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ヴェルレーヌ「秋の歌」翻訳ノート

2021年03月27日 | 文学少女 五十鈴れんの冒険
  「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」

 ヴェルレーヌの『秋の歌』を訳しながら、ポール・ニザンの『アデン アラビア』の有名な冒頭の一文を思い出すことがあった。グータラな私は、誰かの引用でこの文章を読んだきりなのだが(奥浩平の『青春の墓標』か、学生活動家の手記が数多く引用された『中核VS革マル』だったような気がする)。
 以下、フランス語の原文と意味、私たちがどう訳したかのメモである。ご覧のとおり、フランス語の語順どおりに、日本語に置き換え、意味がつながるようにしてある。(Q:五十鈴九郎 R:五十鈴れん)


(1)タイトルならびに第一連 色失せるとき

Chanson d’automne
 秋の歌 (Q:秋唄 R:秋のしゃんそん)

Les sanglots longs
 長い啜り泣き (Q:まだなきやまぬ R:むせびなく)
Des violons
 ヴァイオリン  (Q:ヴィオロンの R:う゛ぁいおりんだね)
 De l'automne
  秋 (Q:秋の音[と]あらば R:秋風は)
Blessent mon coeur
 私の心を傷つける (Q:むねいたみ R:やるせなく)
D'une langueur
 憂鬱、憂愁、無気力 (Q:身じろぎもせず R:もうあきあきな)
 Monotone.
  モノトーン (Q:色も失せたり R:せぴあの季節)


 このブログの読者には、私がこの第一連の最終行の「Monotone」(モノトヌ)をどう訳すか悩んでいたのを、記憶されている方もあるかもしれない。
 上田敏の「ひたぶるに」、永井荷風・堀口大學の「物憂き」、岩野泡鳴の「寂し」、金子光晴の「さびしい」などの意訳もあれば、竹友藻風の「ひといろの」、窪田般彌の「単調に」などの原義に忠実な訳もある。
 上田敏の「ひたぶるに」は、「一途に」「一本調子」という意味合いで、とりあえずMonotoneの意味は押さえてはいるけれど、うまくこじつけたようにも見えなくもない。「ひといろの」「単調に」のように原語に忠実だと、どうしてそれが憂鬱だったり胸が痛む理由になるのかが、今一つピンと来ない。
 最初は、古代には喪服の色だった、グレー系の「鈍色」(にびいろ)という訳語を考えてみた。「秋空は鈍色にして 黒馬瞳のひかり」という中原中也の詩は、このヴェルレーヌの『秋の歌』を意識していたかもしれない。しかし「鈍色」は晩秋の空の色の表現には良いが、最終連の枯葉とうまく結びつかない。
 あるとき、『源氏物語』を読み返していて、「御法」帖で紫の上が亡くなる場面の「身にしむばかり思さるべき秋風ならねど」の注釈に、紀友則の「吹きくれば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」という歌があるのを見つけた。
 これだ、と私は思った。
 グラフィック処理で、カラー画像を色味のない明暗だけの度合いに変換するグレースケール変換がある。秋になれば木々は、華やいだ春の花々も、輝いた夏のみどりもなく、葉も枯れて色を失う。モノトーンの世界になる。セピアもまた暗褐色のモノトーン調である。古語の「色」が、色彩という意味の他に、「華やかさ」「美しさ」「気配」「優しさ」「色恋」など多様な意味を持っているのはいうまでもない。


(2)第二連 青春の終わりを告げる弔鐘

Tout suffocant 意味
 息苦しくさせる  (Q:いきどほろしく R:息詰まり)
Et blême, quand
 青白い  (Q:くすみたる R:死にたくなるよな)
 Sonne l'heure,
  時が鳴り響く  (Q:鐘鳴る空に R:鐘の音に)
Je me souviens
 思い出す/偲ぶ  (Q:思ひでの R:思い出も)
Des jours anciens
 昔の日々  (Q:過ぎ来方も R:とおいむかしも)
 Et je pleure
   私は泣く  (Q:なみだと消えぬ R:涙で霞む)


 上田敏訳は二十歳の青年にしては枯淡の境地に達し、妙に達観している(ありていにいえば、じじむさい)。しかし金子光晴訳はいかさかセンチメンタルに過ぎる。この二人の翻訳を並べたとき、同じ詩の訳とは思われないかもしれない。
 しかし若い頃の自分を振り返っても、いまの若い人達も、二十歳の頃は達観しているかと思えば、泣いたり笑ったり忙しない。卒業式の少年少女は「忘れないよ」「また会おうね」とこの世の終わりのように号泣するものだし、ヤンキーの若造は「おれが若い頃は」と後輩に人生を語るものなのである。人生の半分以上生きていると、20年などついこの間なのだが。
 第二連の鐘の音は、夏の終わり、すなわち青春の終わりを告げる弔鐘なのだろう。
 「いきどほる」は、「息詰まる」という意味で、そこから「胸が晴れない」「怒る」という現代の意味になっていった。


