高瀬保『加賀藩の海運史』(成山堂書店、平成九年) 井本三夫編『北前の記憶~北洋・移民・米騒動との関係』(桂書房、平成十年) 高瀬重雄『日本海文化の形成』(名著出版、昭和五十九年) 正和勝之助『越中伏木地理志稿』(桂書房、平成三年) 正和勝之助『越中伏木湊と海商百家』(桂書房、平成七年) 野間三郎編『北陸と海運』(北陸中日新聞社、昭和三十八年) 加藤貞仁『海の総合商社 北前船』(無明舎出版、平成十五年) 須藤利一『ものと人間の文化史~船』(法政大学出版局、昭和四十三年) 北島正元『幕藩制の苦悶』(中央公論社、昭和四十一年) 徳田寿秋『前田慶寧と幕末維新』(北國新聞社、平成十九年) 田中喜男『城下町富山の町民とくらし』(高科書店、平成五年) 川勝平太『日本文明と近代西洋』(日本放送出版協会、平成三年) 道正弘『東岩瀬港』(昭和五十五年) 布目久三『西岩瀬郷土史話』(昭和六十二年) 藤木進『水橋町郷土史』(昭和四十一年) 古岡英明『木町文書目録~木町文書と高岡木町の性格』(木町文書保存会、昭和四十六年) 日本海事史学会『続海事史料叢書 加賀藩水運関係史料木町文書』第九巻(成山堂書店、昭和五十九年) 深井甚三「富山売薬商の薩摩との昆布・抜け荷商品輸送と廻船・飛脚~列島をめぐる物流・運輸理解のために」(地方史研究協議会『情報と物流の日本史~地域間交流の視点から』雄山閣出版、平成十年) 『富山の知的生産』(富山学研究グループ、平成五年) 『海の懸け橋 昆布ロードと越中』(北日本新聞社、平成十九年) 『富山県の地名』(平凡社、平成六年) 『藤井能三伝』(高岡市立伏木小学校、昭和四十年) 『加賀藩史料』藩末編下巻(昭和三十三年、前田育徳会) 『越中史料』巻ノ三(富山県、明治四十二年) 『町吟味所御触留』(桂書房、平成四年) 『富山県史』通史編IV近世下(富山県、昭和五十八年) 『富山県史』史料編IV近世中(富山県、昭和五十三年)・V近世下(昭和四十九年) 『下新川郡史稿』上(下新川郡、明治四十二年) 『伏木港史』(伏木港史編さん委員会、昭和四十八年) 『新湊市史』(新湊市史編纂委員会、昭和三十九年) 『しんみなとの歴史』(新湊の歴史編さん委員会、平成九年) 『高岡市史』中巻(高岡市、昭和三十八年) 『高岡史料』上巻、下巻(高岡市、明治四十二年) 『国吉小史』(国吉小史刊行委員会、昭和四十一年) 『砺波市史』(砺波市史編纂委員会、昭和四十年) 『庄川町史』上巻(庄川町史編さん委員会、昭和五十年) 『井波町史』上巻(井波町史編纂委員会、昭和四十五年) 『平村史』(平村史編纂委員会、上巻昭和六十年、下巻昭和五十八年) 『上平村誌』(上平村役場、昭和五十七年) 『利賀村史』近世(利賀村史編纂委員会、平成十一年) 『小矢部市史』上巻(小矢部市史編集委員会、昭和四十六年) 『福野町史』(福野町役場、昭和四十九年) 『福光町史』上巻(福光町、昭和四十六年) 『吉江の昔と今』(吉江の昔と今編集委員会、昭和五十四年) 『氷見市史』(氷見市史編修委員会、昭和三十八年) 『小杉町史』(小杉町役場、平成九年) 『大門町史』(大門町、昭和五十六年) 『下山田村誌』(大木和平、平成三年) 『中田町誌』(中田町誌編纂委員会、昭和四十三年) 『戸出町史』(戸出町史編纂委員会、昭和四十七年) 『福岡町史』(福岡町史編纂委員会、昭和四十四年) 『西藤平蔵村誌』(西藤平蔵村誌編纂委員会、平成十六年) 『四方町沿革誌』(四方町役場、大正八年) 『富山市史』第一巻(富山市史編修委員会、昭和三十五年) 『富山市史』(富山市史編さん委員会、昭和六十二年) 『八尾町史』(八尾町史編纂委員会、昭和四十二年) 『大沢野町誌』下巻(大沢野町誌編纂委員会、昭和三十三年) 『山田村史』上巻(山田村史編纂委員会、昭和五十九年) 『立山町史』下巻(立山町、昭和五十九年) 『滑川市史』通史編(滑川市史編さん委員会、昭和六十二年) 『入善町史』(入善町史編さん委員会、平成二年) 『朝日町誌』歴史編(朝日町、昭和五十九年) 『魚津市史』上巻(魚津市役所、昭和四十三年) 『黒部市史』歴史・民俗編(黒部市、平成四年) 『黒部市誌』(黒部市、昭和三十九年) その他、富山県立図書館のホームページや複数の辞典類、拙稿等を随時活用 おわりに 近世の「鎖国」の下で、人々は安定した社会を形成していた。同時期のインドがイギリスの長繊維木綿により、主産業である綿花産業を壊滅させられ、ついには植民地になっていくのと対照的に、わが国では産業基盤を強化し、文化にまで昇華させていった。それに江戸や大坂のみが発展したのではない。地方と都市が船で結ばれることで、遠隔地から様々な物資が運ばれ、人と人とが交流し、そこから文化が形成されていったのである。弁財船を用いた交易は全国と越中国とをつなぎ、相互に影響を受け合った。また越中国内では地域間が有機的に結びついていった。今日の富山県はその延長上にある。現代の社会を考察する時に、歴史的な視野を持ってほしいと切に願って止まない。
一、北越出兵 元治元年の第一次長州征伐に加賀藩は藩兵を石見国まで出兵させた。その際必要物資を金沢から津幡・今石動・小矢部川を川下りして伏木の湊から船で送っている。八月から十一月までに、干飯・塩茄子・味噌・梅干・鰤節(いなだぶし)や松明・御紋付提灯等を数回に分けて運搬した。慶応四年の北越出兵の時にも伏木や六渡寺・泊から物資を運んだ。五月には領民八万三千五百八軒に草鞋二十万足の調達が割り当てられた。一軒について二・三九五足になり、このうち砺波郡二万七千四百二十一軒には六万九千十四足であった。これを砺波・射水郡の人々は伏木まで、新川の人々は泊まで持っていったのである。六月から十月までこのような草鞋と空俵等の割当が断続的にある。負傷者を乗せる駕籠まで調達するほどであった。高岡の利屋町聖安寺に屯していた津田玄蕃率いる本隊は六月二十九日に長岡へ増援の命を受け、藩軍惣司に就任する。七月三日に千百十六人と大炮八門の陣容で高岡を進発し、二十九日に苦闘の末長岡を陥した。この頃運搬量が急増する。九月御銃入荷物二十八個・千四百貫目を運び、十月イギリスの帆前船を借上げ二十五万斤の鉛と産物方で買い上げた六発込大炮一挺を積んで神戸から伏木へと到着する。十一月御用鉛八百三十三本・一万六千八百七十九貫四百目が木町より小矢部川を上った。五月から十一月の伏木浦は諸藩の将兵や負傷者の輸送でごった返した。七月伏木村鶴屋善右衛門が軍艦方諸事御用の功労で一貫文を賜った。六渡寺には草鞋・塩・茄子が集められ、五月二日には二千百三十個の塩茄子が来ている。伏木浦には鉛・銃や買い付けた大炮が外国船まで雇った諸藩艦船とともに出入りした。九月十五日の午後に藩船駿相丸が米千八百俵を積んで伏木を出帆する。二十日の早朝に箱館へ着いたものの戦況の推移を見守ったまま、十月十五日にようやく荷役した。今石動は北越出兵の兵站基地になっていた。兵糧運搬に人夫が出て、物資を福町で積み替え、小矢部川を下して伏木港まで運び、また泊まで陸送して越後まで海上輸送する。新川郡も征討軍の兵站基地になり、継立人夫が集められ、兵糧米は御蔵米の玄米を白米に仕立てて運搬する。加賀藩は米十万俵を七年分割して献納することを約し、出兵二十二藩・一万千人中夫卒四千六百人を含む七千六百人を派遣する。五月には更に金十三万両の提供を求められ、直ちに三万両を正金で送付し、残りを六月十日から正金二万両ずつ十日ごとに送った。九月には塩茄子を三万個用意するよう十村から各組に達しがあった。泊町に屯所を四ヶ所に設け、二十四日銃隊馬廻組頭斎藤与兵衛、銃隊物頭高田猪太夫・杉本美和介・近藤新左衛門・金子篤太、炮隊物頭水上喜八郎に駐屯が命ぜられる。冨山藩兵に付属する宮崎久兵衛と堀丈之助も同行する。閏四月六日高田藩では柴山弥三右衛門を金沢に派遣し同調を伝えたため、これらの部隊は十三日に高田へ進出し、泊には今枝民部(一万四千石)隊が駐屯した。五月五日草鞋七千五百足・十五日四万千二百足が泊から錫懐丸で越後に運ばれ、二十七日には三万二千五百足が二艘の船(清三郎と庄助所有船)で越後今町に運んだ。陣地構築用の空俵を三郡で十万、うち新川郡で四万六百余が割り当てられ、七月十一日二千五百五十、二十一日四千六百八十、二十七日二千四百二十が越後の加賀藩本営に運ばれた。弾薬は各宿々の継立人夫により運搬され、七月二十六日百三十七箇・二千五十五貫目を陸運で津幡から、二十七日七十三箇・千九十五貫、二十八日三百九十箇・六千貫、二十九日百五十箇・二千二百五十貫、八月六日百五十六箇・二千四百十二貫を越後中浜まで、八十五箇・二千四百八十九貫を今石動まで陸送し川舟で伏木に運んだ。泊での宿泊は四月に水上喜八郎や杉本美和介等五百九十七人が五~十泊、六月に高田松之助等三百九十八人が五・六泊、六月川原幾久松等三百二十五人、七月総督随兵七百人と小塚久兵衛等百二十五人、八月不破亮三郎等千六百四十六人、九月半井全吉等二百四十九人、十月二十二日津田玄蕃と青池半四郎が帰りに泊で宿泊し浦山で昼食を取った。二十五日津田権五郎・杉浦善左衛門・田辺仙三郎、二十六日今枝民部・太田小又助、十一月四日多田権五郎・木村実之助と続いた。兵糧は新川郡で二千四百俵が割り当てられ、大三位組に二百石、五ヶ庄組に二百石、三位組に百七十石を分担した。八月五日御扶持人沼保村次郎左衛門は十村入膳村和三郎と沼保村幸右衛門に泊町御蔵米五百七十石の搗立を依頼する。これを白米四斗俵で千百八十俵に仕立て、二十日までに輸送する準備を整えた。閏四月十三日東岩瀬港に薩兵六百人と長兵四百五十人が着いて冨山で宿泊する。先着は八日から城下の町人宅九十軒ほどに泊まっているが、訛のため言葉が通じず、薩摩担当の売薬人を雇って通訳してもらったという。また同月には草鞋五万足の割り当てがあり、五月中に二万五千足・翌月に残りを調達し、五貫目ずつ筵行李に木札を付けて高田へ宿継ぎで送った。実際八万足くらいを調達したようである。その他にも空俵・塩茄子・梅干・昼飯苞等も輸送する。加賀藩領では閏四月十三日付「薩長両藩軍東岩瀬より乗船につき役割帳」によると、空俵三千・昼飯苞九百・梅干九千、渡海船十一艘 二十五人乗 二百七十五人乗組・五艘 三十人 百五十人乗組・十四艘 四十人 四百七十五人乗組 計三十艘 九百人 弾薬積船二艘、新川郡出人足七十五人・射水郡五十人・砺波郡七十五人 計二百人、薩州六百人余・長州四百五十人余 であった。輸送には四方・岩瀬で富山藩の御手船が活躍する。閏四月十二日には柳川藩の蒸気船が薩長藩兵二百七十人を乗せて、菊の御紋付日月の高張を掲げ四方に入港した。なお長崎で林太仲はポルトガル領事で武器商人のロレイロから銃器と帆船を手付で買い付け、四方へ入港した。