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越中国の歴史と文化

越中国(富山県)の歴史と文化を紹介します。

参考文献

2008-04-05 18:51:47 | 藩政後期越中国思想史

富山県史 通史編?・?、史料編?
高岡史料 上・下巻 高岡市 明治四十二年
高岡市史 中巻 高岡市 昭和三十八年
戸出史料 戸出村 大正八年
戸出町史 戸出町史編纂委員会 昭和四十七年
氷見市史 氷見市史編集委員会 昭和三十八年
氷見市史2 通史編 平成十八年
小矢部市史 下巻 小矢部市史編集委員会 昭和四十六年
出町史資料 砺波市立図書館
福野町史 福野町役場 昭和四十九年
福光町史 福光町役場 昭和四十六年
小杉町史 小杉町史編纂委員会 昭和三十四年
富山市史 富山市 明治四十二年
立山町史 上巻 立山町 昭和五十年
加賀藩史料 第拾壱篇 昭和十二年
新修泉佐野市史 第六巻史料編・近世?
本願寺史 第二巻 本願寺史料研究所 昭和四十三年
町吟味所御触留 桂書房 平成四年
越中から富山へ 高井進 山川出版 平成十年
高岡詩話 津島北渓
越中の人物 奥田淳爾・米田寛 巧言出版 昭和五十三年
越中の文学と風土 廣瀬誠 平成十年
冨山の文学碑と昔ばなし 森清松 昭和五十八年
大伴家持と越中万葉の世界 高岡市 雄山閣 昭和五十九年
富山市の文学碑と拓本 富山いしぶみ研究会 桂書房 平成七年
寺島蔵人と加賀藩政 長山直治 桂書房 平成十五年
石門心學提要 柴田寅三郎 心學脩正舎 大正十五年
石門心学者の子育て論 小嶋秀夫
三則説教幼童手引書 柴田遊翁 明治六年
藩財政改革家石田小右衛門研究のあゆみ 林 基
憚悟爐文庫目録 中川すがね 平成四年
加賀藩における海保青陵と本多利明 長山道治 石川県立金沢錦丘高等学校『紀要』第15号
本多利明 塚谷晃弘
地方官僚と儒者の経済思想 田中喜男 日本経済評論社 平成十三年
上田作之丞に於ける師道の研究 毎田周一 昭和十三年
『霊の真柱』以後における平田篤胤の思想について 田原嗣郎
伴信友の学問と『長等の山風』 佐伯有清・関 晃
大国隆正の学問と思想 芳賀登
幕末変革期における国学者の運動と論理 芳賀登
幕末国学の思想史的意義 松本三之介
五十嵐篤好全 稲垣湊 昭和十六年
贈従五位五十嵐篤好翁事歴 昭和六年
五十嵐篤好その和歌と人生 『秋桜』第11号 平成六年三月
海商能登屋藤井家五代之記 正和勝之進 平成八年
老の路種 上田耕 昭和十一年
越中ばんどり騒動 玉川信明 日本経済評論社 昭和六十年
佐藤信淵 嶋崎隆夫
水戸学の背景 瀬谷義彦
半佛先生遺稿 保田定貫 明治二十五年
中嶋棕隠と越中 書香会 昭和七年
越中の聖跡と越中に来た先哲の跡 飛見丈繁 昭和二十年
雲龍山勝興寺系譜 荻原樸 明治二十七年
勝興寺沿革史
近世北陸農業史 昭和六十二年
日本農業全集19 平成九年
農政全集 五十嵐篤好 昭和二年
日本思想体系 岩波書店 
日本の名著 中央公論社
近世漢學者著述目録大成 関儀一郎・義直 東洋図書刊行会 昭和十六年
越佐名家著述目録 新潟県立図書館 昭和四年
日本漢文学大事典 近藤春雄 明治書院 昭和六十年
新釈漢文体系 明治書院 昭和五十年
應響雑記 上・下 田中屋権右衛門 桂書房 昭和六十三年
藩法集4・6 創文社 昭和三十八・四十年 
富山藩士由緒書 桂書房 昭和六十三年
三百藩家臣人名事典 第三巻 新人物往来社 昭和六十三年
日本人名大事典 平凡社
富山大百科事典 北日本新聞社 平成六年
書府太郎 上巻 北國新聞社 平成十六年 
加能郷土辞彙 日置謙 昭和十七年
角川日本姓氏歴史人物大辞典 角川書店
明治維新人名辞典 吉川弘文館 昭和五十六年
国史大辞典 吉川弘文館
日本史大事典 平凡社
日本歴史大辞典 河出書房新社
その他、拙書や富山県立図書館等を活用する。

結びにかえて
 経済の要は人々が落ち着いて生活できるため、良き政を為政者が行うことにあり、
そこには文化に対する深い洞察が必要でした。商売は「あきない」で、商売人には
高い倫理意識と長期的な視野が必須であり、ただ銭儲けをすることではありません。
農民には国の根底を支えている自覚が求められていました。
 そのため漢学の素養は、教養であると同時に実学でした。医者が儒学に造詣が深
いのは当然であり、現代のごとく文理は分岐していません。また人々は学者の学説
に接することで我が身を省み、指導者層にあっては「公」は「私」に優先すること
を確認しました。
 近世のわが国には多くの哲学思想家が生まれ、政治・社会・経済学説を唱えていま
す。ギリシア哲学やヨーロッパの思想家、学者の説を学ぶのも大事ですが、これか 
らはぜひ、わが国や越中国で発展した学説にも注意を向けていただきたいと、切に
願うものです。これからの社会を考える上での、重要な着眼点を見つけることがで
きるでしょう。 



