日本海側は太平洋側と比較すると穏やかであり、暖流の対馬海流が沿岸を北上し、山脈が海岸に迫り陸上交通が遮断されがちであるため、古くから海路が開けていた。冬には大陸からの西風が山脈にぶつかり雪や雨を降らすため、河川は豊富な水量を貯え、内陸への交通路が発達するとともに、川が運ぶ土砂が河口に堆積して湊となる多くの潟を形成した。このような場所は古代から政治・文化の中心になり、海陸交通の結節点であり、国造(くにのみやつこ)が配置され、伏木は越国司安倍臣比羅夫の東北遠征や沿海州の粛慎(みしはせ)(ツングース系)討伐で拠点となった。律令制下では「郷」が設置され、駅が置かれた。中世以降に潟は消滅しつつあったが、人々の活動領域は拡大していた。放生津では内川河口や庄川河口の六渡寺・三ヶ新へと広がり、神通川左岸の八重津では西側の四潟が四方になり、東側が岩瀬として成長する。近世になると砂州の海没で潟が完全消滅するが、湊の機能は拡充され、北前船の中心地として発展していった。加賀藩領は加賀・能登・越中の各国で構成されている関係上、日本海を抑える立場にある。船による交易は産業を成立させ、人々の生活に影響を与え、文化を形成した。また加賀藩や富山藩の領内は河川で結ばれ、村と村、町と村を舟で結合した。本講座では近世越中国で船が果たした役割に光を当て、地域間の関係を顧みながら、現代に繋がる歴史を探求する。