セブンか、エイトか
七年後に、東京五輪の開催がきまった。
日本ではこのセブン、ラッキーなセブンは、あの七回裏の風船飛ばしのように野球がその起源とかいわれているが、たしかなことはわからない。
〇八年の北京五輪は、八月八日の午後八時八分に開幕された。88888(パパパパパ)、そう、中国では「八」がめでたい、ラッキーなのである。
くわしくは知らないが、古来中国では八人の仙人が実在、「八仙(八福神)」の絵が民間信仰の対象になっていたといわれている。日本にも「七福神」があるが、関係があるのかどうか・・・これは、まったくの落とし噺になるが、むかしむかし、蓬莱山(中国山東省)に集う八仙人が、東海の扶桑国(日本)へ向かって船出した、その途次嵐に遭い、ひとりが波にさらわれて・・・、日本に着いたのが七福神???その真偽はさておいて、いま日本でも七福神信仰が定着して各地にその廟や祠がある。
この七福神の中国渡来説よりさらに有名なのが、「徐福東渡」のはなしであろう。
江蘇省の北の海岸沿いに連運港というみなとまちがある。朧海鉄道の起点であり、西安・蘭州を経てその地の果てはユーラシア大陸に繋がる。
80年代のなかごろ、大阪の泉北港とこの連運港が“友好港”になり、堺市と連雲港市の友好都市提携に発展した。
わたしはそのころ友好都市間の経済交流の促進を図るべく、関係者と数回同市を訪問したことがある。まだ同市へのフライトもないころ、鉄路では上海からあの徐州を経由するか、クルマでは南京からのスタートであった。
これは南京からはじめてクルマで連雲港市へ向かったときのおはなし。
道すがら周恩来総理の生まれ故郷―准安で竣工したばかりの記念館を参観、
昼食のあと連雲港に向かったはずであったが、クルマは2時間ほど綿畑で覆われた人気(ひとけ)のない農村地帯を走り続けていた。連雲港へ行くのがはじめてのドライバーも、さすがにこれはおかしいと周辺を見回したが、尋ねる人もいない。カ-ナビはおろか、携帯電話もないころのこと。頼りにするのは地元の人の道案内である。やっと綿畑を脱出して地道にでたところで出会った農民に聞くと、右の方を指差して「ハイヨ―、イ―パイトゥコンリ」、あと100キロくらいという。
さらに2時間、すでに陽(ひ)は西に傾き始めている。ドライバーは焦りぎみにやっとつかまえた自転車のアベックにたずねると、ふたりとも前方を指差して「イ―パイトゥコンリ」と声をそろえて合唱。道の両側は干からびた畑のみ、このふたりはどこへ行くのか・・・。
ようやく見つけた数軒の集落にはすでにランプが灯り、道端で親子が夕食中であった。ここでも「イ―パイトゥコンリ」、彼らは行ったことがないのだ。遠くだよ、まだずっと先だよと言っていたのであった。
翌日に持ち越された歓迎宴のなかで、連雲港の郊外に徐阜(徐福と中国語では同音)村があることを耳にした。大阪でも徐さんという人が経営する中華料理店があり、かれの本社所在地の和歌山県新宮市には徐福神社があることなども話題になった。「徐福伝説」の本家争いは、日本でも中国でもいろいろとあるが、この「徐福東渡」は七福神の中国渡来説よりかなり歴史的裏づけがある。
司馬遷の『史記』や北宋の詩人・欧陽脩の作品などに、秦の始皇帝の求めに応じて不老長寿の薬を探しに行くと、徐福が三千人の若い男女と百工(多くの技術者)を連れて東方に船出したまま帰って来なかったとの記述がある。いまに残る日本の伝統工芸品や農業・漁業などに、その技術と面影が偲ばれるとさえいわれている。
連雲港市にはもう二十年近く行っていないので、その後の発展ぶりは定かではないが、サントリービールの中国法人(「花果山啤酒」)発祥の地であり、同地出身の知人も大阪に定住していて、いまも懐かしいところである。当然この地が“徐福”本家争いの筆頭であろうと思っていたが、昨年の「徐福東渡2222年」行事は、浙江省の象山県で開催されることになっていたという。『中国地図集』を開いてみると、わたしも行ったことのある、寧波市や舟山列島の南、天台山の東北にあたる。わたしはこの象山県を訪れたことはないが、十数年前、温州市からクルマでこの海岸線を北上して台州市まで行ったことがあり、天然の良港・象山港やその海岸線は『史記』の記述とは少し異なるものの、徐福一行の船出の地としても悪くはない。
わたしはいま、東海日中関係学会の逵(つじ)志保さんのレポートを読んでいる(日中関係学会ホームページ掲載「徐福を通しての日中交流」)。
昨年10月の12号はつぎのような書き出しではじまっている。
