岡山の山間部でゆったりとガーデニング

ゆったりとはいかない多忙の日々です!

木地師の館

2011年06月18日 | 日記

観光ボランテイアガイドで木地師の館を案内しました。この木地師の館は岡山県地域振興事業(ふるさと技術伝承事業)により建設した、

ふるさと技術伝承施設で開館日は毎月第2・第4日曜日ですが、今日(明日も)は特別に開けてもらいました。

木地師とは、とち・ぶな・けやきなどの木を伐り椀や盆などの木地を作る職人のことをいい、轆轤師・杓子師・塗物師・引物師を木地業の四職ともいいました。

明治までは木地師は全国のどこの山に入っても良く、山の8合目以上の木は切っても良いという許可を得て近江国小椋村の君ヶ畑、蛭谷を原籍地として、

ジプシーのように全国の山を20~30年ごとに移動しながら生活をしていました。

当地右手・木地山の木地師は約450年前の永禄3年(1560年)苫田郡の越畑から移住してきたといわれています。

このような木地師たちの身分を保障し、職業の繁栄に尽くしたのが永源寺町(現在東近江市)蛭谷の筒井公文所と君ヶ畑の高松御所でした。

伝承によれば、即位の機会を失った惟喬(これたか)親王は貞観元年(859年)、小椋谷に入山しました。

このとき親王は、法華経の巻物のひもの原理から、里人に綱を引いて軸を回転させる手引きロクロを造り、椀や盆を製作する木地挽きの業を伝授したといわれています。

このようにして生まれた小椋谷の木地師は、この地に良材がなくなったことから、小グループに分かれ全国各地に移住していきました。

木地師たちは、惟喬親王を木地業の祖神と仰ぎ、小椋谷を自らの出身地として頼り活動し、現在でも小椋谷が全国の木地師の子孫たちに「ふるさと」と慕われる由縁となっています。

また、蛭谷の筒井公文所や君ヶ畑の高松御所も、各々が全ての木地師は自らの氏子であると称して保護したため、江戸時代には全国最大の木地師支配組織が確立しました。  

両支配所は、その権威を高め、通行の自由・諸役免除といった木地師の特権を保護するため、お墨付きと称する朱雀天皇や正親町天皇の綸旨をはじめ、時の為政者の免許状の写しを下付しました。

各地の木地師は、こうして与えられた御墨付・宗門手形・往来手形などをもっていると安心して活動ができたわけです。

また両支配所は、氏子として木地師の身元を確認し、氏子かり料や初穂料・奉加金などを集め、氏子には神札・御墨付などを配布しながら各地を巡り歩きました。

 

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1 コメント

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Unknown (大杣人)
2011-06-19 19:31:50
良き設備と製品つくりをしたいです
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