加賀藩は、文化三年(1806)一月のロシア船に備えよとの幕令を受けて以降、着実に海防の準備を進め、佐渡沖に異国船出没が伝えられた嘉永年間には、海辺防備を一層厳重なものにするため、越中国を含めた沿海一帯に御台場(砲台)を建設するなど、一運の防衛構想を実行に移していきます。
御台場の設置
御台場は晶川にあるものが有名で、デートスポットにもなっているようですが、本来は異国船侵入に備えた砲台であったのです。
文化三年十月に領内海辺を調査して以来、年数も経過した嘉永二年(1849)十一月に、藩は領内海辺の村々の道程と海深を調査するよう十村へ依頼しました。早速十村は、海岸よリ沖へ向かって一定の距離ごと調査した報告書を作成し、翌年五月頃に金沢へ提出しました。
すでに嘉永二年五月から、御台場の設置場所につき協議(越中からは魚津在住と今石動等支配が参加)を重ねてきた藩は、各郡からの報告書を参考に、翌三年八月設置数を決めました。それは全沿岸に十三箇所、優先着工が六ヶ所(本吉、大野、黒崎、輪島、宇出津及び伏木)というもので、能登国では計面を拡大し、安政元年(1854)までに二十七ヶ所設置しました。
越中国では、伏木に放生津を加え、直ちに着工の運びとなり、更に同四年三月の藩主視察の結果、生地と氷見にも築造が命じられました。それではその一つ一つについてみてみましよう。
(1)生地台場(黒部)
ここは地理的に、能登岬と相対する場所にあリ、嘉永四年(1851)九月に築造が決定されると、総工費銀一貫五百四十九匁一分をかけ十月に着工、なんと翌月に早々と完成させてしまいました(現在の黒部市生地芦崎、生地駅の西一・五?、越湖浜南西)。
しかし肝腎の大筒が金沢よリ送られてきたのは、遅れに遅れ、万延元年(1860)六月になってからで、この時の加賀藩は銃砲不足に悩まされていたのです。
御台場は、幅六間から七間・長さ八十間程で、五ヶ所の台座(臼砲を使用)を有し?、元治元年(1864)十月に幕令で修築しています(黒部市は平成七年十二月に御台場を復元し、原寸模型の臼砲まで設置しました)。
《参考》臼砲弾丸の飛行距離 m
照準角度
発射薬量------30度--------45度--------60度
157.5g--------383m--------463m-------431m
468.8g-------1,214m-------1,364m------1,086m
(金子功『ものと人間の文化史 反射炉?~大砲をめぐる社会史』)
註
?大筒の大きさ
六寸六分臼砲(約20cm) 空丸30ヶ
四寸(約12cm)臼砲 空丸30ヶ
四寸臼砲 実丸30ヶ
とある。この3門しか確認できない。空丸は「うつろだま」と読み、中空の弾殻に火薬を充填できるもの、実弾は「すだま」と読み、火薬を内蔵しないものを言う。
(2)放生津台場(新湊) 嘉永二年六月放生津の町年寄二人が設置場所の選定にあたリ、八幡宮境内北辺の浜地に正面四十二間五分(76m)・西面九間二分(17m)・東面十二間四分(22m)・高さ十尺(3m)の規模で造営しました。翌三年四月二十三日に藩主検分があリましたが、大筒がこの台場へ搬入された形跡はなく、未完成のままであったようです。以前は御台場跡の痕跡が残っていましたが、現在は場所の特定も難しい状態になっています。
(3)伏木台場(高岡)
嘉永三年十月に着工し、翌年四月に完成したこの御台場は、台座五ヶ所を有し、正面二十五間二分五厘・内面十九間六分・幅三間・前高六尺四寸・後高八尺の規模でした。
串岡に火矢蔵を同時に建設し、七月十七日金沢からここへ大筒? を搬入しました。但しこの大筒は・慶応三年(1867)八月の幕府外国奉行菊池伊予守一行巡察時には既に撤去されていました。現在御台場跡近くには、地図と説明の入ったプレートが設置さ}ています。慶応四年(明治元年)に、藩は改めて伏木と吉久に御台場建設を計画しますが、未着工のまま廃藩置県となりました。
註
?大筒の大きさ
六貫目筒4挺(目方百六十貫目)------六貫目の砲弾を打つ約600kg の大砲(和筒か)
一貫目筒1挺(目方三十貫目)----約112.5kg
火薬入長持3棹(目方七十五貫目)----約281.3kg
金沢から今石動まで出して船積みし、高岡の木町で積み替え、伏木へ運んだ。
(4)氷見台場
氷見での御台場建設計画はどこよりも早く、嘉永三年六月には既に縄張りを行っていました。しかしその後、放生津や伏木が優先着工されたこともあり、工事が延期され続け、結局着工されないまま明治の世を迎えるに至りました。
(5)富山藩四方台場