二、商法会社の成立 明治維新後に通称加賀藩は正式に金沢藩となり、伏木の藤井三右衛門(能三)・放生津の宮林彦九郎等の大船問屋に協力を呼びかけ、明治二年三月に藤井能三を神戸へ派遣し会社設立の準備を進めていた。藤井能三は元治元年十八歳で能登屋三右衛門を襲名し、慶応元年御調達方御用御扶持人次列・波除御普請方主附・仕法銀裁許、同三年軍艦御用達、同四年二十二歳で御調達御扶持人に進み、俸禄十五石と苗字帯刀を許され、輜重糧食運漕方として活動する。明治二年に藩は物品取引を業とする商法会社を設立し、七月藩は銀行にあたる金沢為替会社を資本金二万円(後の換算)で設立、藤井能三が両会社の総棟取に就任する。運転資金は政府から太政官札(一両は十貫文)を借り、紙幣発行の特権が与えられている。十月に示された「為替会社創立につき申渡書」には「近年世上之模様致変易先前之仕法ニ而ハ四民共難渋ニ可陥候ニ付、公私之資財を纏め金銭之融通を自由ニいたし生産商法をも相立、諸民生活之義相立可申ため」とある。一ヶ月一銭二厘の利息で預けて通帳に記し、毎年六月と十一月に利息を渡す仕組みであった。藩内に支店を出し、同三年十二月八日高岡町に開設するにあたって諸上納の指出しについて案内した。同年に政府は各地の為替会社に金券発行を許したが、相場の利鞘稼ぎや、そのために流言を流すものが出ている。また同二年四月から軍艦猶龍丸で伏木・七尾間の貨物輸送を開始し、伏木や放生津を寄港地としていた。翌三年船舶輸送を業務とする廻漕会社を設立し、藤井能三が三会社の棟取に就任する。同三年士族の用米を扱う五穀会社が設立されるが、翌月に廃止し、農家から作徳米などを買い受けることを勝手とした。この頃政府の支援で三菱汽船会社が創設され、同八年岩崎弥太郎と藤井能三が交渉し、伏木へ汽船が廻航するようになった。同十一年清国で飢饉が起き、これを救済するため六万石の越中米を輸送する。これが伏木の北前船に打撃を与え、米価騰貴を引き起こす事になる。藤井能三はこれを機に三菱と手を切り、汽船会社を興すのであった。三、新湊町の成立 明治四年一月十日若しくは二十日に小矢部川河口を共有した町村で港を中心とする地域発展の構想から新湊町が形成された。放生津を中心に荒屋村・四日曽根村・放生津新村・長徳寺村・六渡寺村・三ヶ新村の川東一団と、石坂新村を含む伏木を中心に古国府門前地・古府村の川西一団が合併したのである。この背景には放生津と荒屋村・四日曽根村等の七か町村による合併計画があった。伏木諸村は新湊町元伏木村と呼称する。また二月十日には三日曽根村を編入する。しかし伏木浦の肝煎や組合頭は藩庁に住民の営業 が不振になってしまうと分離を訴え、同十九年二月に分離した。四、北前船の最盛期と終焉 越中国の北前交易は、文政五年から明治十九年に最盛期を迎えた。特に明治二年から同十年にかけ海運が一層活発化し、税を米で納める必要がなくなったため越中米を自分の裁量で大量に売ることができるようになったこと、政府が北海道開拓に力を入れたため鰊肥を大量に確保できるようになったこと、等の要因から米の移出と魚肥の移入で加賀・越前を上回った。一方で弁財船といった和船から、西洋型の帆船や蒸気船への転換も喫緊の課題となった。富山県内での洋式帆船の採用は、明治十四年北陸通船会社の第一北運丸や翌年高岡で綿屋(正村)平兵衛の正得丸が嚆矢とされる。この頃は船による運送の競争が激化していた。明治十四年反三菱の立場で藤井能三が東京風帆船会社・越中風帆船会社を設立し、両社を同年中に合併して共同運輸会社とする。更に藤井能三は高岡の正村平兵衛・新湊の宮林彦九郎・朽木清平・福光の石崎和善・東岩瀬の馬場道久・泊の小沢与三等といった北前船主を糾合し、資本金五万円で北陸通船会社を創設する。北陸通船は同年の収支で七百八十一円の黒字を計上し、これが富山県に汽船会社を設立させていく契機になった。同十八年郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併して日本郵船会社となるが、県内でも同年から翌年にかけ石崎和善と武部尚志が提携し、伏木汽船(元北陸通船)と同二十一年に合併して伏木航運を作る。伏木の二上二平と馬場道久が提携し、同二十二年に馬場汽船が出来る。中越汽船が創立し、同二十一年越中汽船へ改組される。同二十三年新湊で南島汽船も設立された。これらの北前船から変身した船会社を、日本郵船会社以外であることを強調して「社外船」と総称し、日清・日露戦争前後に活動を強めた。地域的には伏木は初めから汽船で近代化し、東岩瀬では洋式帆船を経て汽船を導入する。新湊では長く和船を主力にし続け漁港的な面が強かった。また短期間のようだが和船を二本マストにした洋式との折衷船も出来ている。同三十八年富山県と石川県で三十四隻の汽船を保有していたが、その内十二隻が富山県である(九隻伏木、東岩瀬・新湊・魚津各一隻)。また洋式帆船で木材、和船で鰊肥を運んでいた。だが洋式帆船や汽船に転換するにも大きな資金がいるため、弁財船主の多くはそれが不可能であった。米や魚肥・塩等は帆船より汽船の方が大量に運べる。それゆえ日本郵船等の大きな汽船会社に荷を奪われつつあった。また同三十年代に大阪から鉄道が富山県に入り、関西方面へ米・魚肥を輸送するようになる。更に輸送の高速化と多様化は地域間の価格差を狭め、従来型の船で輸送する意味を失わせていった。その上、海外から化学肥料や大豆粕、外国産綿花や化学肥料が輸入され、魚肥の需要が関西で減衰し、近畿の綿花栽培や阿波の藍玉に打撃を与えた。ついに同三十年代には西回航路の西半分が活動停止に追い込まれる。残された北海道への往復荷を運ぶ役割も汽船には敵い様が無かった。そのため、汽船への転換が早かった伏木以外では、船主の多くが船を漁労と北海漁場への往復に転用したり、地主として北海道の鰊肥を運んで小作農に貸与する等、北前船としての姿を失っていった。註 三菱の運輸業 明治三年十月高知の岩崎弥太郎等が大坂商会を藩から切り離し、九十九商会(別説土佐開成商社)設立、同四年九月十五日三川商会、同六年三月三菱商会(本社大阪)、同七年四月三菱蒸気船会社(本社東京)と改め、同八年大久保利通から便宜を受け、九月に郵便汽船三菱会社となる。同十四年十月に政府の方針が変更され、岩崎が大隈重信と親しかったことや、三菱による独占への反発から、共同運輸会社を設立させ、以後激烈な価格競争を展開する。同十八年二月七日に岩崎弥太郎が没し、政府の仲介で弟の弥之助が共同運輸の森岡昌純と合併に合意して、日本郵船会社が出来ると、三菱は海運から手を引いた。折衷船 船首に三角帆 船尾に縦帆 舳先に弥帆 西洋船の奨励 明治二年に政府は帆走能力の点から西洋型帆船・蒸気船を奨励するが、安全性は和船の方が高かった。明治十九年海難発生率は西洋型(六八八艘)が七・一%、和船(一万六千艘以上)は三・八%であった。同二十年に五百石積以上の和船建造を禁止するが、船主は修理の名目で建造しつづけた。
一、航路の啓開
幕府は寛永十年に御朱印船以外の海外渡航を禁止し、翌年五百石積以上の船の建造を禁じて海外渡航を認めない事にした。同十五年に商船については五百石積以上の建造を許す事にしたが、一連の所謂「鎖国」政策によりこれ以後わが国の船は沿岸航路を主とするようになった。航路には、大坂から江戸へ東海廻り・江戸から奥羽南部まで東廻り・下関から津軽国まで北国廻り(西廻り)・大坂より瀬戸内海を通って下関へ行きそこから長崎へ海を進む、といった四つがある。大坂の地船のうち日本海に航海する船を特に北廻地船と呼んだ。東廻りの航路は寛永二年に津軽藩により開かれ、明暦元年に秋田藩が津軽海峡を経て江戸へ到る。寛文十一年に河村瑞軒が航路を新たに開いて上方から東北を結んでから活発に利用されるようになった。貞享元年には大坂で安治川と木津川を掘削し、大型船を多数停泊できるよう整備する。
二、上方依存からの脱却
加賀藩では海運が上方船の支配下にあった。寛永以前は米を敦賀・小浜・大津の商人が琵琶湖経由で上方へ輸送していたが、馬で陸送する箇所がありこぼれ落ちる米が少なくない。その上馬一頭に二俵しか詰めないため千石運ぶのに千頭いってしまい、越中から大津まで百石の運賃が二十五石というように、全体の四分の一がとられてしまう。そこで島原出陣に備え大坂の木屋や升屋を通じて大量の船を雇い入れたのを期に、寛永十六年百石を下関経由で試送し、正保四年に大坂の備前屋を蔵宿に指定し木屋等へ廻漕を委ねて以降、大坂への早期着米を進めるため敦賀・小浜の経路を激減させ、北国に馴れた摂津・備前・塩飽等の上方船(弁財船)による運搬を定例化した。損失も少ないし、百石運ぶ運賃も十七石で済む。
一方これにより加賀藩の経済は上方の米相場に左右される事になる。明暦二年十月摂津国兵庫の十河長助は大坂廻米の運賃を越中から百石に付き十七石五斗・加賀から十七石と低額に抑えつつ、小部村忠右衛門等三名の船五艘で千五百石を運ぶ一方、江戸廻米は地船に任せた。地船の多くはまだハガセ船や北国船を用い、潟廻舟や猟船の水主を雇用しているので習熟度が低く無理な輸送をするため欠米が多く、難船の危険が高かった。元禄十一年の調査では上方船一に対し地船は九の難船率である。翌年全て上方船に任せた所難船した船が無かった。その上少々のことで難癖を付け、延享元年に上方船と対立するため藩は地船を積石数と建造年数で厳選し、破損が多いようであれば地船を活用しないと警告せねばならないほどであった。享保頃には伏木の地船比率は五%程度であり東岩瀬はそれ以下、寛保四年の伏木では一%弱にまで落ち込んでしまう。廻米総量で見ても上方船と地船との比率は元禄頃に二対一であったのが(元禄十一年大坂廻米二対一・江戸廻米六対四)、天保頃には五対一とむしろ拡大している。この内千石積以上の船の七十%は摂津・大坂・長門・肥前等の船に占められ、地船は四百石積以下で五十%を越えるのみである。