「 なんとも重い秋を迎えました。
9月15日~18日に中国浙江省象山県で開催を予定していた、『2012中国徐福文化象山国際大会』が、9月12日晩、他の多くの日中交流行事同様、開催見送りを決定したとの一報を受けました。・・・いま思えば、その時同じような連絡を受けて頭を抱えた方が、きっと日中のあちこちにいらしたことでしょう」
中国徐福研究会は1983年に設立され、全国で14の研究会があり会員は約10万人。現在の第三代会長は張 雲方・中日関係学会副会長だとか。
このとき会場に選ばれた象山に徐福研究会が設立されたのは07年とまだ新しいが、習 近平主席が浙江省の党書記であったころ(02~07年)、同省のお茶とこの徐福伝説が「無形文化財」の対象となり、08年には「国家級文化遺産」に登録されたとのことである。
その国際大会が、開催の三日前になって中止になったのである。
「あの島」が問題になったのはいうまでもない。
「ほどなく主催者から大会中止のお詫びのメールが届きました。主催者からの文面は、尖閣諸島の問題に一切触れず、ただただ開催見送りをわびるものでした」
今年になって、中国徐福会は動き出した。
一月に研究論文の表彰が張 雲方会長名で行われ、八月には舟山市で国際シンポジュウムが開催されている。30数名の小さな会合であった。日本からは、逵(つじ)志保さんひとりの参加だけであったが、とにもかくにも動き出したのである。
「政治の世界」は動き出そうとしているのか、どうか。
「三中全会」をひかえ、日本の中国情報は相も変わらずかまびすしいが、昨年の中共全国党大会で最高指導部は、チャイナナインからセブンになった。スリム化か、意思統一が図りやすくなるのかよくわからないが、庶民にとってはナインでもエイトでも、セブンでもどうでもいい。わかりやすい政治と「庶民」のささやかな「夢」を実現してくれる体制であって欲しいと願っていることであろう。
「不老長寿」の薬は、どこで手に入れるのか・・・。
(2013年10月15日 記)
【追記】
このところ、しきりと思いだすことばがある。
「もう、<友好乾杯>の時代は終わった」
八十年代のおわりごろ、故鮫島敬治・「日経」初代中国特派員が
よく話されていたことばである。
七年後に、東京五輪の開催がきまった。
日本ではこのセブン、ラッキーなセブンは、あの七回裏の風船飛ばしのように野球がその起源とかいわれているが、たしかなことはわからない。
〇八年の北京五輪は、八月八日の午後八時八分に開幕された。88888(パパパパパ)、そう、中国では「八」がめでたい、ラッキーなのである。
くわしくは知らないが、古来中国では八人の仙人が実在、「八仙(八福神)」の絵が民間信仰の対象になっていたといわれている。日本にも「七福神」があるが、関係があるのかどうか・・・これは、まったくの落とし噺になるが、むかしむかし、蓬莱山(中国山東省)に集う八仙人が、東海の扶桑国(日本)へ向かって船出した、その途次嵐に遭い、ひとりが波にさらわれて・・・、日本に着いたのが七福神???その真偽はさておいて、いま日本でも七福神信仰が定着して各地にその廟や祠がある。
この七福神の中国渡来説よりさらに有名なのが、「徐福東渡」のはなしであろう。
江蘇省の北の海岸沿いに連運港というみなとまちがある。朧海鉄道の起点であり、西安・蘭州を経てその地の果てはユーラシア大陸に繋がる。
80年代のなかごろ、大阪の泉北港とこの連運港が“友好港”になり、堺市と連雲港市の友好都市提携に発展した。
わたしはそのころ友好都市間の経済交流の促進を図るべく、関係者と数回同市を訪問したことがある。まだ同市へのフライトもないころ、鉄路では上海からあの徐州を経由するか、クルマでは南京からのスタートであった。
これは南京からはじめてクルマで連雲港市へ向かったときのおはなし。
道すがら周恩来総理の生まれ故郷―准安で竣工したばかりの記念館を参観、
昼食のあと連雲港に向かったはずであったが、クルマは2時間ほど綿畑で覆われた人気(ひとけ)のない農村地帯を走り続けていた。連雲港へ行くのがはじめてのドライバーも、さすがにこれはおかしいと周辺を見回したが、尋ねる人もいない。カ-ナビはおろか、携帯電話もないころのこと。頼りにするのは地元の人の道案内である。やっと綿畑を脱出して地道にでたところで出会った農民に聞くと、右の方を指差して「ハイヨ―、イ―パイトゥコンリ」、あと100キロくらいという。