富山藩では、安政元年に西岩瀬と四方間に「海固倉」を作り米三百石を積み込んで異国船襲来に備えていました。同六年四月に発生したロシア船の伏木侵入は富山藩内にも大きな衝撃を与え、苦しい藩財政をやリ繰リしての御台場建設を決断しました。急ぎ。文久元年(1861)七月に四方で測量を開始し、同三年四方・西岩瀬間に設置をみます。また、付随設備として海防御役所と見張所を設営し、桜台の高台で常時海上監視にあたりつつ、川原での鉄砲稽古を幾度も重ね、防衛力の強化に努めました。
在番制の実施
不意の異国船来襲に備えるため、海辺駐屯兵力の増強を決定した加賀藩は、形式任命にすぎなかった嘉永六年九月設置の新浜在番と富来在番を文久二年十月に改組し、十二月までに任地へ部隊を率いて赴くよう命じました。しかし藩士たちが皆士気盛んというわけではなく、情けなくも病気と称し赴任を渋るものが続出しました。そのため元治元年に藩から督促を出しているほどです。
その一方、越中国新川郡に赴いた在番六隊(一隊につき武士三十人と馬一疋)は士気旺盛で、東岩瀬は御馬廻、滑川は銃卒屯所藩士、魚津は郡代、生地は在番(人持組千石以上藩士)、入膳は銃卒屯所藩士、泊は在番(人持組藩士)、境は奉行を地域責任者に任じました。
ただ急遽決定されたことであり、駐屯施設の不足は止むを得ず、現地の苦労は多かったようです。
在番は伏木や新湊の浦々へも進駐し、放生津打出本江村の西浜では浜稽古を行っています。
こういった在番制度は元治元年三月に突然廃止が決まリ、かっての金沢よリ非常時に噌兵を派遣する形に戻リます。京で甲子の変があリ、既に藩の目が掴内に向いていたこと、在番にかかる経費が藩や地域住民の多大な負担になっていたことなどがその理由と推測されます。
人夫徴発の制度化
越中国での本格的な人夫徴発の制度化は、嘉永二年四月の新川郡におけるものです。加賀藩はこのとき十村を通じて徴発を行うものとし、宮崎・泊には備え方(指揮者)六人と二組の計九百人、横山には備え方四人と五百人、生地・黒部両湊には備え方七人と二組八百人、石田・浜経田には備え方五人と二組五百人、その他適宜必要に応じ増員することにしました。その際、文化五年に定めた緊急時の対応を確認しています。
また同四年四月には氷見で人夫百六十人を四手に分け、集合時の服装についても決めました。?
全領内の動員については、同七年二月海岸の有無にかかわらず計画が立てられました。例えぱ越中国新川郡における算定の根拠は次の通リです。
新川郡の十五から六十歳の男子よリ耕作人数を高十石当り一人、漁師は大小とも船一艘当リ六人、他国出の売薬人などの出稼人や町方奉公人及び病弱柔弱者を差し引き、そこから東岩瀬・滑川・三日市・浦山・舟見・泊・入膳の宿用人足及び能登や魚津への出稼人・山稼人・金山山師などの人数を除いた数、これが徴用人数です(倉田守「ペリー来航時における加賀藩の海防政策」を参照してください)。
こういった方法で算定した総御手当人夫は五万六千二十六人となリ、その内越中国は礪波郡一万三百九十七人・射水郡六千九百七十人・新川郡一万三千四百四十九人でした。
人夫の召集は三段階に分け、即日召集の一番手から三日後召集の三番手まで九千人を確保し、その内越中国礪波郡で千六百三十四人・射水郡千百八人・新川郡千七百九十七人を予定していました。
人夫の選定は領内各地で行われ、黒部の三日市では十五から六十歳までの男子を徳法寺に集めて籔引きで決めました。また礪波郡の福光村や城端町では「早足人」?の人選を行っています。
人夫動員令の具体化
安政三年六月に新川郡で人夫の動員配置が次のように発表されました。
一、五百人 東岩瀬 外五拾人御郡所附
一、六百人 両水橋
一、三百人 滑川
一、八百人 石田 生地迄
一、八百人 横山 泊町 宮崎迄
〆三千百五拾人
これは実際に補助戦力として動員できる人数ではないでしょうか。こういった人夫徴発の制度化は内地?でも行われ、例えぱ礪波郡の野尻組では異国船渡来時には、荷物運搬のため十九から五十歳の強壮者五十人を津沢御蔵に出すことを決めています。
在番を実行に移した藩は、安政三年一月に村人たちへ郷土防衛への協力を要請し、測量技術者を立ち合わせること、在番が持ち場へ臨時出張した際の炊出手配(不足分は蔵米を用いる)、非常時の人夫召集、在番の弓・鉄砲稽古、などへの理解を求めました。
二月には射水郡で人夫集結の細目が定められ、集合場所十一箇所を指定し、小杉御郡奉行所附百五十人、同備荒倉詰三十人、放生津御蔵詰・吉久御蔵詰各百人、伏木御蔵詰五十人、同御台場詰五十人、村々の肝煎や組合頭が諸役に就き、十村は別に人夫二十から三十人程を率いて全体を統括するものとしました。またこの時、二上・米島・能町・六渡寺・湊口の五ヶ所の渡場に、各二艘の渡船を増置することを決め、更に「村役人心得方」を布達し、注進飛脚のこと、村役人や人夫の服装のこと、目印紋のこと、異国船狼籍の時に早太鼓・早鐘を打つこと、人夫は鍬・鎌を持参すること、などを確認しています。
