そうだ京都でお坊さんになろう

お坊さんになるまでの道のりを書いていきます。

知ってしまった言葉の意味

2023-03-23 16:02:58 | 日記
『おばんざい』という言葉を皆さんはご存知だろうか。京都市内を歩けば飲食店のメニューや看板等で容易に見かけることができるこの『おばんざい』。
一見、京都の名物料理のようだが実際は『おばんざい』という名前の料理はない。では何かというと京都の家庭でいつも出されるおかず=『おばんざい』なのだ。

「京都観光に行きたいんだけど美味しいおばんざいのお店を教えて?」

と言われても家で食べている煮物が『おばんざい』なので回答に困ってしまう。

「○☓さんのお家でご馳走になったかぼちゃの炊いたんが美味しかったからそこに行きよし」

というのが答えなのかもしれないけど流石にそれは言えない。観光客が多い京都の繁華街で外食をするのは何かのイベントや、遊びに行った帰りでお夕飯を作りたくない時などしかない。並ぶのが嫌いな(並んでいるところを誰かに見られたくない)京都人はお家でご飯を取ることが多い。なので【美味しいおばんざいのお店】もよく知らない。

偉そうに書いては見たがかくいう僕もこの『おばんざい』の本当の意味を知るまでは京料理の名前だと思っていた。このように本当の言葉の意味を知ると知らない人が気軽に使っているのを聴くと「う〜ん」と思ってしまうことがよくある。

僕が学んでいる浄土真宗にも『おばんざい』のように【普段なにげなく使っているが本当の意味は全く違う】言葉がある。

そして悲しいかなこの言葉は間違った意味が独り歩きしてしまいテレビやネットニュースなどでもよく使われていて『先生』と呼ばれるような立派な肩書の人も正しい言葉のように使っている。

『他力本願』

という言葉をご存知だろうか。

自力は自分の力。

他力は他人の力。

「他力本願ですがライバルチームが負ける事を願います

「他力本願ではなく自分の力でなんとかしたい」

という言葉を耳にすることがあると思う。

この『他力本願』の『他力』の意味は実は他人の力を当てにすることではなく、仏様のお力、阿弥陀仏の慈悲のはたらきのことなのだ。

自力は自分の力。

他力は仏様の力。

言葉の本当の意味を理解すると↑のようになる。

みなさんも言葉の意味を理解して正しく使っていきましょう!

なぁんてことは言わない。

別に他人が正しく使っていようが間違って使っていようが興味はない。もし今後誰かが『他力本願』を他人の力をあてする……と思って使っているのを聴いたとしても「ああ……間違っているなぁ」としか思わない。

話の腰を折ってまで「いやいやあなた間違っていますよ。『他力本願』の他力というのはですね……」なんて講釈ぶって場の空気を乱してもそれこそ百害あって一利なしというやつだ。

自分は他力本願の意味を知った(理解した)のでこれからはその意味の通りに使う&家族が間違って使っていたら今後その人が他所で恥をかかないようにそっと意味を伝える……というのでいいかなと思っている。

おわり

次回は「イベントは自主トレ?」を書く予定です。

引き続きよろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏





つどいの会に参加した

2023-03-12 20:00:31 | 日記
通信講座は孤独だ。

自分との闘いだ。

内容の良し悪しや、難易度もあると思うけど一番難しいのはいかにモチベーションを保っていくかだ。学校に通っている時でも「行きたくない」、「やりたくない」は何度も思った。でも学校にいけば先生やクラスメイトがいるから失われつつあったモチベーションもかなり回復する。

「行きたくなかった(やりたくなかった)けど行ってみて良かったな」

と思うことも多々あった。

受講当初に灯った情熱という名の灯をいかに消さないで進むか。「通学」という燃料投下がない中で卒業までやりきるのはまだ道半ばではあるけど本当に大変だなと実感している。

読みかけの本、やりかけのゲーム、途中で辞めてしまった習い事……我が半生を振り返れば振り返るほど『中途半端な人間』という不名誉な称号が自分ほどよく似合う人間はいないのではないかと情けなくなってしまう。

そんな中途半端な人間でもなんとかモチベーションを保ち、灯を消さないようにと僕の通う中央仏教学院にも『救いの手』のような制度がある。それが今回のお題『つどいの会』なのだ。

