この絵は、倭王武(=雄略天皇、ワカタケル大王)のイメージ図として描いた、教材用イラストである。
私は、授業では、このようなイラストをプリントに載せたり、黒板に描いたりしている。
ヤマト政権の統一事業とよく言われるが、
本質的には、織田信長の統一事業とかわらない。
服従を迫り、抵抗した場合は武力を使う。
要は征服地の拡大でしかない。
ただ、信長もヤマト政権も、
実際はコテンパにやっつけることはほとんどない。
このイラストのように、降伏した場合は許してやり、
もとの支配地を認めてやるのが普通である。
ただし、許してやるかわりに、
支配地の一部の献上を求める …のが一般的である。
ヤマト政権の場合、服属した地方豪族から支配地の一部を献上させ、
それをヤマト政権の直轄地(大王の私有地とも考えられる)にする。
この直轄地こそ、屯倉(みやけ)と呼ぶ。
だから、屯倉はヤマト地方(この場合は現奈良県だけでなく、大阪府なども含む広い範囲)
以外の地域にも散在する。
ところが、ヤマト政権は武力で征服地を拡大こそしているが、
中央集権国家をつくるほどの力も人材もない。
だから、この屯倉を管理する人員を中央から派遣できない。
そうなると、どうなるか?
結局、屯倉は、それを献上した地方豪族に管理させることになる。
服従した地方豪族は、屯倉を管理するヤマト政権の地方官、
「国造(くにのみやつこ)」に就任する。
でも、やっていることは、自分の支配地だった土地の管理、支配。
なんか、何もかわってないみたいだ。
敢えていえば、その土地の収穫物の一部をヤマト地方に税として送ることぐらいだろう。
それだけが加わった「いやなこと」。
だから、ヤマト政権が動揺したりすると、
ヤマト政権打倒に動くのは、彼ら国造。
実際、入試に出る例が「筑紫国造磐井の乱」。
先祖のうらみを晴らすと共に、厳しかったと思われる税などの進貢問題などもあったのだろう。
磐井はヤマト政権にとっては謀叛人だが、
現地の人々にとっては、先祖代々からの“お殿様”的存在。
結構、愛されていたようで、
死後、「岩戸山古墳」という古墳もつくられた。
その古墳のまわりに置かれた埴輪がわりの「石人(せきじん)」「石馬(せきば」」
これが、また可愛くって♪
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もやもやが晴れました。
またお世話になります。