文久三年(1863)藩主前田斉泰も郷土防衛への領民の協力を訴えた異例の書簡(史料)を発し、これが二月から三月にかけ領内全域に伝達されるのと併せ、各地で連絡方法が確認され、四月には領内全村に諸人夫の達しを出して、重ねて周知徹底を図る念の入れようでした。またそれと関連してなのか礪波郡で前後詰の割替が行われています。
藩当局は人夫動員を確実なものにするため、名簿の作成を企図します。現在のように戸籍を管理してはいない時代の話です。この年の一月領内各十村へ宛てて、十七から五十歳までの全男子を書き上げるよう達しがありました。しかしこれは大変な作業で、また実際的ではなかったため、五月に改めて他国へ出稼ぎにいっている者や村役人を除いて報告するよう変更しました。この時に作成した名簿は、後に銃卒取リ立てや御手当人足の取リ立てにも用いられます。
新川郡での人夫動員計画
文久三年三月十二日に藩は新川郡海辺の人夫動員に関し、御扶持人十村へ次のように達しました。
一、御郡所詰井臨時御用 但詰人夫三百二十人
一、御郡御奉行御両方御出張の節御召連 但詰人夫四百人
一、東岩瀬詰 但草島村よリ日方江村迄詰人夫三百二十人
一、同所御蔵詰詰人夫二百人同所土蔵詰 詰人夫八十人
一、東西水橋詰 但黒崎村よリ魚躬村迄詰人夫四百四十人
一、同所御蔵詰 詰人夫四百四十人
一、滑川詰 但高月村よリ早月川迄詰人夫六百四十人
一、同所東西御蔵詰 詰人夫六百人
一、魚津御蔵卉御塩蔵詰 詰人夫四百八十人
一、三ケ村よリ浜経田村迄 詰人夫二百四十人
一、石田御蔵詰 詰人夫六百人
一、生地並御台場詰 但浜石田村よリ荒俣村迄詰人夫四百八十人
一、新浜詰 但同所よリ木根村迄詰人夫三百二十人
一、横山詰但吉原村よリ春日村迄詰人夫三百二十人
一、横山御蔵詰 詰人夫三百二十人
一、泊詰 但赤川村よリ横尾村迄詰人夫四百人
一、泊御蔵詰 詰人夫二百人
一、宮崎詰 但笹川村よリ境迄詰人夫三百二十人
詰人夫〆七千百二十人
指揮者は十村や肝煎及びその子弟で、在番臨時出張の場合の増人夫として、東岩瀬百八十四人、生地七十九人と馬十四疋、泊八十二人と馬十七疋を徴募することにしました。これらは安政三年のものよリ更に細かくなっておリ、領民の大幅動員を企図したものです。
人夫徴発の変質
同年二月礪波郡でも詰人夫を決め?、杉木御郡所へ十村三組百五十人、津沢御蔵へ一組五十人が出ることにしました。
しかし元治元年以降、人夫徴発の目的は海防というよリは寧ろ国内事変用へと変質し、例えば御手当人足を元治二年(一八六五)一月に田尻村で、慶応三年(一八六七)十二月から翌年一月にかけて領内で割当徴発しますが、これらは全て国内の激動に備えるためでした。
註
?人夫の服装
●新川郡
十村御用所では各十村とも相談し「装束者火事羽織に陣笠並帽子等着用の事、手代帯刀も可然事、在合の武器鉄砲の外持参苦しかる間敷事、等心得可有之事」と内約束した。(『朝日町誌』二二四頁)
●氷見町
役人組合頭は火事羽織に塗笠、人夫は紅木綿鉢巻を付け、各組は合印水籏を持つことを定めた。(『憲令要略』)
?早足人
一日に二十里以上の距離を歩行できる人のこと。
?内地の人夫
嘉永七年礪波郡の人夫 10,359人
安政元年射水郡の人夫 6,970人 (日尾家文書)
嘉永七年七月礪波郡野尻組報告 壱石壱斗力一人、壱石力十四人 (菊池文書)
福光村の人夫
嘉永六年七月五十四人
文久三年正月八九九人(十八~五十歳壮健)
五月六四八人(十七~四十五歳)
元治元年八月二百四十六人(内百七十人強壮の者
石崎直義「ペリー来航前後における加賀藩と富山藩の状況」より
今石動詰人夫寄ケ所
上野町廻向寺、新町聖泉寺、古国府勝興寺掛所
? 杉木御郡所へ野尻組・庄下組・若林組各五十人と人夫縮方二人・縮方並糧米方役人四人、津沢御蔵へ野尻組五十人と人夫縮方二人・縮方村役人二人

史料
当方形勢、若異人不意上陸、御郡方等へ立入及乱妨、百姓共等家財ヲ奪ハレ、妻子ヲ害セラレ候之儀有之候而ハ無念之儀二候間、追々銃卒トモ御取立可有之候得共、指懸リ候節ハ、不取敢錠鎌等持テナリトモ、少モ無泥身命ヲ限リ相防可申、其働之首尾二寄御褒美ヲモ可被下、此旨能相心得罷在侯様、予而御郡方等へ能々申含置候様可致旨、御親翰ヲ以被仰出候条奉得其意百姓共等心得方之儀得与申諭候様、所々御郡奉行並遠所奉行へ可被申談候事
(『高岡市史 中巻』1141頁)