第六章 浄土真宗の異安心と門徒

2008-04-05 18:47:47 | 藩政後期越中国思想史
一、本願寺派の三業惑乱
発端
 本願寺八世蓮如の「御文書」に「こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて」「弥陀如来今度の後生をたすけたまへとふかくたのみ申さん人は」とある。この「たのむ」という語の意味を巡り、本願寺派内に留まらず全国の信徒を二分する争論が勃発した。これに深く関わったのが越中国の寺院である。
 七代能化職(学林の総長)の智洞は「たのむ」を弥陀の救いを希って求める「祈願請求の欲生」とし、身(体)・口・意(心)の三つの行為(三業)をそろえて頼むのが本則であると論じた(三業帰命説)。これを学林派・三業派・新義派という。一方、安芸国の大瀛と河内国堺の道隠(堺空華)は、「たのむ」と「信ずる」は同じことであり、弥陀の願いを間違いないと信じて頼りにすることを言っているのである(「帰依信順の信楽」)。三業をそろえて頼むのは「自力」の所業であり他力往生の本義に反する(一念帰命説)、と断じた。これを在野派・聞信派・古義派という。
 三業の説は二代能化職知空、五代能化職の義教(氷見町円満寺、元禄七年~明和五年)や学友の芳山(氷見町西光寺、元禄十一年~安永四年二月二十三日)が唱え(『閲寮壁聞』)、宝暦十二年六代能化職の功存は『願生帰命弁』を著して提唱した。これを寛政九年に七代能化職智洞は本願寺派全体に広めようとする。
越中国門徒を二分 氷見の西光寺には芳山が宗学塾の尺伸堂を設立し、義教の門人も預り大勢力を形成していた。十世義霜(宝暦十年~天保三年)の頃には、射水郡と砺波郡から多くの入門者があった。越中真宗本願寺派の録所である古国府の勝興寺では住職の闡郁(宝暦八年一月十三日~天保二年九月二十九日)が三業説を唱え、越中国の西半分は三業説一色となる。一方、新川郡浦山村の善功寺では住職の僧鎔(享保七年~天明三年)が宗学塾の空華廬を創設し、古義派の学説を展開した。新川郡・射水郡からの入門者が多く、その結果越中の本願寺派門徒は東西で二分されるに至った。
幕府の裁定
 本願寺では両派の抗争が激化し、法主の本如が若年で宗門の指示は朝令暮改で混乱を極め、全国でも両派が争う。ついには京で暴動・流血の事態を招き、幕府としては静観し得なくなった。享和三年四月京都二条城で京都所司代は大瀛・道隠と智洞に討論させ、更に文化元年両派と本願寺役人、越中国からも闡郁と義霜を江戸に召喚し、寺社奉行所で討論させた。寺社奉行は龍野藩主脇坂中務大輔安董で、この時の手腕が認められ、天保八年に老中になる。
 幕府は文化二年四月に本願寺本如の親書を宗意安心の基準とさせ、智洞等の学林派に回心状を提出させたが、足掛け四年にもわたる取調で智洞・大瀛を含む十人以上の病死者がでる大事件になり、同三年七月に天下を騒がせたとして両派関係者の処罰が下る。智洞は八丈島へ遠島になるがその前に病没、道隠は退隠、義霜は僧籍剥奪の上で越中・江戸・京・大坂への出入りを禁止、本願寺には百日間の閉門、勝興寺には三十日間の閉門であった。
 義霜は仏法を崇拝する心から生ずる帰命の一念なら、その心が身・口に顕れるのは当然である、主張し回心せず、再度入獄を余儀なくされ、天保二年に獄死する。
 能化職は文化四年に廃止し、文政七年に任期一年の勧学職を置いた。
越中国内の動揺 本願寺派の越中国内門徒(加賀藩領)は、藩が把握している数で八万人である。闡郁は本如の叔父である。闡郁に従っていた越中・能登の門徒に動揺が走り、加賀藩は越後との国境を厳重に固めた。文化三年一月八日に越中国の門徒は金沢へ向け出発する。闡郁の釈放・帰国の仲介を藩に求め、自らも江戸へ赴き出願するために関所通行手形を下付してもらうためであった。その数、九日に千六百人、十一日に一万六千人、風聞では二・三万人に膨れ上がる。金沢では照円寺等の寺々に分宿し、酒は一滴も口にせず、食糧は平等に分配し、畳障子に傷一つ付けなかったと言う。加賀藩では前田斉広が参勤のため不在で、早飛脚をもって江戸へ急報する。その内容は闡郁を帰郷させるように取り扱うのが一番であるが、門徒の出方によっては鉄砲の使用もやむを得ないと考えるというものであり、奥村左京はまず穏便に対応して帰郷させるようにし、やむを得ぬ場合の備えはしておくよう回答する。直ちに派遣された横目足軽山村直右衛門の説得で、門徒達は十二日昼九ッまでに越中へ帰った。二月十二日に藩は門徒に向け願書は確かに藩主へ渡したことを伝達する。江戸藩邸では闡郁の救済に全力をあげていた。
 同二年四月二十六日に智洞が回心状を提出したため、新義派の邇遠等は江戸で土井大炊・牧野備前守に駕訴し、所司代預かりとなって帰郷する。小久米村など氷見各地では藩や西方仲間御同行衆中に宛てて、在来の安心を継続しないと子々孫々の極楽往生がふさがれてしまう、と嘆願書を提出する。高岡町では専福寺や広済寺等が新義派、称会寺の順珍等が古義派に属し、町奉行の荒木五左衛門と寺島蔵人は、文化三年一月二十日に町役人へ門徒への申諭を命じた。富山藩でも同二年十二月十三日に町奉行より本願寺や江戸へ行くことを禁じる達しがある。
 本願寺では十一月に本如が三業帰命は誤りであると「御裁断書」で明示し、全国へ使僧を派遣し転向を求める。しかし七月七日に氷見の門徒多数が勝興寺に集まってこれに抵抗し、翌月射水郡加納・七分一・柿谷村等三十三ヶ村の村役人が連名で、十村に宛て使僧の越中下向延期を願い出た。使僧が入国できたのは、同十四年五月になってからであった。



二、大谷派の頓成事件
発端
 本願寺派の騒動を静観していた大谷派にも教義を巡る争いが勃発する。能登国羽咋赤崎村長光寺に生まれた頓成(寛政七年~明治二十一年)は新川郡上市稗田村円満寺の霊暀(安永四年~嘉永四年、宗学塾の洗心寮を設立)に師事し、京の高倉学寮で学ぶ。信心の性格について「機」(衆生)と「法」(阿弥陀仏)の二種の深信心がある。救われがたい身であると深く信じ、そのような自分を阿弥陀仏は必ず救ってくれると深く信じることであるが、頓成は、自己を反省してわが身は根機つたなく永久に苦海を脱することが出来ない、と深く信ずる(機の深心)ことは自力であり他力安心ではない、と主張する(二種深信)。本山の学寮では、天保十二年以来澄玄による取調が数度あり、頓成は回心状を提出するものの、嘉永三年に澄玄を不正義と断じて、本山での討論を求めた結果、澄玄は退隠・閉門に追い込まれる。憤慨した学寮の学生は京都所司代に訴えたため、事は公になる。幕府では江戸に関係者を呼んで訊問し、本山に頓成の再審査を命じ、訴願者を処罰した。審理の結果、同五年頓成は主張を異議とされ、法主厳如が説諭するが回心せず、ついに幕府から江戸で百日の牢入りの後、豊前国四日市への流刑が申し渡される。
 明治維新に伴う大赦令で帰郷するが回心せず、明治七年破門になる。しかし自説は曲げず、ただ称名すれば救われると自ら思って称名に励むのは自力であるが、日頃の信仰生活の中で、口と心は自ら一つであり、自ら励む思いを成さずに、ただ称名念仏していれば、これが往生の正因である(口称正因の説)と、明治十二年に説き、本山から改めて破門された。
越中国内への波及
 頓成は井波町に住んでいたこともあり、また明治八年四月から一ヶ月間立山町千垣の祐教寺に滞在していたため、井波・福光・福野・氷見・中新川に支援者が多かった。特に井波の量明、中新川の皇覚や法民、氷見町常願寺の松谷無障、赤毛西念寺の鶴松東鳳、仏生寺広西寺の小谷重玄などは門人である。一方でこの説に反対する門徒は砺波郡に多く、感情的な縺れを生んだ。
 加賀藩では慶応元年に益善寺等の訴えがあり、西念寺に法話の差し止めを命じるが止めず、翌年に奉行所から召喚される。