このような上方依存を改めるため、安永頃に千石積以上の渡海船建造を許し、寛政頃には地船でも沖乗り航海をするようになる。文化十年江戸廻米を止めて地元の酒を江戸へ直送することを企図する。また二十四か条の定めで大坂への廻米を正月下旬から六月中までの三番立にすることを達して、一番立早着の三艘には褒米を、逆に三番立が七月以降に着くような事があれば過怠米を取るものとした。翌年神戸二ッ茶屋村の船を直雇いし、上方船才許具足屋七右衛門等を免じて新たに山田屋市右衛門・泉屋次郎左衛門・木屋又三郎等を廻船方御用達に任じた。これらは廻米と上方船を藩の管理化に置こうとした政策である。更に文政五年には町農民が浦方で名代を立てなくても渡海船を所持できることとし大船建造を奨励する。この頃には地船の数が増えて、沖乗り航海も多くなっている。同六年水主の他国稼ぎを禁じて渡海船所有者に大坂廻米を指示し、同八年二百石以下の船も書き上げ、天保四年に船櫂数調理役を設置し船管理に努め、同五年に二百石以上の廻船を調査し、銭屋五兵衛を御手船裁許に任じた。天保の大飢饉を経て、藩政を担う奥村栄実は同七年に多くの米を大坂・江戸へ廻漕する。同九年他国移出の諸産物に百分の一口銭を課し、大坂や江戸への廻米増加を志向した。同十三年船頭・水主に自国稼ぎを申し渡し、翌年大坂廻米の内二万石を地船に割符した。しかしこの時点ではまだ地船が成長していないため、引き受けを渋る傾向にあり、大坂廻米にあたった船には欠米が多かった。上方船では六十三艘で運んだ一艘あたりの欠米が一石一斗であるのに対し、地船は二十七艘で運び欠米が二石二斗、更に皆納が上方船七艘であるのに、地船は皆無である。しかし藩は長連弘と黒羽織の政策の下、専売制実現のため廻船を通じて物資の移動をつかむことを企図していた。そのため出津の際には各浦担当者が指紙を領廻りと別にして算用場へ報告し、また各商品作物の生産を村役人に指示して他国出しと国内流通に分け把握した。やがて地船も成長し、弘化三年大坂雇船へ優先的に積米していたのを止め、地船で他国囲船も同等と見なすことにした。嘉永四年伏木では上方船と地船の比率が三対七に逆転している。放生津の綿屋彦九郎は毎年三月から十月まで航海し、米を富山・新潟・酒田・秋田で仕入れ蝦夷で売り鰊や昆布等を買入れ、下関・瀬戸内を経て兵庫・大坂・堺で綿を買い、三田尻で塩・下関で蝋や砂糖・山陰で砂鉄等を仕入れ、放生津へ戻っている。嘉永五年産物方役所を小物成方役所・産物口銭を別小物成とし、十二月他国入諸品浦口銭を定め、移入品には千分の八・移出品には百分の一口銭を課す。これにより津留を強化しつつ物資の移動を掴んで物価の高騰を防ぐと共に、口銭を増やして藩収入に充当することをねらった。同六年には国産品の使用を奨励する。
富山藩では元禄七年に鷹を捕獲するという名目で松前へ渡航することを企図し渡海船調査を行う。この時は百二十石積ハガセ船が選ばれた。大坂への廻米には享保五年播磨国塩屋七右衛門や宝暦五年大坂長浜屋孫太夫等の上方船を雇っていたが、やがて上方商人が加賀藩領から船を雇うようになる。寛政十一年大坂の淡路屋太郎兵衛と堺の酢屋利兵衛は富山藩から二万石を買い入れるが、これを加賀国粟ヶ崎孫兵衛の千八十石積船・同清左衛門の七百五十石積船・同伝左衛門の八百石積船・同庄九郎の千百五十石積船と契約して運搬している。支藩であるせいか何かと加賀藩領に依存するところが大きい。天保十四年四方町の布目屋権右衛門は高岡から木綿を仕入れて青森に売り込もうとする際、高岡木町の鷲塚屋六郎右衛門の五百石積船を雇い入れている。
三、津留政策
加賀藩や富山藩では自給自足の確立を目指し、正保から天和にかけ移入を制限して産業育成を図る。加賀藩は承応二年五月に他国米の移入を禁じて澗改人を湊に置き荷を改めさせ、万治二年六月塩の移入を禁じ、同四年移出に制限をかけ荒地に桑苗を植樹する(寛文二年に奨励)。寛文三・四年にかけ米と塩につき取締りを強化し、同六年桑・楮・漆や実のなる木の植付けを奨励した。同八年の伏木村書き上げでは、移入禁止品が米と塩、移出禁制品が大豆・油菜・屎鰯となっている。このことからも移入より移出を規制していたことが分かる。移出を禁止されていた品は、万治四年鰯、寛文七年葉煙草と刻み煙草、同八年大豆・油・油種・若竹、同九年魚油、同十二年紙・楮、天和三年蝋・蝋燭・鬢付け・同六年糸であり、移出可能な品は米・縁取の畳・茣蓙・筵・笽・紙・塩肴・笠・酒であった。この頃までは改作法の完成期にあり、小物成を制定し、町方の商工業を発展させ、農家の副業生産を奨励する。
享保年間になり、農業生産の向上と産業の開発に努め、農民身分で商売することを認める。同二十年産物等を調査した。この頃には産物方を設置し、安永七年四月村井又兵衛長穹が主附に就任すると、領内産物の数量や値段を調べ、産物資金を貸し付け(一年で利子八朱若しくは無利子・長期十年貸与)、桑の植樹に努め、移出入に課税し、絹布判賃徴収の厳守と絈移出の統制を図る。寛政元年には移出禁止が油・油種・魚油・諸鳥・煙草・大豆・紙類・楮・漆・蝋・七木・干鰯・肥料類・油粕・硫黄・細炭・鉛等であり、移入は構わない。移入を禁じられた品は塩と米で、不足時は算用場で許可した。また慣例で移出しない品には、蝋・五葉松・松はた(いらもみ・松粕科)・薪用木材・日用木材等であった。
産物銀は天明頃盛んに利用され、同五年産物方役所が廃止になっても産業振興策は継承される。文化・文政期には煙草・豆腐・酒・質屋・蝋燭・菜種・油屋等の製造業者が限られている業種を株立てして運上銀と冥加を課し、その他の無株の業種には上納銀のみとした。文化八年領内の産物調査を実施し、大豆・油・油種の移出を三州ともに禁じた他、郡別に移出禁止品を定め原料品と消費物資の確保を図った。砺波・射水郡では菜種・ゑごま油・しぼり粕・油草・油種・油粕・魚油・紙并楮・雑穀・綿種・漆とその実・蝋・干鰯・干屎物類・塩硝・七木(杉松檜桐樫槻栗)、今石動・氷見では油草・油粕・綿種・魚油・小豆・七木と唐竹(氷見)・大麦・小麦・酒・蝋・紙并楮・干鰯(氷見)・上肴(鰤・鮭・鱈・刺鯖)・巾広布と日纑、高岡では油粕・魚油・綿種・紙・蝋・漆実・干鰯・糞類・酒・醤油・七木(松杉桐檜槻樫竹)である。産物方は同十年に再建され村井又兵衛長世が就任するが、翌年六月に廃止され、勝手方で担当する。文政元年にまた設置し村井長世が復帰した。産業銀を貸与する政策は、福野の桟留縞・長崎村の製糸・井波や藤橋村の養蚕・戸出の縮・福光の八講布・今泉村の陶器・北川村の絹・福町の菅笠や八講布等を成長させた。文政十一年に金沢呉服商宮腰屋(一丸)甚六に委ねて領内産物を江戸へ送り、木綿問屋升屋七左衛門を総引請問屋とする江戸産物会所で加賀絹・八講布・菅笠・鉄製品等を売り込んだ。五月~十一月の送付高は三百二十一貫、翌年一月~六月千二百七十一貫であった。天保五年には大坂でも産物会所を開く。天保頃には酒の移入を禁じ、同十一年に他国酒の密売を厳罰に処すと達した。同八年七月と翌年二月奥村栄実は高方仕法で町部の郡方進出を阻んで農業生産の向上を図り、同六年に物価調査をして同八年産物方を改組し物価方役所を設置する(同十三年廃止)。物価の騰貴を抑えるため株立てを廃して冥加・運上を価格に上乗せしないよう達した。また食料品の移出を禁じる。
弘化元年に長連弘が黒羽織と称する派閥を率いて藩政を担うと、同四年漆苗代金を貸し付け砺波・射水郡に四十八万本の植付けを図る。嘉永元年までに二十四万本が達成されている。嘉永二年木の実油(えごま)の種子を無料で配布し、紫根の植付けを奨励する。同三年には藺草(テンキ)や紅花等の種子を配布し、質屋・菜種・合薬・綿・米屋の株立営業を復活させる。同五年に産物方を廃止し、砺波郡に紅花の種六百三匁を無料配布した。同六年移入品の統制を強化し、移入は薬等の必需品や領内で生産されない六十品目のみとする。
安政元年に黒羽織一党が失脚するものの、飢饉や一揆・疫病・海防費の重圧等難局が続いて、文久二年に黒羽織一党が復権する。漆や櫨の増産を奨励し、砺波郡に漆十六万六千余本と櫨七千九百本の植樹を達している。翌年領内に産物方役所を設置した。越中国では、福野(砺波郡全体を管轄)・今石動・城端・福光・井波(西赤尾・阿別当・九里ヶ当も所管)・矢木・戸出・福岡・高岡(射水郡全体を管轄し横田村も所管)・氷見(朝日新・鞍川・宇波・姿・北八代も所管)・小杉新(大門新・放生津・長徳寺・伏木・下村・水戸田も所管)・魚津(新川郡全体を所管)・滑川・三日市に設けた。同四年には移出禁止品と審査を要する品に分けて明示する。竹箸・馬具・銅・鉛・硝石・硫黄・薬種・諸鳥・七木と竹・石灰・蝋・漆・桑・瑪瑙石・諸紙と楮・油・醤油・材木類・雑穀・諸色油綿種油・小豆・麦・粟・稗・屎物類・瓦・炭・薪・木呂は禁止品、絹布や木綿類・糸・真綿・綿麻苧・畳表や茣蓙・茶・煙草・太物類・古手類・獣皮・蚕繭・葉藍・菜種・燈心・金物類・鉄釘・苧絈・干魚塩魚・醤麩・焚炭・蘘・石類・粉糠・畑物類・てん草・ゑこ草、といった品は算用場が詮議して指図する。またこれら以外についても、移出する場合は産物会所が検査して産物印章の指紙を発行するので、澗改人はこの指紙と品物を照合し、出帆日を裏書して従来通り毎月出帆目録を提出するものとした。砺波郡の金戸村では、元治元年に漆苗九万六千余本・慶応元年五万本が植え付けられた
元治元年六月伏木浦からの報告によると、産物方の指図を受けて浜揚げする品は、菜種・菜種油・荏種・
荏油・酒・七木・丸太・魚油、澗改人により浜揚げする品は、薬種・合薬・薬油・小間物類・八百屋物類・木綿反物類・古手・抜手綿・伸継・色紙・形紙等の類・綿・蝋・砂糖・鉄・銑・鋼・金床地・針金類・漆・漆種・艫・櫂・蒟蒻玉・蒟蒻粉・煙草・菜・生姜・鰹節・数ノ子・干鱈等の魚類・茸類・金物類・唐津類・瓶類・砥石・切石類・釜・呉服物類・竹簾・貝殻・茣蓙類・伏見人形・藍粉・藍玉・唐竹・篠竹・塗物類・反古・古金・心天草・紅花・苧類・芋・狗背・焚木・焚炭・雑木等の材木角物類・昆布・若和布・鯡等の屎物類・大豆・小豆・雑穀類・石炭・大坂等よりの大廻り荷物、領国廻り品で移入する時に郡奉行所の指図で浜揚げする品は、大豆・小豆・麦等や雑穀類・酒・酢・醤油・七木丸太・葉藍・藍粉・小松茣蓙・菜種・菜種油・荏種・荏油・胡麻・豌豆・水挽粉・真綿・蝋燭・びん付・紙類・楮皮・楮苗・魚油類・漆・漆種・漆苗・石灰・綿種・綿粕、領国廻り品で澗改人が浜揚げする品は、米・干加等の屎物類・菅笠・傘・笠当て・鍋釜・鉄瓶等類・仏具類・金物細工類・鉄・金床地・板金等・蓑・蓑綱・絹布や木綿類・着茣蓙・氷見新出来茣蓙類・箪笥・長持等・赤物類・小間物類・八百屋物類・蜜柑・柿渋・厨子・新出来酒樽・草履・草鞋・木履・足駄・同緒類・茸類・反古・古金・簾・山中木地・糸わく・均子・傘轆轤・竹ノ子笠・大鞁類・煙草・狗背・免類・雑木・草槙等材木角物類・篠竹・杉皮・瓦・塩にがり・茶・ゑご・貝殻・薬種・合薬・藍玉・蒟蒻玉・蒟蒻粉・切石類・芋類・紅花・蝋・砂糖・砥石・唐津・瓶類・生姜・昆布類・若布・筵・縁取・縄・七島茣蓙類・薩摩芋・鰹節・数ノ子・古手・抜手綿・心天草・燈心・引わた・しゅろ皮・大坂等下り大廻り荷物品々であった。