(3)第三連 枯葉ぞわれは

Et je m'en vais
 私を連れていく (Q:われを離[カ]らしむ R:いずこにと?)
Au vent mauvais
 悪い風の中 (Q:つむじ風 Q:狂った風に)
 Qui m'emporte 意味
  運び去る/奪う (R:逆巻きゆけば Q:くるくると)
Deçà, delà,
 そこかしこに (R:散りにける Q:宙に舞ってる)
Pareil à la
 ~とよく似た (R:拾ふ物なき Q:よりどりみどりの)
 Feuille morte.
  枯葉 (R:枯葉ぞわれは Q:枯葉に聞けば?)


 最初の一行は、「私を連れ去る」(離らしむ)と「私を枯れさせる」(枯らしむ)の掛詞である。
 前者の「離る」(離れる、空間的に遠くなる)という用例は死語だが、「枯れる」も元々は生命が離れてしまう意味だった。「狩り」は遠出をする、「雁」は秋に来て春になると北の空に去っていく鳥。二十歳の詩人も、幼年期の幸せだった春にも、青春期の輝いていた夏にも、もう戻ることはできない。遠く離れて、枯れようとしている。
 「Au vent mauvais」(悪い風のなかで)は、街路の落ち葉を巻き上げる「つむじ風」(塵旋風 じんせんぷう)と訳してみた。この落ち葉が風で巻き上がっているイメージは、『フランス流日本文学入門』の柏木先生の解説に拠るものである。
 五行目の「Pareil à la」は、直訳すれば「~とよく似た」「~と同じ」という、前の行と後の行の意つなぎの部分である。同じようなもの、ありふれたもの、経済でいうコモディティ化(市場価値が低下した一般的な商品)というわけで、陳腐なもの、どうでもいいものということで辻褄を合わせることにした。
 「離る」と「枯る」が同源だと書いた。潮干狩りの貝掘りのイメージがあるので誤解しがちだが、「紅葉狩り」は紅葉をとりにいくわけではない。「紅葉を見るために遠出する」という意味である。
 そう、落ち葉など誰も拾わない。しかし秋のパリの子どもたちは、公園の落葉のベッドに、ダイブして遊ぶのだそうだ。子どもたちの歓声の中で、落ち葉はミルフィーユ(「千の落葉」という意味である)のパイ生地のように、サクサクバリバリと砕け散るだろう。バラバラになった落ち葉は、冬の間に大地を栄養で満たし、春になればまた新たな生命を育むのである。


(4)オカダ・ヌーヴォーにまた会う日まで

 観音寺の宗林寺に、岡田嘉夫画伯が生前建てた墓碑を訪ねてきた。
 境内の小高い丘の上に、墓碑はある。墓碑の傍らに、人の背丈ほどの木の白い花が満開だった。風に揺れる白い花は、『ターシャの庭』で知ったクラブアップルの花に似ているが、名前はわからない。

「楽しい人々に囲まれて ヤりたいこと 全部ヤれました!」

 石碑には、画伯の懐かしい筆蹟でそう刻まれていた。ご夫婦で住まわれていたケアハウスの前の石屋で見つけたというこの石は、画伯が笑って語っていたとおり、加古川の上流あたりに転がっていそうで、犬が小便をひっかけるのにおあつらえ向きの高さと形である。
 私たちは挽歌を手向け、しばし石の前に佇んで画伯を偲んだ。しかし私たちがいくら呼びかけ話しかけたところで、あれだけ話好きだった画伯も、この石のようにもう何も答えることはない。
 お寺のご好意で、有名な歌舞伎屏風絵を拝観させていただいた。、画伯いわく「トルコ嬢」(今では使われなくなった言葉だ)をモデルにしたという、湯浴みする女性二人のエロティックなヌードの屏風絵には、あまりのやりたい放題に笑ってしまった。あの岡田嘉夫が死ぬわけがない、いまここに生きているではないかと思った。
 岡田嘉夫の絵は、どんな言葉より雄弁であり、饒舌であり、過剰である。岡田嘉夫の現し身は残念ながら枯れてしまったが、いのちは還(めぐ)り、新たな絵、新たな歌、新たな物語となって、オカダ・ヌーヴォーがまたどこかから出現するであろう。
 それでは岡田先生、またお目にかかれる日を楽しみにして、私たちからの一時のお別れのことばとさせていただきます。


岡田嘉夫画伯の墓碑の前で

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