普段は黙々と自分だけで学習している通信科の生徒達のために各地域(東京、大阪、京都など)の卒業生や世話役の方々が講師のお坊さんを呼んで月に数回授業を開催してくれる。

僕がお世話になっているのは『京都つどいの会』と『大阪つどいの会』。京都は自転車でいけるのだが大阪は電車を乗り継いで片道一時間半ほどかかるのだ自分に必要な授業の時に通っている。

会では試験範囲になる箇所やお経の読み方、節など自己学習ではちゃんとできている(学べている)と認識していることを教えてくださる。休日の朝九時半からの開催でかなり眠いけど本当にありがたい。講義の後の懇親会では普段抱えている疑問点を世話役の方々に質問をしてクリアにしたり、同じ孤独な闘いをしている学生同士で語り合い親睦を深めていく。

不安なのも大変なのも自分一人じゃなくてつどいの会に来れば仲間(同期)がいるよ……とお坊さんになる道を歩いている僕たちの背中を後押ししてくれる。親睦会は大切なのだろう。

なのだろう?

今、なのだろうって書いたな?

うん、書いた。

そうなのだ。

白状すると親睦会には初めて参加したときに30分くらいしか参加したことがない。
決して親睦会を軽視しているわけではなく、とにかく自分の心に余裕がないので早々に退散している。

参加しない理由は2つ。

1つ目はかなりの人見知りな僕は初対面の人と話すときは心の中にある『スイッチ』をオンにして社交的な自分を演じている。普段は知らない人が来ると目も合わせないし会話もしない。とにかく関わらないように気配を消す。
「そんな奴がお坊さんになるなよ」と我ながら思ってしまうがなりたいんだから仕方ない。

なのでこの手の親睦会や、バーベキュー大会、各種パーティーなど不特定多数の人が参加する集まりに運悪く参加することになっても隅の方で座って、見つからないよう息を殺して潜むことにしている。それぐらい苦手だ。

2つ目は午前中の講義の内容や先生からのご指摘を忘れないうちに振り返ったり、お経であればスマホに入れてあるお手本を何度も聴いてできるだけ早く覚えるためにおさらいをしたいのだ。歳を重ねるたびに物覚えが悪くなり昨日の晩御飯の献立も忘れることがあるくらいの僕は覚えた事が頭から溢れ落ちてしまうのがとにかく怖い。なので復習するまでは誰とも話したくない。これからも一人で振り返りができる場所(喫茶店など)にいち早く駆け込むために親睦会には参加しないだろう。

きっと2年生、3年生になっても余裕がないと思うし卒業してお坊さんなったら余裕が出てくるかと言われるとそれも怪しい。

でも晴れてお坊さんになった暁には心の中のスイッチをオンにして『社交的なお坊さん』になってつどいの会や生徒さんに恩返しができるようにこれからも精進していこうと思っている。

おわり

次回は「知ってしまった言葉の意味」について書く予定です。

引き続きよろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏


通信講座でお坊さんになるということ

2023-03-09 17:24:25 | 日記
「何を隠そう俺は空手をやっていたんや」
「か、空手!!」
「おう。まぁ通信教育やけどな」
「つ、通信教育!」

『通信教育(講座)』という言葉を初めて知ったのは吉本新喜劇の故岡八朗師匠のギャグだった。

学校に通わずに自宅などで送られてきたテキストを使いながら勉強を進めていき最終的に試験を受けて資格をとる通信講座。僕が初めて通信講座に触れたのは当時ちょっとしたブームになった進研ゼミ小学講座だった。

同級生がやっていて紹介キャンペーンでしか貰えないオリジナルグッズ欲しさに誘われて二人共もらえるならいいかなと思って始めてみたは良いが長続きせず、数ヶ月後には学習塾に行くことにした。勉強をすることが嫌なのではなく『自己管理をしながら進めていく』という事が自分には向いていないのだなと子供ながらに思った。