慶応元年十月米の移入を解禁し、その他の品も移入を大幅に認めた。翌年四月産物方が不効率のため金沢のみ残して廃止する。同三年八月外国奉行菊池伊予守視察に伴い、射水郡での調査によると、移出取締り対象の品は、麦・大豆・粟・稗黍・蕎麦・胡麻・荏油・味噌・酒・酢・醤油・水挽粉・干菓子類・鯡干加・焼灰・油粕等の屎物類・小松表茣蓙・葉萱、移出入とも禁止の品は、唐物・菜種・菜種油・竹箸・銅・朱金・海鼠、移出入時に取締りの対象は、米・塩・石灰・紙・楮口・塩硝・硫黄・鉛・銭・七木・丸木であった。
四、口銭
他国から湊に出入りする商人荷物より徴収する手数料を浦口銭と称し、浦々によって異なっていたが、文政元年に品目別で統一する。例えば、米や小豆は一石に付き五合・糸一把に付き五分・木綿一疋に付き八厘・炭六貫目一俵に付き一厘五毛・筵一束に付き一厘五毛、といったように三百数十種ある。毎年六月と十一月に上納し、対象は米や小豆等二百六十品目である。出津(移出)荷物の分は全て入津(移入)口銭の五分の一を徴収した。射水郡と新川郡の浦口銭取立方主附として十村の内嶋村五十嵐孫作(篤好)と中川村南善左衛門を任じ、更には洩物改の肝煎兼帯を止めて専任とした。肥料用の砂干鰯や綿粕・鰊・粉糠等の十八品には口銭を課さず、翌年二月出津品からは全て口銭を徴収しない事にし、魚類は魚口銭だけ、八百屋物は浦方問屋の口銭だけにした。しかし伏木浦で積み替える米については、同七年の澗改人の具申により、一石に付き二分四厘を徴収する。
他国出口銭に関しては、天保九年に銀百目に付き一匁の百歩一口銭を導入し、木綿は一反に付き三厘を集めた。なお領内での売買は無口銭のままである。浦方へは算用場から監査のため役人が派遣されている。嘉永五年十二月に移出品は「見積もり」代銀百目に付き一匁、「見積もり」代銀百目に付き八分に改訂する。また鰊や干鰯等の屎物にも銀百目に付き四分の口銭を課した。同六年領国廻りの米について、一石に付き二分五厘の口銭を銀百目に付き一匁に改める。四月には口銭取引定帳を作成し、浦方や船問屋に達した。この頃入津口銭取立役は澗改人との兼任することもあるが、安政元年に他国出口銭取立人の澗改人との兼任を禁じる。口銭の三分の一は取立人の手数料となり、残りを二月~六月分は七月に、七月~十一月分は十二月、十二月分は翌年正月に藩へ納めるとともに、毎月口銭取立高と小物成印紙の出入を報告した。同四年無口銭であった他国出綿に口銭を課し、文久三年石灰使用を解禁し、他国から入れた石灰は代銀百目に付き八分と十貫目に付き二厘ずつ集める(一厘は澗改人・一厘は口銭取立役の手数料)。同四年他国出絹布に百歩一口銭を課し、他国出口銭取立人を他国出等調理役と改め、取立口銭は所属する会所へ差し出す事にした。また伏木浦の口銭について上納を翌々月にしてほしいとの願いを受理する。
元治元年五月十村からの質問に次の通り答える。他国から入った品を再び他国へ出す時には荷主が替わらなくても百歩一口銭を徴収する。富山の商人が大坂等で買い入れた菜種を伏木浦船宿宛に入れ、それを富山に送るため東岩瀬へ廻す分には、伏木浦で口銭三分の一を徴収するだけでよい。陸輸送するのなら澗改人の入津口銭取立済の指紙を添えること。入津して領内に廻る品物は荷主が替わっても百歩一口銭は課さないこと。富山の商人が大坂等から運んだ綿荷について、伏木に入った分は高岡の服部三郎右衛門が口銭を徴収する。再び海陸より富山へ引き取る時には百歩一口銭の三分の一だけ徴収すること。慶応元年他国出口銭を百文に付き二文とし、翌年一月から実施すると達したが、実行されなかった。鰊等の肥料類全ての入津について無口銭にする。同二年六月澗改強化を達し、七月から次のことを実施に移す。領国廻り出津の米・麦等は、見積もり代銀の百目に付き一匁、肥料類は代銀百目に付き四分の口銭を課し、口銭取立済みの指紙と品物代銀附とを照合する。他国出津の品には代銀百目に付き二匁の口銭を徴収する。他国から入れたが取引不成立になっても、再び他国へ運ぶ時には領国産と同様の口銭を課す。浜借は無口銭だが、荷主が替わるか積船が替わったら出津口銭を課す。他浦行きの荷物を積み合わせて入津し、他浦行きの荷物を積み替えなければ、その船で出帆したら無口銭でよい。他の船に積み替えたら規則通り徴収する。領内で流通させる分には口銭済の指紙を澗改所から渡す。冬になって浜囲いを願う船からは船往来を預り、積荷を調べて封印する。他国他領行きの魚には三歩五厘口銭を課す。澗改料を物価高のため従来の倍にする。出津口銭は全て船宿か荷主から徴収する。
五、富山藩の政策
富山藩では藩政全般を通じて、物価の引き下げ・流通の確保と物資不足の予防・町農民の生活安定に力を入れた。特に米・小麦・穀類等の食糧が領外へ流失するのを防ぎ、宝暦頃から問屋の設立に努めることで産業の育成を図り、葉藍や菜種等の原材料を津留した(寛政三年に解除するがすぐに戻す)。明和になると城下町に商人が賑わい、天保頃には全ての商売を株立にし、ほぼそのまま政策を変えずに慶応元年まで継続している。また他国からの物資を監視するため、富山町に入る船を木町に着けることになっていた。しかし両岩瀬に陸揚げしてしまう者もいたようで、元文三年にこの厳守を達している。文化四年十一月イクリ舟への焼印をうけるよう指示した。湊が脆弱な富山藩は移出入を口銭で管理しなかったようである。
文化六年冬に塩野・月岡野に櫨を植樹したが降雪で失敗したため、翌年二月今度は五艘・安養坊・針原・北代・小竹・八町・吉作・金屋・杉谷・土代・山本・押川・長沢・小長沢・羽根・長沢新・三田・大坪・蓮花寺・富崎に植樹し、更には十月に婦負郡と新川郡の十村を通じて各村へ苗を配布した。天保八年十一月他国から唐津物を入れないようにして、井田村で製造した丸山焼を使用することを達した。嘉永四年八月蔵半紙・土佐半紙・諸国白半紙・信州杉原・信州判広といった他国紙の買入れを禁じて、領内で製造した紙を使用するよう達した。同七年三月山岸村で焼いた瓦の使用を奨励する。文久二年六月追分茶屋等三茶屋の製茶を移出する願いが出され、これを受理する。翌年六月山田組・大田組・宮川組・為成組・寒江組に苗の必要量を書き出させると、合計で櫨四万千三百二十三本・漆四万五千二百本・楮七千六百六十二本・桑一万七千八百六十八本であった。これを加賀藩領の砺波郡金戸村や新川郡東岩瀬森村で調達し配分した。元治元年追分茶屋村高源寺に製茶所を設け、呉羽の茶を一手に買入れ領外に販売する。同年に四千三百三十七貫七百十五匁を二千七百六両と銀九匁一厘で買い付け、製茶売捌人を通じて二千九百五十六両と銀四匁六厘で売り、諸経費を除いて別益金を加えると百五十両の純益があった。
弘化三年八月町方で渡海船の売買を認め、往来切手の希望者は町肝煎まで届け出るよう達した。文久元年六月富山藩は幕令を公布する。百姓町人が大船を所持することを許す、外国商船を所持したければ最寄の開港場奉行へ申し出ること、願いにより案人や水夫を貸す、という内容であった。
安政三年十二月町奉行より、来春より上方から富山へ運ぶ諸荷物はそこの船宿に依頼せず、富山藩御手船の戻り船に載せるように、との達しがある。藩はこの方法で移入管理と財源確保の一挙両得を狙った。運賃はこれまで通りとし、指定された荷物寄場に持ってくる。御手船の都合がつかなかったり、急ぎの荷物は申請を出すと雇船で運ぶことを許可する。翌年二・三月に大坂北堀江四丁目木屋市郎兵衛・同東堀順慶町一丁目高田屋弥兵衛・長州下関長田屋嘉助・同札之辻伊勢屋小四郎に寄場を依頼している。
註
氷見の藺
文久三年に表藺二千七百束・小藺一万束・大小縁取四千五百束の計一万七千二百束を生産し、半分を他国出しする。
砺波郡和田新町の煙草入れ
文久四年に五軒問屋で三万四千七百枚を生産し、内八千四百枚を他国出しする。
富山藩の石灰移出入口銭
文久三年二月加賀藩で石灰使用を許可したので富山藩でも同様の扱いにし、七月翌検査して使うことと口銭を定めた。焼立売捌者は目方十貫目に付き二分ずつ集め、内五厘は吟味人・一分五厘は小物成として納める。他国から入れる場合は代銀百目に付き八分を納める他、十貫目に付き二厘ずつ集め、検査する役人と御益銀取立役で折半する。領内の船で移入した場合は百目に付き四分とする。ただし農民が肥料に使用するのなら口銭は徴収しない。移出する場合は代銀百目に付き一匁を納める。
幕府は寛永十年に御朱印船以外の海外渡航を禁止し、翌年五百石積以上の船の建造を禁じて海外渡航を認めない事にした。同十五年に商船については五百石積以上の建造を許す事にしたが、一連の所謂「鎖国」政策によりこれ以後わが国の船は沿岸航路を主とするようになった。航路には、大坂から江戸へ東海廻り・江戸から奥羽南部まで東廻り・下関から津軽国まで北国廻り(西廻り)・大坂より瀬戸内海を通って下関へ行きそこから長崎へ海を進む、といった四つがある。大坂の地船のうち日本海に航海する船を特に北廻地船と呼んだ。東廻りの航路は寛永二年に津軽藩により開かれ、明暦元年に秋田藩が津軽海峡を経て江戸へ到る。寛文十一年に河村瑞軒が航路を新たに開いて上方から東北を結んでから活発に利用されるようになった。貞享元年には大坂で安治川と木津川を掘削し、大型船を多数停泊できるよう整備する。
二、上方依存からの脱却
加賀藩では海運が上方船の支配下にあった。寛永以前は米を敦賀・小浜・大津の商人が琵琶湖経由で上方へ輸送していたが、馬で陸送する箇所がありこぼれ落ちる米が少なくない。その上馬一頭に二俵しか詰めないため千石運ぶのに千頭いってしまい、越中から大津まで百石の運賃が二十五石というように、全体の四分の一がとられてしまう。そこで島原出陣に備え大坂の木屋や升屋を通じて大量の船を雇い入れたのを期に、寛永十六年百石を下関経由で試送し、正保四年に大坂の備前屋を蔵宿に指定し木屋等へ廻漕を委ねて以降、大坂への早期着米を進めるため敦賀・小浜の経路を激減させ、北国に馴れた摂津・備前・塩飽等の上方船(弁財船)による運搬を定例化した。損失も少ないし、百石運ぶ運賃も十七石で済む。
一方これにより加賀藩の経済は上方の米相場に左右される事になる。明暦二年十月摂津国兵庫の十河長助は大坂廻米の運賃を越中から百石に付き十七石五斗・加賀から十七石と低額に抑えつつ、小部村忠右衛門等三名の船五艘で千五百石を運ぶ一方、江戸廻米は地船に任せた。地船の多くはまだハガセ船や北国船を用い、潟廻舟や猟船の水主を雇用しているので習熟度が低く無理な輸送をするため欠米が多く、難船の危険が高かった。元禄十一年の調査では上方船一に対し地船は九の難船率である。翌年全て上方船に任せた所難船した船が無かった。その上少々のことで難癖を付け、延享元年に上方船と対立するため藩は地船を積石数と建造年数で厳選し、破損が多いようであれば地船を活用しないと警告せねばならないほどであった。享保頃には伏木の地船比率は五%程度であり東岩瀬はそれ以下、寛保四年の伏木では一%弱にまで落ち込んでしまう。廻米総量で見ても上方船と地船との比率は元禄頃に二対一であったのが(元禄十一年大坂廻米二対一・江戸廻米六対四)、天保頃には五対一とむしろ拡大している。この内千石積以上の船の七十%は摂津・大坂・長門・肥前等の船に占められ、地船は四百石積以下で五十%を越えるのみである。