三、大谷派と日蓮宗の宗論
天保十年四月に氷見では浄土真宗大谷派の空観と日蓮宗の日鑑が宗論をした。
空観は尾張国養源寺の住職で、安政四年に本山の学寮で寮司になる。明治二十二年に寂。日鑑(号・通義・遊方・如猿、通称・永称院)は越前国の出身で、下総国の本円寺・武蔵国の本栄寺・和泉国の妙満寺、そして冨山の正顕寺等に移り住んだ。
この両者の宗論は教義の内容以上に関心を呼び、同十二年に真宗の霊城は日鑑と権実の異目を論じた。

権実二教
 仮の方便説と真実にして究極の教え。権教は人々を真実に導くための方便として設けられ、仏の悟りのままを打ち明けた根本的な教えに至れば廃される。



第三章 本多利明の思想と上田作之丞の政策

2008-04-05 18:19:25 | 藩政後期越中国思想史
一、本多利明の思想と加賀藩
本多利明の経歴
 本多利明(本田とも署、幼名・長五郎、長じて繁八、通称・三郎右衛門、晩年は理明、号・北夷・魯鈍斎、寛保三年~文政三年十二月二十二日)は越後蒲原郡辺りに生まれ、祖先は加賀藩の出身で、浪人して越後国に来たとも言われる。十八歳で江戸にて和算を関孝和正統で幸田親盈門下の今井兼庭に学び、寛政六年孝和百年忌を主催し碑を建立した。また幸田門下の千葉歳胤に天文・暦学を学び、漢訳洋書を通じて研究する。山村才助・司馬江漢・朝比奈厚生・野村立栄は同門である。このことは利明が通商・航海を主唱する因となる。また工藤平助から蝦夷地の情勢について知識を得、北方のロシアとは開国・交易をもって対処することを持論にする。さらに経世論の観点から熊沢蕃山・新井白石・荻生徂徠の学風を学び、水戸藩の立原翠軒や小宮山楓軒と交際があった。
 明和三年・二十四歳の時に、江戸音羽一丁目に家持町人の身分で算学と天文を専門とする私塾を開く。人々は利明を「音羽先生」と呼んで親しんだという。奥羽や常陸に旅し、天明の飢饉の惨状を見分する。享和元年に蝦夷地へ渡航し、文化五年には高齢を理由に幕府からの召抱話を断り、門人の最上徳内を推挙した。徳内は幕府の蝦夷御用を務め、利明に高田屋嘉兵衛の船がロシア船に拿捕された情報を伝えている。
本多利明の思想 利明の思想は天明の飢饉を教訓とすることで、寛政頃に出来上がる。航海術に関する天文の実践的知識は石黒信由にも影響を与えた。以下に思想の大要を記す。
国民人口が増加するには国内産業の拡大が必要である。しかし国内産業の拡大には限界があり、人口増加には際限がない。これを補うため他国から金銀を取り込む交易が必須となる。そのためには海外へ渡航せねばならないので、天文・地理、算術を学ばねばならない。
 国民人口増加の根源は夫婦にあり、人口増加率は十九・七五倍であるから、西欧では王侯でも一夫一妻である。当然食糧を増産せねばならず、これを開業(殖民)と貿易に求めれば、わが国はイギリスと並ぶ二大富国・大剛国になるであろう。そうすれば天からの預り者である人々を餓死させるなどということは無くなる。これはまさに永久不易の善政にして、自然治道の制度である。
 天下が治まると武家は増殖し奢侈になる。その上に商民や僧工遊民も増えれば、農民だけでは支えきれなくなる。為政者は農民人口を増加させることに留意し、四大急務を採用すれば、人口は三十三年で十九・七五倍に増加し富国になるであろう。四大急務とは、焔硝で岩石を破砕し河道を通して新田を開くこと、金銀銅鉄山から産出される鉱産資源を管理し異国に流出しないようにすること、船舶を建造して渡海、運送・交易をすること、周辺諸島・小笠原・蝦夷地を開発すること、である。そのために渡海技術や天文・算術を学び、利益を収奪する商人には委ねず幕府や藩が管理せねばならないこと、異国との交易は戦争同様であるから是が非でも利益をあげねばならぬことを強調する。別に小急務に四条を建て、新銅より金銅を絞り取る方法、潮汐の鹵塩より焔硝を抜き取る方法、屋根瓦を鋳鉄瓦に替えること、紙張障子を厚板玻璃障子(厚板ガラス)に替えること(船舶採光と蝦夷やカムチャツカでの採光防寒)を付加した。
更に世界を寒国と暖国とに分けて考察する。前者の東アジア諸国は米を主食に草木の葉枝・幹根を次食、肉食を慰食としているため、温和・惰弱であり、家は木造のため、子供は草木のように智恵が脆く淡白である。一方後者の西洋諸国は肉や油を主食に、果実・穀類を次食としているため、勇猛で知性があり、家は石で出来ているので、子供は金石のような賢く才がある。
 また蝦夷地は雲霧が深く湿地の多い寒国であるが、遍く焼き払えば百穀豊熟の良地となる。この開拓には奥羽・越後・佐渡・加賀・能登よりの移住者と囚人を用いればよい。やがて「カムサスカ」に都を移し、「西唐太島」に大城郭を建立し、「山丹」「満洲」と交易し、国号を古日本と改め、仮館を据え、貴賎の内より大器英才で徳と能を兼備した人物を選挙して郡県に任じて地方の開拓に力を入れれば、数年で世界第一の大良国となる、というように思いは拡大していった。そのためには西欧諸国に倣った改革が必要であり、賢君明主・英傑の仁政が必要であるとする。
 さらに町並みとゴミ問題や仮名文字をローマ字に改める論などを展開し、慈悲を根本としたキリスト教を自然治道の理にかなったもの、西洋の英雄は自然治道の体現者であり、神・儒・仏の道も本来はキリスト教に淵源があるとまで言い、わが国に真の治道を得ない原因は支那の思想・文化を崇拝したからと、地動説を例に挙げて難じた上で、西洋式に万事切り替えることを主唱する。
本多利明と加賀藩の関係 文化六年三月二十六日に、加賀藩は生涯合力米二十人扶持を支給するという条件で招く。藩士としてではなく、いわば政策顧問のような立場としてであった。特に期待されていたのは対ロシアの海防であり、六月二十一日に用意が出来次第金沢へ赴くよう伝達があった。当時海防は焦眉の急で、文化四年六月から七月にかけ藩は海岸の調査と武具の点検を命じ、非常時の出動及び人夫の動員計画を策定していた。馬廻組金森量之助知直(千七百石)三十二歳が、四歳の娘と身重の妻を残し自刃したのはこの時である。海防令は同五年九月に、藩主前田斉広が帰藩して直接指揮を執ることで解除されるが、日本海の航路を扼する加賀藩として警戒を怠ることはできず、同六年七月八日利明主従三人は江戸を出立して十九日に金沢へ着いた。七月二十八日に御目見、八月七日に十五人扶持が支給される。十一月四日に学校方御用戸田五左衛門就将宅で講演し、異国の風土や大洋廻船、蝦夷地について話すとともに、新川郡の布施川・片貝川の川原を開発し上田にすること、宮腰・大野・黒津船・木津・高松などの砂浜にサツマイモを植えること、大船を建造すること等を提案した。前田斉広にも西欧諸国について話し、軍艦の模型を城内二の丸の能舞台に陳列して操縦法を説いた。
 しかし一方で藩士の反感は根強く、水車で木を挽かせる装置の模型を作り上覧することになった時には、何物かにより大切な箇所を破損され動かなくなる、等といった陰険な嫌がらせを受ける。そのため同七年三月に江戸へ戻ってしまった。但しその間に入門する藩士は少なくなく、その中には大橋作之進成之、長谷川源右衛門猷、遠藤数馬高璟、宇野八兵衛、萩原武左衛門、近藤作右衛門、中西惣兵衛直救、河野久太郎通義、三角風蔵などもいる。上田作之丞もその一人であった。




