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冷戦後の世界・日本・移民 エマニュエル・トッド『パンデミック以後』読書メモ(3)」  読書

2021年05月14日 | 読書
エマニュエル・トッド『パンデミック以後 米中激突と日本の最終選択』(朝日選書)の感想というかブックレビューというか読書メモ最終回。

最後に、第五章〈新型コロナ禍の国家と社会〉(『論座』2019年11月18日)と第六章〈家族体制と移民〉(『朝日新聞』2018年7月18日)について。

週末に原著は1976年に刊行されたトッド25歳のデビュー作『最後の転落』(藤原書店)を取り寄せて、ざっと斜め読みした。ソ連崩壊を予測したきっかけになったという乳幼児の死亡率アップは、本論ではほとんど触れられていなかったので、拍子抜けした。ただし、本書の底本になった1990年新版には、1978年のシンポジウムに発表され1980年に雑誌掲載された「ソ連・その現在の危機ーー死亡率に関する諸現象の分析による記述」が収録されている。この論文はネットスラングの「その発想はなかった」で、非常に興味深かった。ベルリンの壁が崩壊直後、ソ連崩壊目前の1990年という時期もあって、予言者的な捉え方をされたのもわかる。しかし本論の方は、ソ連SFの蘊蓄は面白かったが、才気溢れる若者のエッセイに過ぎず、この程度のソ連の「危機」や「破産」についてなら反共の右派なり、スターリン主義批判の新左翼がすでに指摘していたことで、特に新鮮味はない。

さて、このようにソ連の崩壊を早くから予測していたトッドだが、このインタビュー集『パンデミック以後』では資本主義陣営の「共産主義」崩壊との向き合い方に疑問を唱える。冷戦終結前後に登場したレーガン米大統領もサッチャー英首相も、共産主義の崩壊を、「文明化されていない資本主義、ネオリベラリズム、ヒステリックな資本主義の勝利」だと考えてしまった、というのだ。

アメリカは、「共産主義との闘い」「民主主義のための闘い」という建前もかなぐり捨て、覇権をめざして湾岸戦争、イラク戦争へと向かっていった。

しかし9・11の翌年に発表した『帝国以後』でトッドが予言したように、超大国であるかに見えたアメリカの衰退も始まっていた。東西ドイツ統一で、米国は欧州をコントロールする力を失った。

トッドによれば、欧州の問題とは1900年以来常にドイツが大きすぎるということだった。歴史の大半でドイツは分断されていた。オーストリア帝国とプロシア、その他20ほどの小国に分かれていたたのが、ビスマルクによる三つの戦争(デンマークと争ったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、普墺戦争、普仏戦争)の戦争の勝利でドイツは経済的な発展を遂げ、かつてないほどの大国となった。そして第一次大戦、ナチスの登場、第二次大戦となって、欧州の自壊を招いた。

現在のユーロ圏の危機を第一次大戦、第二次大戦に続く欧州の第三の自壊だとトッドは語る。南欧州の国々は産業を失い不平等が高まり、ドイツは東欧諸国に進出している。ルーマニアやブルガリア、バルト三国は人口減少、人口動態の危機に直面している。英国は欧州から逃げ出した。「共産主義」崩壊で恐れるものが消え古い資本主義が登場した。

「戦後、西側で資本主義と社会保障が結びついた幸福なときがありました。それがソ連が強く脅威だったときです。
その脅威が西側に資本主義を文明化することを強いたのです」

米国のルーズベルト大統領の改革、フランスの人民戦線、欧州での社会民主主義がいくつか成功したのも、ただただソ連への恐怖からだった。しかし「共産主義」が崩壊したとたんに、もう恐れるものがなくなった。そして「古い資本主義」だったものが再登場してきた。ネオリベラリズムといわれているものは、マルクスが批判した当時の資本主義の再来にほかならない。

さて、「共産主義」の間違いは「性善説」に基づいたことにあったとトッドはいう。これも「その発想はなかった」だが、とりあえずトッドのいうことに耳を傾けてみよう。

「共産主義の間違いは、人間は特定の社会的な条件が整えば完璧な存在になると考えたこと。性善説に基づいた間違いです。人間はひどい存在になりうる。最悪なのはナチズムだけれど、スターリニズムも相当ひどかった」