このような上方依存を改めるため、安永頃に千石積以上の渡海船建造を許し、寛政頃には地船でも沖乗り航海をするようになる。文化十年江戸廻米を止めて地元の酒を江戸へ直送することを企図する。また二十四か条の定めで大坂への廻米を正月下旬から六月中までの三番立にすることを達して、一番立早着の三艘には褒米を、逆に三番立が七月以降に着くような事があれば過怠米を取るものとした。翌年神戸二ッ茶屋村の船を直雇いし、上方船才許具足屋七右衛門等を免じて新たに山田屋市右衛門・泉屋次郎左衛門・木屋又三郎等を廻船方御用達に任じた。これらは廻米と上方船を藩の管理化に置こうとした政策である。更に文政五年には町農民が浦方で名代を立てなくても渡海船を所持できることとし大船建造を奨励する。この頃には地船の数が増えて、沖乗り航海も多くなっている。同六年水主の他国稼ぎを禁じて渡海船所有者に大坂廻米を指示し、同八年二百石以下の船も書き上げ、天保四年に船櫂数調理役を設置し船管理に努め、同五年に二百石以上の廻船を調査し、銭屋五兵衛を御手船裁許に任じた。天保の大飢饉を経て、藩政を担う奥村栄実は同七年に多くの米を大坂・江戸へ廻漕する。同九年他国移出の諸産物に百分の一口銭を課し、大坂や江戸への廻米増加を志向した。同十三年船頭・水主に自国稼ぎを申し渡し、翌年大坂廻米の内二万石を地船に割符した。しかしこの時点ではまだ地船が成長していないため、引き受けを渋る傾向にあり、大坂廻米にあたった船には欠米が多かった。上方船では六十三艘で運んだ一艘あたりの欠米が一石一斗であるのに対し、地船は二十七艘で運び欠米が二石二斗、更に皆納が上方船七艘であるのに、地船は皆無である。しかし藩は長連弘と黒羽織の政策の下、専売制実現のため廻船を通じて物資の移動をつかむことを企図していた。そのため出津の際には各浦担当者が指紙を領廻りと別にして算用場へ報告し、また各商品作物の生産を村役人に指示して他国出しと国内流通に分け把握した。やがて地船も成長し、弘化三年大坂雇船へ優先的に積米していたのを止め、地船で他国囲船も同等と見なすことにした。嘉永四年伏木では上方船と地船の比率が三対七に逆転している。放生津の綿屋彦九郎は毎年三月から十月まで航海し、米を富山・新潟・酒田・秋田で仕入れ蝦夷で売り鰊や昆布等を買入れ、下関・瀬戸内を経て兵庫・大坂・堺で綿を買い、三田尻で塩・下関で蝋や砂糖・山陰で砂鉄等を仕入れ、放生津へ戻っている。嘉永五年産物方役所を小物成方役所・産物口銭を別小物成とし、十二月他国入諸品浦口銭を定め、移入品には千分の八・移出品には百分の一口銭を課す。これにより津留を強化しつつ物資の移動を掴んで物価の高騰を防ぐと共に、口銭を増やして藩収入に充当することをねらった。同六年には国産品の使用を奨励する。
富山藩では元禄七年に鷹を捕獲するという名目で松前へ渡航することを企図し渡海船調査を行う。この時は百二十石積ハガセ船が選ばれた。大坂への廻米には享保五年播磨国塩屋七右衛門や宝暦五年大坂長浜屋孫太夫等の上方船を雇っていたが、やがて上方商人が加賀藩領から船を雇うようになる。寛政十一年大坂の淡路屋太郎兵衛と堺の酢屋利兵衛は富山藩から二万石を買い入れるが、これを加賀国粟ヶ崎孫兵衛の千八十石積船・同清左衛門の七百五十石積船・同伝左衛門の八百石積船・同庄九郎の千百五十石積船と契約して運搬している。支藩であるせいか何かと加賀藩領に依存するところが大きい。天保十四年四方町の布目屋権右衛門は高岡から木綿を仕入れて青森に売り込もうとする際、高岡木町の鷲塚屋六郎右衛門の五百石積船を雇い入れている。
三、津留政策
加賀藩や富山藩では自給自足の確立を目指し、正保から天和にかけ移入を制限して産業育成を図る。加賀藩は承応二年五月に他国米の移入を禁じて澗改人を湊に置き荷を改めさせ、万治二年六月塩の移入を禁じ、同四年移出に制限をかけ荒地に桑苗を植樹する(寛文二年に奨励)。寛文三・四年にかけ米と塩につき取締りを強化し、同六年桑・楮・漆や実のなる木の植付けを奨励した。同八年の伏木村書き上げでは、移入禁止品が米と塩、移出禁制品が大豆・油菜・屎鰯となっている。このことからも移入より移出を規制していたことが分かる。移出を禁止されていた品は、万治四年鰯、寛文七年葉煙草と刻み煙草、同八年大豆・油・油種・若竹、同九年魚油、同十二年紙・楮、天和三年蝋・蝋燭・鬢付け・同六年糸であり、移出可能な品は米・縁取の畳・茣蓙・筵・笽・紙・塩肴・笠・酒であった。この頃までは改作法の完成期にあり、小物成を制定し、町方の商工業を発展させ、農家の副業生産を奨励する。
享保年間になり、農業生産の向上と産業の開発に努め、農民身分で商売することを認める。同二十年産物等を調査した。この頃には産物方を設置し、安永七年四月村井又兵衛長穹が主附に就任すると、領内産物の数量や値段を調べ、産物資金を貸し付け(一年で利子八朱若しくは無利子・長期十年貸与)、桑の植樹に努め、移出入に課税し、絹布判賃徴収の厳守と絈移出の統制を図る。寛政元年には移出禁止が油・油種・魚油・諸鳥・煙草・大豆・紙類・楮・漆・蝋・七木・干鰯・肥料類・油粕・硫黄・細炭・鉛等であり、移入は構わない。移入を禁じられた品は塩と米で、不足時は算用場で許可した。また慣例で移出しない品には、蝋・五葉松・松はた(いらもみ・松粕科)・薪用木材・日用木材等であった。
産物銀は天明頃盛んに利用され、同五年産物方役所が廃止になっても産業振興策は継承される。文化・文政期には煙草・豆腐・酒・質屋・蝋燭・菜種・油屋等の製造業者が限られている業種を株立てして運上銀と冥加を課し、その他の無株の業種には上納銀のみとした。文化八年領内の産物調査を実施し、大豆・油・油種の移出を三州ともに禁じた他、郡別に移出禁止品を定め原料品と消費物資の確保を図った。砺波・射水郡では菜種・ゑごま油・しぼり粕・油草・油種・油粕・魚油・紙并楮・雑穀・綿種・漆とその実・蝋・干鰯・干屎物類・塩硝・七木(杉松檜桐樫槻栗)、今石動・氷見では油草・油粕・綿種・魚油・小豆・七木と唐竹(氷見)・大麦・小麦・酒・蝋・紙并楮・干鰯(氷見)・上肴(鰤・鮭・鱈・刺鯖)・巾広布と日纑、高岡では油粕・魚油・綿種・紙・蝋・漆実・干鰯・糞類・酒・醤油・七木(松杉桐檜槻樫竹)である。産物方は同十年に再建され村井又兵衛長世が就任するが、翌年六月に廃止され、勝手方で担当する。文政元年にまた設置し村井長世が復帰した。産業銀を貸与する政策は、福野の桟留縞・長崎村の製糸・井波や藤橋村の養蚕・戸出の縮・福光の八講布・今泉村の陶器・北川村の絹・福町の菅笠や八講布等を成長させた。文政十一年に金沢呉服商宮腰屋(一丸)甚六に委ねて領内産物を江戸へ送り、木綿問屋升屋七左衛門を総引請問屋とする江戸産物会所で加賀絹・八講布・菅笠・鉄製品等を売り込んだ。五月~十一月の送付高は三百二十一貫、翌年一月~六月千二百七十一貫であった。天保五年には大坂でも産物会所を開く。天保頃には酒の移入を禁じ、同十一年に他国酒の密売を厳罰に処すと達した。同八年七月と翌年二月奥村栄実は高方仕法で町部の郡方進出を阻んで農業生産の向上を図り、同六年に物価調査をして同八年産物方を改組し物価方役所を設置する(同十三年廃止)。物価の騰貴を抑えるため株立てを廃して冥加・運上を価格に上乗せしないよう達した。また食料品の移出を禁じる。
弘化元年に長連弘が黒羽織と称する派閥を率いて藩政を担うと、同四年漆苗代金を貸し付け砺波・射水郡に四十八万本の植付けを図る。嘉永元年までに二十四万本が達成されている。嘉永二年木の実油(えごま)の種子を無料で配布し、紫根の植付けを奨励する。同三年には藺草(テンキ)や紅花等の種子を配布し、質屋・菜種・合薬・綿・米屋の株立営業を復活させる。同五年に産物方を廃止し、砺波郡に紅花の種六百三匁を無料配布した。同六年移入品の統制を強化し、移入は薬等の必需品や領内で生産されない六十品目のみとする。
安政元年に黒羽織一党が失脚するものの、飢饉や一揆・疫病・海防費の重圧等難局が続いて、文久二年に黒羽織一党が復権する。漆や櫨の増産を奨励し、砺波郡に漆十六万六千余本と櫨七千九百本の植樹を達している。翌年領内に産物方役所を設置した。越中国では、福野(砺波郡全体を管轄)・今石動・城端・福光・井波(西赤尾・阿別当・九里ヶ当も所管)・矢木・戸出・福岡・高岡(射水郡全体を管轄し横田村も所管)・氷見(朝日新・鞍川・宇波・姿・北八代も所管)・小杉新(大門新・放生津・長徳寺・伏木・下村・水戸田も所管)・魚津(新川郡全体を所管)・滑川・三日市に設けた。同四年には移出禁止品と審査を要する品に分けて明示する。竹箸・馬具・銅・鉛・硝石・硫黄・薬種・諸鳥・七木と竹・石灰・蝋・漆・桑・瑪瑙石・諸紙と楮・油・醤油・材木類・雑穀・諸色油綿種油・小豆・麦・粟・稗・屎物類・瓦・炭・薪・木呂は禁止品、絹布や木綿類・糸・真綿・綿麻苧・畳表や茣蓙・茶・煙草・太物類・古手類・獣皮・蚕繭・葉藍・菜種・燈心・金物類・鉄釘・苧絈・干魚塩魚・醤麩・焚炭・蘘・石類・粉糠・畑物類・てん草・ゑこ草、といった品は算用場が詮議して指図する。またこれら以外についても、移出する場合は産物会所が検査して産物印章の指紙を発行するので、澗改人はこの指紙と品物を照合し、出帆日を裏書して従来通り毎月出帆目録を提出するものとした。砺波郡の金戸村では、元治元年に漆苗九万六千余本・慶応元年五万本が植え付けられた
元治元年六月伏木浦からの報告によると、産物方の指図を受けて浜揚げする品は、菜種・菜種油・荏種・
