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薫伝説

2011年05月15日 | 源氏物語・浮世絵・古典・伝統芸能
『更級日記』の菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ)は、光源氏と夕顔、薫と浮舟のラブロマンスに、胸をときめかせたという。

 どちらも身分違いの恋をえがいた、シンデレラストーリーである。受領階級(中流貴族)の姫君が胸をときめかすのも、わからなくはない。

 しかし光源氏はともかく、薫なんかのどこがいいのか。

 「今で言う草食系で、女性にも性関係を強要しないからではないか」

 というのが、友人の見解である。これも一理ある。

 菅原孝標女が作者といわれる『堤中納言物語』(『風の谷のナウシカ』のモデルになった「虫愛めづる姫君」が収められている)には、「逢坂越えぬ権中納言」という薫型の登場人物も出てくる。この物語の作者が誰だったかは別にして、平安時代には人気のあったキャラクターだったとはいえる。

 それでも、現在とはちがったキャラクター設定だったのではないかというのが、私の空想である。

 こう空想する根拠は、薫の体には生まれつき、仏の身にあるという芳香を備えた特異体質だったというエピソードである。ライバルの匂宮はこれに負けじと香を焚きしめている。しかしこれは明らかに「やりすぎ」ではないのだろうか。

 「柏木」帖での薫の出生から幼少期にかけてのエピソードには、この特異体質に関する言及はない。思春期を過ぎてからのフェロモンの一種ということだろうか?

 「源氏物語湖月抄」では、この特異体質の出典(元ネタ)を、いくつか推測している。たとえば、聖徳太子も「一たび太子を抱けば、即ち數月懐(ふところ)香(かぐわ)し」と伝えられたそうだ。

 しかし、薫は聖人君子ぶっていたにすぎない。薫の底の浅さは、最後で決定的に明かされる。あの本居宣長も、これはいったいどうしたことかと、当惑ぎみに注解している。

 「此事いとうたがはし。其故は、大かた人の身に、おのづからかうばしき香は、なき物なるに、かくいへるは、作りごとめきたり。此物語は、さるあやしき、つくり事めきたることはかかず、みな世にあるさまの事なるに、此事のあやしきは、いかなることにか。」(『源氏物語玉の小櫛』)

 この物語はリアリズムに徹して、この世のことをありのままに描いているのに、どうして唐突にこんな作りごとめいたエピソードを入れるのか。これはもっともな疑問だ。

 もちろん、リアリズムに反したり逸脱する超常現象が出てこないわけではない。物の怪も大勢出てくる。

 物の怪については、某の院での夕顔をとり殺す物の怪も、六条の御息所の物の怪も、源氏の罪悪感が見せた幻想(疑心暗鬼)と解釈できるだけのリアリティがある。

 唯一超常シーンを描いているのが、「明石」帖で光源氏が亡き桐壺院の霊に「須磨を去れ」と告げられ、それに呼応するように、夢告を受けた明石入道が迎えにくる場面である。

 実際はどうなのだろう。須磨に帯同していた腹心の源良清が、明石の方に結婚を申し込んでいる。入道は前播磨守、良清は播磨守の子で、元からの知人である。しかし源氏に姫を差し上げたい入道は、良清の申し出を断った上に、メッセンジャーボーイに仕立てようとする。良清はそれがおもしろくなく、ネグレクトしていた。入道もついにブチぎれて、押しかけてきたというのが、この場面の意味するところではないか。

 この明石一族をめぐるエピソードには、後代の改悪としか思えない痕跡がある。以前も書いたが(2010年11月22日)、「若紫」帖、光源氏が転地療養に来た北山の寺での一幕である。

 お側の者たちが、ひまを持てあます若君のために、地方の国々の風光明媚な名所話を始める。ところが、明石の浦に話題がおよぶと、景色の話なんかもうそっちのけである。前の播磨の守の明石入道がいかに変人か、これでもこれでもかと説明しはじめる。当時9歳の明石の君の話題まで出てくる。

 しかしこのくだりは紫式部の原文にはなく、後代の人が理解の助けになるように書き加えたのではないかと西村亨先生は推測しておられる。後段の「須磨」「明石」への伏線のつもりだったのだろう。しかしこの書き入れの作者は、さかしらに溺れて、致命的なミスを犯している。若君の気晴らしのための会話場面にしては、あまりにバランスに欠き不自然だからだ。(『源氏物語とその作者たち』)

 長くなったが、薫の設定にも、同じような後代の創作や改変があったのではないかというのが、私の空想である。

 石山寺中興の祖であり、朝廷・貴族の信仰を集めた三代座主淳祐(しんにゅう 890-953)のエピソードである。光源氏のモデルのひとり、菅原道真の孫にあたる。

 921年(延喜21年)、淳祐内供は、師観賢僧正が醍醐天皇の命により、高野山の弘法大師廟へ参入する際、随伴した。

 その時、入定した大師の膝に触れた淳祐内供の手には芳香が移り、いつまでも、消えることがなかったという。その手で書写された聖教にもその香気が移った。この淳祐筆の聖教は「薫聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、石山寺でも座主以外は見ることが許されなかった。今では国宝になっている。

 紫式部が生きていた時代に、この薫聖経(淳祐内供筆聖経)の伝説が成立していたかどうかは不明である。しかし、紫式部が石山寺で源氏物語を執筆したという伝説と、どこかでリンクしているのではないか。

 「大人になりたまひなば、ここに住みたまひて、この対の前なる紅梅と桜とは、花の折々に、心とどめてもて遊びたまへ。さるべからむ折は、仏にもたてまつりたまへ」

 のちに西行の有名な歌「仏には桜の花をたてまつれ」は、この紫の上の匂宮に対する遺言場面の本歌取りである。
 菅原道真の紅梅殿にも、紅梅と桜があった。天神縁起も「東風吹かば匂ひおこせよ」の有名な歌とならんで、「さくら花、ぬしを忘れぬ物ならば、ふきこむ風に、ことづてはせよ」という和歌を伝えている。

 北野天神縁起の承久本の成立が1219年、藤原定家の源氏物語五十四帖証本(青表紙本のルーツ)が成立した1225年と、ほぼ同時代である。

 源氏物語のテクスト群と、天神縁起のテクスト群の成立過程は、同時代的にリンクしているのではないだろうか。薫の設定に、道真の孫・淳祐の伝説が投影されていったというのは、もちろん私の空想であり妄想にすぎない。薫が浮舟失踪の知らせを受けるのは、母宮の病気のため参籠した石山寺においてであった。

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1 コメント

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Unknown (くろまっく)
2011-05-15 22:52:39
× こ空想
○ こう空想する根拠は、

指摘を受けて誤字脱字訂正。少し文章も直しました。どうもありがとう。
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