マルクスのどこをどう読めばこうなるのか、さっぱりわからない。「モスクワの長女」といわれたフランス共産党では、そう教えるのだろうか(トッドは10代に共産党員だった)。『何をなすべきか』を書いたレーニンが性悪説だったことは否定しないが(詳しくは忘れたが、「組織とは組織された不信である」というのが、いわゆる地下闘争に従事した私の理解であり、これは今も役だっている)、マルクスはあくまでも人間存在を「社会的諸関係の総体(アンサンブル)」ととらえていた。マルクスに誤算があったとしたら、歴史の中で自身の思想がロシアで予期せぬ化学反応を起こして、スターリン主義を生み出したことであろう(だからといってマルクスを擁護したいわけではない)。

しかしスターリン体制もひどかったが、ナチスをたたき、欧州を解放したのはロシア人たちだった。ベルリンの壁が崩壊したとき西側はこのことを思い出すべきだったとトッドはいう。ロシアに対する恩を忘れたことが、後に自らに災いをもたらすことになった西側の原罪だという。第二次大戦、欧州や日本の経済を助けた米国のように西側がロシアに対して寛大であったなら、また歴史も違っていたのかもしれない。

最後に「家族制度と移民問題」について。本書ではいちばん古い2018年5月18日に『朝日新聞』に発表されたインタビューである。

1990年代はじめに初めて来日したトッドは驚いたという。人々がすでに人口動態の問題について語っていたからだ。それは良いことだと思った。その後、16、17回来日した。あいかわらず人々は人口動態について話を未だに続けている。トッドの言葉は皮肉が効いている。

「日本では人口動態は討論のテーマであって、行動のテーマではない」
「日本人は何も行動しないまま、議論し続ける能力がある」

問題は簡単なはずだ。日本が少子高齢化を解決したいなら、フランスや北欧のように、保育園や幼稚園を作り、初等教育から高等教育まで無料あるいは安価にするというモデル作りに尽きる。女性も男性も産休をとれ、社会・法律・国家がみんなで女性を尊重する基本的な価値を実現することしかない。

何でこんな当たり前のことができないのか。この「当たり前のこと」を阻んでいるのは、トッドの専門分野でいう「直系家族のゾンビ」ということになろう。長子相続の直系家族モデルは鎌倉時代から数百年をかけて武士から富裕な農民に広まり、明治時代に頂点に達した。この家族モデルは現在は消えつつあるのに、その価値観だけは生き続けているのだ、と。

私の郷里では、二男は「オジゴンボ」、三男以下は十把一絡げで「カンナクズ」といったそうだ(太宰の『津軽』にも「オズカス」という言葉が出てきた)。さすがに今はこんな旧弊な農村モデルの家族形態は、私の田舎でも消え去っているが、直系家族の価値観は生き残った。そう考えてみると、今の状況をうまく説明できるとトッドはいう。

いま必要なのは女性が仕事も出産・育児もできる社会なのに、それは誰の目にも明らかなのに、当の女性自身も含めて直系家族のイデオロギーに縛られており、時代錯誤的な家族観を持つ自民党を与党として支えてしまっている、ということになるだろうか。

少子高齢化で人口減少する日本では、移民の受け入れが不可避だという人もいれば、移民に反対する人もいる。トッドにいわせたら、移民問題も、人口問題と同様に、あくまで議論の対象ということになろうか。私から見ても、移民賛成派、反対派、どこかズレている。賛成するにせよ反対するにせよ、日本はすでにドイツ、アメリカ、イギリスに次ぐ世界第四位の「移民大国」であるという事実に立脚する必要があるのではないだろうか。

移民を嫌うのは島国のアイデンティティーらしい。ドイツ人たちは自分たちのルーツがケルトだったりスラブだったりすることをわかっている。ドイツ人たちが自分たちこそ真のゲルマン民族などと思ったのはナチスの時代だけである。

けれども日本人は自分たちが日本人だと思っている。鎖国下の日本が数世紀にわたって孤立していたのもその通りだ。しかしトッドが最初に日本に来て強く印象づけられたのは容貌のタイプがかなり多様だということだった。南方系、大陸系、半島系、北方系、日本人は明らかに多様なルーツを持った人たちである。

トッドは日本の歴史と欧州の歴史はよく似ているという。一点目は直系家族の登場であり、同じリズムで直面した宗教的危機(ドイツ:プロテスタントの改革、日本:浄土真宗の登場)である。

ドイツと違って、日本は島国であるという事実から、日本人は自分たちが自分自身であり続けたいと望むことが許されるように感じているのだとトッドはいう。

健康、医療分野では高齢者の介護に移民が入っている。大阪近郊でいえば、北摂に日系ブラジル人のコミュニティがあり、コンビニのざるそばを作る食品工場で働いている。移民は私たちの日常生活と切り離せない。いったん人口動態危機に陥ると、経済というマシンは、その論理に従って動き、必要とあらば労働力を呼び込む。