それから数十年後、僕はお坊さんになるために中央仏教学院(以下、中仏)の通信課程に入学した。中仏には通学と通信の2講座があり、通学は1年間で、通信講座は3年間で資格(僧籍)を取るシステムになっている。通学を選択すると1年間だがもちろん学校は平日のお昼なのでその間は夜にお仕事しながら通うか、働かずに1年勉強するかのどちらかを選択する必要がある。
ちなみに通学はお寺さんのご子息や、定年後に時間や金銭にある程度の自由がきく方々が行くみたいだ。

残念ながら僕はそのどちらにもあてはまらないので3年間の通信講座を選択した。毎日通学する事がないので当たり前だがやってもやらなくても構わない。あるのはテキストと項目について講師の方々が説明(解説)をしてくださる複数の動画だけ。動画を視ながらテキストを読んではみたがいまいち頭に入っていかない。通勤中や外出中の電車の中、ちょっとした空き時間を見つけて入る喫茶店などでテキストを開いてみる。割と頭にはいってくるのだが、読んでいるテキストが珍しいのか行きつけの喫茶店で勉強していたらある日「お坊さんなの?」と知らないおばあさんに話しかけられて世間話のお相手をさせられそうになりその場を退散したこともあった。(悩み相談されても困るし……。)

それでもお坊さんになると決めたので腹をくくって3年間を過ごそうと思っていたらまた中仏から機関誌がやってきた。どれどれと読んでみるとそこには『スクーリングと試験のお知らせ』と書いてあった。

スクーリング……つまり何日か中仏に通って講義や試験を受けないと二年生になれないのだ。試験はペーパーテストの他に指定された箇所のお経を講師の前で読むとのこと。

スクーリングは5月27日、28日。

お坊さんになる以前に果たして無事に2年生になれるのだろうか……。

おわり

次回は「つどいの会に参加した」を書く予定です。

引き続きよろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏




教科書が沢山やってきた

2023-02-28 22:20:03 | 日記
それから何回か法話を聴きに行き、月日を重ねていたら中央仏教学院に無事入学が決まった。

いくつかの書類を提出して学費などを払い、あとは開校を待つだけ……と思っていたら授業で使う教科書などを購入しておくようにとお知らせが来た。

お知らせを読んでいると一番良く使う教科書(以下、教本)以外にもお経の入ったCDや、『聖典』とよばれる「この一冊に全部詰まっています!」……的な本、あとはお作法やしきたりなどが書いてある本などを購入してほしいとのことだった。

勉強をするのに教本も必要だし教本に書いていないことをサポートするための参考書のような役割になるであろう聖典もいるだろう。

でも……

でも……

CDって。

CDプレイヤーもCDコンポも平成の中頃にとっくに処分してしまったので家には聴く機械がない。

かといってこのためだけに買うのは場所を取るから嫌だし、令和の時代なのだからできるならYou Tubeで配信してほしかった。もしくは音楽ファイルでくれたらスマホに取り込むのに……なんて恨み言を言ってしまいそうだけど考えてみたらお坊さんになる人はお寺さんの御子息/御息女でもない限りアナログ世代が多いのだろう。

その証拠に現在何度か通っている勉強会にも見たところ50後半から60歳くらいの人を多く見かける。その人たちに音楽ファイルを渡したところでおそらく聴くまでにかなりの時間がかかってしまうのかもしれない。

デジタル世代の僕らとしては多少不便なのだがアナログ世代の先輩方にしてみればお経CDはありがたいのだ。

立場を変えてみれば便利も不便に変わり、またその逆もしかりだと今更ながら学ぶことができた。

ちなみに件のお経CDは届いてから5ヶ月近くがたったが無開封のまま置いてあり、もっぱらYou Tubeで他寺のお坊さんがアップしたものを聴いて覚えている。(PCに取り込んでスマホに落とすのももはや面倒くさくなってしまった。)