二、上田作之丞の思想と実践 
上田作之丞と本多利明
 上田作之丞貞幹(後に耕、字・叔稼・竜郊・竜野・幻斎、天明八年~元治元年四月十一日)は、八家の一つ本多家に徒士頭として仕える上田清右衛門貞固(二百五十石)の次男として生まれ、親戚の大屋理左衛門の子息が中西惣兵衛であったため、就いて算術を学んだ。寛政十年に父が亡くなり兄の八百記が家督を継ぐ。翌年の地震で叔父の杉一家が同居した縁で、享和三年に杉家の養子として虎之助と名乗るものの、文化二年に復籍した。翌年兄が勤務中に納得できない指示に従わず口論したため改易処分が下り、八百記はそのまま上京した。そのため作之丞に一家の生活がかかった。弟の三郎兵衛は榊原家の養子になり、作之丞は母と瑞光寺に三十日間いた後は五・六年間に転居を十一度も繰り返す。新坂の上に寺子屋(拠遊館)を開塾して十余人を相手に素読、同四年には算術も教え、門弟も二十人になるが家計は苦しかった。それでも学問を修める目標は捨てず、榊原家の厄介人という立場で藩校明倫堂に入学し、二度の賞与と銀二枚・金一両を受けたほど励んだ。同六年に本多利明に入門する。
 本多利明は作之丞の力量を高く評価し、著述の作業を手伝わせた。作之丞も利明によく仕え、よき相談相手でもあった。利明には娘「てつ」がいた。この娘は才女であり、天文・算学に通じ、尾張藩広式で手習い・琴・三味線を教授していたこともあり、加賀藩でも江戸屋敷で姫達に教えていた。当然のごとく作之丞に婿養子の話がある。迷いに迷った作之丞ではあったが、上田家再興のため家名を捨てることが出来ず、断念する。しかし諦め切れない利明は、江戸に帰った後も、書状で江戸へ来るよう作之丞を誘っている。
学者への道
 そうこうしている内、同十四年には塾の生徒が七十人ほどになり、自身も明倫堂の生徒身分であったが、小松習学所の教授に就任する。更に本多家へ七人扶持で復帰して儒学を教授する。ここに至り、明倫堂を退学し、小松習学所は常勤を辞して月に二回の非常勤になった。文政三年には兄が帰参を許され、百石で家を再興、後に二百五十石に復す。塾は私塾になり、門人は数百人に上る。この中には本多一門や人持数十家もあり、影響力を増していた。そのため讒言にあい、異端の学者扱いを受けるが、藩は小松の郷学に白銀三枚で雇用し派遣した。同七年に免じられるが、明倫堂の助教として推挙される。だが他の助教から一斉反対を浴び、この話は流れた。藩内では異端の儒学者という風評が強まり、我慢の限界に達した作之丞は、今後も講義は継続することを条件に本多家を致仕し、浪人身分となった。
著述活動と黒羽織 
天保三年頃から著述に力を入れ、同七年から八年にかけ飢饉の状況を視察する。同八年に明倫堂助教大島清太が作之丞を批判し、同九年七月から翌年四月まで全国見聞の旅に出る。
 藩主に就任した前田斉泰の元で舵取りをしていた奥村栄実は、天保七年に小生産者の自立を主張していた寺島蔵人の一派を一掃して産物方を無力化し、財政再建を進めるため銭屋五兵衛に金融を依頼した。
 寺島蔵人兢(安永六年八月十三日~天保八年九月三日)は、定免制を採用し、藩が農民に貸し付け農地の再興を図るとともに、給人と知行地を断絶させ、十村が収納にあたる改作法を理想とし、文政元年に本多利明と交流のあった関九郎兵衛による「御国民成立」を批判する。文政初期は利明の門人達が活躍していた時期であり、経費の節減と政務の改善に努め、困窮藩士・農町民の救済と生活の安定を図ることを目指していた。金沢で芝居と茶屋町を公認したのもこの一環であった。一方で十村を断獄し(文政二年三月~三年六月)、郡部を藩の直接指導下に置こうとした。蔵人はこれを厳しく批判し、文政二年三月から七年二月まで藩政から遠ざけられるが、復帰後は教諭方として前田斉広の耳となり手足となり風俗心得方の御用に専念していた。友人には海保青陵と親しかった者もいるが、思想上の影響は無かった。しかし斉広の薨去後は、天保七年十一月五日に本多政守に預けられ、翌年四月二十二日に能登島へ配流される。
 奥村栄実は仮名の読みに造詣が深い国学者でもあり、農民の借財を減免する高方仕法等の見返りに協力を得て手上高・手上免といった申告納税額の増加を進め、産物方に替わって物価方を設置し、新規株立の運上銀や冥加銀を廃止し、物価の安定を優先させた。これを批判したのが上田作之丞の一派、通称黒羽織党である。
