新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

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「鬼の面」はなぜ江戸落語に移植されなかったのか

2023年01月08日 | 源氏物語・浮世絵・古典・伝統芸能
伊藤晴雨『江戸と東京 風俗野史』はいい。



ただし、この本には索引がない。
索引がないのは不便である。何かを調べるために手に取ることはなく、仕事の合間の息抜きに眺めていることが多い。

先日も、一石橋の橋詰にあった迷い子のしるべ(この石標は現存)について書いたのだが、本が刷り上がってから、本書に詳細な図入りの解説があることに気がついた。幸い、別の資料を参照にした私の記述は間違いはなかったが、こういうのはギクリとするね。元の資料をわかりやすいように書き換えることができたのも、晴雨の文章を以前読んでいたかもしれない。

廓言葉の「ありんす」と、『不思議の国のアリス』かけ合わせた、『不思議の国のありんす』を手掛けたMさんは、晴雨をリスペクトする縛り絵アートの作家さんでもあった。
国書刊行会が復刻した本書『江戸と東京 風俗野史』を欲しがっていたので、いつか贈呈しようと思っていた。しかし歳月は流れ、今は平安の美を表現する王道路線に進まれ、本は私の手元に残ることになった。

私のほうは相変わらずの開店休業状態である。ほぼ唯一の連載となった浮世絵シリーズで、この『江戸と東京 風俗野史』が役に立っている。江戸の寿司売りの木箱には、握り寿司が24個入ったというディテールは、本書によるものである。

晴雨のテクストを文字起こししてみた。


私は今読者を江戸の盛り場へご案内申し上げましょう。こゝは東両国です、東両国は今の両国橋より少し下流十五間計りの処から左右二町計り、それから今の国技館の辺迄賑やかであり、西両国は旧名米沢町。今の西両国△丁目から浅草橋付近迄一円を云うので、此の東西両国を区割するものが長さ九十六間幅三間の両国橋であります。此の橋の中央に小さな家がある。橋番小屋といって橋上の事故を取締る役目の小使といったような男が昼は放生会に使う鰻やどじょうや放し亀などを売って居る、夜は火の番のように身投げなどの警戒に当る。此の橋を西から東へ渡ると橋詰の左に川中に大山石尊大権現の大提灯が掛り、晴天の時に限り川中で垢離を取る人が沢山ある、其の附近に有名な寄席があって『垢離場』と云う、明治年間迄有った。その左即ち今の電車通りの角に『もゝんじや』があって、当時江戸で余り沢山無かった猪の肉を始め猿だとか兎だとか其の他いろ〳〵の動物の肉を売って居た。猪の肉を昔は山鯨といって居た。
伊藤晴雨「江戸の盛り場 解説」(『江戸と東京 風俗野史』国書刊行会)


今度、東京に帰ったら、愚父と愚弟と一緒に行こうかなとも思う。まあ、老人には新規開拓より行き慣れた駒形どぜうが一番かな。

さて、この「もゝんじや」で思い出したが、上方落語には、池田を舞台にした噺が「池田の猪買い」「池田の牛ほめ」「鬼の面」の3つある。このうち、「池田の猪買い」「池田の牛ほめ」は江戸落語にも移植されているけれど、「鬼の面」だけは移植されていない。ちなみに、池田市は桂文枝が名誉市民ということもあって、池田市立落語みゅーじあむが設立されている。

「鬼の面」は、私の最も好きな噺の一つである。

しかし、江戸落語に移植できなかった理由もわかる。ビシネス風にいえばハードとソフト、古い左翼風にいえば土台と上部構造の問題があったからだろう。

ハードの面でいうと、年端もいかない子守の少女が、徒歩で日帰りできる距離にあって(大阪・池田間は約20キロ)、ごろつきが博打をしていて、しかもイノシシが捕れる野趣あふれる場所は(この噺にはイノシシの話は出て来ないが)、江戸では見つからなかったのではないか。江戸郊外は将軍家の鷹狩り場で、庶民にとっては禁猟区である、「もゝんじや」のイノシシ肉も、小名木川ルートで運び込まれた、北総や常陸などで捕れたものではなかったのか。

ソフトの面でいえば、「愚かと云ふ貴い徳」という言葉を体現するこの少女のキャラクターを、江戸には移植可能だったということである。

谷崎の「愚かと云ふ貴い徳」という言葉は、太宰の「恋と革命」とともに、私の人生を決定づけた言葉である。
関西に移り住んだとき、この谷崎のことばが、今も大阪には生きていると思った。あの頃は谷崎行きつけの立ち食いずしも阪神地下に現存していたし、美々卯のそばもうまかった(過去形)。

旦那に買い与えてもらった、母親そっくりのお多福の面に「お母ちゃん」と呼びかける少女の、なんといじらしいことか。旦那のいたずらでお多福の面が鬼の面にすり替えられ、母親に何かあったにちがいないと、池田の郷に向かうその一途さ。私の愛してやまない純朴な大阪人そのままである。

これは江戸落語に移植は難しいだろうなと思う。大坂落語はおおらかそのものだが、江戸落語はいまだにミソジニーを引きずっている。いや、これは上方落語でも変わらないか。お多福の面に「お母ちゃん」と呼びかける愛らしい少女の切なさ、寂しさを表現できる噺家が、上方落語を含めて、いま何人いるだろうか。

画像は『ぼっち・ざ・ろっく』より、ツチノコぼっちちゃん。
うん。それ希少種というよりUMAだよね。


ツチノコぼっち、かわいいですね。

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