それぞれのやりやすいように覚えていけば良いのではないかというのが僕の持論だ。

そして最後に聖典というものもあってこれが厄介なのだ。

まず重い。

聖書より重い。

タウンページと同じくらい重い。

勉強に必要なあらゆることが記載されていて、分割したら何冊かになるであろう書物を1冊にまとめているので1600ページくらいある。

なのでここまでくると本というよりも【鈍器】に近いし、おそらく【武器】にもなるだろう。

殺人現場で被害者が頭から血を流して倒れていて、傍らに血のついた聖典があったら、

「う〜ん、凶器はこの本ですな……」

って刑事も言うだろう。

しかもこれが2冊ある。

重い✕2だ。

しかしこの聖典様は単に重いだけじゃなくて勉強にかなり役に立つ。教本で抜粋している箇所の全文が載っているので授業(自習)の時はセットで使う。すべてを暗記するのは不可能だがこの先一生お世話になり、指針になるであろう本なので大事に大切にしていく所存だ。(重いけど)

この他にもあれやこれやといろいろあって全部で総額2万円くらいした。一生ものとはいえ結構なお値段だ。

これがショップチャンネルならショップバリュー価格でもう少しお手頃価格に、ジャパネットなら分割手数料負担&包丁セットがついて、さらに夢グループなら「夢……」と言う名前になって保科有里さんが「社長〜もう少しお安くなりませんか〜」と言ってくれるから最後は全部で一万円に……ってなるわけないか。

真面目に勉強しよ。

おわり

次回は「通信講座でお坊さんになるということ」を書く予定です。

引き続きよろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏





西本願寺に法話を聴きにいってみた

2023-02-20 22:21:31 | 日記
中央仏教学院が開校するまで3ヶ月ほどあったので法話を聴きに行ってみようと思い西本願寺(以下、お西さん)に行くことにした。

京都市営地下鉄の五条駅で下車して6番出口から地上へ上がる。しばらく歩くと東本願寺(以下、お東さん)さんが見えてくる。

元々は一つだった本願寺が東と西に別れたのはもう既に色々な先生がいきさつを書かれているし、ここで説明していたらブログどころか本が書けてしまうので詳細は割愛させて頂く。

簡単に言うと織田信長が本能寺の変で討たれた後に徳川家康についたのがお東さんで豊臣秀吉についたのがお西さんだ。仲違いして別れたのでそれなりに嫌悪な時期もあったが今は普通に交流をしている。

お東さんを横目に花屋町通りをさらに5分ほど進んでいくとお西さんに到着する。法話はお西さんの横にある聞法会館(もんぽうかいかん)という建物でほぼ毎日14時から15時まで1時間行われている。
詳しいスケジュールなどは↓を参考にして頂きたい。

常例布教(法話日程) | 参る|龍谷山 本願寺【お西さん(西本願寺)】-本願寺への参拝(参る・知る・観る)

お西さんで知られる浄土真宗本願寺派の本山、本願寺の公式サイト。参拝のご案内、親鸞聖人の教えや歴史、世界文化遺産に指定された境内のご紹介。


聞法会館に到着して中に入ると『本日の御法話』という立て札のある部屋が見えたので中へと入った。平日の昼間ということもあり僕以外にも5人座っていた。コロナ前はきっともっといたのだろう。しばらくすると担当のご住職がやって来て法話が始まった。

正直に書くとその日の法話や担当のご住職のこともあまり覚えていない。有り難い話をしてくださったというのに情けない話だ。次回からは立て札を撮影して保存しておくことにする。

その後も何度か暇を見つけては聞法会館に立ち寄り法話を聴くご縁に恵まれた。所属先のお寺の集まりで聴くこともあるし、先日は大阪の御堂筋にある北御堂さんでも法話を聴いてきた。
コロナ禍ということもあり以前は関西のお寺のお坊さんが担当されていたようだが最近は東京やそれ以外のお寺さんからも来られているようだ。

声の良いお坊さん、話の面白いお坊さん、思わずこちらも貰い泣きしてしまう法話をするお坊さん……などなど。

法話も十人十色。

お坊さんの数だけ法話がある。

1日24時間のうちの1時間だけお坊さんのお話に耳を傾けることはこれから生きていく中でのヒントをもらえるかもしれない。あまり肩肘はらずに「ちょっと聴いてみようかな?」と思ったら訪ねてみるといい。きっと良い時間を過ごすことが出来ると思う。

そして近い将来、僕も皆さんの前で法話をする日が来るようにこれからも勉強を進めていこうと思う。

数年後にお西さんでお逢いしましょう。

おわり

次回は「教科書が沢山やってきた」を書く予定です。
引き続きよろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