 作之丞の門人に関沢六左衛門房清(後に安左衛門、号・遯翁)がいる。天保の飢饉には自費を投じて救済にあたり、サツマイモの栽培を提案する人物であり、八家の長連弘(三万三千石、大隈守)に作之丞を紹介する。天保十四年に奥村栄実が没し、長連弘がその後任として藩政を担うことになった。作之上の門人達(関沢房清、水原保延、近藤信行等)も要職に連なり、綱紀粛正と緊縮財政を進め、海防施設の建設に力を入れる。藩営の産業振興策を実施して、銭屋五兵衛を河北潟干拓の水質悪化を理由に失墜させた。財政の改善にはある程度の成功を見るが、しゃれた服装に揃いの笠、会合の際には黒羽織といった出で立ちで、あちこちで不和の種を作ったため、嘉永七年六月に黒羽織党は失脚する。作之丞も嘉永三年に九州を見聞して藩に報告したことで白銀二枚を受けるが、黒羽織の失脚に連座して毎年銀十枚支給される替わりに教授することを禁じられた。安政五年には徘徊指留となり、『因果物語』を記して自伝とする。元治元年四月十一日に七十七歳で没し、子息は江戸の羽倉簡堂に入門した。
 黒羽織失脚後の藩政は横山隆章が担当し、商人の支援で財政再建にあたるとともに、海防に務めるものの、安政五年の一揆や大災害の続発で借財の増加を余儀なくされ、文久二年頃から黒羽織の復権が始まったが、やがて時代は急展開し、明治維新を迎えることとなる。
上田作之丞の思想 作之丞は、聖賢の学は貴重であるが何分古い外国の話なので、これに没頭しても益は無い。書籍で大意を理解したら、これを社会に生かさねばならない、と拠遊学館学則で謳う。門人から見ても、作之丞の学風は韓非子・老子・朱子等を寄せ集めた「鵺学」に写った(『聖学俚譚』)。それは天保の飢饉における惨状を目の当たりにしたからであり、領主の仁政と輔弼者の責務を強調する。株立を増やして運上銀を徴収するために、町や村の役人の数を増やすことは、かえって経費を増やし、賄賂が横行しかねないとし、これは士道の退嬰化にも原因があると断じて、明倫堂にも言及した。また農業を軽視した結果が、農民に借金をさせ、頭振を発生させ、働き手が商工業に流れる元になったと指摘し、十年後には農民人口は十人に一人まで減るであろうと予測する。商の本質は「天下之融通」であり、倫理に則り利益を上げるのならば正当だが、大商人は欲のまま行動した「姦」であると批判する。領内人口からすると、本来米不足はあり得ないはずなのに、商人が米場という博奕場を通じて移出するから不足し、物価を騰貴させ、あげくは藩財政を窮乏させる。藩は藩士への払米をそれまでの年二回から十月の一回にすると仲買に示して米を掌握し、米価を安定させて凶作に備え、小利を求めず、毎年甚だなる「凶歳」と言っていれば他国の米が入り、領内の米は出ないのであるから、数年で富国を達成でき、九年で米の貯えが出来るであろう、と主張した。
 それゆえ治世・修身の根源に職分・分限の遵守があり、格物致知は誠心の畏敬から起こると考え、「敬」「礼」は「譲」「倹譲」の徳を生むと説き、商人には小生産者の自立を助成する心を持つよう諭した。また人は万物の霊であるから、落魄者はただ時運に合わず、凶作・水難などに遭遇した「良民の乞食」であるので、仁政が必要であるとしつつ、武芸や学問を忘れ琴・碁・書画・木石を愛好する武士、農業に励まず詩歌管弦に現を抜かす農民、妓娼と博奕行為に手を染める工・商人は、「姦民の乞食」として問題視している。
 作之丞は飢える領民を一人も出さないことに藩と藩士の存在意義があると考えた。したがって天保の飢饉は失政であった。この観点から加賀藩の経済運営について、銀札を発行して商人発行の私札からなる銭札の流通量を年々減らし通貨発行権を回復する、飢饉や不景気の際には城普請・河川堰堤の補修等の公共事業を行い、武家は参勤道中の糧持人を雇用し、屋敷の除雪を依頼する、流通を停滞させず雇用を確保する、藩士は救米を提供し組合頭を通じて配る、農民には耕作助成金を多めに配分する、参勤時の衣服は江戸ではなく領内で誂える、富札を公認する、等といった提案をし、藩の貸与銀の免除や農民への年貢皆済の強制を止める等徳政実施を主張して、収支を試算する。更に米の良否は土地本来の磽薄によるもので、肥料の多寡ではないから、奉行になる者は幼年時からこのことを良く知っていなくてはならないと指摘した。




