等二ヶ所四斗の新開願いがある。
 富山藩では、一月に本藩の支配下に入ったことを町在に触れ、江戸上屋敷が手狭になり浅草屋敷を作って先代前田利聲が引っ越した。また本藩から助成金を六年間毎年五千両ずつ受け取ることになった。三月町中往来道の補修について触れ、水戸藩士大関和七郎と黒沢忠三郎を五月まで預かった(京極家と九鬼家に替わる)。四月に江戸城本丸普請費用の上納が幕府から命ぜられる。
●災害・危機
 不作 五月十一日の夜に大風が吹き、新川郡では黒部の奥からの大風で桃や柿に大被害が出る。砺波郡では青田の稻の穂先が枯れて米価が高騰し、粥の炊き出しがある。戸出では難渋百十九軒に三十四日間、一人四合から二合、極難渋者にはさらに増量し、計一石一斗六升を炊き出す。水一石三升・上白米一斗五升・焚木柴十五把を要し、酒屋古武屋源七所有の大釜を用いた。また竹村屋七郎左衛門から寄付があり、西町六軒に九升・東町八軒に一斗九升・東横町十三軒に二斗・御蔵町三軒に六升・馬場町七軒に一斗一升・北町六軒に一斗一升を支給する。五箇山では四月極困窮者に御貸銀があった。新川郡の境では六月に小前者救済のため、奉行役用銀七貫匁の貸し渡しの願出があった。
 富山藩では五月に米価が高騰していたため、粗食に努め喰延するよう達せられ、九月末に米穀の津出を差し止めた。十月酒造を三分の二にせよとの幕令を公布する。十二月末に除雪を指示した。
 火事 十月十九日西の宮祭礼に沸く放生津で夜六ツ半時に中町の渋屋宗兵衛宅から出火し、百八十軒が焼失し、四日曾根町諏訪社・放生津新町諏訪社・姫野村納屋一棟が被災した(ボンボコ焼)。
 洪水 庄川で十二月に出水し、被害が出る。
 疫病 砺波でまたコレラが流行し、太郎丸村では九人が罹患、その内七人が没する。
 海防・軍事 六月五箇山で塩硝増産のため、煮立用釜を購入する仕入金の拝借願いが出された。生地に御台場の大筒が金沢の宮腰浦から送られてきた。しかし大筒を入れるところが無いため、とりあえず撫育米蔵に置くが、この置場をめぐって村民から苦情があり、来年からは大筒蔵を人家から離して作ることを強く申し入れた。そこで藩は翌文久元年に吉田村と芦崎村の係争地に造営した。
 富山藩では三月から九月まで七の日に牛嶋川原で、閏四月二日・十月七・八日に布瀬川原で高島流の大筒稽古がある。十月に銅を外国人に売ることを禁じる幕令を公布した。
その他の安政年間の出来事
 井波蚕種屋の種場に他国の蚕種商が入り込み、得意先を奪っていた。一方、八尾では紺屋次郎作が奥州梁川村から飼育しやすい蚕種の姫蚕を移入する。これは八巻味右衛門が開発した病気に強い種であった。


万延二年・文久元年(一八六一) 二月十九日改元
●産業・文化
 加賀藩では三月米商売等十四種の商売役銀を申し渡す。六月三州十村が借上銀上納を八月から十月に延期してほしいとの請願がある。十月に郡奉行と改作奉行の勤向を定めた。
 井波町では三月町人の三味線禁止が触れられる一方で、八幡宮境内に養蚕社が建つ。五箇山で三月九里ケ村等の六人に鳶役が命ぜられ、十月九里ケ村と下百瀬川村に洩物改番所を設けた。今石動町役人が七月他国出蚕糸の取り締まりのため口銭取立を願い出たが、十二月に福光村が反対する。福岡町で長安寺朝順恵の提唱で、小矢部の末友村月海から雅楽を学ぶ。
 氷見で中波村の大西彦右衛門は、能登で採用されていた藁網と麻苧網の併用を試みる。砺波・射水郡奉行は六月に農民の心得六十五か条を申し渡した。
 新川郡では吉原沖秋台網に鰤が大漁であった。愛本新村猿ケ窪で七月に二石の新開願いがある。七月幕府からイギリス船が、この年の二月に起きたロシアによる対馬占拠に関係して領海通過と寄航することがある、との連絡が入り、伏木と放生津では石炭の替わりに松薪をそれぞれ五十棚、東岩瀬と生地では三十棚ずつ準備し、さらに一ヶ所に五百個ずつの卵を買い集めた。だが結局沿岸を通行することはなかった。
 富山藩では東海道筋川々普請御用金一万二千両を、郡方八匁・町方五匁として三年間借り上げる。猪谷村の治郎兵衛が砺波郡金屋村から人足を雇い、百歩に金一両一歩から二両の割合で支給して、よつじ・川原・小中島・中沢・流し川原での畑地三百歩に用水を通す(文久三年完成)。二月反魂丹・膏薬・油製・菜種沙参煎物等は清水で煉場製法して各家では作らないことを命じる。三月困窮家中に知行高百石に付き十五両ずつ貸与した。四月民生も砺波郡十村荒木平助と射水郡十村折橋九郎兵衛が担当する。五月子供の菖蒲打を禁じ、物真似芸人を雇うことを禁じた。七月イギリス船の近海測量に関して、冷静に対処し、上陸があったときも同様、火の用心に努めよ、等の心得を伝える。十月に農民が納入米以外を十村に届け出