今起きているのは、移民の流入が始まっているのに、日本人は移民を受け入れられないと言い続けていること。現実と切り離された意識があるのだろうというトッドの見立てである。

この「現実と切り離された意識」のありようは、トッドの見た東京と地方の落差にも通じるだろう。トッドの口からは「下田」なんて地名が出てくる。講演で呼ばれたか何かのだろうが、日本と欧米の関係を理解しようと思えば、「下田条約」の下田は欠かせないであろう。この辺りの目配りは「同志」であるガタリよりは信頼に値する。

「フランス人も、東京にやってくると、見た目は問題がないように感じます。パリよりも近代的だし、もっと清潔だ。もっとダイナミックでもある。30年も先に進んでいるような印象を持つ。そのあと、地方に行ってみる。たとえば下田(静岡県)。私はそこで、空き家やさびたシャッター、古ぼけた家財など、フランスの地方にはないようなものを目にしました。この国のエネルギーが集中しているところから出たとたん、老化、老朽化、荒廃化しているものを目にすることになります」

トッドは日本で誰も深く考えないうちに移民がすっかり広まってしまう可能性について言及する。日本には移民がいないと信じているし、それについて悩みもしない。しかし移民の子どもたちは日本の学校に通い、小さな国民になっていく。その子たち自身も自分はもとから日本人だと信じるようになる。それは結構なことではないのか。

「フランスのように移民労働者が社会問題化することはないだろう」とトッドの観測は楽観的である。フランスで問題だったのは移民の受け入れではなく10%という構造的な失業率をもたらした国民経済の行き詰まりだった。日本は労働力を必要としている。移民たちは経済のマシンによって統合されていくことになるだろう、と。

「(移民に対してのように)自分たちだけでいたいという閉鎖的な夢、それが現にあるとしても、それだけがあるわけではない。たとえ、自らを閉じてしまいたいという夢にとらわれているにしても、もう一つの現実は、外への開放です。その両方が日本にあるのではないですか。相反する二つのことは実はとても近い。真実の逆はすでに真実に近いところにあります」

大阪ミナミのある小学校では、生徒のうち四分の一が外国にルーツがあるという。ダルビッシュ有や大坂なおみのようなアスリートの活躍があり、『プリキュア』にも、メキシコ人の父と日本人の母を持つ褐色のヒロイン・天宮えれなが登場するようになった。日本人の意識もまた変わっていくだろう。これには私も同意する。

しかし当の日本人である私は、トッドのようにこんなに楽観的にはなれない。「過去をたどれば先祖は同じ。つまり直系家族は、統一の夢を持ち続けている」という家族国家の考えがあるというのだが、私は全く肯定する気になれない。「家族国家」の破産は、皇民化政策の失敗ですでに明らかになっているというべきだろう。それは日本人との同化を強制しながら、日本人とは差別するという矛盾した政策であった。

「移民政策は決して出生率対策の代わりにならない、最も優先するべきはやはり女性が快適に働き、子どもを産むことができる政策である、子どもが生まれなくなっているのだから移民で埋め合わせようという議論があるが、それは難しいし危険なものである、移民を統合するためにも子どもは作らなければ」というのが、このインタビューの締めくくりだ。

女性が働くことも子どもを産むこともできる社会の実現は急務である。しかし日本がこのまま少子高齢化により衰退していけば、移民も少なくなり、現在のアメリカのように移民に対する排外主義も高まっていくに違いない。残念なことだがそれも現実である。

トッドは叔父の男女関係に関する教えを引きながら、こんなことをいう。大切なのは理解し合うことなんかじゃない、わかり合うことだ(ここは原文はどうなっているのだろう? どう違うのかがよくわからない)。頭でちゃんと理解しなくても、ものごとがうまくいくということが必要だ、と(これならわかる)。

わかり合う必要はない。ものごとがうまくいけばいい。これはいつまでも議論をしている左翼に見切りをつけて、労働組合や地域再生の現場でボランティアに励む、一実務家の私の実感でもある。わかり合うことが素晴らしいことだとはちっとも思わない。これは最近読みかけている、ドミニク・チェン『未来をつくる言葉: わかりあえなさをつなぐために』に通じる視点かもしれないね。わかりあえない「他者」の存在を受け止めて、共に生きていける社会を作っていくことが「コミュニケーション」であり、この分断の時代に求められている知恵であるだろう。

(了)

フランスのお城背景でれんちゃん。たまには魔法少女服。



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