上田作之丞と越中国
 作之丞は自らの見聞を広めるため全国各地を旅行するが、越中国にもくまなく回った(『老の路種』等)。新川郡では岩瀬、石割村、下山、舟見村で椎茸に関心を示し、上市や魚津など、射水郡・砺波郡では伏木、高岡、放生津、氷見など、小杉、太閤山では西瓜に言及し、福光や今石動など、富山では八尾や四方などへ足を伸ばす。更に各地で学問教授を行い、多くの人々に影響を与えた。
 一 砺波郡と新川郡
 天保八年に砺波郡を訪れた際には、高岡町の手崎屋彦右衛門が享和二年以降七百十七石余を取得したことを知り、農民の税率を商人より少なくすべきであると考えた。また在郷町が多く、村が町のようであったという。他方で天保期の新川郡上市村を美しく、柔和温順である絶賛し、農商の共存を高く評価している。この頃の上市は新川木綿生産と流通の中心地であった。農商の共存は弘化二年頃の砺波郡金屋岩黒村・青島村でも見られた。福光村近く細木野村の祭礼を見聞した作之丞は、商人が正当な値段で商売をしている様に感心している。山村で若い農民が柴山を焚き、傍らの山腰を焼いていたので訪ねた。来春になれば蕎麦を蒔くので、焼けた草茎も肥料となるとの返答であったが、事を始める(開物)準備と時機を逸しない実効性にいたく感じ入った。また新川郡魚津町鹿熊村の灌漑計画を例にあげ、新田開発は人口の増減に応じてするべきであり、新田裁許等の係りを増やせば逆に農民負担が増加することを指摘し、倶利伽羅山を切り通して船を通す計画に警告を発した。
 今石動では、文政から天保にかけて教授する。今石動・城端・氷見町裁許(通称今石動奉行所)の与力・足軽、更には町人たちも参集し、『孟子』の「謹痒序之教申以孝悌之義」から「申義堂」と名付けられた。木の額は今も石動小学校にある。安政元年には鉄砲町の松永家を使い、町人を対象に教諭する。作之丞は「婦負・新川二郡の間は古学の変風有りて、学者全く句読文字の中に陥り、実学絶えてなし。我其の迷ひを開かんと思ひ、種々談説すれども益なし」と記している。
 二 射水郡
 ? 氷見 天保六年五月二十日新任与力の明石主計(百石)と来て、二十二日に初講義をする。田中屋権右衛門は『應響雑記』に「学授の噺并世俗人情の噺等、甚面白ク肺肝ニ銘し」たという。以後しばしば訪れ、その内講義をした記録のみ拾い出すと次のようになる。
 天保六年閏七月十九日~二十二日 『孝経』 
 九月十九日~二十三日 『論語』「学而」「為政」
 天保七年三月二十一日~二十三日 『論語』「八佾」の一部
 六月十七日~二十二日 『論語』「里仁」「公冶長」
天保十四年四月十三日~二十日 『論語』「八佾」(少々残す)、『詩経』「周南」「召南」「邶風」
天保十五年十一月一日~五日 『孟子』「梁恵王章句」
弘化二年五月十五日~二十五日 『老子』下巻(十五日~二十四日)、
 『孟子』「公孫丑章句」下「滕文公章句」上(二十日から)、
 『中庸』(二十五日)
 九月二十六日~二十八日 『孟子』「滕文公章句」、『近思録』「道体」、『大学』(二十七日)
 弘化三年四月二十二日~五月五日 『孟子』「離婁章句」上下、
 『近思録』「為学類」(「論学」「為学大要」)
 弘化四年三月八日~十九日(?) 『孟子』「萬章」、『近思録』「致知」(「格物窮理」)、『荀子』
 嘉永四年九月二十七日~十月四日 『孝経』
 この教室は氷見町人の「仲間」「社中」により維持され、経費は「上田先生頼母子」から捻出する。作之丞も毎回講義に力を入れ、日に二回、時には夕刻まで及ぶこともあった。出席者は天保十四年二月には二十人程度を維持しているが、弘化以降は減っている。
 天保六年九月の『論語』では、視聴言動の内、視聴は先方よりこちらへ向かうもの、言動はこちらから先方へ向かうものであり、まず視ることを第一とすべきであることを示諭した。
同七年六月の講義では、「朝に道を聞いて夕に死すとも可なり」という句に関し、次のように説いた。元来体を自分のものと思うのが愚かなことである。自分の物と思うから万物に欲心が起きる。全ては相対的で、人の物も明日は我が物になるかもしれないし、親子の関係でも、子が父母を見れば親、子の子から見れば子は親である。我が家の庭前、築山、樹木を面白く思うのは、自分の物にしたという欲心から生じたものである。我が身、我が物ならば、生死も思うままであるはずだし、手足、視聴、言動の理も知っているはずなのに、どうして生まれて死ぬのか、手足がなぜ動くのか、全然分からないではないか。人身のみではなく、万物について理を悟れば、朝に聞き夕に死するも、厭うことはないのである。
また同月の講義では、学授について次のように説いた。学授とは単に文字を知り、書籍を熟読することではない。ただ現状を顧みて善悪の理をわきまえる規矩準縄であることを知り、ひたすら問い、ひたすら学ぶべきである。学授とは衣類を収める箱に薫物を入れれば、いつのまにか香りが移り、清浄になるようなものである。悪事に染まるのは油燈のようなものである。外見は明るく、光り輝き、美麗であるが、しばらくすると油が無くなり、光が弱くなってやがて消えてしまうのだ。
同十四年四月の講義では、聴講者から仁義あるいは性善悪の意味について質問があった。『易経』に天の道は陰陽、地の道は剛柔、人の道は仁義とあり、これで五常の道は全てである。天の道が陰陽であるとは、形象なく、暑さは陽で寒さは陰といった類である。地の道が剛柔であるとは、形象があり、剛柔の二つに限られ、即ち山海・草木・金石の類である。人の道が仁義であることについて、天地の有無の物を人身に受け、本心の性質により、それぞれ配当されることを義といい、老若・貴賎・男女に応じて、その人々の宜しきように心を用いるのを仁という。そうであれば礼智信は自然とこの中に含まれるのであり、五常を短く軽く言う時には、「これほどにせよ」という七文字に収斂される。文字・名目書面に関わらず、自得することが学授である。
嘉永四年九月二十五日には学授大意易簡の歌を吟じて見せた。
俗わしの物じゃの里をふり捨て、ならぬあり家をとわんとぞ思ふ
俗わしは当時の人情、物じゃはこう言う物じゃなと、根元も知らず人に聞き、或は己が思い込みにて、道に違の理を求め、内心危ぶみ覚束なき事はみな学問にあらず。学問は何事もなく実事にかけ、こうせねばならぬという理を、私心を去り求め、危なからざるを事々物々に用いるの外他なし、という意味を込めた学授の歌であった。 
 またこの時期の講義中で、一族について次のように解説している。親戚は一家のこと、親類家は父夫方、戚類家は母妻方、親とは此方より彼方へ、戚とは彼方より此方へを意味し、婚とは嫁娶をいう。婚の字は周の世に出来、それまでは朝でも嫁に行ったのであるが、周の世に至り夕暮れに嫁すのが一般的になったことが由来であるという。姻とは同じ家から再び嫁娶することをいい、初めての場合は婚姻とはいわなかった。この元に重縁を一家とする考え方がある。縁が薄い、或は一家の続きを婣といって区別した。九族とは自分を含む前五代と後五代の九代の血筋をいう。
? 高岡 作之丞と高岡町との縁も深く、たびたび訪れては、天保二年に上から下まで相応の言行あるべきを論じた秘策を献じ、同七年の飢饉では、高岡町の戸数を四百八十戸・人口二万四千二百人、一人一日の米高二合五勺として、窮状を五段の中、富の下に当たり、今年の荒餓を加えても極貧には至らないと観察している(『済急問答余譚』)。弘化初年には大仏裏に広がっていた桑畑を借りて学舎を建て、桑亭と命名した。嘉永頃まで町人の多くがここで学んだという。