確認テスト
今回は嘉永以降の沿岸防備について学習しました。もし可能でしたら御台場跡地に立って、海上を観察してみてください。何か新たな発見があるかもしれません。
次回は郷土防衛のための銃卒(民兵)育成についてみることにしましょう。
問
題
1 生地台場に据えられていた大筒の種類は何でしょう。
1 野戦砲(カノン)
2 臼砲(モルチール)
3 榴弾砲(ホーウィッスル)
4 和流筒
5 木砲
正解は2です。 嘉永四年の藩主巡検の後、九月七日算用場奉行水原清五郎と改作奉行木村権三郎が派遣され、十月六日台場築作方に岩峅寺の門前久太郎が指名された。安政四年以降に加賀藩火矢方小川家から臼砲の玉が届き、同六年十一月布目大太郎と馬場三郎が大筒打人として派遣される。万延元年六月宮腰浦から大筒が届くが、置いておく建物がなく、急遽生地村の撫育米倉に入れるものの、籾を入れられなくなった地元民が抗議をし、とりあえず今年の籾は他へ入れるが、来年には別に蔵を作ること、その蔵には火薬も入れるのだから、人家から離してほしいことを申し入れる。ちょうど吉田村と芦崎村で土地争いをしていた場所があった。それは台場から百八間離れた龍泉寺裏海岸近くであり、文久元年にここへ三間四方半二階の蔵を建て大筒を納めた。
問
題
2 伏木の台場に据えつける大筒は、どこで積みかえられて送られてきたでしょう。
1 金沢から今石動に出し船積みし木町で積み替え搬入した。
2 高岡から小矢部川を船で運んだ。
3 金沢から船積みし、放生津を経由して搬入した。
4 高岡から陸路伏木へ搬入した。
5 金沢から陸路砺波経由で運搬した。
正解は1です。 大筒は嘉永四年七月十七日に加賀藩御細工人河村政右衛門などにより運ばれ、串岡の蔵へ納めた。串岡には弘化年間に塩蔵が置かれ、台場建設と同時に搬入用の蔵を建てている。『堀弓翁回顧録』によると、ここへは大筒、玉、焔硝を収蔵し、危険防止のため頑丈な木柵に囲まれていたという。一朝事ある時に台場まで船で運ぶ手筈になっていた。
問
題
3 加賀藩はせまりくる異国船襲来の危機に備え、文久二年末にどのような対策を講じたでしょう。
1 藩士にイギリス式の軍事教練を課した。
2 台場の大筒を操作する演習を行った。
3 人夫を動員し、軍事演習を行った。
4 沿岸防衛戦力として、在番を実戦配備した。
5 幕府の軍勢に沿岸防衛を委託した。
正解は4です。 十二月いざ赴任させるとなると、宿泊施設が問題となる。魚津には奉行所などがあるので何とかなるが、生地と泊には施設がない。そこで民家や寺を借りることにし、役人を派遣し十村立会いのもと下検分するが決められず、翌三年一月十八日魚津・石田・生地・吉原・泊・宮崎・境の寺で借用可能の所があるかを調査し、絵図面を添えて報告するよう寺社方へ命じた。またその際、建物を新築するまでの暫定措置として使用するだけであり、部隊は単身赴任させ、新築後に家族を引越しさせる旨を付言した。三月二十日には東岩瀬・生地・泊の医者を調査し、負傷者の発生に備えた。 生地には生駒勘右衛門隊28人・伊藤平右衛門隊28人、泊に奥村善九郎隊30人・横山斎宮隊17人・大野木将人隊20人、東岩瀬に三浦八郎左衛門隊133人等が赴任する。
問
題
4 藩は補助戦力として、人夫の動員を計画しました。次のうち誤っているものはどれでしょう。
1 藩主自ら領民に郷土防衛への協力を要請した。
2 緊急時の対応についてのマニュアルを再確認した。
3 三段階の人夫召集計画を立て、人員の選定を各地で開始した。
4 砺波郡のような内地でも動員計画が立てられた。
5 射水郡の氷見では11箇所の集合場所が決められた。
正解は5です。 人夫集結場所は次の通り。打出本江村~放生津 堀岡新村茂三郎屋敷 放生津~六渡寺村 放生津八幡六渡寺神明社放生津御蔵詰 御蔵囲の内小杉下村備荒倉詰 備荒倉近く吉久御蔵詰 御蔵囲の内伏木村~国分村 伏木産神社内伏木御台場詰 伏木浜手人家の内大田村岩崎~氷見浦 柳田村産神社内朝日備荒倉詰 御蔵囲の内灘浦まで 阿尾村氏神社内
問
題
5 人夫を動員するに際して、名簿の作成を開始しました。正しく説明しているのはどれでしょう。
1 領内各十村に宛て、17歳から50歳までの全男子を書き上げるよう達した。
2 十村などの村役人は関係しなかった。
3 女子の数も計算に含めた。
4 15歳から25歳までの動員可能人数を書き出させた。
5 25歳から50歳までの強壮者のみ書き出した。
正解は1です。 文久三年一月十八日付で、金沢在府十村岩城七郎兵衛より至急当月中に報告するよう達しがある。三位組十村の沼保村次郎左衛門の報告を例にとると、17~19歳 383人20~45歳 1,729人46~50歳 270人であった。五月十一日実質的に動員できる人数のみの報告に変更された。

