観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時。
照見五蘊 皆空。
度一切苦厄。
↑は般若心経の一部を抜粋したものだ。
書店に行けば「○○になる般若心経」……というように間口を広げて分かりやすく般若心経の意味を説明した本を沢山みかける。
お寺でも事前に申し込みをすれば写経をすることが出来るし、「なぞって書く般若心経」のように自宅で簡単に写経ができるセットを買う事もできる。
仕事、ご近所、趣味のサークル……なんでもそうだが人間が5人以上集まると大なり小なりトラブルは起こる。
「○☓さんとは気が合わない」
「△☓さんが来るなら行かない」
「☓□課長が何でも否定から入ってくるので凹む」
などなど。
とかくこの世はこれでもかというくらい人間関係のトラブルが多い。そしてトラブルが身近になればなるほど人は視えないものに祈ったり、写経やお参り、果てはお祓いなど宗教的なものに足を運ぶ。
以前、京都にある有名な「縁切り神社」を訪れた時の話しだ。そこではお願い事を紙札に書いて、それを持ちながら穴の空いた大きな石を潜ると縁切りができるとのこと。そしてその石を潜るのに並んでいる人の列の長いこと。もちろん興味本位や観光記念の人も混ざっているとは思う。しかし切実な人たちも沢山いたはずだ。
「困ったときは神頼み」とはその通りだなと列を眺めながら改めて実感した。
話をお経に戻そう。
そもそもお経とは何なのだろう。
お経の意味やあらましについては僕なんかよりもっと博学な方々が分かりやすくネットや本で説明されているので割愛させて頂く。
冒頭に書いた「般若心経」もそうだが一番有名なのはやはり「南無阿弥陀仏」という言葉だろう。そして少し前までそれらはお葬式や法事でしか聴く機会はなかった。
あとはコントでお坊さんの格好をした芸人さんが木魚を叩きながらひたすら「南無阿弥陀仏〜」を繰り返すのを観るくらいだと思う。
コントはさておきお葬式の時は親族、友人であれば悲しみに暮れているし、お弔問に行ったときは香典→ご挨拶→お焼香をして帰るのでそもそも全てのお経をじっくりと聴いている人はおそらく皆無だと思う。
別にお経を唱えてもらわなくてもお葬式に支障はないんだろうけど、お坊さんが無言で木魚を叩いたり、遺影を見つめていたらときっと周囲はざわつくと思う。それに無言のお坊さんってなんだか怖い。
「お坊さんは何を唱えているのかさっぱりわからないけど、なにか立派なことを唱えているんだろうなぁ……」
葬儀に参列するたびにそんなことをぼーっとおもっていた。
お経は近くて遠いもの
お坊さんになる勉強をするまでは僕にとってお経はそういうイメージだった。
そして勉強を初めてわかったのはお経の意味はもちろんのことお経を唱えるのはものすごく難しい!!
なんとかの一つ覚えのようにひたすら「南無阿弥陀仏〜♪」を繰り返していれば良いわけではなくて音程、節、速度など色々と決まり事があって自分では上手く出来たなぁと思っていても、「いま○☓の節で音を外していましたね」と、先輩の僧侶に御指摘をうけてしまう。
先程までドヤ顔で唱えていた自分がものすごく恥ずかしいし、冷汗が止まらなくなる。
「これは素晴らしい!明日から皆の前で唱えてください!」
なんて言われるわけないのに……。
まぁ身の程知らずもいいところだ。
何かを習うということは何かを得るというよりも未熟な自分ととことん向き合うことなんだなと改めて思った。誰だってみっともない自分は見たくないし見せたくもない。できるなら恥はかきたくない。もっとスマートにできるはずなのにと思っていた自分を「出来ない自分」に笑われる。
「恥ずかしいし、みっともないからや〜めた!」
と諦めるのは簡単だけど、ある程度の歳を重ねた僕がまだ何かを学べるチャンスを頂けたんだなと思えばこれもなにかのご縁だ。
こんな感じでわりとお経に触れる機会が多くなってきて沈んだり、忘れたりと悪戦苦闘しながら日々覚えているが、たった一つだけ先輩に褒められたことがあった。
それは……
「声が綺麗で心地よいです」
あんまりお経と関係ないけどとりあえず音痴に産んで貰わなくて良かった。
お父さん、お母さん。
ありがとう。
次回は「お坊さんになる勉強をする前の僕が祖父の御葬式で感じたこと」を書こうと思う。
引き続きよろしくお願いします。
南無阿弥陀仏。