第二章 海保青陵の思想と加賀藩

2008-04-05 18:14:45 | 藩政後期越中国思想史
一、海保青陵とその思想
海保青陵
 海保青陵(名・皐鶴、字・万和、通称・儀平、宝暦五年~文化十四年五月二十九日)は、丹後国宮津藩家老角田市左衛門の長子として江戸で生まれる。角田市左衛門(号・青渓)は武芸に秀で、太宰春台(徂徠学を経済学の点から発展させた)門下の大塩平(与)右衛門や荻生徂徠門下の宇佐美恵助(号・灊水、『読荀子』を校訂・『弁道考』『弁名考』を出版)に学び実学を貴んだ。伯母が藩主青山家の継室で藩主の母である。藩の内紛にあっては勝手方であったためその渦中にあり、宝暦六年に隠居し、二歳の青陵が家督を継ぐものの、同八年に父子とも暇を願い、明和八年尾張藩に招かれる。ただし市左衛門には宮津藩から生涯二十人扶持と金百両が毎年支払われ、藩に子を一人残すように言われていたこともあり、青陵は尾張藩で御目通り・留書に召されたものの学問中であることを理由に辞退し、安永五年弟に角田家三百石を相続させ、自身は祖父の父方海保を称して天明二年宮津藩に百五十石の儒者として戻った。
 青陵も十歳で父と同様灊水に入門し、十五歳で『礼記』を鄭玄の注で読むが疑いを持ち自分で注を打ち直す。灊水は青陵に徂徠学の手法として古典の解釈を通じて天理を明らかにするため、秦漢以後の本を読ませず、青陵の打った注の誤りを指摘するに止めたという。十六・七歳に奥医師桂川甫三の元で一つ年上の子息甫周と兄弟のように生活した。甫周や堀本一甫は父の門人で、二人とも後に法眼・奥医師になる。やがて甫周は前野良沢や杉田玄白等と『解体新書』の翻訳に務め、来日した植物学者ツンベルクから賞賛される。青陵はこの甫周より洋学的な「理」について厳しく教えられた。安永五年・二十二歳の時に灊水が没し、尾張藩を致仕して日本橋檜物町に開塾して経世論を研究する。天明二年からは丹波国篠山藩主世嗣青山春橘(後に藩主青山忠講)と次男久之助(後に藩主・老中青山忠裕)に書を講じ、藩財政について父と研究する。同九年藩を辞し全国を遊歴する。寛政四年の秋に父が没した後も変わらず、全国各地で書を講じた。同七年に大坂で開塾して翌年京に移し、同十三年尾張藩で細井甚三郎(号・平洲、上杉鷹山の藩政改革にも関与)に替わり江戸で儒学者として就職するものの、病気を理由に享和四年に辞して各地を歴訪し続けた。文化二年夏に金沢、翌年三月高岡、七月四日に立山登山し各地を訪れ、福野に寄ってから京へと戻る。
経済論 
青陵は万物の背後で統一する天理の存在を前提に、儒教の他に老荘や法家思想・仏教・西洋の思想に関心を抱き、治国安民という経世的観点から学問をとらえた。そのため今の世は富国を第一とし、仁政によって国を運営する時代ではないと断じ「王道」を否定し「覇道」を説く。そして経世済民に奉仕し世に役立つ者を活智であり、王道を説く儒者は死智であるとした。その上で聖人とは「天の理を得て身に行ふ人」と定義づけ、一切の偏見にとらわれず、知恵は知恵からも自由であるときに生きた知恵が働くと考えた。ゆえに孔子は善悪二つの外に自由な空位を一つ作り、そこに立って善悪を用いるのが理であると生きた知恵を教えたが、それらさえも外から見る工夫をするのが真の空位であり、執着を絶つということであるとする。これが釈迦や老子、それにギリシアの四元説(水・日・土・気)だとした。智恵を養うのに三つの段階があり、まず己を贔屓目無しに見ること、次に自己中心から解放すること、そうして「皆利我」が許される「養生主」に到る。
 形あるものは下がり、形なきものは上がる。この均衡が必要であるが、治世が長く続くと富は次第に下へと降りる。これを上に持ち上げる工夫が必要であり、そのため利息や運上を取るのも天地の理であるととらえ、国を富ますには農業生産を拡大するといった王道的方法だけではなく、他国の財貨を自国に吸い込むオランダのような覇道的手法が必要であると説く。そこで各藩は商売の元手を大坂商人から借り、売買取引をして利益をあげることを主唱する。これを説明するのに、武士は商行為から超然ではないことを君臣関係が取引関係であると例えた。領主は国を民に貸して利息を受けている。家臣は自分の智力を主君に売った対価として禄を得ている。したがって利を得ることへの偏見を除き、すぐれた智者が治国安民を図り法治を制度化しつつ、人々には生産・交易に目を向けさせ諸国間の経済競争に勝ち抜いて国富を増やすことが重要であると説く。これが具体的には藩による専売制として実行に移された。
二、海保青陵による加賀藩への献策
 文化二年夏・青陵五十一歳の折に加賀藩へ来る。青陵には今日二十五冊と名前だけ分かる十七冊の著書があり、その内の十二冊で加賀藩に言及している。『万屋談』『養心談』『稽古談』『升小談』『陰陽談』『綱目駁談』『枢密談』『養蘆談』『東贐』『新墾談』、特に滞在中の終盤に藩から遠慮せずに建言してほしいと依頼され記した『経済話』がある。
 青陵の目には、加賀藩の法は旧式で時代に合わず守りにくいと映った。また利家・利長の時代から支出が百倍になっているのに、藩の生産は変わっていないのであるから、財政の悪化は当然であると断じた・その上で金銀が重要であるとの認識をもち、米札を発行して金銀同様価値を倍にして運用し、利を生み出すことを提案する。これは大坂で升屋小右衛門こと山片蟠桃が米札を仙台藩の財政再建で用いたことが背景にある。加賀藩では宝暦五・六年に藩札発行で懲りた上に、安永三年の幕令で新規藩札発行が禁止されたため、政策からは外されていた方法である。しかし青陵の提案を受け藩は、文化十一年に「銀子手形之印紙」という名目で、事実上の藩札発行に踏み切った。
 青陵は加賀藩にはせっかく山や海があり、産物が豊富であるにも関わらず、他国へ移出入をせず、大坂へ廻米した代金のみで江戸の支出を補っている。財政支出が拡大している今日にあり、諸藩との通商で利を獲得する方法を採るべきである、と強調する。更に世間では加州米は悪米の代表のように言われているが、当地に着てみると実に良い米である。それは悪い米を大坂へ廻し、良い米を住民が食べているからである。これを良い米は残らず大坂へ廻し、加州米の半額ほどである越後米を買うようにすれば、たちまち二・三十万石の利は出るはずである、と指摘し、加賀・越中の材木や塩を移出すること、城端・小松の絹を京で売れば年に二万五千両は入ることを提案した。
 藩の産業に関しては、鉛・明礬・礐石・硫黄・朱・薬草・金銀銅・瑪瑙・水晶等の資源開発、薬物・煙硝・織物・酒等を改良・増産して、藩の保護下に移出することを提案する。そこで加賀藩は、文化八年に「他国出御制禁産物之品」を公布し、紙・大豆・葉タバコ・米・木綿・蝋・薬種など十七種類を移出品に定め、鉛・漆・塩硝・硫黄・酒・塩・絹など二十七種類は移出を禁じた。その中には青陵が出すべきであるといった物も含まれている。
 また三州には良港があるのであるから、これを整備したら長岡藩にとっての新潟のような存在になる。そのためには大坂に倣い施設を充実させて北国第一の港を完成させるべきであり、大坂の大商人を相談相手とせよ、と提案した。
 青陵の献策は、取捨選択されて実行に移されるものの、寺島蔵人は批判的であり、安政四年に上田作之丞は、青陵の来藩は四十年早かったと記している(『国事経緯弁略』)。文化十年に御勝手方太田数馬が江戸廻米に替わる造酒廻漕を進言し、同年産物方役所の再設置されることになり、青陵と親しい村井長世が登用される。江戸廻米三千四百石を能登七尾で酒に醸造し、立山の木材で酒樽を製造して販売するものの売れ行き不振で一年限りであった。また年間十万石の廻米を、正保以来上方船才許で大坂・江戸へ廻していたが、この運賃が米百石につき十五~二十九石もかかるため、摂津神戸二ツ茶屋村の船を直雇いする。しかし加賀藩では天保の飢饉と財政の悪化で、藩による産業の育成と営業は縮小を余儀なくされ、重農的な政策へと転換することになった。
 金沢で青陵は、富津屋七左衛門、浅野屋彦六、楠部屋金五郎、富田景周(二千三百石)、富永権蔵(千五十石)等、越中国でも十村の折橋二郎右衛門等と交流があった。