伏木台場の図。

御台場の設置
御台場は晶川にあるものが有名で、デートスポットにもなっているようですが、本来は異国船侵入に備えた砲台であったのです。
文化三年十月に領内海辺を調査して以来、年数も経過した嘉永二年(1849)十一月に、藩は領内海辺の村々の道程と海深を調査するよう十村へ依頼しました。早速十村は、海岸よリ沖へ向かって一定の距離ごと調査した報告書を作成し、翌年五月頃に金沢へ提出しました。
すでに嘉永二年五月から、御台場の設置場所につき協議(越中からは魚津在住と今石動等支配が参加)を重ねてきた藩は、各郡からの報告書を参考に、翌三年八月設置数を決めました。それは全沿岸に十三箇所、優先着工が六ヶ所(本吉、大野、黒崎、輪島、宇出津及び伏木)というもので、能登国では計面を拡大し、安政元年(1854)までに二十七ヶ所設置しました。
越中国では、伏木に放生津を加え、直ちに着工の運びとなり、更に同四年三月の藩主視察の結果、生地と氷見にも築造が命じられました。それではその一つ一つについてみてみましよう。
(1)生地台場(黒部)
ここは地理的に、能登岬と相対する場所にあリ、嘉永四年(1851)九月に築造が決定されると、総工費銀一貫五百四十九匁一分をかけ十月に着工、なんと翌月に早々と完成させてしまいました(現在の黒部市生地芦崎、生地駅の西一・五?、越湖浜南西)。
しかし肝腎の大筒が金沢よリ送られてきたのは、遅れに遅れ、万延元年(1860)六月になってからで、この時の加賀藩は銃砲不足に悩まされていたのです。
御台場は、幅六間から七間・長さ八十間程で、五ヶ所の台座(臼砲を使用)を有し?、元治元年(1864)十月に幕令で修築しています(黒部市は平成七年十二月に御台場を復元し、原寸模型の臼砲まで設置しました)。
《参考》臼砲弾丸の飛行距離 m
照準角度
発射薬量------30度--------45度--------60度
157.5g--------383m--------463m-------431m
468.8g-------1,214m-------1,364m------1,086m
(金子功『ものと人間の文化史 反射炉?~大砲をめぐる社会史』)
註
?大筒の大きさ
六寸六分臼砲(約20cm) 空丸30ヶ
四寸(約12cm)臼砲 空丸30ヶ
四寸臼砲 実丸30ヶ
とある。この3門しか確認できない。空丸は「うつろだま」と読み、中空の弾殻に火薬を充填できるもの、実弾は「すだま」と読み、火薬を内蔵しないものを言う。
(2)放生津台場(新湊) 嘉永二年六月放生津の町年寄二人が設置場所の選定にあたリ、八幡宮境内北辺の浜地に正面四十二間五分(76m)・西面九間二分(17m)・東面十二間四分(22m)・高さ十尺(3m)の規模で造営しました。翌三年四月二十三日に藩主検分があリましたが、大筒がこの台場へ搬入された形跡はなく、未完成のままであったようです。以前は御台場跡の痕跡が残っていましたが、現在は場所の特定も難しい状態になっています。
(3)伏木台場(高岡)
嘉永三年十月に着工し、翌年四月に完成したこの御台場は、台座五ヶ所を有し、正面二十五間二分五厘・内面十九間六分・幅三間・前高六尺四寸・後高八尺の規模でした。
串岡に火矢蔵を同時に建設し、七月十七日金沢からここへ大筒? を搬入しました。但しこの大筒は・慶応三年(1867)八月の幕府外国奉行菊池伊予守一行巡察時には既に撤去されていました。現在御台場跡近くには、地図と説明の入ったプレートが設置さ}ています。慶応四年(明治元年)に、藩は改めて伏木と吉久に御台場建設を計画しますが、未着工のまま廃藩置県となりました。
註
?大筒の大きさ
六貫目筒4挺(目方百六十貫目)------六貫目の砲弾を打つ約600kg の大砲(和筒か)
一貫目筒1挺(目方三十貫目)----約112.5kg
火薬入長持3棹(目方七十五貫目)----約281.3kg
金沢から今石動まで出して船積みし、高岡の木町で積み替え、伏木へ運んだ。
(4)氷見台場
氷見での御台場建設計画はどこよりも早く、嘉永三年六月には既に縄張りを行っていました。しかしその後、放生津や伏木が優先着工されたこともあり、工事が延期され続け、結局着工されないまま明治の世を迎えるに至りました。
(5)富山藩四方台場