さらに2時間、すでに陽(ひ)は西に傾き始めている。ドライバーは焦りぎみにやっとつかまえた自転車のアベックにたずねると、ふたりとも前方を指差して「イ―パイトゥコンリ」と声をそろえて合唱。道の両側は干からびた畑のみ、このふたりはどこへ行くのか・・・。
ようやく見つけた数軒の集落にはすでにランプが灯り、道端で親子が夕食中であった。ここでも「イ―パイトゥコンリ」、彼らは行ったことがないのだ。遠くだよ、まだずっと先だよと言っていたのであった。
翌日に持ち越された歓迎宴のなかで、連雲港の郊外に徐阜(徐福と中国語では同音)村があることを耳にした。大阪でも徐さんという人が経営する中華料理店があり、かれの本社所在地の和歌山県新宮市には徐福神社があることなども話題になった。「徐福伝説」の本家争いは、日本でも中国でもいろいろとあるが、この「徐福東渡」は七福神の中国渡来説よりかなり歴史的裏づけがある。
司馬遷の『史記』や北宋の詩人・欧陽脩の作品などに、秦の始皇帝の求めに応じて不老長寿の薬を探しに行くと、徐福が三千人の若い男女と百工(多くの技術者)を連れて東方に船出したまま帰って来なかったとの記述がある。いまに残る日本の伝統工芸品や農業・漁業などに、その技術と面影が偲ばれるとさえいわれている。
連雲港市にはもう二十年近く行っていないので、その後の発展ぶりは定かではないが、サントリービールの中国法人(「花果山啤酒」)発祥の地であり、同地出身の知人も大阪に定住していて、いまも懐かしいところである。当然この地が“徐福”本家争いの筆頭であろうと思っていたが、昨年の「徐福東渡2222年」行事は、浙江省の象山県で開催されることになっていたという。『中国地図集』を開いてみると、わたしも行ったことのある、寧波市や舟山列島の南、天台山の東北にあたる。わたしはこの象山県を訪れたことはないが、十数年前、温州市からクルマでこの海岸線を北上して台州市まで行ったことがあり、天然の良港・象山港やその海岸線は『史記』の記述とは少し異なるものの、徐福一行の船出の地としても悪くはない。
わたしはいま、東海日中関係学会の逵(つじ)志保さんのレポートを読んでいる(日中関係学会ホームページ掲載「徐福を通しての日中交流」)。
昨年10月の12号はつぎのような書き出しではじまっている。
「 なんとも重い秋を迎えました。
9月15日~18日に中国浙江省象山県で開催を予定していた、『2012中国徐福文化象山国際大会』が、9月12日晩、他の多くの日中交流行事同様、開催見送りを決定したとの一報を受けました。・・・いま思えば、その時同じような連絡を受けて頭を抱えた方が、きっと日中のあちこちにいらしたことでしょう」
中国徐福研究会は1983年に設立され、全国で14の研究会があり会員は約10万人。現在の第三代会長は張 雲方・中日関係学会副会長だとか。
このとき会場に選ばれた象山に徐福研究会が設立されたのは07年とまだ新しいが、習 近平主席が浙江省の党書記であったころ(02~07年)、同省のお茶とこの徐福伝説が「無形文化財」の対象となり、08年には「国家級文化遺産」に登録されたとのことである。
その国際大会が、開催の三日前になって中止になったのである。
「あの島」が問題になったのはいうまでもない。
「ほどなく主催者から大会中止のお詫びのメールが届きました。主催者からの文面は、尖閣諸島の問題に一切触れず、ただただ開催見送りをわびるものでした」
今年になって、中国徐福会は動き出した。
一月に研究論文の表彰が張 雲方会長名で行われ、八月には舟山市で国際シンポジュウムが開催されている。30数名の小さな会合であった。日本からは、逵(つじ)志保さんひとりの参加だけであったが、とにもかくにも動き出したのである。
「政治の世界」は動き出そうとしているのか、どうか。
「三中全会」をひかえ、日本の中国情報は相も変わらずかまびすしいが、昨年の中共全国党大会で最高指導部は、チャイナナインからセブンになった。スリム化か、意思統一が図りやすくなるのかよくわからないが、庶民にとってはナインでもエイトでも、セブンでもどうでもいい。わかりやすい政治と「庶民」のささやかな「夢」を実現してくれる体制であって欲しいと願っていることであろう。
「不老長寿」の薬は、どこで手に入れるのか・・・。
(2013年10月15日 記)
【追記】
このところ、しきりと思いだすことばがある。
「もう、<友好乾杯>の時代は終わった」
八十年代のおわりごろ、故鮫島敬治・「日経」初代中国特派員が
よく話されていたことばである。