さえすれば販売できるようにする。九月蔵納めはこれまで五ヵ村で貸借し合って全体の数字さえ合っていたらよかったのであるが、トラブルの元でもあったためこれをやめ、一村限りとする。また寺社町人持高を禁じ、農民が取り戻すものとする。九月時点の郡方は一万二千百六十二軒で高持九千六百五十一軒・頭振二千三百七十六軒であった。十月には給人知を蔵宿納にした。同月末に鼬川裏橋を修復する。また 和宮様御下向のため、横川御関所(現在の群馬県横川村)を十一月三日から五日まで前後七日間往来留めにすることを告示する。十一月正銀が払底し、納入する銀は銀座に封付で指し出すことを触れる。十二月諸物高値につき元値に下げよとの幕令を公布する。郡方では長百姓格を差し止め、さらに紙楮方仕法を定めて野積谷の紙を城下恵民倉に集め、市中紙屋へ売り捌くことにする。毎月三月に販売し、紙代銀に一分三を納付させた。また紅白金札消込残り三千七百両余を年中に破棄した。婦負郡では宮腰用水を井栗谷まで延長することを許可する。
●災害・危機
 紛争 富山藩は七月町人・家中に収穫時に畑を踏み荒らさぬよう厳命する。十月に神通川で御収納米・作徳米を舟橋・長柄町端に着船すると、群衆が我先に集まり頼まれもしないのに陸揚げを手伝い、駄賃を請求する、といった事件があり、これを取り締まった。
 二月一日夜に砺波郡で宮村屋佐六宅に賊が忍び入り銀四貫目を盗むが、井波富突の札を落としていったためすぐに中村半佐という者が浮かび、翌日の夜に逮捕されている。
 米価高騰 諸郡十村が三月米価高値につき三州へ貯用籾二万千二百三俵の立替えを願い出る。高岡町で六月六日から三十日間町会所は米購入費を、一日一人四文ずつ支給する。また社倉を設立するため五月に町会所に計画が提出される。御旅屋横御林地六間×十間に建設する予定で、当分御武具古御蔵を借用し、ここに町人が一人一日に二合・年七斗二升を与えることにする。有峰村では一日一人二・三合の粉糠を支給する。富山藩は五月に小麦を津留する。しかしこの年は各地ともに豊作であった。
 火事 砺波郡では三月十六日立野の西方で二十八軒焼失し、並松四・五本も焼けた。福野の下町新道で四月に火事があり、十五軒が類焼する。新川郡の東水橋で十月三日に泉屋吉四郎後家いそ宅から出火し、四十八軒(内二十五軒が猟師)と潰家十二軒・焼失納屋七棟を出す。そのため御貸米三十七石一斗が支給された。東猪谷で三月二十五日に火事があり、五十三軒と関所・宝樹寺が燒失した。
 洪水 新川郡で八月二十九日洪水で笹川橋が流失する。七月十日猪谷で大雨のため地滑りが発生し、飛騨往来に大被害が出る。民家六軒と作小屋が潰れ、関所長屋南縁に被害があり、十三日に富山藩の検分がある。潰家六軒に米一斗ずつ、家に石・砂が入った十軒に七升ずつ支給し、飛騨往来修理のため、猪谷村へ百十四匁二分四匁・加賀沢村へ四百三十八匁・蟹寺村へ二百三十三匁二分八毛を支出した。また猪谷村で流失した四十一石四斗五斗分を免税する。
 種痘 加賀藩は八月に領民に宛て種痘を受けるよう布告する。
 海防・軍事 富山藩は七月四方町の囲地内に御台場用地を定める。その後海防役所を設置し、桜谷から海上を監視した。夏に安野屋村神通川縁「宇梠上ケ場」「字尼寺跡」に調練場を造営した。九月二十七日に磯部定五斗目で川原調練がある。



【第四章のまとめ】
 加賀藩で安政元年六月に政務を担当していた長連弘が解任され横山隆章が就任する。領内商業を保護しつつ、銀札を増発したため物価の騰貴を招き、安政四年五月に価格の再検討を命じて下落を図るものの、同年十二月には暴騰する。また幕府から上納を命ぜられ、頻繁な借上を余儀なくされた。海防に努力し、銃砲の整備と火薬の備蓄に力を入れた。
 しかし自然災害と疫病の多い時期に重なり、ことに安政五年は酷い年であった。藩は財政的には全く余裕がないにもかかわらず領民救済に全力をあげた。各地で発生した暴動にも一部を除いて穏便な処置に努める。その反面で家中は禄が藩に借り上げられ、困窮を極めた。
 富山藩ではついに財政が破綻する。藩政・民生ともに加賀藩の管理下に入り、藩主や家老・横目・十村など要職全て加賀藩から派遣された。また藩札も結局は破棄されたのである。軍事的には大筒流派を検討し、高島流を全面的に採用していった。
 異国船が頻繁に姿を現し、和親條約と修好通商条約が諸外国と締結され、また万延二年二月に対馬がロシアにより占拠されるといった事件が勃発した。越中国でも伏木にロシア船が無断浸入し、対馬事件でイギリス船が通過するかもしれない、等で緊張が走る。