富山藩では、安政元年に西岩瀬と四方間に「海固倉」を作り米三百石を積み込んで異国船襲来に備えていました。同六年四月に発生したロシア船の伏木侵入は富山藩内にも大きな衝撃を与え、苦しい藩財政をやリ繰リしての御台場建設を決断しました。急ぎ。文久元年(1861)七月に四方で測量を開始し、同三年四方・西岩瀬間に設置をみます。また、付随設備として海防御役所と見張所を設営し、桜台の高台で常時海上監視にあたりつつ、川原での鉄砲稽古を幾度も重ね、防衛力の強化に努めました。
在番制の実施
不意の異国船来襲に備えるため、海辺駐屯兵力の増強を決定した加賀藩は、形式任命にすぎなかった嘉永六年九月設置の新浜在番と富来在番を文久二年十月に改組し、十二月までに任地へ部隊を率いて赴くよう命じました。しかし藩士たちが皆士気盛んというわけではなく、情けなくも病気と称し赴任を渋るものが続出しました。そのため元治元年に藩から督促を出しているほどです。
その一方、越中国新川郡に赴いた在番六隊(一隊につき武士三十人と馬一疋)は士気旺盛で、東岩瀬は御馬廻、滑川は銃卒屯所藩士、魚津は郡代、生地は在番(人持組千石以上藩士)、入膳は銃卒屯所藩士、泊は在番(人持組藩士)、境は奉行を地域責任者に任じました。
ただ急遽決定されたことであり、駐屯施設の不足は止むを得ず、現地の苦労は多かったようです。
在番は伏木や新湊の浦々へも進駐し、放生津打出本江村の西浜では浜稽古を行っています。
こういった在番制度は元治元年三月に突然廃止が決まリ、かっての金沢よリ非常時に噌兵を派遣する形に戻リます。京で甲子の変があリ、既に藩の目が掴内に向いていたこと、在番にかかる経費が藩や地域住民の多大な負担になっていたことなどがその理由と推測されます。
人夫徴発の制度化
越中国での本格的な人夫徴発の制度化は、嘉永二年四月の新川郡におけるものです。加賀藩はこのとき十村を通じて徴発を行うものとし、宮崎・泊には備え方(指揮者)六人と二組の計九百人、横山には備え方四人と五百人、生地・黒部両湊には備え方七人と二組八百人、石田・浜経田には備え方五人と二組五百人、その他適宜必要に応じ増員することにしました。その際、文化五年に定めた緊急時の対応を確認しています。
また同四年四月には氷見で人夫百六十人を四手に分け、集合時の服装についても決めました。?
全領内の動員については、同七年二月海岸の有無にかかわらず計画が立てられました。例えぱ越中国新川郡における算定の根拠は次の通リです。
新川郡の十五から六十歳の男子よリ耕作人数を高十石当り一人、漁師は大小とも船一艘当リ六人、他国出の売薬人などの出稼人や町方奉公人及び病弱柔弱者を差し引き、そこから東岩瀬・滑川・三日市・浦山・舟見・泊・入膳の宿用人足及び能登や魚津への出稼人・山稼人・金山山師などの人数を除いた数、これが徴用人数です(倉田守「ペリー来航時における加賀藩の海防政策」を参照してください)。
こういった方法で算定した総御手当人夫は五万六千二十六人となリ、その内越中国は礪波郡一万三百九十七人・射水郡六千九百七十人・新川郡一万三千四百四十九人でした。
人夫の召集は三段階に分け、即日召集の一番手から三日後召集の三番手まで九千人を確保し、その内越中国礪波郡で千六百三十四人・射水郡千百八人・新川郡千七百九十七人を予定していました。
人夫の選定は領内各地で行われ、黒部の三日市では十五から六十歳までの男子を徳法寺に集めて籔引きで決めました。また礪波郡の福光村や城端町では「早足人」?の人選を行っています。
人夫動員令の具体化
安政三年六月に新川郡で人夫の動員配置が次のように発表されました。
一、五百人 東岩瀬 外五拾人御郡所附
一、六百人 両水橋
一、三百人 滑川
一、八百人 石田 生地迄
一、八百人 横山 泊町 宮崎迄
〆三千百五拾人
これは実際に補助戦力として動員できる人数ではないでしょうか。こういった人夫徴発の制度化は内地?でも行われ、例えぱ礪波郡の野尻組では異国船渡来時には、荷物運搬のため十九から五十歳の強壮者五十人を津沢御蔵に出すことを決めています。
在番を実行に移した藩は、安政三年一月に村人たちへ郷土防衛への協力を要請し、測量技術者を立ち合わせること、在番が持ち場へ臨時出張した際の炊出手配(不足分は蔵米を用いる)、非常時の人夫召集、在番の弓・鉄砲稽古、などへの理解を求めました。
二月には射水郡で人夫集結の細目が定められ、集合場所十一箇所を指定し、小杉御郡奉行所附百五十人、同備荒倉詰三十人、放生津御蔵詰・吉久御蔵詰各百人、伏木御蔵詰五十人、同御台場詰五十人、村々の肝煎や組合頭が諸役に就き、十村は別に人夫二十から三十人程を率いて全体を統括するものとしました。またこの時、二上・米島・能町・六渡寺・湊口の五ヶ所の渡場に、各二艘の渡船を増置することを決め、更に「村役人心得方」を布達し、注進飛脚のこと、村役人や人夫の服装のこと、目印紋のこと、異国船狼籍の時に早太鼓・早鐘を打つこと、人夫は鍬・鎌を持参すること、などを確認しています。