荏油・酒・七木・丸太・魚油、澗改人により浜揚げする品は、薬種・合薬・薬油・小間物類・八百屋物類・木綿反物類・古手・抜手綿・伸継・色紙・形紙等の類・綿・蝋・砂糖・鉄・銑・鋼・金床地・針金類・漆・漆種・艫・櫂・蒟蒻玉・蒟蒻粉・煙草・菜・生姜・鰹節・数ノ子・干鱈等の魚類・茸類・金物類・唐津類・瓶類・砥石・切石類・釜・呉服物類・竹簾・貝殻・茣蓙類・伏見人形・藍粉・藍玉・唐竹・篠竹・塗物類・反古・古金・心天草・紅花・苧類・芋・狗背・焚木・焚炭・雑木等の材木角物類・昆布・若和布・鯡等の屎物類・大豆・小豆・雑穀類・石炭・大坂等よりの大廻り荷物、領国廻り品で移入する時に郡奉行所の指図で浜揚げする品は、大豆・小豆・麦等や雑穀類・酒・酢・醤油・七木丸太・葉藍・藍粉・小松茣蓙・菜種・菜種油・荏種・荏油・胡麻・豌豆・水挽粉・真綿・蝋燭・びん付・紙類・楮皮・楮苗・魚油類・漆・漆種・漆苗・石灰・綿種・綿粕、領国廻り品で澗改人が浜揚げする品は、米・干加等の屎物類・菅笠・傘・笠当て・鍋釜・鉄瓶等類・仏具類・金物細工類・鉄・金床地・板金等・蓑・蓑綱・絹布や木綿類・着茣蓙・氷見新出来茣蓙類・箪笥・長持等・赤物類・小間物類・八百屋物類・蜜柑・柿渋・厨子・新出来酒樽・草履・草鞋・木履・足駄・同緒類・茸類・反古・古金・簾・山中木地・糸わく・均子・傘轆轤・竹ノ子笠・大鞁類・煙草・狗背・免類・雑木・草槙等材木角物類・篠竹・杉皮・瓦・塩にがり・茶・ゑご・貝殻・薬種・合薬・藍玉・蒟蒻玉・蒟蒻粉・切石類・芋類・紅花・蝋・砂糖・砥石・唐津・瓶類・生姜・昆布類・若布・筵・縁取・縄・七島茣蓙類・薩摩芋・鰹節・数ノ子・古手・抜手綿・心天草・燈心・引わた・しゅろ皮・大坂等下り大廻り荷物品々であった。
慶応元年十月米の移入を解禁し、その他の品も移入を大幅に認めた。翌年四月産物方が不効率のため金沢のみ残して廃止する。同三年八月外国奉行菊池伊予守視察に伴い、射水郡での調査によると、移出取締り対象の品は、麦・大豆・粟・稗黍・蕎麦・胡麻・荏油・味噌・酒・酢・醤油・水挽粉・干菓子類・鯡干加・焼灰・油粕等の屎物類・小松表茣蓙・葉萱、移出入とも禁止の品は、唐物・菜種・菜種油・竹箸・銅・朱金・海鼠、移出入時に取締りの対象は、米・塩・石灰・紙・楮口・塩硝・硫黄・鉛・銭・七木・丸木であった。
四、口銭
他国から湊に出入りする商人荷物より徴収する手数料を浦口銭と称し、浦々によって異なっていたが、文政元年に品目別で統一する。例えば、米や小豆は一石に付き五合・糸一把に付き五分・木綿一疋に付き八厘・炭六貫目一俵に付き一厘五毛・筵一束に付き一厘五毛、といったように三百数十種ある。毎年六月と十一月に上納し、対象は米や小豆等二百六十品目である。出津(移出)荷物の分は全て入津(移入)口銭の五分の一を徴収した。射水郡と新川郡の浦口銭取立方主附として十村の内嶋村五十嵐孫作(篤好)と中川村南善左衛門を任じ、更には洩物改の肝煎兼帯を止めて専任とした。肥料用の砂干鰯や綿粕・鰊・粉糠等の十八品には口銭を課さず、翌年二月出津品からは全て口銭を徴収しない事にし、魚類は魚口銭だけ、八百屋物は浦方問屋の口銭だけにした。しかし伏木浦で積み替える米については、同七年の澗改人の具申により、一石に付き二分四厘を徴収する。
他国出口銭に関しては、天保九年に銀百目に付き一匁の百歩一口銭を導入し、木綿は一反に付き三厘を集めた。なお領内での売買は無口銭のままである。浦方へは算用場から監査のため役人が派遣されている。嘉永五年十二月に移出品は「見積もり」代銀百目に付き一匁、「見積もり」代銀百目に付き八分に改訂する。また鰊や干鰯等の屎物にも銀百目に付き四分の口銭を課した。同六年領国廻りの米について、一石に付き二分五厘の口銭を銀百目に付き一匁に改める。四月には口銭取引定帳を作成し、浦方や船問屋に達した。この頃入津口銭取立役は澗改人との兼任することもあるが、安政元年に他国出口銭取立人の澗改人との兼任を禁じる。口銭の三分の一は取立人の手数料となり、残りを二月~六月分は七月に、七月~十一月分は十二月、十二月分は翌年正月に藩へ納めるとともに、毎月口銭取立高と小物成印紙の出入を報告した。同四年無口銭であった他国出綿に口銭を課し、文久三年石灰使用を解禁し、他国から入れた石灰は代銀百目に付き八分と十貫目に付き二厘ずつ集める(一厘は澗改人・一厘は口銭取立役の手数料)。同四年他国出絹布に百歩一口銭を課し、他国出口銭取立人を他国出等調理役と改め、取立口銭は所属する会所へ差し出す事にした。また伏木浦の口銭について上納を翌々月にしてほしいとの願いを受理する。
元治元年五月十村からの質問に次の通り答える。他国から入った品を再び他国へ出す時には荷主が替わらなくても百歩一口銭を徴収する。富山の商人が大坂等で買い入れた菜種を伏木浦船宿宛に入れ、それを富山に送るため東岩瀬へ廻す分には、伏木浦で口銭三分の一を徴収するだけでよい。陸輸送するのなら澗改人の入津口銭取立済の指紙を添えること。入津して領内に廻る品物は荷主が替わっても百歩一口銭は課さないこと。富山の商人が大坂等から運んだ綿荷について、伏木に入った分は高岡の服部三郎右衛門が口銭を徴収する。再び海陸より富山へ引き取る時には百歩一口銭の三分の一だけ徴収すること。慶応元年他国出口銭を百文に付き二文とし、翌年一月から実施すると達したが、実行されなかった。鰊等の肥料類全ての入津について無口銭にする。同二年六月澗改強化を達し、七月から次のことを実施に移す。領国廻り出津の米・麦等は、見積もり代銀の百目に付き一匁、肥料類は代銀百目に付き四分の口銭を課し、口銭取立済みの指紙と品物代銀附とを照合する。他国出津の品には代銀百目に付き二匁の口銭を徴収する。他国から入れたが取引不成立になっても、再び他国へ運ぶ時には領国産と同様の口銭を課す。浜借は無口銭だが、荷主が替わるか積船が替わったら出津口銭を課す。他浦行きの荷物を積み合わせて入津し、他浦行きの荷物を積み替えなければ、その船で出帆したら無口銭でよい。他の船に積み替えたら規則通り徴収する。領内で流通させる分には口銭済の指紙を澗改所から渡す。冬になって浜囲いを願う船からは船往来を預り、積荷を調べて封印する。他国他領行きの魚には三歩五厘口銭を課す。澗改料を物価高のため従来の倍にする。出津口銭は全て船宿か荷主から徴収する。
五、富山藩の政策
富山藩では藩政全般を通じて、物価の引き下げ・流通の確保と物資不足の予防・町農民の生活安定に力を入れた。特に米・小麦・穀類等の食糧が領外へ流失するのを防ぎ、宝暦頃から問屋の設立に努めることで産業の育成を図り、葉藍や菜種等の原材料を津留した(寛政三年に解除するがすぐに戻す)。明和になると城下町に商人が賑わい、天保頃には全ての商売を株立にし、ほぼそのまま政策を変えずに慶応元年まで継続している。また他国からの物資を監視するため、富山町に入る船を木町に着けることになっていた。しかし両岩瀬に陸揚げしてしまう者もいたようで、元文三年にこの厳守を達している。文化四年十一月イクリ舟への焼印をうけるよう指示した。湊が脆弱な富山藩は移出入を口銭で管理しなかったようである。
文化六年冬に塩野・月岡野に櫨を植樹したが降雪で失敗したため、翌年二月今度は五艘・安養坊・針原・北代・小竹・八町・吉作・金屋・杉谷・土代・山本・押川・長沢・小長沢・羽根・長沢新・三田・大坪・蓮花寺・富崎に植樹し、更には十月に婦負郡と新川郡の十村を通じて各村へ苗を配布した。天保八年十一月他国から唐津物を入れないようにして、井田村で製造した丸山焼を使用することを達した。嘉永四年八月蔵半紙・土佐半紙・諸国白半紙・信州杉原・信州判広といった他国紙の買入れを禁じて、領内で製造した紙を使用するよう達した。同七年三月山岸村で焼いた瓦の使用を奨励する。文久二年六月追分茶屋等三茶屋の製茶を移出する願いが出され、これを受理する。翌年六月山田組・大田組・宮川組・為成組・寒江組に苗の必要量を書き出させると、合計で櫨四万千三百二十三本・漆四万五千二百本・楮七千六百六十二本・桑一万七千八百六十八本であった。これを加賀藩領の砺波郡金戸村や新川郡東岩瀬森村で調達し配分した。元治元年追分茶屋村高源寺に製茶所を設け、呉羽の茶を一手に買入れ領外に販売する。同年に四千三百三十七貫七百十五匁を二千七百六両と銀九匁一厘で買い付け、製茶売捌人を通じて二千九百五十六両と銀四匁六厘で売り、諸経費を除いて別益金を加えると百五十両の純益があった。
弘化三年八月町方で渡海船の売買を認め、往来切手の希望者は町肝煎まで届け出るよう達した。文久元年六月富山藩は幕令を公布する。百姓町人が大船を所持することを許す、外国商船を所持したければ最寄の開港場奉行へ申し出ること、願いにより案人や水夫を貸す、という内容であった。
安政三年十二月町奉行より、来春より上方から富山へ運ぶ諸荷物はそこの船宿に依頼せず、富山藩御手船の戻り船に載せるように、との達しがある。藩はこの方法で移入管理と財源確保の一挙両得を狙った。運賃はこれまで通りとし、指定された荷物寄場に持ってくる。御手船の都合がつかなかったり、急ぎの荷物は申請を出すと雇船で運ぶことを許可する。翌年二・三月に大坂北堀江四丁目木屋市郎兵衛・同東堀順慶町一丁目高田屋弥兵衛・長州下関長田屋嘉助・同札之辻伊勢屋小四郎に寄場を依頼している。
註
氷見の藺
文久三年に表藺二千七百束・小藺一万束・大小縁取四千五百束の計一万七千二百束を生産し、半分を他国出しする。
砺波郡和田新町の煙草入れ
文久四年に五軒問屋で三万四千七百枚を生産し、内八千四百枚を他国出しする。
富山藩の石灰移出入口銭
文久三年二月加賀藩で石灰使用を許可したので富山藩でも同様の扱いにし、七月翌検査して使うことと口銭を定めた。焼立売捌者は目方十貫目に付き二分ずつ集め、内五厘は吟味人・一分五厘は小物成として納める。他国から入れる場合は代銀百目に付き八分を納める他、十貫目に付き二厘ずつ集め、検査する役人と御益銀取立役で折半する。領内の船で移入した場合は百目に付き四分とする。ただし農民が肥料に使用するのなら口銭は徴収しない。移出する場合は代銀百目に付き一匁を納める。