三、越中各地の見聞と講義
 文化三年三月五日に海保青陵は越中国高岡町へと移り、七月上旬まで滞在する。招かれて四月一日に町人へ『老子』・『中庸』・『孟子』等を講釈し、修三堂の開講式(五月三日)で『論語』の「学而」を講義する(謝金は二百疋)。富田徳風は青陵が来たことを新保屋と野尻屋から聞いたため宿を訪れて依頼したことにしている。「学而」には孔子の訓戒や金言が盛り込まれ、いわば学規のような内容である。また額の題字「修三堂」「求益」を揮毫する。その間に三木屋半左衛門(村瀬栲亭や皆川棋園に学んだ寺崎蛠州)や蘭方医で儒学に詳しい長崎玄庭等の高岡町人や修三堂に文台を寄付した戸出村の川合又右衛門、自在竹を寄付した加納村の扇沢権六と交流した。ただ高岡町奉行の寺島蔵人は病気であったためか接触していない。高岡町では時鐘の銘を認め(採用されたのは皆川棋園の銘)、上牧野の宗良親王遺跡に「八宮樸館塚」と撰した。高岡には青陵の絵(発田家所蔵の立山の図)や書(穂田家所蔵の六曲屏風)が残っている。
 七月四日に立山登山し、あわや転げ落ちるところであったという。山中に四泊・室堂に二泊した青陵は立山の開発に着目し、芦峅辺りの村民に銀や鉛等のありかを聞き出すこと、地獄谷では明礬や硫黄が燃えてなくなってしまうこと、賽ノ河原辺りに明礬・礐石・硫黄があれば宝物が産出すること、剱岳は緑青で塗ったような山であるから金銀玉宝がたくさんあるに違いないことを指摘し、山師を派遣して探査すべきであると提議した。そこで藩は硫黄を掘り出し、天保十五年から万延二年まで東岩瀬の道正屋三郎右衛門、滑川の湊屋八兵衛・鍛冶屋太吉に払下げ、大坂へ四万斤売り出す。
このついでに青陵は富山まで足を伸ばし、富山藩の儒者市河小左衛門こと書家として名高い市河寛斎と会う。新川郡では沼保村の十村・伊東彦四郎を訪れ、彦四郎が手がけた愛本用水について談じ宿泊する。
その後砺波郡を訪れ、福野で『書経』の「洪範」を論じて金沢へ戻り、山代・山中で入湯して帰京した。福野には文化十一年に山田正秀(六兵衛、伯芝・喬柜堂)と上保路磨(吉左衛門、梅園・子遵)の招きで再訪し、「洪範」の講義を続けた。路麿は皆川棋園の門。文化十年に青陵の著書『洪範談』の序文を書いている。「洪範」については文化八年に京を訪れた戸出の竹村屋武田茂兵衛(尚勝、義郷、竹坡)にも講義をしている。茂兵衛は高岡木町の鷲塚屋(大橋家)と組み砺波郡の農民に蝦夷の鰊を販売し、たびたび上京していた。文化八年に上京した際、青陵と合いその著書七冊読んで感動し、理の淵源は「洪範」であると聞いて、上京の度に青陵から学んだという。講義では、家が豊になれば国も豊になる、「則用之家、用之国」であることが強調され、青陵の『洪範談』を自費で出版するに到る。同十年に茂兵衛が新田開発を任された折には、自筆本『新墾談』を贈り、「ウツカリト掛レバ大キニ損失ノアル」と心構えを諭した。青陵はまた福光にも文化七年に訪れ、石崎喜兵衛(寅、子温・節斉)等を指導した。喜兵衛は訓言を筆写し、常に座右に備えたという。
洪範とは大原則(九疇)であり、五行(水・火・木・金・土)、五事(貌・言・視・聴・思)、八政(食・貨・祀・司空・司徒・司寇・賓・師)、五紀(歳・月・日・星辰・暦数)、皇極(皇が法を立て五福を衆民に遍く与える)、三徳(正直・剛克・柔克)、稽疑(卜・筮を執行する者を選ぶ)、庶徴(雨・暘・燠・寒・風)、五福(寿・富・康寧・好徳・終命)・六極(凶短折・疾・憂・貧・悪・弱)を指す。青陵はこれらと『周礼』(十分の一税、贖刑・売爵)で法即ち天理・治世の準則を認識し、老荘と仏教はその運用技術、法家思想はそれらを現実に行ったものと説明した(『洪範談』)。
海保青陵の思想は、加賀藩では限定的にしか容れられなかったが、越中国内を広く遊歴し、その薫陶を得た人々は少なくなかった。町や村の指導者はこぞって青陵を訪ね、招いて、指導者としての心得や社会を見る眼を形成していった。





はじめに

2008-04-04 18:51:19 | 藩政後期越中国思想史

 越中国には古くから人が住み、経済活動が盛んに行われていました。そこには文化の花が咲き、住民による自治が行われ、困難や危機をともに助け合って乗り越えながら、安定した社会を形成します。その過程で学問が普及し、内外の思想家の書を解すことで、藩政後期の越中国に暮らす人々は新たな視座を獲得し、学問を実際の生活に結び付けていきます。
 近世のわが国で涵養された思想を、越中国の人々がどのように理解し普及したのでしょう。また加賀藩と富山藩はいかなる形で産業政策の中に活用していったのでしょう。現代の諸問題を考えるヒントがそこから発見されるかもしれません。