文久三年(1863)藩主前田斉泰も郷土防衛への領民の協力を訴えた異例の書簡(史料)を発し、これが二月から三月にかけ領内全域に伝達されるのと併せ、各地で連絡方法が確認され、四月には領内全村に諸人夫の達しを出して、重ねて周知徹底を図る念の入れようでした。またそれと関連してなのか礪波郡で前後詰の割替が行われています。
藩当局は人夫動員を確実なものにするため、名簿の作成を企図します。現在のように戸籍を管理してはいない時代の話です。この年の一月領内各十村へ宛てて、十七から五十歳までの全男子を書き上げるよう達しがありました。しかしこれは大変な作業で、また実際的ではなかったため、五月に改めて他国へ出稼ぎにいっている者や村役人を除いて報告するよう変更しました。この時に作成した名簿は、後に銃卒取リ立てや御手当人足の取リ立てにも用いられます。
新川郡での人夫動員計画
文久三年三月十二日に藩は新川郡海辺の人夫動員に関し、御扶持人十村へ次のように達しました。
一、御郡所詰井臨時御用 但詰人夫三百二十人
一、御郡御奉行御両方御出張の節御召連 但詰人夫四百人
一、東岩瀬詰 但草島村よリ日方江村迄詰人夫三百二十人
一、同所御蔵詰詰人夫二百人同所土蔵詰 詰人夫八十人
一、東西水橋詰 但黒崎村よリ魚躬村迄詰人夫四百四十人
一、同所御蔵詰 詰人夫四百四十人
一、滑川詰 但高月村よリ早月川迄詰人夫六百四十人
一、同所東西御蔵詰 詰人夫六百人
一、魚津御蔵卉御塩蔵詰 詰人夫四百八十人
一、三ケ村よリ浜経田村迄 詰人夫二百四十人
一、石田御蔵詰 詰人夫六百人
一、生地並御台場詰 但浜石田村よリ荒俣村迄詰人夫四百八十人
一、新浜詰 但同所よリ木根村迄詰人夫三百二十人
一、横山詰但吉原村よリ春日村迄詰人夫三百二十人
一、横山御蔵詰 詰人夫三百二十人
一、泊詰 但赤川村よリ横尾村迄詰人夫四百人
一、泊御蔵詰 詰人夫二百人
一、宮崎詰 但笹川村よリ境迄詰人夫三百二十人
詰人夫〆七千百二十人
指揮者は十村や肝煎及びその子弟で、在番臨時出張の場合の増人夫として、東岩瀬百八十四人、生地七十九人と馬十四疋、泊八十二人と馬十七疋を徴募することにしました。これらは安政三年のものよリ更に細かくなっておリ、領民の大幅動員を企図したものです。
人夫徴発の変質
同年二月礪波郡でも詰人夫を決め?、杉木御郡所へ十村三組百五十人、津沢御蔵へ一組五十人が出ることにしました。
しかし元治元年以降、人夫徴発の目的は海防というよリは寧ろ国内事変用へと変質し、例えば御手当人足を元治二年(一八六五)一月に田尻村で、慶応三年(一八六七)十二月から翌年一月にかけて領内で割当徴発しますが、これらは全て国内の激動に備えるためでした。
註
?人夫の服装
●新川郡
十村御用所では各十村とも相談し「装束者火事羽織に陣笠並帽子等着用の事、手代帯刀も可然事、在合の武器鉄砲の外持参苦しかる間敷事、等心得可有之事」と内約束した。(『朝日町誌』二二四頁)
●氷見町
役人組合頭は火事羽織に塗笠、人夫は紅木綿鉢巻を付け、各組は合印水籏を持つことを定めた。(『憲令要略』)
?早足人
一日に二十里以上の距離を歩行できる人のこと。
?内地の人夫
嘉永七年礪波郡の人夫 10,359人
安政元年射水郡の人夫 6,970人 (日尾家文書)
嘉永七年七月礪波郡野尻組報告 壱石壱斗力一人、壱石力十四人 (菊池文書)
福光村の人夫
嘉永六年七月五十四人
文久三年正月八九九人(十八~五十歳壮健)
五月六四八人(十七~四十五歳)
元治元年八月二百四十六人(内百七十人強壮の者
石崎直義「ペリー来航前後における加賀藩と富山藩の状況」より
今石動詰人夫寄ケ所
上野町廻向寺、新町聖泉寺、古国府勝興寺掛所
? 杉木御郡所へ野尻組・庄下組・若林組各五十人と人夫縮方二人・縮方並糧米方役人四人、津沢御蔵へ野尻組五十人と人夫縮方二人・縮方村役人二人

史料
当方形勢、若異人不意上陸、御郡方等へ立入及乱妨、百姓共等家財ヲ奪ハレ、妻子ヲ害セラレ候之儀有之候而ハ無念之儀二候間、追々銃卒トモ御取立可有之候得共、指懸リ候節ハ、不取敢錠鎌等持テナリトモ、少モ無泥身命ヲ限リ相防可申、其働之首尾二寄御褒美ヲモ可被下、此旨能相心得罷在侯様、予而御郡方等へ能々申含置候様可致旨、御親翰ヲ以被仰出候条奉得其意百姓共等心得方之儀得与申諭候様、所々御郡奉行並遠所奉行へ可被申談候事
(『高岡市史 中巻』1141頁)

確認テスト
今回は嘉永以降の沿岸防備について学習しました。もし可能でしたら御台場跡地に立って、海上を観察してみてください。何か新たな発見があるかもしれません。