一、航路の啓開 幕府は寛永十年に御朱印船以外の海外渡航を禁止し、翌年五百石積以上の船の建造を禁じて海外渡航を認めない事にした。同十五年に商船については五百石積以上の建造を許す事にしたが、一連の所謂「鎖国」政策によりこれ以後わが国の船は沿岸航路を主とするようになった。航路には、大坂から江戸へ東海廻り・江戸から奥羽南部まで東廻り・下関から津軽国まで北国廻り(西廻り)・大坂より瀬戸内海を通って下関へ行きそこから長崎へ海を進む、といった四つがある。大坂の地船のうち日本海に航海する船を特に北廻地船と呼んだ。東廻りの航路は寛永二年に津軽藩により開かれ、明暦元年に秋田藩が津軽海峡を経て江戸へ到る。寛文十一年に河村瑞軒が航路を新たに開いて上方から東北を結んでから活発に利用されるようになった。貞享元年には大坂で安治川と木津川を掘削し、大型船を多数停泊できるよう整備する。二、上方依存からの脱却 加賀藩では海運が上方船の支配下にあった。寛永以前は米を敦賀・小浜・大津の商人が琵琶湖経由で上方へ輸送していたが、馬で陸送する箇所がありこぼれ落ちる米が少なくない。その上馬一頭に二俵しか詰めないため千石運ぶのに千頭いってしまい、越中から大津まで百石の運賃が二十五石というように、全体の四分の一がとられてしまう。そこで島原出陣に備え大坂の木屋や升屋を通じて大量の船を雇い入れたのを期に、寛永十六年百石を下関経由で試送し、正保四年に大坂の備前屋を蔵宿に指定し木屋等へ廻漕を委ねて以降、大坂への早期着米を進めるため敦賀・小浜の経路を激減させ、北国に馴れた摂津・備前・塩飽等の上方船(弁財船)による運搬を定例化した。損失も少ないし、百石運ぶ運賃も十七石で済む。一方これにより加賀藩の経済は上方の米相場に左右される事になる。明暦二年十月摂津国兵庫の十河長助は大坂廻米の運賃を越中から百石に付き十七石五斗・加賀から十七石と低額に抑えつつ、小部村忠右衛門等三名の船五艘で千五百石を運ぶ一方、江戸廻米は地船に任せた。地船の多くはまだハガセ船や北国船を用い、潟廻舟や猟船の水主を雇用しているので習熟度が低く無理な輸送をするため欠米が多く、難船の危険が高かった。元禄十一年の調査では上方船一に対し地船は九の難船率である。翌年全て上方船に任せた所難船した船が無かった。その上少々のことで難癖を付け、延享元年に上方船と対立するため藩は地船を積石数と建造年数で厳選し、破損が多いようであれば地船を活用しないと警告せねばならないほどであった。享保頃には伏木の地船比率は五%程度であり東岩瀬はそれ以下、寛保四年の伏木では一%弱にまで落ち込んでしまう。廻米総量で見ても上方船と地船との比率は元禄頃に二対一であったのが(元禄十一年大坂廻米二対一・江戸廻米六対四)、天保頃には五対一とむしろ拡大している。この内千石積以上の船の七十%は摂津・大坂・長門・肥前等の船に占められ、地船は四百石積以下で五十%を越えるのみである。このような上方依存を改めるため、安永頃に千石積以上の渡海船建造を許し、寛政頃には地船でも沖乗り航海をするようになる。文化十年江戸廻米を止めて地元の酒を江戸へ直送することを企図する。また二十四か条の定めで大坂への廻米を正月下旬から六月中までの三番立にすることを達して、一番立早着の三艘には褒米を、逆に三番立が七月以降に着くような事があれば過怠米を取るものとした。翌年神戸二ッ茶屋村の船を直雇いし、上方船才許具足屋七右衛門等を免じて新たに山田屋市右衛門・泉屋次郎左衛門・木屋又三郎等を廻船方御用達に任じた。これらは廻米と上方船を藩の管理化に置こうとした政策である。更に文政五年には町農民が浦方で名代を立てなくても渡海船を所持できることとし大船建造を奨励する。この頃には地船の数が増えて、沖乗り航海も多くなっている。同六年水主の他国稼ぎを禁じて渡海船所有者に大坂廻米を指示し、同八年二百石以下の船も書き上げ、天保四年に船櫂数調理役を設置し船管理に努め、同五年に二百石以上の廻船を調査し、銭屋五兵衛を御手船裁許に任じた。天保の大飢饉を経て、藩政を担う奥村栄実は同七年に多くの米を大坂・江戸へ廻漕する。同九年他国移出の諸産物に百分の一口銭を課し、大坂や江戸への廻米増加を志向した。同十三年船頭・水主に自国稼ぎを申し渡し、翌年大坂廻米の内二万石を地船に割符した。しかしこの時点ではまだ地船が成長していないため、引き受けを渋る傾向にあり、大坂廻米にあたった船には欠米が多かった。上方船では六十三艘で運んだ一艘あたりの欠米が一石一斗であるのに対し、地船は二十七艘で運び欠米が二石二斗、更に皆納が上方船七艘であるのに、地船は皆無である。しかし藩は長連弘と黒羽織の政策の下、専売制実現のため廻船を通じて物資の移動をつかむことを企図していた。そのため出津の際には各浦担当者が指紙を領廻りと別にして算用場へ報告し、また各商品作物の生産を村役人に指示して他国出しと国内流通に分け把握した。やがて地船も成長し、弘化三年大坂雇船へ優先的に積米していたのを止め、地船で他国囲船も同等と見なすことにした。嘉永四年伏木では上方船と地船の比率が三対七に逆転している。放生津の綿屋彦九郎は毎年三月から十月まで航海し、米を富山・新潟・酒田・秋田で仕入れ蝦夷で売り鰊や昆布等を買入れ、下関・瀬戸内を経て兵庫・大坂・堺で綿を買い、三田尻で塩・下関で蝋や砂糖・山陰で砂鉄等を仕入れ、放生津へ戻っている。嘉永五年産物方役所を小物成方役所・産物口銭を別小物成とし、十二月他国入諸品浦口銭を定め、移入品には千分の八・移出品には百分の一口銭を課す。これにより津留を強化しつつ物資の移動を掴んで物価の高騰を防ぐと共に、口銭を増やして藩収入に充当することをねらった。同六年には国産品の使用を奨励する。富山藩では元禄七年に鷹を捕獲するという名目で松前へ渡航することを企図し渡海船調査を行う。この時は百二十石積ハガセ船が選ばれた。大坂への廻米には享保五年播磨国塩屋七右衛門や宝暦五年大坂長浜屋孫太夫等の上方船を雇っていたが、やがて上方商人が加賀藩領から船を雇うようになる。寛政十一年大坂の淡路屋太郎兵衛と堺の酢屋利兵衛は富山藩から二万石を買い入れるが、これを加賀国粟ヶ崎孫兵衛の千八十石積船・同清左衛門の七百五十石積船・同伝左衛門の八百石積船・同庄九郎の千百五十石積船と契約して運搬している。支藩であるせいか何かと加賀藩領に依存するところが大きい。天保十四年四方町の布目屋権右衛門は高岡から木綿を仕入れて青森に売り込もうとする際、高岡木町の鷲塚屋六郎右衛門の五百石積船を雇い入れている。三、津留政策 加賀藩や富山藩では自給自足の確立を目指し、正保から天和にかけ移入を制限して産業育成を図る。加賀藩は承応二年五月に他国米の移入を禁じて澗改人を湊に置き荷を改めさせ、万治二年六月塩の移入を禁じ、同四年移出に制限をかけ荒地に桑苗を植樹する(寛文二年に奨励)。寛文三・四年にかけ米と塩につき取締りを強化し、同六年桑・楮・漆や実のなる木の植付けを奨励した。同八年の伏木村書き上げでは、移入禁止品が米と塩、移出禁制品が大豆・油菜・屎鰯となっている。このことからも移入より移出を規制していたことが分かる。移出を禁止されていた品は、万治四年鰯、寛文七年葉煙草と刻み煙草、同八年大豆・油・油種・若竹、同九年魚油、同十二年紙・楮、天和三年蝋・蝋燭・鬢付け・同六年糸であり、移出可能な品は米・縁取の畳・茣蓙・筵・笽・紙・塩肴・笠・酒であった。この頃までは改作法の完成期にあり、小物成を制定し、町方の商工業を発展させ、農家の副業生産を奨励する。享保年間になり、農業生産の向上と産業の開発に努め、農民身分で商売することを認める。同二十年産物等を調査した。この頃には産物方を設置し、安永七年四月村井又兵衛長穹が主附に就任すると、領内産物の数量や値段を調べ、産物資金を貸し付け(一年で利子八朱若しくは無利子・長期十年貸与)、桑の植樹に努め、移出入に課税し、絹布判賃徴収の厳守と絈移出の統制を図る。寛政元年には移出禁止が油・油種・魚油・諸鳥・煙草・大豆・紙類・楮・漆・蝋・七木・干鰯・肥料類・油粕・硫黄・細炭・鉛等であり、移入は構わない。移入を禁じられた品は塩と米で、不足時は算用場で許可した。また慣例で移出しない品には、蝋・五葉松・松はた(いらもみ・松粕科)・薪用木材・日用木材等であった。産物銀は天明頃盛んに利用され、同五年産物方役所が廃止になっても産業振興策は継承される。文化・文政期には煙草・豆腐・酒・質屋・蝋燭・菜種・油屋等の製造業者が限られている業種を株立てして運上銀と冥加を課し、その他の無株の業種には上納銀のみとした。文化八年領内の産物調査を実施し、大豆・油・油種の移出を三州ともに禁じた他、郡別に移出禁止品を定め原料品と消費物資の確保を図った。砺波・射水郡では菜種・ゑごま油・しぼり粕・油草・油種・油粕・魚油・紙并楮・雑穀・綿種・漆とその実・蝋・干鰯・干屎物類・塩硝・七木(杉松檜桐樫槻栗)、今石動・氷見では油草・油粕・綿種・魚油・小豆・七木と唐竹(氷見)・大麦・小麦・酒・蝋・紙并楮・干鰯(氷見)・上肴(鰤・鮭・鱈・刺鯖)・巾広布と日纑、高岡では油粕・魚油・綿種・紙・蝋・漆実・干鰯・糞類・酒・醤油・七木(松杉桐檜槻樫竹)である。産物方は同十年に再建され村井又兵衛長世が就任するが、翌年六月に廃止され、勝手方で担当する。文政元年にまた設置し村井長世が復帰した。産業銀を貸与する政策は、福野の桟留縞・長崎村の製糸・井波や藤橋村の養蚕・戸出の縮・福光の八講布・今泉村の陶器・北川村の絹・福町の菅笠や八講布等を成長させた。文政十一年に金沢呉服商宮腰屋(一丸)甚六に委ねて領内産物を江戸へ送り、木綿問屋升屋七左衛門を総引請問屋とする江戸産物会所で加賀絹・八講布・菅笠・鉄製品等を売り込んだ。五月~十一月の送付高は三百二十一貫、翌年一月~六月千二百七十一貫であった。天保五年には大坂でも産物会所を開く。天保頃には酒の移入を禁じ、同十一年に他国酒の密売を厳罰に処すと達した。同八年七月と翌年二月奥村栄実は高方仕法で町部の郡方進出を阻んで農業生産の向上を図り、同六年に物価調査をして同八年産物方を改組し物価方役所を設置する(同十三年廃止)。物価の騰貴を抑えるため株立てを廃して冥加・運上を価格に上乗せしないよう達した。また食料品の移出を禁じる。弘化元年に長連弘が黒羽織と称する派閥を率いて藩政を担うと、同四年漆苗代金を貸し付け砺波・射水郡に四十八万本の植付けを図る。嘉永元年までに二十四万本が達成されている。嘉永二年木の実油(えごま)の種子を無料で配布し、紫根の植付けを奨励する。同三年には藺草(テンキ)や紅花等の種子を配布し、質屋・菜種・合薬・綿・米屋の株立営業を復活させる。同五年に産物方を廃止し、砺波郡に紅花の種六百三匁を無料配布した。同六年移入品の統制を強化し、移入は薬等の必需品や領内で生産されない六十品目のみとする。安政元年に黒羽織一党が失脚するものの、飢饉や一揆・疫病・海防費の重圧等難局が続いて、文久二年に黒羽織一党が復権する。漆や櫨の増産を奨励し、砺波郡に漆十六万六千余本と櫨七千九百本の植樹を達している。翌年領内に産物方役所を設置した。越中国では、福野(砺波郡全体を管轄)・今石動・城端・福光・井波(西赤尾・阿別当・九里ヶ当も所管)・矢木・戸出・福岡・高岡(射水郡全体を管轄し横田村も所管)・氷見(朝日新・鞍川・宇波・姿・北八代も所管)・小杉新(大門新・放生津・長徳寺・伏木・下村・水戸田も所管)・魚津(新川郡全体を所管)・滑川・三日市に設けた。同四年には移出禁止品と審査を要する品に分けて明示する。竹箸・馬具・銅・鉛・硝石・硫黄・薬種・諸鳥・七木と竹・石灰・蝋・漆・桑・瑪瑙石・諸紙と楮・油・醤油・材木類・雑穀・諸色油綿種油・小豆・麦・粟・稗・屎物類・瓦・炭・薪・木呂は禁止品、絹布や木綿類・糸・真綿・綿麻苧・畳表や茣蓙・茶・煙草・太物類・古手類・獣皮・蚕繭・葉藍・菜種・燈心・金物類・鉄釘・苧絈・干魚塩魚・醤麩・焚炭・蘘・石類・粉糠・畑物類・てん草・ゑこ草、といった品は算用場が詮議して指図する。またこれら以外についても、移出する場合は産物会所が検査して産物印章の指紙を発行するので、澗改人はこの指紙と品物を照合し、出帆日を裏書して従来通り毎月出帆目録を提出するものとした。砺波郡の金戸村では、元治元年に漆苗九万六千余本・慶応元年五万本が植え付けられた 元治元年六月伏木浦からの報告によると、産物方の指図を受けて浜揚げする品は、菜種・菜種油・荏種・ 荏油・酒・七木・丸太・魚油、澗改人により浜揚げする品は、薬種・合薬・薬油・小間物類・八百屋物類・木綿反物類・古手・抜手綿・伸継・色紙・形紙等の類・綿・蝋・砂糖・鉄・銑・鋼・金床地・針金類・漆・漆種・艫・櫂・蒟蒻玉・蒟蒻粉・煙草・菜・生姜・鰹節・数ノ子・干鱈等の魚類・茸類・金物類・唐津類・瓶類・砥石・切石類・釜・呉服物類・竹簾・貝殻・茣蓙類・伏見人形・藍粉・藍玉・唐竹・篠竹・塗物類・反古・古金・心天草・紅花・苧類・芋・狗背・焚木・焚炭・雑木等の材木角物類・昆布・若和布・鯡等の屎物類・大豆・小豆・雑穀類・石炭・大坂等よりの大廻り荷物、領国廻り品で移入する時に郡奉行所の指図で浜揚げする品は、大豆・小豆・麦等や雑穀類・酒・酢・醤油・七木丸太・葉藍・藍粉・小松茣蓙・菜種・菜種油・荏種・荏油・胡麻・豌豆・水挽粉・真綿・蝋燭・びん付・紙類・楮皮・楮苗・魚油類・漆・漆種・漆苗・石灰・綿種・綿粕、領国廻り品で澗改人が浜揚げする品は、米・干加等の屎物類・菅笠・傘・笠当て・鍋釜・鉄瓶等類・仏具類・金物細工類・鉄・金床地・板金等・蓑・蓑綱・絹布や木綿類・着茣蓙・氷見新出来茣蓙類・箪笥・長持等・赤物類・小間物類・八百屋物類・蜜柑・柿渋・厨子・新出来酒樽・草履・草鞋・木履・足駄・同緒類・茸類・反古・古金・簾・山中木地・糸わく・均子・傘轆轤・竹ノ子笠・大鞁類・煙草・狗背・免類・雑木・草槙等材木角物類・篠竹・杉皮・瓦・塩にがり・茶・ゑご・貝殻・薬種・合薬・藍玉・蒟蒻玉・蒟蒻粉・切石類・芋類・紅花・蝋・砂糖・砥石・唐津・瓶類・生姜・昆布類・若布・筵・縁取・縄・七島茣蓙類・薩摩芋・鰹節・数ノ子・古手・抜手綿・心天草・燈心・引わた・しゅろ皮・大坂等下り大廻り荷物品々であった。慶応元年十月米の移入を解禁し、その他の品も移入を大幅に認めた。翌年四月産物方が不効率のため金沢のみ残して廃止する。同三年八月外国奉行菊池伊予守視察に伴い、射水郡での調査によると、移出取締り対象の品は、麦・大豆・粟・稗黍・蕎麦・胡麻・荏油・味噌・酒・酢・醤油・水挽粉・干菓子類・鯡干加・焼灰・油粕等の屎物類・小松表茣蓙・葉萱、移出入とも禁止の品は、唐物・菜種・菜種油・竹箸・銅・朱金・海鼠、移出入時に取締りの対象は、米・塩・石灰・紙・楮口・塩硝・硫黄・鉛・銭・七木・丸木であった。四、口銭 他国から湊に出入りする商人荷物より徴収する手数料を浦口銭と称し、浦々によって異なっていたが、文政元年に品目別で統一する。例えば、米や小豆は一石に付き五合・糸一把に付き五分・木綿一疋に付き八厘・炭六貫目一俵に付き一厘五毛・筵一束に付き一厘五毛、といったように三百数十種ある。毎年六月と十一月に上納し、対象は米や小豆等二百六十品目である。出津(移出)荷物の分は全て入津(移入)口銭の五分の一を徴収した。射水郡と新川郡の浦口銭取立方主附として十村の内嶋村五十嵐孫作(篤好)と中川村南善左衛門を任じ、更には洩物改の肝煎兼帯を止めて専任とした。肥料用の砂干鰯や綿粕・鰊・粉糠等の十八品には口銭を課さず、翌年二月出津品からは全て口銭を徴収しない事にし、魚類は魚口銭だけ、八百屋物は浦方問屋の口銭だけにした。しかし伏木浦で積み替える米については、同七年の澗改人の具申により、一石に付き二分四厘を徴収する。他国出口銭に関しては、天保九年に銀百目に付き一匁の百歩一口銭を導入し、木綿は一反に付き三厘を集めた。なお領内での売買は無口銭のままである。浦方へは算用場から監査のため役人が派遣されている。嘉永五年十二月に移出品は「見積もり」代銀百目に付き一匁、「見積もり」代銀百目に付き八分に改訂する。また鰊や干鰯等の屎物にも銀百目に付き四分の口銭を課した。同六年領国廻りの米について、一石に付き二分五厘の口銭を銀百目に付き一匁に改める。四月には口銭取引定帳を作成し、浦方や船問屋に達した。この頃入津口銭取立役は澗改人との兼任することもあるが、安政元年に他国出口銭取立人の澗改人との兼任を禁じる。口銭の三分の一は取立人の手数料となり、残りを二月~六月分は七月に、七月~十一月分は十二月、十二月分は翌年正月に藩へ納めるとともに、毎月口銭取立高と小物成印紙の出入を報告した。同四年無口銭であった他国出綿に口銭を課し、文久三年石灰使用を解禁し、他国から入れた石灰は代銀百目に付き八分と十貫目に付き二厘ずつ集める(一厘は澗改人・一厘は口銭取立役の手数料)。同四年他国出絹布に百歩一口銭を課し、他国出口銭取立人を他国出等調理役と改め、取立口銭は所属する会所へ差し出す事にした。また伏木浦の口銭について上納を翌々月にしてほしいとの願いを受理する。元治元年五月十村からの質問に次の通り答える。他国から入った品を再び他国へ出す時には荷主が替わらなくても百歩一口銭を徴収する。富山の商人が大坂等で買い入れた菜種を伏木浦船宿宛に入れ、それを富山に送るため東岩瀬へ廻す分には、伏木浦で口銭三分の一を徴収するだけでよい。陸輸送するのなら澗改人の入津口銭取立済の指紙を添えること。入津して領内に廻る品物は荷主が替わっても百歩一口銭は課さないこと。富山の商人が大坂等から運んだ綿荷について、伏木に入った分は高岡の服部三郎右衛門が口銭を徴収する。再び海陸より富山へ引き取る時には百歩一口銭の三分の一だけ徴収すること。慶応元年他国出口銭を百文に付き二文とし、翌年一月から実施すると達したが、実行されなかった。鰊等の肥料類全ての入津について無口銭にする。同二年六月澗改強化を達し、七月から次のことを実施に移す。領国廻り出津の米・麦等は、見積もり代銀の百目に付き一匁、肥料類は代銀百目に付き四分の口銭を課し、口銭取立済みの指紙と品物代銀附とを照合する。他国出津の品には代銀百目に付き二匁の口銭を徴収する。他国から入れたが取引不成立になっても、再び他国へ運ぶ時には領国産と同様の口銭を課す。浜借は無口銭だが、荷主が替わるか積船が替わったら出津口銭を課す。他浦行きの荷物を積み合わせて入津し、他浦行きの荷物を積み替えなければ、その船で出帆したら無口銭でよい。他の船に積み替えたら規則通り徴収する。領内で流通させる分には口銭済の指紙を澗改所から渡す。冬になって浜囲いを願う船からは船往来を預り、積荷を調べて封印する。他国他領行きの魚には三歩五厘口銭を課す。澗改料を物価高のため従来の倍にする。出津口銭は全て船宿か荷主から徴収する。五、富山藩の政策 富山藩では藩政全般を通じて、物価の引き下げ・流通の確保と物資不足の予防・町農民の生活安定に力を入れた。特に米・小麦・穀類等の食糧が領外へ流失するのを防ぎ、宝暦頃から問屋の設立に努めることで産業の育成を図り、葉藍や菜種等の原材料を津留した(寛政三年に解除するがすぐに戻す)。明和になると城下町に商人が賑わい、天保頃には全ての商売を株立にし、ほぼそのまま政策を変えずに慶応元年まで継続している。また他国からの物資を監視するため、富山町に入る船を木町に着けることになっていた。しかし両岩瀬に陸揚げしてしまう者もいたようで、元文三年にこの厳守を達している。文化四年十一月イクリ舟への焼印をうけるよう指示した。湊が脆弱な富山藩は移出入を口銭で管理しなかったようである。文化六年冬に塩野・月岡野に櫨を植樹したが降雪で失敗したため、翌年二月今度は五艘・安養坊・針原・北代・小竹・八町・吉作・金屋・杉谷・土代・山本・押川・長沢・小長沢・羽根・長沢新・三田・大坪・蓮花寺・富崎に植樹し、更には十月に婦負郡と新川郡の十村を通じて各村へ苗を配布した。天保八年十一月他国から唐津物を入れないようにして、井田村で製造した丸山焼を使用することを達した。嘉永四年八月蔵半紙・土佐半紙・諸国白半紙・信州杉原・信州判広といった他国紙の買入れを禁じて、領内で製造した紙を使用するよう達した。同七年三月山岸村で焼いた瓦の使用を奨励する。文久二年六月追分茶屋等三茶屋の製茶を移出する願いが出され、これを受理する。翌年六月山田組・大田組・宮川組・為成組・寒江組に苗の必要量を書き出させると、合計で櫨四万千三百二十三本・漆四万五千二百本・楮七千六百六十二本・桑一万七千八百六十八本であった。これを加賀藩領の砺波郡金戸村や新川郡東岩瀬森村で調達し配分した。元治元年追分茶屋村高源寺に製茶所を設け、呉羽の茶を一手に買入れ領外に販売する。同年に四千三百三十七貫七百十五匁を二千七百六両と銀九匁一厘で買い付け、製茶売捌人を通じて二千九百五十六両と銀四匁六厘で売り、諸経費を除いて別益金を加えると百五十両の純益があった。弘化三年八月町方で渡海船の売買を認め、往来切手の希望者は町肝煎まで届け出るよう達した。文久元年六月富山藩は幕令を公布する。百姓町人が大船を所持することを許す、外国商船を所持したければ最寄の開港場奉行へ申し出ること、願いにより案人や水夫を貸す、という内容であった。安政三年十二月町奉行より、来春より上方から富山へ運ぶ諸荷物はそこの船宿に依頼せず、富山藩御手船の戻り船に載せるように、との達しがある。藩はこの方法で移入管理と財源確保の一挙両得を狙った。運賃はこれまで通りとし、指定された荷物寄場に持ってくる。御手船の都合がつかなかったり、急ぎの荷物は申請を出すと雇船で運ぶことを許可する。翌年二・三月に大坂北堀江四丁目木屋市郎兵衛・同東堀順慶町一丁目高田屋弥兵衛・長州下関長田屋嘉助・同札之辻伊勢屋小四郎に寄場を依頼している。註 氷見の藺 文久三年に表藺二千七百束・小藺一万束・大小縁取四千五百束の計一万七千二百束を生産し、半分を他国出しする。砺波郡和田新町の煙草入れ 文久四年に五軒問屋で三万四千七百枚を生産し、内八千四百枚を他国出しする。富山藩の石灰移出入口銭 文久三年二月加賀藩で石灰使用を許可したので富山藩でも同様の扱いにし、七月翌検査して使うことと口銭を定めた。焼立売捌者は目方十貫目に付き二分ずつ集め、内五厘は吟味人・一分五厘は小物成として納める。他国から入れる場合は代銀百目に付き八分を納める他、十貫目に付き二厘ずつ集め、検査する役人と御益銀取立役で折半する。領内の船で移入した場合は百目に付き四分とする。ただし農民が肥料に使用するのなら口銭は徴収しない。移出する場合は代銀百目に付き一匁を納める。