次回は郷土防衛のための銃卒(民兵)育成についてみることにしましょう。
問
題
1 生地台場に据えられていた大筒の種類は何でしょう。
1 野戦砲(カノン)
2 臼砲(モルチール)
3 榴弾砲(ホーウィッスル)
4 和流筒
5 木砲
正解は2です。 嘉永四年の藩主巡検の後、九月七日算用場奉行水原清五郎と改作奉行木村権三郎が派遣され、十月六日台場築作方に岩峅寺の門前久太郎が指名された。安政四年以降に加賀藩火矢方小川家から臼砲の玉が届き、同六年十一月布目大太郎と馬場三郎が大筒打人として派遣される。万延元年六月宮腰浦から大筒が届くが、置いておく建物がなく、急遽生地村の撫育米倉に入れるものの、籾を入れられなくなった地元民が抗議をし、とりあえず今年の籾は他へ入れるが、来年には別に蔵を作ること、その蔵には火薬も入れるのだから、人家から離してほしいことを申し入れる。ちょうど吉田村と芦崎村で土地争いをしていた場所があった。それは台場から百八間離れた龍泉寺裏海岸近くであり、文久元年にここへ三間四方半二階の蔵を建て大筒を納めた。
問
題
2 伏木の台場に据えつける大筒は、どこで積みかえられて送られてきたでしょう。
1 金沢から今石動に出し船積みし木町で積み替え搬入した。
2 高岡から小矢部川を船で運んだ。
3 金沢から船積みし、放生津を経由して搬入した。
4 高岡から陸路伏木へ搬入した。
5 金沢から陸路砺波経由で運搬した。
正解は1です。 大筒は嘉永四年七月十七日に加賀藩御細工人河村政右衛門などにより運ばれ、串岡の蔵へ納めた。串岡には弘化年間に塩蔵が置かれ、台場建設と同時に搬入用の蔵を建てている。『堀弓翁回顧録』によると、ここへは大筒、玉、焔硝を収蔵し、危険防止のため頑丈な木柵に囲まれていたという。一朝事ある時に台場まで船で運ぶ手筈になっていた。
問
題
3 加賀藩はせまりくる異国船襲来の危機に備え、文久二年末にどのような対策を講じたでしょう。
1 藩士にイギリス式の軍事教練を課した。
2 台場の大筒を操作する演習を行った。
3 人夫を動員し、軍事演習を行った。
4 沿岸防衛戦力として、在番を実戦配備した。
5 幕府の軍勢に沿岸防衛を委託した。
正解は4です。 十二月いざ赴任させるとなると、宿泊施設が問題となる。魚津には奉行所などがあるので何とかなるが、生地と泊には施設がない。そこで民家や寺を借りることにし、役人を派遣し十村立会いのもと下検分するが決められず、翌三年一月十八日魚津・石田・生地・吉原・泊・宮崎・境の寺で借用可能の所があるかを調査し、絵図面を添えて報告するよう寺社方へ命じた。またその際、建物を新築するまでの暫定措置として使用するだけであり、部隊は単身赴任させ、新築後に家族を引越しさせる旨を付言した。三月二十日には東岩瀬・生地・泊の医者を調査し、負傷者の発生に備えた。 生地には生駒勘右衛門隊28人・伊藤平右衛門隊28人、泊に奥村善九郎隊30人・横山斎宮隊17人・大野木将人隊20人、東岩瀬に三浦八郎左衛門隊133人等が赴任する。
問
題
4 藩は補助戦力として、人夫の動員を計画しました。次のうち誤っているものはどれでしょう。
1 藩主自ら領民に郷土防衛への協力を要請した。
2 緊急時の対応についてのマニュアルを再確認した。
3 三段階の人夫召集計画を立て、人員の選定を各地で開始した。
4 砺波郡のような内地でも動員計画が立てられた。
5 射水郡の氷見では11箇所の集合場所が決められた。
正解は5です。 人夫集結場所は次の通り。打出本江村~放生津 堀岡新村茂三郎屋敷 放生津~六渡寺村 放生津八幡六渡寺神明社放生津御蔵詰 御蔵囲の内小杉下村備荒倉詰 備荒倉近く吉久御蔵詰 御蔵囲の内伏木村~国分村 伏木産神社内伏木御台場詰 伏木浜手人家の内大田村岩崎~氷見浦 柳田村産神社内朝日備荒倉詰 御蔵囲の内灘浦まで 阿尾村氏神社内
問
題
5 人夫を動員するに際して、名簿の作成を開始しました。正しく説明しているのはどれでしょう。
1 領内各十村に宛て、17歳から50歳までの全男子を書き上げるよう達した。
2 十村などの村役人は関係しなかった。
3 女子の数も計算に含めた。
4 15歳から25歳までの動員可能人数を書き出させた。
5 25歳から50歳までの強壮者のみ書き出した。
正解は1です。 文久三年一月十八日付で、金沢在府十村岩城七郎兵衛より至急当月中に報告するよう達しがある。三位組十村の沼保村次郎左衛門の報告を例にとると、17~19歳 383人20~45歳 1,729人46~50歳 270人であった。五月十一日実質的に動員できる人数のみの報告に変更された。

伏木台場の図。
